忘れえぬ体験-原体験を教育に生かす

原体験を道徳教育にどのように生かしていくかを探求する。

覚醒・至高体験をめぐって10:(2)至高体験の特徴⑤

2012年06月05日 | 覚醒・至高体験をめぐって
作家・辻邦夫の若き日の体験は、その後の彼の作品にも色濃く反映されている。以下に挙げるのは、作品の中の明らかに彼自身の体験に根ざして書かれた思とわれる文章である。

「…そんな人間にも、いつか死が訪れてくる。死は自分を消滅させる。 どんなにじたばたしたって最後には自分を放棄するほかない。人間はそのときになって初めて、自分中心の気持ちから解放されるんだよ。もう諦めて、自分に執着することをやめて、ただ黙ってこの世を見るんだ。そうすると雲も風も花も光も今まで見たこともなかった美しいものに見えてくる。玻璃のような世界がそこに姿を現しているのに気がつくんだ。だから人間にとって死とは、この世が何であったかを知る最後の、最高の機会になるんだね。その意味でも、死は、人間にとって、やはり素晴らしい贈物であると思わなければならないんだよ。」 (辻邦生『樹の声 海の声 ) (朝日文庫)』朝日新聞社、一九八五年)

「‥‥あなたも何が正しいかで苦しんでおられる。しかしそんなものは初めからないのです。いや、そんなものは棄ててしまったほうがいいのです。そう思い覚ってこの世を見てごらんなさい。花と風と光と雲があなたを迎えてくれる。正しいものを求めるから、正しくないものも生まれてくる。それをまずお棄てなさい。」(辻邦生『西行花伝 (新潮文庫)』新潮社、一九九九年)

最初の例で、「人間はそのときになって初めて、自分中心の気持ちから解放されるんだよ。もう諦めて、自分に執着することをやめて、ただ黙ってこの世を見るんだ。」と語られるのは、「1 対象をあるがままの形で全体的に把握」、「3 人間の目的とは無関係な独立した存在として対象をとらえる」、「4 認知が自己没却的で無我の境地に立つことができる」などの至高体験の特徴に対応する。二番目の例で、正邪の判断を棄ててこの世を見ると言われるのは、「7 至高体験は能動的な認識ではなく、受動的である」という特徴に関係するとも言える。正邪の判断は能動的な認識活動につながっているからである。

さて、辻邦生の体験は、もうひとつ別の観点から見ておく必要がある。それは、彼がこの体験に至ったきっかけ、すなわち死への直面という観点である。死への直面が、至高体験や覚醒の契機となったという事例は他にもかなり多く集められている。いずれわれわれは、何が契機となって至高体験に至ったかという観点から事例を検討する機会があるだろう。その中で死への直面がきっかけとなった事例もいくつか取り上げる予定だが、その時、辻邦生の事例をもう一度思い起こすことになるだろう。

(Noboru)


コメントを投稿