若林敬子「なぜ中国は一人っ子政策を続けるのか」(フォーサイト、掲載号不明)を読んで思ったこと
人が生まれながらに持つ権利、人権。
その人権を守ることが民主主義の目的だと言う人がいる。
しかし私は政治の目的とは「統治」にあると考えている。
統治とはすなわち自国の領土を守り、法を維持し、治安を保ち、国民に生活の基盤を与え、その一方で国民に対して納税、教育、徴兵などの義務を課すことである。
そこに絶対にゆずれない原則として「人権を守る」という目的を入れる必要はない。
むしろそれは統治のじゃまになるのならば、切り捨てるべき「権利」に過ぎない。
もし国民の生活よりも人権を優先するというならば、それはもはや政治ではなく宗教である。
すると「国民の健全な生活や人生は正しく人権が守られている国でのみ保証される」と主張する人が出てくる。
しかし、たとえば分離独立を望む複数の民族から成る多民族国家は、ある程度の独裁をひかなくては各部族が際限なく争いあう内乱状態に陥ってしまうことがある。
そうして政治が不安定になれば、治安が悪化し、経済も停滞し、国民は疲弊する一方となってしまうだろう。
この場合、国民の健全な生活や人生は独裁制の下で保証されている。
衣食足りて、礼節を知る。
人は思想だけでは幸せにはなれないが、思想がなくとも経済力があれば幸せになれる。
統治、経済、人権。
この3つの言葉を並べたとき、「統治」に近い言葉は「人権」ではなく「経済」の方である。
(資本主義は民主主義国家でのみ保障されるという説を私は信じていない。
確かに経済の発展には公正な競争や開放経済が必要かもしれない。しかしそれは民主主義国家でなくともできることである。
また経済が発展すれば、一部の政治家以外の資本家も発言力を持つようになるだろう。しかしそれは民主主義とは関係のない話である。)
残念ながら世界の多くの国は「民主主義」に耐えられるだけの経済力を持っていない。
彼らにそれを無理強いすれば、待っているのは統治の崩壊だけである。
たとえば支那の一人っ子政策を考えてみよう。
この政策は人権に反するものとして民主主義者からは嫌われている。
しかし、よく考えていただきたい。
中世スペインや現代アフリカ諸国の貧困と飢餓の原因はどこにあるのかということを。
それは農村部の人々があまりにも大量の子供を生みすぎたためである。
避妊行為への無理解、即席の労働力の確保の結果として増えすぎた幼児が、乳児死亡率を高め、飢餓を招き、貧困を加速させているのである。
支那はこの悲劇を未然に防いだのだ。
闇子や男女産み分けという問題を考慮しても、一人っ子政策は英断なのではないだかろうか。
少なくとも、それ以外の解決策があるとは思えない。
それに支那政府もこれらの問題を深刻に受け止めており、2002年度に法制化された「人口・計画出産法」では超音波検査などの産み分けを可能にする技術の使用を禁止している。
また、ある人は「今の若い中国人は一人っ子なものだからわがままほうだいに育てられた鼻持ちならない小皇帝ばかりだ」と言っていたことがある。
だがいいではないか。貧困と飢餓で国は滅びても、わがままで国が滅びることはないのだから。
支那が人権を厳守する民主主義国家であったならば、かの国は今頃、貧困と飢餓で疲弊していたことだろう。
確かに人権や民主主義を尊重する国家はすばらしい。
しかしそれだけでは駄目なのだ。
この世には人権や民主主義を棚上げしてでも挑まなくてはいけない問題があるのだから、民主主義でない国家も存在していなくてはならないのである。
少なくとも「その国が民主主義国家ではない」ことを、その国と戦争をするための大義名分とするようなことはすべきではない。
(もちろんジェノサイド(別民族の大量虐殺)などの明確な非人道的行為は見逃すべきではない。ここでは「非民主主義国家=非人道的行為」という連想をすべきではないと主張しているのである)
現在、世界は確実に良い方向へ向かっている。
科学技術の発展と人類の努力は(多くの問題を抱えつつも)食料の生産性を上げ、人類の福祉を向上させ、エネルギー枯渇の危機を乗り越え、自然環境を改善させ、貧富の差を縮小させている。
過去においては食料のため、資源のため、生き残るために戦争をしなくてはいけない時代があったかもしれない。
そして今もまだそういう時代なのかもしれない。
しかし未来には戦争をしなくとも生き残れる時代が待っているのである。
もしその時代においても戦争が起きるとしたら、それは思想や宗教のために起きることになるだろう。
そして「人権」もその思想の一つとなりうるのである。世界の不幸の原因が「人権」になるだなんて笑えない冗談である。
最後に繰り返し言っておこう。
個人レベルでは「誰もに衣食住と尊厳のある世界」を求めることは素晴らしいことである。
しかし「その国が民主主義国家ではない」ことが その国を否定する理由として認められてしまうのならば、それは無意味な宗教戦争を起こしかねないのである。
人が生まれながらに持つ権利、人権。
その人権を守ることが民主主義の目的だと言う人がいる。
しかし私は政治の目的とは「統治」にあると考えている。
統治とはすなわち自国の領土を守り、法を維持し、治安を保ち、国民に生活の基盤を与え、その一方で国民に対して納税、教育、徴兵などの義務を課すことである。
そこに絶対にゆずれない原則として「人権を守る」という目的を入れる必要はない。
むしろそれは統治のじゃまになるのならば、切り捨てるべき「権利」に過ぎない。
もし国民の生活よりも人権を優先するというならば、それはもはや政治ではなく宗教である。
すると「国民の健全な生活や人生は正しく人権が守られている国でのみ保証される」と主張する人が出てくる。
しかし、たとえば分離独立を望む複数の民族から成る多民族国家は、ある程度の独裁をひかなくては各部族が際限なく争いあう内乱状態に陥ってしまうことがある。
そうして政治が不安定になれば、治安が悪化し、経済も停滞し、国民は疲弊する一方となってしまうだろう。
この場合、国民の健全な生活や人生は独裁制の下で保証されている。
衣食足りて、礼節を知る。
人は思想だけでは幸せにはなれないが、思想がなくとも経済力があれば幸せになれる。
統治、経済、人権。
この3つの言葉を並べたとき、「統治」に近い言葉は「人権」ではなく「経済」の方である。
(資本主義は民主主義国家でのみ保障されるという説を私は信じていない。
確かに経済の発展には公正な競争や開放経済が必要かもしれない。しかしそれは民主主義国家でなくともできることである。
また経済が発展すれば、一部の政治家以外の資本家も発言力を持つようになるだろう。しかしそれは民主主義とは関係のない話である。)
残念ながら世界の多くの国は「民主主義」に耐えられるだけの経済力を持っていない。
彼らにそれを無理強いすれば、待っているのは統治の崩壊だけである。
たとえば支那の一人っ子政策を考えてみよう。
この政策は人権に反するものとして民主主義者からは嫌われている。
しかし、よく考えていただきたい。
中世スペインや現代アフリカ諸国の貧困と飢餓の原因はどこにあるのかということを。
それは農村部の人々があまりにも大量の子供を生みすぎたためである。
避妊行為への無理解、即席の労働力の確保の結果として増えすぎた幼児が、乳児死亡率を高め、飢餓を招き、貧困を加速させているのである。
支那はこの悲劇を未然に防いだのだ。
闇子や男女産み分けという問題を考慮しても、一人っ子政策は英断なのではないだかろうか。
少なくとも、それ以外の解決策があるとは思えない。
それに支那政府もこれらの問題を深刻に受け止めており、2002年度に法制化された「人口・計画出産法」では超音波検査などの産み分けを可能にする技術の使用を禁止している。
また、ある人は「今の若い中国人は一人っ子なものだからわがままほうだいに育てられた鼻持ちならない小皇帝ばかりだ」と言っていたことがある。
だがいいではないか。貧困と飢餓で国は滅びても、わがままで国が滅びることはないのだから。
支那が人権を厳守する民主主義国家であったならば、かの国は今頃、貧困と飢餓で疲弊していたことだろう。
確かに人権や民主主義を尊重する国家はすばらしい。
しかしそれだけでは駄目なのだ。
この世には人権や民主主義を棚上げしてでも挑まなくてはいけない問題があるのだから、民主主義でない国家も存在していなくてはならないのである。
少なくとも「その国が民主主義国家ではない」ことを、その国と戦争をするための大義名分とするようなことはすべきではない。
(もちろんジェノサイド(別民族の大量虐殺)などの明確な非人道的行為は見逃すべきではない。ここでは「非民主主義国家=非人道的行為」という連想をすべきではないと主張しているのである)
現在、世界は確実に良い方向へ向かっている。
科学技術の発展と人類の努力は(多くの問題を抱えつつも)食料の生産性を上げ、人類の福祉を向上させ、エネルギー枯渇の危機を乗り越え、自然環境を改善させ、貧富の差を縮小させている。
過去においては食料のため、資源のため、生き残るために戦争をしなくてはいけない時代があったかもしれない。
そして今もまだそういう時代なのかもしれない。
しかし未来には戦争をしなくとも生き残れる時代が待っているのである。
もしその時代においても戦争が起きるとしたら、それは思想や宗教のために起きることになるだろう。
そして「人権」もその思想の一つとなりうるのである。世界の不幸の原因が「人権」になるだなんて笑えない冗談である。
最後に繰り返し言っておこう。
個人レベルでは「誰もに衣食住と尊厳のある世界」を求めることは素晴らしいことである。
しかし「その国が民主主義国家ではない」ことが その国を否定する理由として認められてしまうのならば、それは無意味な宗教戦争を起こしかねないのである。