玄文講

日記

60の手習い

2005-03-19 23:55:25 | メモ
私の大学時代には、学生の中に某大会社を定年間近だった人がいた。
ゼミには高校教師をしている人が参加していた。
現在の院には働きながら通学している人がいる。

どこの大学にも一人くらいは社会人や定年退職してから物理に興味を持ち、授業を聴講にくる人がいるものである。


彼らは大まかな傾向として、「宇宙創生のなぞ」とか「大統一理論」といった大きな疑問に対する答えを求めており、物理の啓蒙書を読み込んでおり、授業態度は真面目で、小さな疑問も真剣に検討する。
彼らは「疑問に対する探究心」を人一倍強く持っており、根源的で巨大な謎について熱心に考えていて、その姿はこちらに「物理を本当に楽しんでいた頃」の初心を思い出させてくれる。
学生や教師を含めて、そんな彼らに敬意の念を抱く人も少なくない。

しかし(私の知る範囲では)彼らは数理能力が低く、そのため努力が空回りすることが多々あるように見受けられる。
彼らは数式から意味を汲み取る訓練をしていないために、黒板に展開される論理が追えないのである。
それは高校物理を通してではなく、啓蒙書を通して大学の物理を学んでいるせいではないかと私は思っている。

彼らが慣れ親しんでいる啓蒙書は数式を使わずに分かりやすく解説している。
本当に理解している人は数式を使わないでも物理を上手に説明できる。
それがかえって仇(あだ)になり彼らに数式の重要性を認識させるのを妨げているのである。

しかし数学とはそれそのものが一つの言語であり、思考方法である。
旅行くらいならば現地の言葉を知らなくても楽しめるが、長期滞在するのに言葉を知らないのでは不都合がある。

数学とは一つの感覚である。
色は目で感じ、音は耳で感じ、物理は数学で感じることができる。

数学は思考の経済である。つまり物事を単純化し、理解しやすくしてくれる。
数式があると物事が複雑になると誤解しているのは、数式の読み方を知らないからである。
体系化された物理学を数式を使わずに理解しようとしたら時間がいくらあっても足りやしない。

聴講生の方は量子力学や相対論の授業ばかりを聞きたがる傾向があるが、できれば力学や電磁気学のほうを受けていただきたいものである。
そうすれば物理で数学が果たす役割が実感できることだろう。

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最後に紋切り型のほめ方をすれば、いくつになっても学ぶ意欲を失っていないということは素晴らしい、と言える。
事実、私は心底そういう人たちを敬愛し、うらやましく思っている。

もっともその情熱が行き過ぎると、トンデモ研究に走り、中身のない論文を教授に送りつけたりするようになってしまう。
しかし学ぶ意欲のある人間が、その意欲を「研究する意欲」に傾けるのは自然な流れである。

要は常識を守り、奇抜に走らなければいいのである。
そして奇抜に走る人と走らない人を分けるのが、「大発見をしたがるか否か」だと私は考えている。

私のおじさんは大発見を望み、物理とは名ばかりの疑似科学に打ち込んでしまった。

大きな疑問を持てば、その答えが欲しくなる。
しかし、誰もその答えを知らない。
すると自分で答えを見つけたくなる。そして彼らはそれを見つけてしまうのである。

彼らは「説明できること」に価値がないのを知らないから、世界の謎を明快に説明する自分の理論に酔いしれる。
あとは落ちるだけだ。

こういう言い方は何だが、宇宙の謎を知りたいという希望に燃える人には、その謎を解明できないという絶望にも慣れていただきたいものである。