玄文講

日記

無用の要

2005-03-23 00:31:51 | バカな話
呉智英氏の「サルの正義」に明治時代、浄土宗の高僧、福田行誡氏の発言が紹介されていた。

ちかごろ仏法を世のために説くべしという者がいる。
私は言いたい。
釈尊が地位も財産も棄てて山に入り修行されたのは、はたして世のためだったのか。
本来、世を厭(いと)うて修行するのが仏法ではないか。
どうしてこの法をもって世のために説くことができようか。

ただし、その余徳で自然に民を利し世を益することまで妨げるものではないが。



科学者が同じ意味のことを言うのを私は何度も聞いたことがある。

「私の研究がなんの役に立つかだって?
なんで私の研究が役に立たなくてはいけないのだね」

人はこれをごうまんな発言だと思うかもしれない。
象牙の塔にこもり世間の常識や良識から逸脱した愚かな専門バカの寝言にしか聞こえないかもしれない。

しかし私も「役に立たない科学の何が悪い」と思う人間の一人である。

今の日本は官民が一体になって産業に役立つ科学を求めている。
しかし、それは彼らが科学を好きなのではなく、単にこの不況を解消してくれる神風を期待しているだけにしか思えないのである。
今の困難をなくしてくれるのならば、科学でも魔法でも占い師でも何でもいいと思っているのではないだろうか。

それは戦前の日本がしきりに「科学する心」を唱え、科学に戦局を打開する奇跡のみを期待し、その実、科学的な思考態度は一切身につけず不合理を重ねて惨敗したのと似ている。



学者だって、自分たちが研究できるのは税金のおかげだということは知っている。
お金をもらっているからには、何らかの形でそれを還元する義務のあることも理解しているはずだ。

ならば、なおのこと目先の利益ばかり追求する態度には異議を唱えなくてはいけないのである。

彼らが作るのは文化である。
人類が食べて、増やして、死ねだけの存在ならば、それは獣と何ら変わるところがない。
人間を人間たらしめているのは文化であり、昔よりも今がいい時代であるのは文化が発展しているからであり、その文化を作っているのが「無駄なこと」「役に立たないこと」をしている彼らなのである。

私は思う。
100年後、そして1000年後。この地球から日本という国が消滅した未来。
歴史の教科書に日本はどのように紹介されるのだろうか?

「旧世紀大戦(第2次世界大戦)に敗戦後、経済的に大いに発展し、その後ゆるやかに衰退し、なんの文化も芸術も残さずに消えていった国」

そんな紹介のされ方だけはごめんである。
ギリシャは今はパッとしない国だが、過去の「ギリシャ文明」を尊敬しない人はいない。
モンゴルはかつてアジア大陸のほとんどを支配する大国だったが、今はどこにも「モンゴル文明」なるものは残っていない。ただの目立たない小国が残っただけである。
(国破れて山河あり。上の発言は国の衰退を論じたものであり、かの国の風土およびギリシャ人、モンゴル人の人格を否定し、さげすむものではない。)

文化を残さないで衰退した国は惨めだ。
そして、この世に衰退の運命から逃れられる国など存在しないのである。
だから惨めになりたくないのならば文化を残すべきである。

素粒子論の湯川、朝永。分子生物学の木村資生。多くの優秀な科学者を日本は輩出した。
日本企業は多くの新製品、技術で世界を沸かせた。
マンガとかアニメは後世にも残るだろう。

それだけ?

これではまだ「日本文明」と呼ばれ、尊敬されるには不十分である。
何よりもこれでは私たちの世代の人間が全く貢献していない。私たちは既に過去の人々の作った文化にすがるだけの存在になりさがったのだろうか?


無駄を嫌い、役に立つことだけを求めれば文化は止まってしまうのである。
「世のため」などという器の小さいことにこだわるべきではない。
今こそ私たちは全身全霊で無駄なことに打ち込む人々を賛美するべきである。

もっとも彼らは別に人類や日本民族の名誉のために文化を作っているわけではない。
それこそ

「世を厭(いと)うて研究するのが学問ではないか。

ただし、その余徳で自然に民を利し世を益することまで妨げるものではないが」


なのである。
つまり、個人の欲望の追求が公共の利益になることもある、ということである。