玄文講

日記

なにもなし

2005-03-16 18:32:05 | 個人的記録
今月で、同僚が一人、退学する。

家業を継ぐため実家に戻るそうである。

私も退学して、家業を継ぐ予定だった。しかし私は大学に残ることにした。

理由の一つは当家の方針のせいである。

家訓六「ともだおれ防止令」

事業不振ニヨル 家計ノ急激ナ崩壊ヲ避ケルタメ 同一業種ニ同一世代ノ者ガ弐人以上 就労スルコトヲ禁ズ

この方針のせいで、父兄に戻ってきても雇う気はないと言われてしまい、かといって他の企業に就職しようにも退学者では雇ってもらえないからである。


それと今取り組んでいる論文の続きを書かないといけなくなったというのもある。

科学という方法

2005-03-13 16:58:25 | メモ
科学というのは何だろうか?

客観的な事実の集合だろうか。世界で起きている現象を明快に説明する百科事典だろうか。


私が思うに、科学とは『結果そのもの』のことではなく『結果に至る手段』の名前である。

科学とは真理ではなく、真理を求める人間の『姿勢・態度』のことに他ならない。

だから結果としての知識や説明をいくら積み上げてもそれは科学ではない。そして扱う対象がどれだけ荒唐無稽であっても手続きが合理的であるならばそれは科学と言える。

たとえば元素記号を全て覚えたり、法則を知ったり、歴史の年号を暗誦しても、それは科学をしていることにはならない。
もちろん知識が豊富なのは誇ってもいいことであるし、博学な人は大いに役立つ素晴らしい人材である。
しかし一般には理学の知識が豊富な人をもって科学的だとみなす傾向があるが、それは実は科学とはあまり関係がないことなのである。博学と科学は別のことなのである。

一方で世間では科学とは思われていないものでも、科学と呼びうるものが存在する。
この世にはテレパシーやサイコキネシスなどの心霊現象や超能力を扱う『超心理学』なる分野が存在する。
これを単なるオカルト趣味のいかがわしい団体と思うのは間違いである。
既にこの学問は100年以上の研究の歴史を持ち、超心理学会なる一分野を築いている。

しかし100年の研究の歴史において、彼らはただの一度も超能力を立証できたことはない。超心理学者の研究人生とは挫折の繰り返しだけでできている。
一度も成功しない研究に人生を捧げるのは絶望的に恐ろしいことだろう。科学の世界にわずかなりとも関わっている私には、彼らの絶望と恐怖が痛いほどよく分かる。

超心理学者はかつてユリ・ゲラーの登場に歓喜し、これでサイコキネシスが立証できると大騒ぎしていたこともある。
正直に言うと私は超能力を信じていない。少なくともユリ・ゲラーは正真正銘のただのマジシャンである。そんな山師のイカサマごときも見抜けない『超心理学』なる学問は実に哀れな学問である。

しかし彼らが事実から遠すぎることをもって、彼らが科学者でないと言うことは出来ない。
彼らが確固たる合理的手続きを踏んで研究している以上は、彼らには科学者を名乗る立派な資格があるのである。

つまり科学とは結果ではなく結果を得るために用いられる道具の名前なのである。


だから求める結果が異なれば使う道具も異なるのは当然のことである。
たとえば数学と物理学では使う『科学』は異なるし、同じ物理学でも『理論』と『実験』や『高エネルギー領域』と『低エネルギー領域』では、やはり違う『科学』を使う。

歴史学に至っては誤解を招く言い方をあえてすると『超心理学』と同じく事実から遠い学問である。社会学も経済学も文学も同様である。しかしやはりそれらも『科学』なのである。

科学といえば論理的な思考のことだと思っている人は多い。
しかし科学において論理的な思考だけを採用しているのは数学と哲学くらいのものである。
こんな言葉がある。


「数学はバカでもできる学問だ」


これは別に数学者をバカにしているわけではない。むしろ数学者自身が好んでこの言葉を使うのである。これは数学の論理性を示している言葉なのだ。


「数学とは公理から出発し、論理さえ順番に積んでいけば必ず定理にたどり着けるものである。論理的にさえ考えればいいのだから、これほど楽な学問はない。まさにバカにでもできる学問だ。えっ?君はできないの?バカにでもできることができない君はバカ以下なのだね」


という数学者の自負と自慢がこの言葉の裏には隠れているのである。


それに比べて物理学や化学は自然現象を扱う。この学問では『論理的に正しいこと』と『現実に正しいこと』は同じではない。
論理的なだけではそれは単なる仮説でしかない。論理的に正しいことに価値はない。仮説は実験で検証されない限り信用してはいけないことになっている。物理学においては「説明できる」ことと「正しいこと」は区別されている。
そして物理的に正しいことは実験的に確かめられたことだけなのである。


そこで現在の素粒子物理学者が抱える悩ましい問題が生じる。
高エネルギー物理学の世界では、扱う現象や理論のエネルギーレベルがあまりにも高すぎるため、現在の技術では実験で検証することができない。
現在の人類が持ちうる最大のエネルギーは2005年度に稼動予定の陽子・陽子衝突型加速器LHCの持つ16TeVである。しかし超大統一理論を検証するためには1000万TeVという途方もないエネルギーが必要である。

だから素粒子物理学者は理論を作ってもそれを証明することができない。証明することもなく、ただ現象を説明する仮説を作ることしかできないのだ。

ヒッグス粒子、超対称性、Dブレーン。いずれもまだ実験では確認されてはいないにも関わらず、その論理の美しさや便利さから、それを信じている人は少なくない。
現在の素粒子物理学が数学的な論理に多く頼り、高度に数学化している原因もここにある。


数学や哲学は論理を重視し、物理や生物学などは実験と論理の相互が補完しあう関係にある。これがこの2つの『科学』の違いである。


ただし科学が論理と実験的事実だけでできていると思ってはいけない。
たとえばラマヌジャンというインド人の数学者がいる。
32歳で夭折した彼は数学の教育を受けた経験もなく、定理の証明もしなかったにも関わらず、次々と定理を生み出したのである。もちろんそれらの定理は全て正しいことが別の人物によって証明されている。
これはテストの問題も見ずに解答を書き、しかもそれが全て正解して100点を取ってしまうようなものだ。
彼は論理的な思考も証明もなしに、いきなり『思考の飛躍』とでも言うべき直感で正解にたどり着いてしまうのだ。彼の才能を見出したイギリス人数学者ハーディの仕事は、ラマヌジャンが求めた定理を証明することだったという。


これこそが天才というものなのだろう。論理的に考えるのは天才の仕事ではない。天才は生まれながらに世界の真理の正解集を持っているのである。
たとえばモーツァルトという天才は楽譜が初めから頭の中にあり、それを紙に書き起こすだけであったという。


ここまで極端でなくとも、科学の進歩には論理的思考を超えた直感の働きが常に介在している。前にも言ったが論理的思考とは効率が悪く、既存の枠組みを超える力のないものなのである。偉大な発見はいつも論理を超えてなされる。
(もちろん天才ではない私たちは論理的に考えるように勤めなくてはいけない。)


さてこの直感が重視されるのは歴史学においても同様である。
ところで歴史学と超心理学の抱える問題の根は同じものである。


それは人間を扱うことである。


なぜなら人間というのは嘘をつく生き物だからだ。人間の残した記録も嘘の集まりである。
一方で自然ならば嘘はつかない。もし欺瞞が生じるとしたら、その欠陥は完全に観察者の責任である。


私は先ほど「イカサマも見抜けない『超心理学』は哀れな学問である」と言ったが、これは彼らが無能であると言っているわけではない。むしろ彼らは優秀な実験者である。
しかし自然科学者がその能力を最大限に発揮できるのは相手が嘘をつかない場合に限る。嘘をつかない自然を相手にしているのと同じ技術を超能力研究に持ち込んだのが彼らの失敗なのである。


一般には「ある超常現象を科学者が嘘だと見抜けなければ、その現象は本物である」と思う傾向がある。
しかしイカサマを見抜けるのはイカサマ師だけである。
何度も言うが科学者は嘘をつかない相手に対してしか、その能力を発揮できないのだ。だから超心理学の研究にはプロのマジシャンの協力は欠かせないものなのであり、自称超能力者の多くは手品師の前で能力を使うのを嫌がるのである。


歴史学や多くの人文系の科学も「人間」を扱う以上はこの『嘘つき』の困難から無縁ではない。
こう言うと「全ての人が嘘つきなわけがない。誠実で正直な人間が残した信頼できる記録はいくらでもある」と反論されるかもしれない。 もちろん私は他人を信用していないわけではない。しかし嘘とは意図的につくものだけではない。

人間の記憶は根本的に思い違いをするようにできている。
何かの記録を取ったことのある人ならば理解していただけるだろうが、記録は現実の出来事をそのまま書き起こしたものではありえない。
過去は頭の中で再現を繰り返しているうちに、少しずつ変容していく。より面白く語りやすい物語になってしまうのだ。これは必然的に起きてしまうものであり、嘘をつく意図のあるなしに関係がない。


ここに人間を扱う学問のもう一つの困難がある。それは再現性のなさである。自然ならば一つの現象は条件さえ整えればいつでも再現できる。もし誰かが嘘をついても、その嘘はすぐにばれる。それが再現できるかどうかを確かめさえすればよいのだ。自然科学にとって再現できないことは全て嘘なのだから。


しかし人間のすることに再現性はない。だからある記録を嘘か真か確かめることはできない。
物理学で言うところの実験による仮説の確認ができないのである。


たとえば南京虐殺の被害者数がよく問題になるが、これも正解が分かることは永遠にないだろう。南京に無数の市民と兵士を集めて「それではあの時と同じように殺したり、殺されたりして下さい」と言うわけにはいかない。
だから誰かが言っていた「歴史は科学ではなく物語だ」という説は大いにうなずけるものがある。
(うなずいているだけで、賛同しているわけではありませんので石を投げないで下さい。)


それならば歴史学者たちはどうやってこの困難を乗り越えるのだろうか。
それは『芸術的直感』である。
芸術に正解はなく、ただ好きか嫌いかがあるだけである。芸術家は好き嫌いを直感で判断し、好きなものを愛でる。
同じように歴史学者は肌で記録の真偽を感じ、勘で記録の穴を埋め、正しい歴史を組みあげていくのである。感覚的な判断は信用できないと思う人もいるかもしれないが、天才はこの判断を間違えない。
そしてその人物が天才か否かは後世の歴史学者が地道で長期にわたる事実検証を行うことで判明するのである。正解は永遠に分からずとも、少しずつ事実を発見していくことで近似解は求まる。そういう意味で歴史学は科学である。


つまり歴史学は正解を積み上げていくのではなく、誰かの作った全体の鳥瞰図をもとに、それを歴史学者が長い時間をかけて調査し、修正を施していく作業なのである。


このように一口で科学と言ってもその中身は千差万別である。だから時おり誰かが言う「科学的に考えろ」とか「科学する心」という言葉は実にあやふやな言葉なのである。

万能な科学(方法)は存在しない。科学には扱える問題と扱わない(扱えない)問題がある。
科学と一口にいっても、その種類は多種多様であり、適材適所に使い分けされている。

だから自分の知っている「科学的方法」だけが「科学的方法」の全てだと思い込むと、「歴史は科学ではない」だとか、「経済学は学問として不完全だ」という見当違いな発言をしてしまうことになるのである。

悪夢

2005-03-12 16:39:23 | 個人的記録
かぜのせいで懐かしい悪夢を見た。
子供の頃によく見た悪夢で、何が恐いのか説明不可能な夢である。

それは数字に襲われる悪夢である。
身体の中から、心臓から髪の毛の先の細部にわたるまで、いたるところから数字が湧き出してきて私を苦しめる。

その数字のあまりにも莫大なことに私は怖れをなす。

自分の身体が際限なく数字を生み続け、自分自身を制御できなくなったという事態に私は絶望する。

その数字を何とかしないといけない責任感を持つが、もはや自分ではどうしようもないことを私は知っているので、私は嘆き悲しむ。

目が覚めてもその恐怖感と絶望は私から離れない。
むしろひどくなる一方だ。
眠ると数字はより具体的なイメージをもって私にのしかかってくる。
八方ふさがりである。

子供の頃、私はこの夢を見るたび、泣き叫びながら周囲の人間に助けを求めた。
小学生の頃、合宿中にこの夢を見た私は床を転げ回りながら救いを求めた。
そして私はシスターの部屋に連れていかれて、彼女たちにあやされながら眠りについた。

シスターたちは「恐い悪魔の夢を見たのね」と言っていたが、子供の見る悪夢といえばお化けの夢だろうとたかをくくっていたのだろう。
あれはそんなやさしいものではなく、もっと単純な何かである。

今の私は大人なので、この悪夢への対処の仕方を心得ている。
それは、あきらめることである。

まず感情を殺す。責任感とか悲しみとか希望という概念をとにかく忘れてしまう。
そしてあとは何もしない。
何度も周期的に襲ってくる恐怖感を無感動にやり過ごすだけである。

そのうちにあの夢のどこが恐かったのかが自分でも不思議になれば、この悪夢は終了である。

閑話休題

2005-03-10 22:09:19 | 個人的記録
「すべからく」は「是非とも~するべき」という意味で「全て」という意味ではない。

「役不足」は能力のある人につまらない仕事をさせるという意味で、実力がないという意味ではない。

「閑話休題」は本題に戻るという意味で、余談をするという意味ではない。

「棹(さお)さす」は物事を更に進めるという意味で、中断させるという意味ではない。

「可もなく不可もなく」は「してもいいし、しなくてもいい」という意味で「良くも悪くもない」という意味ではない。

「全く」の後に来るのは普通は否定文だが、最近は肯定文を使う人も多い。しかし昔にも肯定文をつける用法があった。

「貴様」は昔は目上の人に使う言葉であったのに、今は単なる罵倒である。


つまり言葉はすべからく消耗品であり、言葉が変化するのは可もなく不可もない現象であり、その流れを掉さすようなことは誰にもできず、必ずしも悪しきことではないのではなかろうか。
だが知性溢れる貴様ならともかく、私ごときが「言葉の本質」について論じるのは全くの役不足であり、本日の閑話休題はここまでとする。

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また食あたりをしました。
今回は古いハマグリを食べたせいで、やられました。

お金がないから鮮度の悪い安い食品を買う。
一人暮らしだから食材があまって古くなる。でももったいないから捨てないで使う。
あたる。

今年で2度目です。
今日も元気に吐いて、むせて、のたうちまわっております。

貧乏が失敗の原因なのか、
私がバカなだけなのか、
それとも貧乏だからバカなのか、
むしろバカだから貧乏なのか

因果はウロボロスのごとくめぐっているのであります。

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昔、大学前に食堂があった。
私はこの店が開店する前に、この店のマスターらしき人物と会ったことがある。

私が夜中歩いていると、食材を荷台にのせたバイクが近づいてきて

「この近くの人?今から食事ですか?」

と聞いてきた。そして

「食事にお金はどれくらいかけます?」

と訪ねてきたので「400円くらいです」と答えた。それが生協の平均的なメニューの値段だった。するとそれを聞いたその人は、満足そうな顔でうなずくと去っていった。
まさか、あの方はあれでマーケティングをしたつもりだったのだろうか。
私は嫌な予感がした。

後日開いたその店は、予想通り「生協と同じメニューを生協より高い値段で出す店」であった。
いや、メニューがうどんとカレーしかなかったので生協よりさらに悪い。
当然この店ははやるわけもなくいつもガラガラであった。

確かに私たちは400円くらいで食べられる食事を望んでいる。
しかし誰が生協より貧弱なメニューを喜ぶものだろうか。
私たちが新しい店ができて嬉しい理由の1つは、食事のレパートリーが増えるからだ。
なのに、どうして、カレーとうどんだけなのだ。

いや、それ以前にその店は全てが計算しつくされたかのようにダメだった。
店内にはなぜかハエが飛び回っていた。
カウンター席は座りづらく、置いてあるマンガは「パトレイバー」の5巻と7巻だけといった中途半端さ。
ガラス張りでが外から丸見えの店内は落ち着かず、変な音楽が流れ、店員の化粧は濃すぎて不衛生な印象を受けた。

もう少し真面目に調べれば、安さでは生協に勝てないこと、その生協でさえ業者がよく変わっていること。
うちの学生は、あまり外食しないこと。
ここらで流行っているのはマンガが置いてある喫茶店や飲み屋ばかりだということ。
生き残っているのは中華料理、フランス料理、イタリア料理などの生協とは異なるメニューを出す店であること。
そして、この近くに和食専門店が少ないこと。
いろいろなことが分かるはずだ。
まさかとは思うが、あんな世間話に毛も生えていないような話だけで、あの方は「いける」とでも確信したのだろうか。


いや、実はこんなことはどうでもいい。
汚い店でも、貧弱なメニューしかなくともいい。
何をさしおいても、おいしければいいのだ。
味が全ての問題を解決する。
しかし、それもダメだった。

ある日私はこの店でカレーをとったことがある。
その味はいたって普通で、『小麦粉を練って茶色に着色した』ような同じ味であった。
ここではこれが標準だ。

だが問題はカレーと同時に出された水であった。その水は外見は普通の水なのだが、なんと口に入れるとレモン水のような味がするのである。口の中にかすかに広がる酸味とえぐみがカレーと混じって、思わず涙目になってしまう。
まずい料理界広しと言えども、カレーと一緒にすっぱい水を出して客を苦しめる店はここだけであろう。
マーベラス!!

残念なことに、そして当然の結果として、この店は開店3ヶ月で潰れてしまった。
この店が閉店する直前、私は客が一人もいないカウンターで頭を抱えているマスターを見てしまったことがある。
心の底から「生きていくのは大変だ」と思わされたものである。
料理の腕はともかく、「学生さんはお腹がすくだろうから、カレーはおかわり自由でいいよ」と言ってくれた人の良いマスターだった。
もちろん、おかわりはしなかったのではあるが。

貧乏が失敗の原因なのか、
彼らがうかつなだけなのか、
それとも貧乏だからうかつなのか、
むしろうかつだから貧乏なのか

因果はウロボロスのごとくめぐっているのであります。

貨幣(4)「その真価」

2005-03-09 16:07:09 | 経済
(「その役割」、「その種類」、「その制御」の続き)


お金がありがたいのは何故だろうか?
それは、お金があれば様々なものを買えるからである。

つまり貨幣の本当の価値とは、「それでどれだけの物が買えるのか」という購買力にある。
お金が100万円あっても、パンが一枚50万円もする世界ではどうしようもない。

しかし私たちは、つい、購買力よりも見せかけの賃金や物価の上下に注目し、一喜一憂してしまう。
給料が上がれば嬉しくなり、物価が下がると得をした気分になる。

だが給料が上がれば、私たちを雇う企業はその分のコストを商品代金に上乗せし、物価も上昇する。
物価が下がれば、企業の収益も下がり、私たちの給料も下がる。

時間がたてば賃金の上昇率と物価の上昇率は同じように上下する。
本当に私たちの購買力が高くなるのは、つまり賃金の上昇率が物価の上昇率を上回るのは、生産力(GDP)が向上した場合である。
(そして今の日本のデフレは生産力の減少を伴うため問題となっているのである。)

私たちの本当の豊かさはGDPの上昇にある。
GDPとはその経済の売り上げ金の合計のようなものである。
では2002年のGDPは497兆円であったが、1854年のGDPは5億4千万円であった。
すると私たちは明治時代より生産性を9万2千倍向上させたことになるのだろうか?

なるわけがない。

この混乱は物価の変化を考えないことから来る。
たとえば明治時代の1円と今の1円では購買力がまるで違う。
そこで正しく購買力を比較するためには、ある年の物価を基準値に設定して、以下のように「名目GDP」と「実質GDP」を区別しなくてはいけない。

名目GDP = 今年の物価  × 今年の生産量

実質GDP = 基準年の物価 × 今年の生産量

たとえば基準年に車が10円で生産量が100台とする。するとGDPは10×100で1000である。
そして今年は車が10万円で生産量が1000台とする。
すると名目GDPは10万×1000で1億となり基準年の10万倍だが、実質GDPは10×1000で1万となりGDPが基準年の10倍、つまり車の生産量が10倍になったことを正確に反映している。

(資料)
GDP・景気・経済 SITE  および
ここから藤野正三郎「日本のマネーサプライ」のデータを孫引き

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時々、この「名目」と「実質」を区別していないせいで、おかしな議論をする人がいる。
たとえば貧富の差が拡大している根拠として「豊かな層と貧しい層の賃金格差は、昔は千円だったが今年は5千円もある。貧富の差が5倍になった」と言ったりする。
しかしその賃金データが「名目量」ならば、この議論に意味は無い。

それなら明治時代の賃金格差が30円で、今の賃金格差が30万円ならば、貧富の差は1万倍ひらいたことになってしまう。
豊かになったかどうか、貧富の差がひらいたかどうかは「実質量」を見なくてはいけないのである。

多くの場合「実質量」を求めるのは簡単だ。
「名目量」を以下に定義する「GDPデフレーター」と呼ばれる量で割ればよい。

GDPデフレーター = 今年の物価 / 基準年の物価 = 名目GDP / 実質GDP

これは物価の本当の変化を計る尺度であり、今後はこれを(本当の)「物価=GDPデフレーター」として考えることにする。

すると実質量は次のようになる。

実質GDP = 名目GDP / 物価

実質賃金 = 実際にもらった賃金 / 物価

実質マネーサプライ = 名目マネーサプライ / 物価

先の貧富の差の拡大の議論は「実質賃金」で考えなかったために誤ったのである。

私の給料が100万円でもパン1斤が50万円ならば、私の購買力はパン2斤でしかない。
私の給料が1万円でもパン1斤が10円ならば、私の購買力はパン1000斤になる。
「実質賃金」こそが購買力を正確に反映する量なのである。

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同じような混乱は、国内と国外を比べた場合にも起きる。

先の例は「過去」と「現在」の豊かさの変化について考えた。そして本当に豊かさを比べるためにすべきことは「購買力」の比較であった。

今度の場合、国内と国外の豊かさを比べる場合にすべきことは、各国の購買力の比較である。
つまりA国の購買力は、A国の賃金とA国の物価で決まる。B国の購買力は、B国の賃金とB国の物価で決まる。

間違った議論はA国の賃金でB国の物価を考えたりした場合に起きる。

たとえば「アフリカのある国の賃金はアメリカドルで10ドルしかない。だから彼らは貧しく、貧富の差は恐るべき速度でひらいている」と言ったりしてしまう。
しかし彼らの給料「ブル」紙幣とかを、単純に為替ルートで変換してドル(GNI係数)で比べても何の意味もない。

本当に必要なことはその国の賃金は、その国の中でどれだけの購買力を持っているかである。
彼らの給料がアメリカでは10ドルの価値しかなくとも、自国内では家が建つほどの額だったら何の問題もないわけである。

そして正しく購買力を比較するための数値が「PPP(購買力平価)(データは世界銀行のサイトで入手可能)」である。

たとえば単純に為替ルートGNI係数で日本とアメリカを比較すると

USA 34,280 ; 日本 35,010 (単位;USAドル)

となり日米の差はあまりないが、PPPで比較すると

USA 34,280 ; 日本 25,550 (単位;国際ドル)

となり購買力にだいぶ差がある。
このPPPで統計を取ると、現在、世界の貧富の差は縮小傾向にあることが分かる。

余談だが面白い数値にイギリスのエコノミストが公表している「ビックマック指数」というものがある。
(参考;君の食するところを言いたまえ
これは各国でビックマックのような規格化された商品がいくらで売られているかを示している。その結果、ビックマックの値段は

USA 3ドル ; 日本 2.5ドル

となり上のPPPと類似している。
同じ商品が各国の経済力にあわせて上下しているというのは、「市場の調節機能」を感じさせられる話である。

ところで「日本の物価は外国に比べて高い」とか「デフレは日本の物価が国際価格に近づいているだけだ」と言う人は、購買力を比較するために必要な2つの量「賃金」と「物価」のうちの「物価」だけしか見ていないのである。

それにこの世に「国際価格」などというものは存在しない。
あるのは「自国の賃金」が自国内でどれだけの「購買力」を持っているかだけである。そして私たちが求めるべきなのは「物価の下落」ではなく「購買力の増加」である。

現在のデフレは購買力を低下させているので許してはいけない現象なのである。

(参考文献「マンキュー マクロ経済学」「環境危機をあおってはいけない、第6章」)