私は逆恨みというものが大嫌いである。
何もしていない者を憎んだり、何もしていないのに憎まれたりすることが正しい行為であるわけがないからである。
だからサッカーの試合や潜水艦事件を引き合いに出して支那人そのものを罵倒する人や、大東亜戦争を持ち出して日本人を憎む人を私は好きになれない。
私は個人を憎悪することは多々あるが、民族そのものを憎んだことはない。
たとえばサッカーの試合のマナー問題において、支那人の全てに怒りをぶつけたり、支那社会のあり方を憂いている人がいたが、悪いのは2千人ばかりの支那人だけである。
2千人の悪事のために10億人の人間と彼らの社会を恨むのは被害妄想であり、加害妄想であり、誇大妄想である。
罪は個人のものであり、個人の属する社会のものではないのだから。
もう1つは支那との今後の外交関係について「相互理解を深めて仲良くしよう」とか「あいつらは嫌な奴だから警戒を強めるべきだ」という論調を目にしたのだが、国同士の付き合いは友人関係ではないのだから仲が良いとか悪いとかの卑小なレベルで論じても意味がない。外交は感情を抜きにして国益のみを考えるべきである。
友情は個人のものであり、個人の属する社会のものではないのだから。
そこで私が思い出すのは第2次大戦時のイギリスの首相チャーチルの言葉である。
彼は大戦前、ヒトラーと親交のあった歌手ハンフシュテングル氏にこう言った。
どうしてあなたのところのご主人は、あんなにユダヤ人を乱暴に扱うのですか?悪いことをしたり国にそむいたりするユダヤ人に対して怒るのは十分わかるし、また生きる方法において権力を独占しようとする者がいたら、それに抵抗することもよくわかる。
しかし、ただ生まれがユダヤ人というだけで、その人間を排斥するというのは、どういう感覚なのでしょうな?
人間は自分の生まれというものを、どうすることができるのですか?
こんな当たり前のことが理解できない人を私は何人も知っている。
繰り返し言うが、罪は肉体に宿るのであり、民族や精神、伝統や歴史に宿るのではない。
何もしていない者を憎んだり、何もしていないのに憎まれたりすることが正しい行為であるわけがないからである。
だからサッカーの試合や潜水艦事件を引き合いに出して支那人そのものを罵倒する人や、大東亜戦争を持ち出して日本人を憎む人を私は好きになれない。
私は個人を憎悪することは多々あるが、民族そのものを憎んだことはない。
たとえばサッカーの試合のマナー問題において、支那人の全てに怒りをぶつけたり、支那社会のあり方を憂いている人がいたが、悪いのは2千人ばかりの支那人だけである。
2千人の悪事のために10億人の人間と彼らの社会を恨むのは被害妄想であり、加害妄想であり、誇大妄想である。
罪は個人のものであり、個人の属する社会のものではないのだから。
もう1つは支那との今後の外交関係について「相互理解を深めて仲良くしよう」とか「あいつらは嫌な奴だから警戒を強めるべきだ」という論調を目にしたのだが、国同士の付き合いは友人関係ではないのだから仲が良いとか悪いとかの卑小なレベルで論じても意味がない。外交は感情を抜きにして国益のみを考えるべきである。
友情は個人のものであり、個人の属する社会のものではないのだから。
そこで私が思い出すのは第2次大戦時のイギリスの首相チャーチルの言葉である。
彼は大戦前、ヒトラーと親交のあった歌手ハンフシュテングル氏にこう言った。
どうしてあなたのところのご主人は、あんなにユダヤ人を乱暴に扱うのですか?悪いことをしたり国にそむいたりするユダヤ人に対して怒るのは十分わかるし、また生きる方法において権力を独占しようとする者がいたら、それに抵抗することもよくわかる。
しかし、ただ生まれがユダヤ人というだけで、その人間を排斥するというのは、どういう感覚なのでしょうな?
人間は自分の生まれというものを、どうすることができるのですか?
こんな当たり前のことが理解できない人を私は何人も知っている。
繰り返し言うが、罪は肉体に宿るのであり、民族や精神、伝統や歴史に宿るのではない。