玄文講

日記

罪について

2004-12-21 23:43:06 | メモ
私は逆恨みというものが大嫌いである。
何もしていない者を憎んだり、何もしていないのに憎まれたりすることが正しい行為であるわけがないからである。

だからサッカーの試合や潜水艦事件を引き合いに出して支那人そのものを罵倒する人や、大東亜戦争を持ち出して日本人を憎む人を私は好きになれない。

私は個人を憎悪することは多々あるが、民族そのものを憎んだことはない。

たとえばサッカーの試合のマナー問題において、支那人の全てに怒りをぶつけたり、支那社会のあり方を憂いている人がいたが、悪いのは2千人ばかりの支那人だけである。
2千人の悪事のために10億人の人間と彼らの社会を恨むのは被害妄想であり、加害妄想であり、誇大妄想である。
罪は個人のものであり、個人の属する社会のものではないのだから。

もう1つは支那との今後の外交関係について「相互理解を深めて仲良くしよう」とか「あいつらは嫌な奴だから警戒を強めるべきだ」という論調を目にしたのだが、国同士の付き合いは友人関係ではないのだから仲が良いとか悪いとかの卑小なレベルで論じても意味がない。外交は感情を抜きにして国益のみを考えるべきである。
友情は個人のものであり、個人の属する社会のものではないのだから。

そこで私が思い出すのは第2次大戦時のイギリスの首相チャーチルの言葉である。
彼は大戦前、ヒトラーと親交のあった歌手ハンフシュテングル氏にこう言った。

どうしてあなたのところのご主人は、あんなにユダヤ人を乱暴に扱うのですか?悪いことをしたり国にそむいたりするユダヤ人に対して怒るのは十分わかるし、また生きる方法において権力を独占しようとする者がいたら、それに抵抗することもよくわかる。

しかし、ただ生まれがユダヤ人というだけで、その人間を排斥するというのは、どういう感覚なのでしょうな?

人間は自分の生まれというものを、どうすることができるのですか?


こんな当たり前のことが理解できない人を私は何人も知っている。
繰り返し言うが、罪は肉体に宿るのであり、民族や精神、伝統や歴史に宿るのではない。

須藤真澄「振袖いちま」

2004-12-19 23:23:34 | 
魂を持った市松人形の「いちま」が昔のお友達がしたくてもできなかった夢を、昔のお友達のひ孫である今のお友達「ゆき」に対して無理やりかなえさせようとしてドタバタする話。
つまり、これはそんな「いちま」と「ゆき」の女の友情の物語である。

と書いてみたものの正直に言うと、私は女の友情というものを理解していない。
はっきりとは分からないが男同士の友情とは何か違う。
距離感が違うと言うべきだろうか?

男同士の場合、住む所や仕事が変わって5年や10年くらい会わないでいても割と平気だし、相変わらず友達のままでいられる。
少なくとも友との別離が友情の障壁になることは少ない気がする。
そもそも私の周りにいるのは、彼女さえいれば男友達なんてまとめて粗大ゴミに出しても痛くも痒くもないという連中ばかりである。

しかし女性の場合、身近にいることや一緒に行動することが友情を高めるために重要な役割を果たしている気がする。心身ともに常に一緒、つらいことも嬉しいこともともに分かち合ってとか、べったりくっついているといった印象がある。
だから女性にとって、引越しなどで友達と遠く離れることは一大事になる。

(ただし以上は私の決して多くはない人生経験からの推測であり、思いつきの範囲を出ない分類でしかない。)

このマンガでも「いちま」と「ゆき」はいつも一緒にいて、たまにケンカして分かれるのも次にくっつくための起爆剤になるだけである。
私はこういう関係が女の友情だと思っているのですが、あっていますか?

なんにせよ、女の子同士が仲良くしているのを見るのは悪い気分ではない。楽しいマンガであった。

占いの存在意義について

2004-12-18 23:54:00 | 怪しい話
先日、私が占いについてくどくどと雑多なことを書き連ねたのは、実家で見せられたテレビで細木数子さんという占い師がやたらと出ているのを目にしたからである。

兄の話によると、この占い師は最近やたらとテレビに出演しているそうだ。
細木数子と言えば、私が小学生だったころ土星人だの木星人だのという占いの本を出していたのを見た記憶がある。
宇宙人の本と勘違いして立ち読みし、すぐに放り出したのを覚えている。

さて、私は占い師というのは必要な職業だと思っている。
なぜなら人間は何でも自分で決められるほど強くはなく、不確定な未来に耐えられるほど辛抱強くもないからである。

しかしである。
一方で人間は一度ふんぎりをつけると迷わず突き進むことができ、ほんのわずかな見通しを得ただけで現状に対して驚くほど我慢強くなれる。
ささいなことで人間は強くなれるのである。

そして占いはその「ささいなこと」を人に与えることができるのである。
つまり占いは指南し、予言することで、前進する勇気を与え、希望を持たせることができる。
たとえ根拠がなかろうが、無責任であろうが、その言葉は必要な言葉なのである。

ちなみに太田垣晴子さんの本「オトコとオンナの深い穴」によると女性は転職やスキルアップ、新しい恋人などの「より良い未来」を知りたがり、男性は倒産回避や別れた恋人との復縁などの「現状救済」について聞きたがるそうである。

また一方で、重要な判断を占いに任せる人もいる。
たとえば先に挙げた本によると、難手術をするべきか、やめるべきかという重大な判断を占い師の判断に任せる医師が出てくる。
これは無責任な行為だろうか?

私はそうは思わない。
この世にはどれだけ考えても答えの出ない問題がある。
理性と合理性と科学的判断を尽くした挙句に、「成功と失敗の確率は5分と5分」という結果しか出ないこともある。

先の医師もそんな事態に陥ったのだろう。
合理的判断が役に立たないとき、人はどうするべきだろうか?

私だったらサイコロを転がして偶数なら手術をして、奇数ならやめる、という方法で決めることだろう。
進むか止まるか2分の1の確率のばくちをしなくてはいけないのだから、やり方はこれしかない。

しかし人の生死を決めるほどの重大な責任を自分だけで背負うのはつらいことである。
そんな時に占い師に頼る人を私は責める気にはなれない。

つまり占い師はサイコロのようなものだ。
答えが出ないのに答えを出さないといけない時に、サイコロのように気まぐれに答えを出してくれる。
そして責任をわずかばかり押し付けることができる。それだけでも精神的にはかなり楽になるはずである。

占い師というのは素晴らしい職業である。

しかし私には嫌いなタイプの占い師がいる。
それは不幸な予言を好んで口にするタイプの占い師だ。

予言をする方としては、不幸な未来を言うのは楽なことである。
刺激が強い分、相手を強くひきつけることができる。
人の不安感をあおって、自分に依存するように仕向けることもできる。
それに人は成功よりも失敗を多くする生き物であり、確率的にも不幸な予言の方が当たりやすい。
それに人は何故か良いことしか言わない占い師を信用しないものである。占いで生計を立てるためには、どうしても不吉な予言をすることを覚えなくてはいけない。

しかし昨日も書いたように、占いはする方とされる方で共犯関係が成立している。
それはつまり占いにあわせて自分の行動を決める人間もいるということだ。
だから不幸な予言をすれば、それにあわせて自らすすんで不幸になる人もいるのである。
それは人を活かす占いではない。

わずか2、3人を占っているのを見ただけなので判断材料が足りないことを断った上で言わせてもらうと、細木数子さんは「不幸な予言を好んで口にするタイプ」の人に見えた。
それで昨日や今日書いたようなことをグチグチと考えた次第である。

〔参考〕
いい占い師とは(占い研究所)

占いが当たる理由

2004-12-17 13:20:18 | 怪しい話
私は占い師という職業は必要なものだと思っている。
しかし私は占いで未来や自分の何かが分かるなんてことを信じてはいない。

心理学者のレイ・ハイマンはこんなことを言っている。

占い師の役を演じていると、いつのまにか自分は本当に正しい運勢や性格を占っているのだ、と確信してしまう危険性がある。

それは私自ら経験したことだ。記述と読心術からの収入では足りないため、私は十代の頃手相見を始めた。もちろん当初は手相見など信じていなかった。しかしそれで商売する以上あたかも信じているかのように演じねばならないことを知った。数年経つと私は手相見のいっぱしの信奉者になっていた。

ある日プロの読心術師で私が尊敬していた人が、手のしわから分かることと反対の占いをわざと言ってごらん、と巧妙な提案をしてくれた。私は数人の客相手にこれを実行してみた。

驚いたことに、そして恐ろしいことに、私の占いは以前と変わることなく成功した。

それ以来というもの、私は、実際には本当ではなくとも占い師と客を信じさせてしまう強固な力に興味を抱いてきたのである。


(テレンス・ハインズ「超科学をきる」より引用)

これはバーナム効果と言われるものであり、人は相手の言葉から自分に当てはまることを無意識のうちに探し出してしまうのである。

そもそもよほど極端な人間ではないかぎり、たいていの人は慎重かつ大胆だったり、内向的かつ社交的だったりと矛盾する2つの性格を同一人格の中に抱え込んでいるものである。
だから「あなたは内向的だ」と言われれば今までの人生経験の中で引っ込み思案だったときのことを思い出し、「あなたは社交的だ」と言われれば積極的に発言したときのことを思い出し、それが当たっていると思ってしまうのである。

こんな話がある。
私が中学生だったころ、姉が持っていた水晶玉を使って私は遊んでいた。
そして気まぐれに家に来ていた同級生の未来を占ってみたのである。

「一ヶ月以内にあなたはケガをします」

「あなたの無くし物は黄色い物と丸い物の近くで見つかるでしょう」

そして私の予言は当然、2つとも的中した。
一人は足の指をぶつけて爪が割れ、一人は自宅で黄色いぬいぐるみと丸い置き時計のそばに理科の教科書があるのを見つけた。
彼らは「占いが当たった」と大騒ぎしていた。

しかし騒ぐことは何もないのである。

中学生で、しかも休み時間のたびにサッカーをして走り待っている子供が一ヶ月間、無傷でいられる方が珍しい。
彼がケガをするのは必然だったのである。

またこの世のいたる場所には「黄色い物」と「丸い物」が存在している。
彼が学校で教科書を見つけていれば、きっとその側には「黄色いクレヨン」と「丸い輪ゴム」があったことだろう。

それに私はこの2つ以外にも5、6個の適当な予言をしていたのである。
そしてそれらの予言は見事に外れたのであるが、彼らはそんなことはきれいさっぱり忘れていた。

いくらでもあいまいな予言をばらまくことができる上に、外れた予言を忘れてくれるというのならば、予言を的中させるだなんて簡単なことである。

占いには占う方と占われる方が共犯関係になり、予言を成就させてしまうという性質がある。
私は神秘としての占いは信じておらず、話術で人を操るという意味での占いを信じている。

テレビを見る

2004-12-15 15:31:23 | 個人的記録
京都からの帰り、兄夫婦の家に寄ったところ、最近のテレビの録画したものをたくさん見せられた。
その多くは漫才で、世間様では今漫才がはやっているらしい。
ギターをひきながら漫談をする人や「ひろしです」を連発する人など15組くらいは見たと思う。

正直に言うと、あまり楽しくなかった。多分ネタにされている芸能人や社会風俗のほとんどを私が知らないせいだと思われる。
彼らの持ちネタや定番ギャグらしきものも初めて見る私には笑うことができない。ああいう定番ギャグはそれが普及する過程を共に経験していないと笑えないものである。
それは今の若い人が「あっと驚くためごろう」とか「わかるかなぁー、わかんねぇだろうなー」というギャグで笑うことができないのと同じことである。

一方でタモリ倶楽部の空耳アワーは楽しかった。

また金田一耕助シリーズの「八つ墓村」のテレビドラマを見たが、つまらないので驚いた。
そこには私が面白いと思う要素があまりなかった。

不可解な掟に縛られた閉じた田舎の陰うつな風景の中で起きる猟奇的な惨劇。
そんな世界にほんろうされ生命を危険にさらすよそ者の依頼人。
そして同じよそ者でありながら、ひょうひょうとして世界にほんろうされない安定した存在で、不可解さと不条理さに論理と人間味をもっていどむ名探偵。

しかしテレビ版は見ていて「バカな村人がやたら騒いでる中、あんまり緊迫感のない依頼者がいて、探偵が傍観している間に犯人や村人が勝手に自滅した」という印象しか残らなかった。
画面が明るすぎたせいなのかもしれないが、全体的にコミックショーみたいな雰囲気があった。
原作は間違いなく面白く、私が小学生の頃見た映画版も文句なく恐くて重い傑作だったはずである。
子供の時に怖かった映画が大人になってからでは怖くなくなるというのはよくあることだが、今回のもそうなのかもしれない。

ところで金田一耕助役をやっていたのは稲垣吾郎氏という若い俳優であった。
彼を見て、昔に私の知り合いの婦警さんがこの稲垣氏に車ではねられそうになったと怒っていたことを思い出した。たしか それがもとで稲垣氏はしばらくの間謹慎していたはずであるが、復帰できてなによりである。

他には暴れん坊将軍がサンバを歌っていて、しかもそれがヒットしているだとか、にわかには信じがたいことも教わった。
今でも少し兄さんに騙されているのではないかと疑っているので、他人の前ではこのことは言わないようにしている。
調べればすぐに分かるのだろうが、調べるつもりはないのである。