玄文講

日記

ナンシー関「何がどうして」

2004-11-06 22:11:42 | 
なんかここ四、五年すごいよなぁ、この「感動」に対する貪欲さ。はしたないくらいだ。これ、新たなる国民性、っすか。

ナンシー関「何がどうして」より引用



メロドラマがはやる世の中である。
そして、ある種の人たちは自分の人生に物語を求めるだけではなく、他人の人生にも感動的な話を求めたがる。

彼らは感動したり、感涙したり、癒されることを望み、「優しさ」を求め、「温かい話」をありがたがる。
私はそういう人たちをあさましいと思っている。つまり軽蔑している。

ただし誤解されると困るので書いていおくが、他人に優しくすることは大事なことである。
しかし「他人に優しくする」のと「優しさを求める」のとは全く別のことであり、貪欲に「優しさ」や「感動」を追求する姿勢はあさましいのではないか?、と私は思っているのである。

ナンシー関さんはそういう態度を「バカ女の視線」と呼んでいた。
たとえば彼女は当時のオリンピック報道のスタンスを次のように揶揄(やゆ)した。

何だかよくわかんない競技だけど、あの日本の選手ちょっとカッコいいじゃん。

キャー!何?勝ったの?優勝?

え、きのうお母さん死んだんだ。すごーい(泣)おめでとう(号泣)あー、感動した。

こんなバカ女と同じ視点である。


彼女は「お涙ちょうだい」が大嫌いだと言う。人の感傷に訴えて涙を誘い、とりあえず物語を収めてしまうというのは芸としては卑怯な態度であると批判した。それは創造力貧困の逃げ場であり、プライドのない行為であり、堕落であり、否定するべきものではなかったのか、と彼女は問う。

「お涙ちょうだい」を拒否するという生理は、観客側にとってもプライドだったのではないのか。

人にとって「感涙」することは「快楽」であると思えてならない。

快楽をむさぼることに対する自己抑制や節操、羞恥心。人間の尊厳にかけて「お涙ちょうだい」を拒否していたとは言えないか。


しかしイイ話や感動できる話を求めることが恥ずかしいことだと思っている人は少ない。
その行為が実はアングラサイトから首切りの映像や死体画像をあさる行為と大きな違いがないなんてことは思いもしないようだ。どちらも単に快楽を求めているだけなのに、である。

もちろん、それは必ずしも悪いことではない。たとえば私は過去の殺人事件の記録(牧逸馬の「世界怪奇実話」、無限回廊、柳下 毅一郎「殺人マニア宣言」)を娯楽として楽しんで読んだりしている。
はっきり言って悪趣味である。

19世紀イギリスのヴィクトリア朝時代から殺人事件は大衆娯楽の一つになり、それとともに報道機関や新聞は発展した。R.D.オールテックという人物はこう言っている。

「比喩的に言えば19世紀の印刷屋のインクには重要な成分として血が混じっていたのである」

戦争、殺人、大災害、醜聞。自分が巻き込まれない限り、それらは娯楽になりうる。
楽しむと言うと語弊(ごへい)があるかもしれない。人が不幸になって喜ぶのではただのロクデナシだ。
人は泣いたり、義憤に駆られたり、同情したり、感動したり、感情の大きな揺れを体験したいのだ。そのためには大事件を見聞きするのが便利なのである。
殺人事件を楽しむのも、感動できる話を楽しむのも、その動機は同じものでしかない。

しかし私は殺人事件を楽しんでも日常生活で犯罪が起きそうになったらそれを防止するように努めるだろう。当たり前の話だが、それが節操というものである。

一方でイイ話を求める人は他人にイイ話を作るように強要する傾向にある。そこに節操なんてものはない。
もちろん殺人事件の重大さと比べれば、美談の強要ぐらいささいなことであり、単純な比較はできない。

しかし他人に美談を求めるという行為が、時として暴力や差別になるということに鈍感な人が多い気がするのである。
美しく生きることを強制されることほど迷惑なことはない。
よく障害者の側から冗談で言われるセリフに「障害者はソープにも行けない」というものがある。

しかしたいていの人は私の不満に対して「なぜ美談を不愉快に思うのか?」という反応を示すばかりである。

美談は強しである。
美談なんてマーダーケースブックと同じ存在なのに、、、

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