玄文講

日記

呉智英「吉外につける薬」(個性信仰批判1)

2004-10-25 01:00:01 | 
自称知識人が決まって言うことに「独創性を発揮できる個性ある人間を育てる教育をしよう。人まねの科学ばかりではいけない」というセリフがある。

しかし私は科学の世界で生きているが「個性」や「独創性」という言葉をまったく信じていないし、そういう言葉を好んで使う人間を信用してもいない。

「双拘填墨(そうこうてんぼく)」という言葉がある。書道の言葉で、書物を模写するという意味であり、書道は模倣を繰り返していくうちに真に自分のものになるという意味でもある。
学問もこれと同じである。「学ぶ」とは「まねる」ことなのだ。
そして、まねて、まねて、まねても、まねきれない部分。それが自分だけの特性、能力として残るのだ。
…と、誰かが言っていた。(「それもまねかい!」)

私が多言を弄するよりも、この主張を補強してくれる適切な文章があるのでそれを引用したい。以下は呉智英氏の「吉外につける薬」からの双拘填墨である。

教育の目的は、個性の尊重でもなければ自己実現でもない。
教育とは平凡への強制である。
反論があるかもしれない。それなら非凡な才能が潰されてしまうではないか、と。だが、心配は無用。平凡への強制で潰されてしまう程度の非凡は非凡ではないのだ。平凡へ強制されたとしても平凡ではありえないからこそ、非凡は非凡なのである。大多数の人はどうせ平凡にしか生きられないのだから、早目に平凡教育をしたほうがいいのだ。

精神医学者とこんな話をしたことがある。個性的な絵を描く吉外がいたとしよう。私が彼の中学か高校の教師だとしたら、どんな指導をしたらいいだろうか。精神医学者は答えた。古典作品の模写をさせるといい。
その少年に本当の才能があるのなら、模写によって身につけた技術ですばらしい傑作をやがて生むだろう。もし、独創的な才能がなかったとしても、模写で身につけた技術は、彼の生活の基盤を作る。いくつもの職業選択が可能となる。
それに模写は社会性・歴史性を獲得させる。自分と他者との関係の取り方がわかるようになる。

模写されるべき古典作品がない現在、独創性、個性という脅迫観念によって刺激された自我は肥大し溢れ出し、手紙となり、投稿となり、持ち込みとなり、自費出版となり、web日記となり、日本全土を夢の島に化そうとしているように思える。