玄文講

日記

昨日には遠すぎる

2004-10-21 23:50:50 | 人の話
前向性健忘症。
もしくはウェルニッケ脳症と呼ばれる脳障害がある。

この障害の大きな特徴は記憶能力が失われることである。
誤解のないように言っておくと、失われるのは過去の記憶ではなく未来の記憶である。

患者はこの病気発症後、何も記憶することができなくなる。つまり未来が全て無くなるのである。あるのは過去の記憶だけ。記憶喪失の逆バージョンだと思っていただければよい。
たとえば有名な前向性健忘症者にHMというイニシャルで呼ばれる患者がいる。彼はてんかんの手術で前頭葉を切除してから記憶ができなくなった。

日本にも前向性健忘症の人がいらっしゃる。彼らは大きな手術の後に投与された点滴(高カロリー輸液)にビタミンB1が含まれていなかったため脳内の乳頭体が萎縮してしまいこの障害者になってしまった人たちである。
脳にはペイパッツの回路と呼ばれる記憶を維持するための装置があり、乳頭体は記憶情報をその回路に伝える働きをするのだが、この障害はこれが萎縮して機能しなくなってしまうのである。

ところで記憶と一口に言ってもその種類は様々である。記憶はおおまかに分けて3種類に分類できる。

1、技記憶
自転車のこぎ方や泳ぎ方など身体で憶えたことについての記憶。俗に言う体で覚えたことは忘れないということ。この記憶は小脳が担当している。

2、意味記憶
知識、人の顔や名前、物事の概念など。

3、エピソード記憶
いつ、どこで、何を、どうしたかという思い出のこと。

この障害はこれらのうちの3番目のエピソード記憶力が完全に無くなってしまうのである。
彼らは短期記憶は正常に機能しているので30分くらいならば記憶を維持でき、日常生活を営むことはできる。知識もある程度新しく蓄えることができる。しかし長期的な記憶はできない。
つまりこれは思い出を新しく作ることができなくなることを意味する。人生がこの障害の発生時で止まってしまうのだ。

昨日まで20歳だったのに、朝起きると30歳になっている。

昨日まで20歳だったのに、朝起きると40歳になっている。

昨日まで20歳だったのに、朝起きると60歳になっている。

昨日までの距離は日に日に遠くなっていく。


彼らの混乱は想像できないほど凄まじいものだろう。なにしろ憶えられないので自分の病気に慣れることができないのだ。
彼らはテレビドラマも小説も見ないという。なぜなら自分の経験と比較することができないので、それらと本物の記憶が区別できなくなってしまうからだ。しかしどうしても見なくてはいけないものが1つだけ存在する。
それは夢だ。彼らは夢の記憶と本物の記憶が混同してしまうのである。


それにしても記憶できない未来、存在しない未来の中を生きていることを「生きている」と言えるのだろうか?
答えは「生きていると言える」だと私は信じている。なぜなら彼らは生きているのだから。
人の人生は一人だけで作るものではない。他者の間との相互作用も含めて人生である。
たとえ本当の自分がいなくても、他人の中に自分が形作られる限りそれは生きていると言えるはずである。


また彼らにも救いはある。
実は彼らはエピソード記憶が完全にできなくなるわけではないのだ。
脳内ホルモンの一種にノルエピネフリンという物質があり、それは記憶を維持する働きをするのである。
そしてこの物質はある感情に反応して分泌されることが知られている。
その感情とは「不安」や「ストレス」である。


それは、生き残るためには「不安」な気分を憶えたときの出来事を記憶していた方が有利だ、という進化上の理由により身につけた生物の能力なのだろう。
自分の人生に絶望し不安を覚えたときに記憶力が回復する。皮肉な話であるが、希望と絶望はいつも共存しているものなのかもしれない。
これもまた喜劇的で悲劇的な話である。