せせらぎせらせら

日々思うこと

ミニマルの衝撃でコワれたアタマが仮説する

2008-08-09 | ぎらぎら
テーマ的にけっこう長くなる予感。

士郎正宗&押井守のタッグが現代に投げかけた古風な問いかけ「私とは何か?」は、星の数ほどの哲人たちが挑んできた知恵の輪だ。

結論から言って、おそらくそこに物質的な形を見出した人はいないだろう。

誰もが精神や意識といった形而上学的なところにある程度の“答えらしきもの”を置いて自身を安心させるに止まる。

その“答えらしきもの”を置く形而上学的な世界をネットという時流にすっぽり被せたという点で、popularityを得たのが少佐こと草薙素子という偶像の哲人だったのだろう。

ネットに関してここで着目すべきは、A)いわゆる形而上という概念よりも遥かに実在を感じやすいこと、そして、B)「部分と全体」の関係がより形而下的な特徴を持つ複雑系であり比較的把握しやすい集合知であること。

A)については、“形而上”とか“非物質的”と言ってもピンとこない人も“ネット”と言えば即座にそれが大体どういうものか頭に浮かぶということ。

B)の複雑系という見方は少しわかりづらいが、目視できる情報のすべてが同じ土俵に上げられているというふうに考えれば、その一つ一つが全体を構成する要素であるということが言える、ということ。そしてインタラクティブな情報は自分自身が系全体の一端を担っていることを意味する。

嘗ては、情報と情報との繋がりが今よりもずいぶん希薄で、個人の中で関連付けられ“編集された”情報群もほぼ孤立に近い状態で棚に置かれていた。まして複数の人の思考や感性などにリアルタイムに近い状態で触れるなんてことは至難の技だった。今はまだ脳からネットへ直結とはいかないが、広大に拡張され続けるこの仮想空間に“別人格”と称して既に人々は意識の一部をネット上に置き始めている。(物質的な縛りがない分だけ、より精神を露出しやすい環境で、モラルの欠如が騒がれるのは忌々しき事態だ。)


まぁ、つまり、情報化社会の副産物として人類は“よく解らないもの”を、以前よりは身近な“よく解る場所”に置く術を手に入れたということだ。

昔の人たちは宙に投げた魚を巧みに捌くようなことをしていたのに対して、今の人はまな板の上でしっかり捌ける環境にあるようなものだということ。

今後、AIの開発が進めば現実的に「自己の本質」という難攻不落の問いに曝される人がさらに増えてくるだろう。

情報化ということ自体が形而上の簡易的な具現化であり、社会の情報化はモノが溢れる時代から意味が溢れる時代への推移していく変化なのだ。

そして形而上学とは、モノから切り離された意味を扱う哲学なのだから、モノに溺れて哲学することを忘れつつある現代人が来るべき意味の時代に備えて今為すべきことは、まさに知恵の輪なのだ!(笑



・・・ま、それはさておき、

そんな諸々を考えながら、夏の灼熱におぼろぐ僕の意識が流れる時間にそって記憶を風化させ発酵させ熟成させながら縦横無尽に妄想アブダクションしていたら、一つの仮説が形作られてきた。

記憶の風化は人の不完全性がもたらす作用だ。

ある経験の記憶は風化の過程で無作為に不本意な捨象を施され、既に同じく捨象された他の経験の記憶と強引な共通項で結び付けられることがある。

劣化した情報と情報がメタファー観を経て新しい情報を生み出すわけだが、そういう真似は機械にはできまい。

これがいわゆる創造的発想というやつで、それは往々にして偶発的で破天荒なアブダクションの結果だ。

そういうふうに人間的な不完全が“揺らぎ”を生み出し、幾重にも重なった揺らぎの中で新たな可能性が生まれる。

『この風化から発案までの一連の流れこそがアンリ・ベルクソンが「持続」とした概念やチャールズ・パースのdeductionやinductionを絡めたabductionの概念を組み合わせた“時間的な幅を持つ個人のオリジナリティ”だ。』

意識を情報の錬金釜という目で見れば、草薙さんが人形遣いと結合すること自体にも新たなフラクタルを見出せる。


これからしばらく、この仮説を生活の中で検証してみようと思う。



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