せせらぎせらせら

日々思うこと

夜話

2015-07-19 | せらせら

たまりにたまった仕事を後送りにする言い訳を探していたところに、友人Iが大量のビールを持って押し掛けてきた。
普段からお世話になっているH夫妻からお中元として頂いたそうで、それをお裾分けしてくれるということだった。

Iは先日『砂の女』を読み終えたばかりだった。そのため、話題は“砂の流動性”から“年齢ごとの性意識の在り方”などから始まり、何の転換点だったかを経て、humorousという英単語について論じることになった。

まったく、会話というのはどこにどう転がるか分からないが面白い。たいていの話題は何かしらイメージのリンクを伴って次に移行していくものだが、例えば或るイメージを言葉にして発する前に次のイメージへリンクしてしまうことも多々あり、一聴すると唐突な話題の飛躍のように聞こえる。
しかしその実は、発言者の中でイメージのリンクが何段階か行われているだけ場合がほとんどのはずで、実際には話題が突如として空から降ってきたような非連続的であるようなことはほとんどない。
それが起こるのは、その発言者は直前の話題を聞いていたふうでいて、実は適当に相づちを入れながらすでに別のことに思いを馳せていた場合だろう。
それにしたって、こちらが提供した話題が、相手にとっては一聴にも値しない退屈だったということだし、さらにそれにさえ気付かずに話題をさらに展開してしまっていたとすると、果たしてY2Kは一体どちらかということになる。・・・Y2K? 違う。正しくはKYだ。Y2Kはジョン・タイター的なあれだ。
まったく、一世を風靡した言葉というのは、突然持ち出すとそれだけで滑稽に見えるのが面白い。

僕らの話はいくつかそんな非連続的な飛躍を見せながらも、頂き物のビールのお陰で嫌な気分にもならず【humorous】に辿り着いた。
humorousというのは見たとおりhumor(滑稽)とous(…の特性を有する)からなり、wiki先生の話ではこのhumorがhumanにルーツを持っているという説もあるらしい。google先生と一緒に言葉のルーツを探る行為は、ちょっとした宝探し気分で手軽に楽しめるし、言葉遊びの延長で思索の引き出し作りにもなるので、是非オススメしたい。

もし、本当にhumorのルーツがhumanにあるならば、人間存在が根源的に滑稽であっても不思議はない。少なくとも昔の人は、そう感じたのだろう。
このところの民意と国政のちぐはぐさなども、 見ようによっては十分に滑稽だ。もはや笑っていられないレベルに達しているが・・・。

さらに興味深いことに【滑稽】を調べると、補説の項目に次の記述が出てきた。
ー「滑」は「乱」、「稽」は「同」の意で、弁舌巧みに是非を言いくるめること。ー
これを見て、すぐに政治経済の世界に横行する詭弁のイメージとリンクした。 

男は、食べ物がほしいと言う。その男は食べ物の代わりに紙切れをやるという。
金という概念を持たない知的生命体が見たら、いかにも滑稽なやり取りに違いなかろうが、事実、世界はそういうふうに成り立っている。
紙切れと紙切れをタイミングを見計らって交換していくと、紙切れは増えたり減ったりする。
しまいには、紙切れがあるものとして交換するふりをしたりもする。そして、紙切れは実際の量以上にあることになってしまう。
一体なんの手品だ。
一体なんのユーモアだ。
夢が醒めそうになると、足りないからなんとかして補わないと・・・!とあたふたする。

田舎に移住して農業でもやろうかという動きは、そういうhumorousな世の中の動きに嫌気というか胡散臭さを感じる人が増えて来てるってことなんだろうなぁ。
 
紙切れなり、木切れなり、ドロ団子なりにそれなりの価値を持たせてトレードしようというルールそのものはゲームとしては、面白いと思うし、そういう価値の転換なくしては成せないことも多いとは思う。
しかし、そのプレイヤーたちが、ゲームに無理矢理参加させられた人たちの命を容易に左右できるようなことになってくると、正直たまったもんじゃないというのが本音。



行き詰まって頭が痛くなってきたので、久々にブログでも書いて気を紛らわせるか

2014-10-23 | せらせら

農音パンフレットを刷新するにあたって、ヴィジョンを明確にする必要があるのではないか?ということで、これまで漠然としたままでおいていたことを文章化してみることに。

久しく真面目な文章を書いていなかったせいか、書くと言うことのチューニングができなくっているようで、まったく筆が進まない。
筆が進まないという表現は時代にそぐわないね。まったくキーボードが進まない。

言葉を置こうとしても、水に刃物を入れるが如く、斬っても斬っても形が見えてこない。
そうしているうちに、逆に見えてきたのは自分の性質。

やはり水や火や煙のように、形が定まらずゆらゆらもわもわと流動的であることが自分の本懐なのだろう。

インストの音楽や抽象画、舞踏みたいなのがいいねぇ。
刻むにしてもちょっともたり気味に揺れるくらいのビートがいいねぇ。


先に進んでいるようで、停滞しているようで、時間ばかりが過ぎて行くようで、ただ眠いようで……焦っているのか満足しているのかすら分からない。
しょうがないので、2本だけ取っておいたビールを片方開ける。

こんなときに飲むビールは別に美味くもないが、気分は少し落ち着く。
ドーナツが好きなのは丸いからかな?

それとも実体をともなわない穴をアイデンティティとして持っているからかな?
そうだとするとチョコファッションだろうとオールドファッションだろうと構わないはずだが……
都会が好きじゃないのは直線が多いからかな?

それともただノイズに満ちてるからかな。
今朝はイノシシを2頭撃った。
耳元で聞く銃声はノイズなのか。
ノイズの定義って何だ??
夕方、イノシシの足音を探しているときの虫の鳴き声、木々が風に揺れる音はうるさい。

今、外で鳴いている虫はうるさくない。
今、寒いけど、 真冬だったら同じ温度でも暖かいと感じるだろうしな。

こんなときに飲むビールは少し気分を盛り上げるが、美味くはない。
しかもマイッタ。眠くなくなってきた。 
 
明日も忙しいのかぁ…って考えてる時点で、今日はもうオフモード。

さっさと寝るのが得策だろうに。
無意味に言葉を連ねてるとだんだん自分が見えてくるってのに、意味のありそうな言葉を並べ立てても農音のヴィジョンは見えてこない。
いや、見えてはいるんだけど、それっぽい形=人に見せるようなにならないだけか。

岩上くんは言う。
自己満なら人に見せる必要ないんじゃない?

みんさんは言う。
見せるんじゃないんだよ。見られているということのほうが強くなきゃダメだと思うなぁ。 

いろんな考え方がありますなぁ。
なんでgenesisが好きなんだろう?
Phil Collinsの声が好きなだけならソロでもいいハズなんだけどねぇ。
いろんな好みがありますなぁ。

いろんな自分がありますなぁ。
今朝はイノシシを2頭殺したのに、今は自己探求などしている。
笑うしかないね。
寝るしかないね。 

 


こころのかたち

2014-09-17 | せらせら

何かとやることが多い日々。

昨夜は珍しく早めに夕食を取り、寝た。

朝早くに目が覚め。草刈りに行っても良かったのだが、物思いに耽ることにした。

季節はいつの間にか秋。

少し肌寒いくらいの風。蝉の声はもう聞こえない。


数週間か数カ月か。とにかくしばらくぶりに自分と向き合いながら、表現ということについて考えた。

このテーマが自ずと湧いてきたのは、おそらく今の自分に必要なことだからだろう。

そういうことはいつも意図せずとも、自分の中に沸き起こる。

自浄の種は内在していると信じている。

それを見過ごすのは、何かに追われているときだ。

どんなときも、こころのどこかに逃げ隠れする場所は、確保しておかねばならない。


かつて芸術と表現を同義のように捉えていたが、今はそこに違和感を感じるようになった。

今の自分の行いは芸術というにはあまりに稚拙なところまで後退してしまっているように思う。 

そのありのままを文章にして、音でもつければ曲になるかと、書き綴ろうと試みたが、人の目、人の耳を意識するとありのままではいられなくなるので、やめた。そしてここに書き捨てることにした。


表現ということは意識せずとも、24時間やっている。
存在が他者に認識され続ける限り、死ぬまで続く。
寝ていても、誰かに見られればそれは無意識の表現とも捉えられる。
(むしろ、無意識の表出こそ芸術に近いとさえ思う)
先日、仮眠中の動きを他者に観察され、分析された。呼吸や鼓動などの生理的な動きを除外して、まったく意識せず体が動いているということは自分でも不思議だ。
なんのためにその動きをしていたのだろう?
ハトはなぜこんなリズムの鳴き方をするのだろう?

他者を意識して生まれる表現は、ほとんどの場合、認められたいという欲求バイアスがかかっている。
社会の中で在り続けるために最低限ならばそれもありだが、過度なものは見るに堪えない。
あらゆる他者の目を逃れ、認識されないところで滲み出す表出。真実という言い方も妙だが、経験のすべてから形作られるこころの形が、一切の影響を受けず物質としての体に現れることこそ、その人間の真実といっていいと思う。
そういうものを感じ取る感性こそ審美眼だと思う。

こういう解釈をすると、表現と芸術と真実との言葉の重なる部分と異なる部分が明確になってくる。
頭が醒めすぎて、思考が明確になってきたので、もうだめだ。今日はこの辺で切り上げることにする。



日々、社会性とその対極にあるものとの両立を模索している。
NPOとはいえ、代表という立場。ともすると社会性ばかりに気をとられてしまいがち。
一表現者として、そんなもの糞喰らえと公言しておこう。
政治屋や権力者、団体としての動きにとってプラスになる人間と嘘臭い笑顔で取り繕って話しはするが、本音では外交などどうでもいい。芸術至上主義であることが自分の本懐だ。


新しい角度

2013-07-29 | せらせら

どこかの島だったと思う。
もしかしたら山際の町だったかもしれない。
とにかく集落の外れに古い洋館があった。
4、5階建ての外観は灰色の石詰みで、黒い窓枠から曇ったガラスを覗くとかつて使われていたであろうソファやテーブルがそのままの位置でホコリを被っていた。

ある日、洋館の前を車で通ると、3人の男たちが中で何やら作業をしている。
取り壊すための片付けか、あるいは改装して何かに使うのか。
いつかカフェにでもできないかと密かに狙っていた僕は、ちょっと残念な気持ちになったが、同時にその洋館がどうなるのか興味が湧き、男たちに話かけてみることにした。

男たちはみな外国人だったので、カタコトの英語で話しかけてみたところ、帰ってきたカタコトの英語から、どうやらドイツ人であることが分かった。
この建物は銀行として使われていた、自分たちがこの建物を作ったわけではないんだ、作ったのは友人の女性で、自分たちはただ友人の手伝いをしているんだ、というようなことを言っていた。
もし捨てるもので使えそうな物があれば譲ってもらおうと思い、少し中を見せてもらうことにした。しかし、ソファもテーブルも壁に掛けてあった絵画も譲り受けるほど好みの物ではなかった。


そうこうするうちに、上の階から一人の女性が下りてきた。
30歳前後の日本人のようだった。特に紹介されることもないうちに、この女性が例の“友人”だな、と思った。

女性は言葉少なに差し障りのない挨拶をし、荷物運びの作業を続けた。
無愛想ではあるが、感じは悪くない。
ただ、興味本位で仕事の邪魔をしにきた男に興味を持てないだけという感じだった。

去り際に残すべき言葉を考えながら、作業を続ける人を眺めている間に、ついでだから上の階も見せてもらおうと思い付いた。

「どうぞご自由に」と、そっけない回答をもらって階段を上ったものの、上の階は吹き抜けの部分がほとんどで、家具の一つもない。

2階、3階、4階と区別の付かない空間が続いたが、続く最上階に着くと景色は一変した。
意外にも、そこには生活空間が広がっていた。

ホコリもなく、奇麗に掃除されたそこはまるで今の今まで誰かが住んでいたかのような状態だ。

なぜ銀行の上に人が住んでいたのか? 考えるほどに奇妙だが、前に住んでいたM市には商業施設の上に公民館があったし、世の中には奇妙なことなんて例を挙げればキリがない。

見てしまった以上、疑う余地はなかった。

広い空間が薄い壁で4部屋に分けられ、書斎、寝室、客間、居間に分かれているようだ。
階段を上がってすぐの客間らしき部屋は、和とも洋ともつかない雰囲気で、それまでの階とは打って変わって庶民的。
すべてがDIYといった様子で、壁や窓枠など細かいところに粗が見て取れる素人作業ではあるものの、置いているオブジェや壁などセンスは僕好みだ。
自分の家もこういう風にしたいものだと感心し、学べるアイデアがあれば盗んで帰ろうと、俄然興味が湧いてきた。

続いて寝室を覗いたところで、驚いた。
雑然とした雰囲気の中に一人で寝るには少し大きめなベッド、冴えない柄のカーテン、手作り感を全面にたたえる机、ホームセンターにでも売っていそうな安っぽい本棚……。
それらのほとんどすべてが、配置から色調に至るまで僕が幼い頃に住んでいた部屋と酷似していた。
こんなことがあるんだなぁと思った。

下の階から上がって来た女性に、なんだか懐かしいなぁ~という言葉を皮切りにありのままの感想を伝えると、女性も驚いたように僕の言葉に耳を傾けた。
「そうそう! 僕はここに置いていた水槽に熱帯魚を飼ってたよ、ここのは金魚だけど」「ここも似てる! ここに同じように工具箱を置いてて……」「このステッカーの位置に、僕も似たようなステッカーを貼ってたよ~」
女性は相槌を打つばかりで、自分からはなにも話そうとしない。
ただ興奮気味に僕の口から飛び出す言葉を微笑み交じりに聞いていた。
少し好き勝手に喋りすぎたと感じて言葉を止め、それとなく彼女の話に話題を切り替えた。
芸術家だが、職業にするほどではなく、今はまちづくりのプロジェクトを進めているということだった。
以前はこの部屋に住んでいたが、最近は忙しく海外を飛び回っていて、ゴミを減らす活動に特に力を入れていると語った。
「タバコも、巻きタバコに換えるとそれだけでゴミが減るんですよ」と、絵まで描いて説明してくれた。 

最初はそっけないと感じたが、自分の本懐の話になると驚くほど熱っぽく喋る。
そして内容はどうあれ、その姿には好感が持てる。 
話をしながらかける音楽も昔、僕が聞いていたようなものばかりで、話の途中に「うわ、これも懐かしいな~」などと挟みながら、彼女の話をたくさん聞き出した。
机の引き出しからおもちゃの拳銃を取り出し、「実はこういうのも好きなんです」と言い始めたときには、名前も聞いていないこの女性に、もはや他人とは思えない親近感を覚えた。
「ならホンモノの鉄砲も持っちゃえば? 僕は猟銃免許を取って、狩猟もしてるんだ」と話すと、すでに持っていると言って、別の部屋へ案内され、猟銃も見せてくれた。
まだ実際の狩猟はしたことがないとのことだったが、僕の猟銃にはまだ付いてない肩掛け用のベルトが付いていた。

「いつか一緒に猟に行きましょう」と誘いはしたが、どうやらそれが実現しないであろうことはその時点で確信していた。

遠くでピピピと電子音が聞こえる。
さすがにそこまで来ると、一連の出来事が現実ではないことを僕も悟る。
目を覚ます前に、もう少しだけ……という思いで、部屋の中を見回すと、机の開いた引き出しの中に色褪せた1枚の写真を見付けた。
そこには若かりし頃の僕の両親と小さな子どもが写っていた。
なんでこんなものを持っているの?と問う僕に、彼女は「最近知り合った女性からもらった」と答えた。
他人にもらった他人の写真なら、引き出しに仕舞う意味がまるで分からないが、たぶん嘘なのだろうし、どうせ夢なのだから嘘でもいいと思った。

覚め際に、彼女が口にした最後の言葉は「ありがとう。今日は会えて良かったです」だった。

扇風機の風を足に感じ、PCの前で寝落ちしてしまったことを自覚し、目を開ける前にこの夢を忘れるまいと、夢の記憶を早送りでリプレイした。
そして、思った。
たぶん、あのコは僕の孫とか、もしかしたらもっとあとの世代の子孫だったんだろうなって。
いろんな人からよく言われるけど、なんとなく自分が早死にするような気がした。
(もちろん、それを望んでいるわけではないが)


恐らく、あれは何の意味もないただの夢。
どう解釈するかは自分次第だし、そもそも意味なんてないだろう。
洋館からは使えそうな物は何一つ持ち帰れなかったけど、一つだけ確実に手に入れたものがある。

それは僕の中にこれまでになかった角度。
男であれ女であれ、何世代かあとの子孫の視点から、こんな人の子孫で良かったと思えるような生き方も面白そうだ。


続々と友人に子どもができている。
親になり、新しい立場に立った友人たちと生き方や死に方について、酒を飲みながら語り合いたい。
20代の頃に、よく夜を明かしたように。
それらが、ひどく自分勝手な美学に満ちたものなら、なお好い。

 

 

余談だが、目覚ましは僕のものではなかった。

そして、夢を打ち切りにしてくれた目覚ましの持ち主である同居人からは「きっと未来の子どもが『先祖と話せるチケット』を手に入れたんでしょうね」と冗談めいた感想をもらった。
本当にそうだったらいいな、と思った。

でも、そんなものがあるなら、むしろ『子孫と話せるチケット』が欲しいね。
なんにせよ、「ありがとう」と言われるような生き方をしよう。
 


どすこい!

2012-11-18 | せらせら

30歳になる直前に「夜明け前」をパロって「三十路はすべて闇の中である。」とブログだかSNSだかに書いたような気がするけれど、ここにきて1日のスケジュールさえも闇の中です。
人生はインプロヴィゼイション。
あらゆる瞬間にときめいちゃいますね。

ふは


本来どういう形だったか

2012-09-21 | せらせら

本来どういう形だったのか分からないけど、愛おしいものとかくだらないものとかに複雑に、かつ狡猾に絡め取られていった、あるいは削り取られていった結果として今があるとして、それはそれですごく気に入っている。

 

本来どういう形だったかわからないけど、それを模索する行為がすごく気に入っている。

 

本来どういう形だったか。

音に埋もれながら、友に囲まれながら、酒に呑まれながら、言葉で遊びながら。

たまには本と末が転倒して、手段が目的になってもいいのかもしれないね。

 

とりあえず、ありがとうございます。

生きることが楽しいのは、愛おしいものとかくだらないものとかのおかげだと思う。

 

 


見せるということ 見られるということ

2012-08-22 | せらせら

このタイトルは舞踏家・田中泯さんの言葉を引用したもの。

おそらく、ご本人の解釈とは大なり小なり異なるとは思うが、自分なりにこの2つを意識していこう。

 

人と関わり合う部分とは、自分という存在の一部分に過ぎない。(同時に、全てとも言えるわけだが)

あ、ドーナツを冷凍庫に入れてたの忘れてた!

過去を顧みながら、食べよ。


開けゴマ

2012-08-22 | せらせら

かつて「僕は今、開いているよ」と歌っていたボーカリストがいた。

ほぼ間違いなく彼は今、閉ざしているだろう。(彼はそういうヤツだ。)

 

昨夜、海のそばのコンクリートの上でバタ足をしてみた。

足の甲が痛かった。

 

そしたら開いた。

 

自分でも気付かないうちに、しばらく閉ざしてしまっていた部分があったらしい。

そこに閉じ込められていたものが吹き出した。

 

そしてどっと疲れた。いや、そもそも疲れていたのだろう。

そのことに気が付いただけなのだ。

 

そういうの大事。

とっても大事。

 

いろんなことを試そう。

自分を、そして世界を知るために。


分けることで明確にするのは下世話ではあるが……

2012-08-22 | せらせら

お~。久々に家に大友さんと2人っきり。

なにか静かだ…(笑)。そして、なぜか特に好きでもないシアターブルックの動画などを見ている。

バンドっていいなぁ。

 

 

農音のHP用に島生活ブログってのを新たに開設したので、このブログの意味がより明確になった。

エネルギーを外へ向けようと思えば、それと同量のエネルギーを内へも向けねばバランスが保てない。

さて、久々に、ぼちぼちとりとめもないことを書こうかね。

 

う~む。久々過ぎて、言葉のリズムが掴めない。。。


なんてこった……

2012-07-04 | せらせら

僕はいま島の柑橘加工工場で働いている。

柑橘加工工場と書くとカタカナのエが2つ並んでるようで、じっと見ているとナントカ崩壊を起こしてしまいそうだけど、要するにみかんでジュースとかジャムとかを作っているのだ。

この島には若い人が少ないので、パートのおばちゃんはもちろん、パートのおばあちゃんも貴重な戦力。昨日は70歳過ぎのDさんと一緒に働いた。

事は出勤したDさんが、「よう雨が降るな、ササホーサ」と言ったことから始まる。

その瞬間、僕はどこか外国にでも来たかのような錯覚に陥った。目の前のおばあちゃんが何を言ったのか、まったく理解できなかった。

「え、今、なんて言ったんですか?」

「よく雨が降るねぇ、ってことよ」

「違いますよ! そのあと!!」

「ササホーサ?」

このDさんは、早口な割にボソボソとしゃべるので、普段から聞き取れないことが多い。しかし、今回は違う。確かに何か理解不能な言葉を口にしているようだった。

ササホーサとは一体何だ?

まるでメキシコの地名か、ドラクエの呪文のような響きだ。

ワラの丸まったようなやつが風で転がる荒野、ササホーサ。

風でバリアのように全身を包み、魔法攻撃のダメージを軽減する呪文、ササホーサ。消費MPは2といったところか。

数秒のうちに、そんな妄想が頭を駆け巡った。どちらもシックリ来るけど、たぶん違う。

文脈的に考えてメキシコの地名なわけがない。Dさんがドラクエをやるとも思えないし、そもそもそんな呪文はない。

「なんなんです? そのササホーサってのは」

「ササホーサよ、大変!」

興味津々で尋ねる僕とは対照的に、見るからに面倒臭そうに受け答えするDさんは最後に「もう田中さんの前では、うっかりものも言えんな」と加えた。

僕は、普段なら割と空気が読めるほうではあるのだけど、あまりに奇妙な言葉に直面して好奇心を抑えきれず、さらに食らいつく。

「それ、何語? 島の方言ですか?」

Dさんはちょっとキレ気味に「もう知らん!」と言って、そそくさとエプロンをまとう。

さすがにそれ以上は掘り下げられそうもないので、今度は同僚の若者Dくんに「さっきDさんが、ササホーサって言ってたんだけど、何のことか分かる」と尋ねてみた。

「オオガッソウ」「ソバエ」など、彼とは以前から何度となく島の方言ネタで盛り上がっている。今回も期待通り目を輝かせて話に乗ってきてくれた。

「ササホーサ!? なんすかそれ。聞いたことない。それ、うちのばあちゃんでも使わない言葉ですよ」

中島は周囲20キロほどの小さな島ではあるが、地域によって微妙に言葉が違っていたりするので、おそらくササホーサはDさんの住む小浜地区特有の方言だろうということで決着がついた。

 

 

で、今日のこと、試しに「ササホーサ」を検索してみたら、……なんと、出ちゃった。

「無駄に消費する、粗末にする(多摩地方の方言)」って。

なんで多摩地方やねん!!(笑)

しかも「よく雨が降るね、無駄に消費する」って意味が通らんやろ!

 

なんかめちゃくちゃ惜しいけど、たぶん違う。これじゃない。

でも間違いなく近づいてる気がする。

もしかして平仮名?

そしたら、また出た。

ささほうさ [形動]だいなしにするさま。めちゃめちゃ。

よく雨が降るね、(服が)めちゃめちゃ。……キタ、これだ!

しかも、平仮名の「ささほうさ」は方言ですらないらしい。

 

なんてこった……。僕がものを知らなかっただけじゃないか。反省。

今度Dさんに会ったら、ちゃんと謝っておこう。

こないだは気分をささほうさしてしまってごめんなさいって。


遺憾

2012-05-25 | せらせら

「ほんとは○○したいんだけどね…」って発言を聞くと、やりたいなら早くやればいいじゃん、と思う。

やらないんなら、その“ほんと”はウソなんだと思う。

死ぬときに「あれやってりゃよかったなぁ」なんて思ったらヤじゃない?

俺はイヤだ。

 

惰性で生きて、惰性で老い、惰性で死ぬなんて、考えただけでもゾッとする。

ま、ラクはラクなんだろうけど。

 

ごめん。言い過ぎた。幸福の形は人それぞれだよね。

最近、頭が固くなってイカン。

 


あるべきものをあるべきところへ

2012-05-24 | せらせら

自分ではほとんど使わないけど「ぱねぇ」って言葉がかなり好き。

「半端じゃない」→「ハンパない」→「ぱねぇ」

う~ん、無駄がない。

言葉のアイデンティティを損なうことなく、ここまで簡素に表現できるとは。

お見事。

誰が言い始めたかは知らないけど、引き算で創造するのは大事だと思うし、過不足ない状態ってのはそれだけで美しいと思う。

 

「ぱねぇ」。ふつーに辞書とかに載って欲しいもんね。

例えば、お茶の席で「結構なお点前で…」の代わりに「ぱねぇ」と言ってみてはどうか。

国会で子供のようなヤジを飛ばされたら「あんたら、ぱねぇな」と返してみてはどうか。

 

使い古された行為や言葉は、どうしても形骸化して本来の意味を失ってしまう。

そこに新しいものを置くことによって、場が彩りを取り戻すのであれば、その行為はもはや芸術と言っても過言ではないと思う。

こと言葉には、常にそういうふうに呼吸していてもらいたい。

 

古いものの良さ、新しいものの良さ。

島崎藤村的に考えると、恐らくどんな言葉よりも「ぱねぇ」がはまるシチュエーションというものがあって、他の言葉では置き換えることができない唯一無二の効果をもたらすことができるはず。

人も言葉も、そういうところに置くことで、本当の意味で生きることになる。


よがり

2012-05-22 | せらせら

『宇宙戦争』って映画があるじゃないですか。

あれ、昔あった映画のリメイクらしいんですね。

僕はスピルバーグ版のほうしか見てないんですが。

宇宙人がいきなり現れて問答無用の殺戮を始めるわけですよ。

その圧倒的な科学力の前に人間はなす術なし。

巨大なマシーンから発射されるレーザーで粉みじんに消されちゃうんです。

理屈が通じない相手って恐いな~って思います。

 

名もなき草その1「おはー。今日もいい天気だね!」

名もなき草その2「おはーってお前、古くね? あ、やべ。今の風、超やべー。スガスガしい! やっぱこの時期は朝が最高に気持ちええわ」

名もなき草その3「ちょっと、アレ見て。なんか来たよ。なんか手に持ってる……。え? ウソ!? やめろって!! おい、やめ……ギャース!!」

名もなき草その1&その2「ギャース!!」

大量殺草鬼・U(俺のことね)「ふ~、朝の労働は気持ちがよいゼ。やっぱ田舎暮らしはこうでなくっちゃ! 東京のヤツらも早く来て、こういう健全な汗を流すといい。これで帰ってシャワーを浴びれば、ストレスなんか全部流れていっちゃうってもんよ」

 

いきなり鎌を持って現れ、バッサバッサとなぎ倒していく人間。

 雑草にとっては、人間も同じなんだろうな~って思う。

 

なるべくなら、除草剤を使わずより人力に近い形で、やっつけてやるのがせめてもの誠意。

装備を全部外して、素手で殴り合うプレデターみたいに。

当然、殺るからには殺られる覚悟も必要。そのうちM・ナイト・シャマランの『ハプニング』みたいに、草たちに逆襲されても文句は言えません。結局、『宇宙戦争』でも宇宙人たちはウイルスにやられちゃったしね。

あと、名もなき草呼ばわりするのも失礼な話なので、近いうちに野草事典でも買おうかと思ってます。

ま、全部自己満です。

 

どうあがいても僕には「殺す」行為を正当化は出来ません。

俺の欲求のために死んでもらいますとしか言えません。

罪悪感が残らないように、「誠意」などという言葉を使ってみるも、つまりは道化でしかありません。

 

同族を殺せば世間から責められるのに、他の種族はいくら殺してもほとんど責められない、害虫や雑草に関しては殺さないと周囲の農家さんから責められる始末。

人間社会はひどく独りよがりだ。

 

それでも、分業化が進んだ都市部で殺すことを知らずに生きていくのもアレなので、田舎でそういう生の経験(草だって刈れば、血に相当するものを流す。泡を吹くやつもいる)をしながら生きるほうが性に合っています。

自然界には生も死も無数にある。自分自身もその1つに過ぎないことを肌で感じたい。


分からない…

2012-05-21 | せらせら

—前略

礼奈「結局、ユウは私のこと、何も分かってない…」

俺「そんなことない、分かってるって(棒読み気味)」

礼奈「じゃあ、私が今1番欲しい物、何だか分かってる?」

俺「(きた。厄介な質問。しかしコレを外すと更に厄介な事態を招くことは必至!!)……指輪?」

結婚したときは、そんな束縛の象徴のような物をわざわざ身に付けることはない、ということで納得してもらい指輪は買わなかったものの、先日の妹の結婚式を見て、やはり欲しくなったのだろうという読みだ。

しかし、礼奈の回答は意外なものだった。

礼奈「やっぱり! 全然分かってないね。答えは『ミキサー』よ。私がどれだけ健康志向か、知らないでしょ! 毎朝、野菜やフルーツをミックスして飲みたいの!!」

俺「分かるか!! っていうか、そんなん欲しいならすぐ買え!!」

 

分からない。女という生き物が分からない。

分からないから、分かり合おうとする姿勢が大事なんだと思う。

僕らはそれを愛と呼べばいいんだと思う。

 

でも、愛があっても、この質問には答えられないと思う。

だって、どう考えても「指輪」だろ、ふつー。