せせらぎせらせら

日々思うこと

煙の哲学

2008-01-30 | せらせら
いろんなものが形を変えながら風を切っていく世界に僕は生まれた

だからこそ 目を開けることができたし

だからこそ 耳を澄ますこともできたのだろう


いろんなものが転回しながら時を超えていく世界に僕は生まれた

だからこそ 大地に立つこともできたし

だからこそ ゆらりたゆたうこともできたのだろう 


いろんなものが曲線に連なって響き合う世界に僕は生まれた

だからこそ 孤独を楽しむこともできたし

だからこそ 愛することもできたのだろう



星のまだたく寒空に煙草を吹かしたら惜しみもなく融けていくのは

きっとそのせいに違いない

日曜日は掃除をしよう!の巻

2008-01-30 | せらせら
部屋は鏡 片せばすっきり

夢は掃除 醒めればすっきり


というわけで・・・
部屋が荒れてんのに理路整然と生きようとしても無理な話。
生きてれば埃は溜まるし物は散らかる。
散らかった経験はちゃんと眠って整理してやらないと。
夢占いの本を買うよりは部屋を見渡したほうが自分ってものが分かり易い。
手に取ったり身に付けたりしてもテンションが上がらないものは捨てると誰かが言っていたとギター弾きのジャンが言っていた。
残念ながら昔に大切だったものが今も大切とは限らない。
そんな切なさを噛み締めながらテンションメーターを確認しつつ掃除すれば必要なものは案外と少なかったりする。
要るものが要るだけあれば人間はもっとスマートになれる。(←なんの宣伝文句だ。笑)
安らかに現から解放されれば頭もスマートになるってもんだ。


それにしてもナポリは大変なことになってるらしいな。
どーすんだあれ。

ぷは

2008-01-30 | せらせら
食べるよね?



食べたものから体はできてる。

経験したことから精神はできている。



もし食べてなかったら?


外部から全く入力せずに存在できたと仮定して、自分の本来を見極めようとすると、どうやってもそれは「0」でしかない。ニヒリズム恐るべし。

しかし0を主体としたら入力も何もあったもんじゃない。

どうなってんだ。




とにかく基本的には明日以降の自分は最近経験したモノの出力です。





日々をおろそかにするなと一人で思っただけで、それはおろそかにしている自覚のなせる業です。

布石

2008-01-30 | せらせら
誰しも何度となく経験があるだろうけど、「このためだったのか!」感嘆してしまう経験が繋がって複数が一つになるとき、やはりグルーヴが生まれる。
体の力を抜いていくと、自分の周辺には素晴らしいグルーヴに溢れていることに気が付くね。
音楽のように無意味にジャンル分けするのであれば、その時に感じるグルーヴ感がその人のジャンルを確定する要因になる。
つまるところ、夢に出てきたロングコートの女性は「ダンス系」なのだろうね。彼女はあらゆる自然の中を踊る田中さんと同じ種族なのかもしれない。
本当は誰だってそうなのかもしれない。

布石の連続によって辿り着く先は誰にとっても「死」ということになる訳だが、最後の刹那に「嗚呼、総てはこのためだったのか!」となれば、かつて経験したことのない最高のグルーヴが得られるだろう。そしてその刹那は文字通り一瞬であり永遠でもあるだろう。死は内的な時間軸の崩壊でもある。

そういった考えを持っていればこそ、「夜ごとに飛ぶ薬鑵」や「ウラにバスドラを入れる難しさ」など一つ一つの石ころを愛さずにはいられないのだ。

今日も煙は風に乗って融けていくようでもありました。



こんな夢を見た。

2008-01-30 | せらせら
紅くて重いドアは調子が悪く、微調整を繰り返すが開け閉めがうまい具合にいかない。が開けられないワケでも閉まらないワケでもない。それはひどく無機質な問題だった。
そしてMSMWのライブに心酔していた。大勢の中からロングコートの女が「ダンス系だね。」と言った。違うけどそうだなと思った。大勢の誰も知らないが彼女は踊り子としては超一級だった。
そしたら小さいぼさぼさ男と大きい坊主頭の男が口論していた。内容云々ではなく解り合えないことにイライラしている様子だった。それは解り合いたいという証だよと第三の目はほくそえんだ。大きい男と小さい男は別々に同じ家に帰っていった。
そしたら、のっぽの男がきらきらした悩みを満面に湛えて自慢を始めた。その眼輪や鼻腔周辺の緊張が真実を力強く物語っていた。これは珈琲の甘さと同じ種類の甘さだなと思って缶のコーヒーを飲んだがコーヒーはやたらと甘かった。彼の自慢話はやたらと美味かった。
そしたら、愚痴を言わずには生きられない女が「珈琲が苦い」と言った。違うけどそうだなと思った。彼女はまた「夜が暗い」とも言うだろうか。そしたら僕はちがうけどそうだなと思うだろう。


そうやっているうちに煙がいつのまにか地面を離れていつものあたりを漂う気配だけがあった。


データ解析

2008-01-28 | せらせら
ブログを書くことは当然ながら自己精神診断の意味も兼ねているが・・・
今日はやたら荒れているようだ。
実際、一昨日あたりから食欲と睡眠欲と性欲のうねうねした塊みたいなモノが自分の中に在るのは感じているが、その原因が全く見当たらないのが不思議だ。
ただのリズムのせいか?
理解不能の変拍子も当たり前に起こるほうがダダイストっぽくて良いけど、それにしても普段はある程度は制御できてるのになぁ。
なにかがおかしい。

花、咲いてる?

2008-01-28 | せらせら
果てに咲いているのがどういう花かってのが実はもの凄く重要な意味を持っていて、それが艶やかであれば嬉しいがそんなはずはないと疑うだろうし、それが日陰草であればやはりと切なさが溢れる。

どっちにしても花は毎日のように形も色も変わるのだから、いつも何かが咲いているだけで十分だ。

そう考えると、いきなり文頭の部分を否定することになるが、“どういう花か”が重要なんじゃなくて“花が咲いているか”に意味があることになるな。

まーいーや。

ワッカ

2008-01-28 | せらせら
小春のところはぽっかりと温い

長く居るには腐りやすい


木枯らしのところはつんつんと痛い

長く居るには悲しい


ぎらぎらの太陽は魂の燃えるところ

短く燃え終われば灰が残るだけ


木の葉のかさかさ聞こえるところは心もかさかさ鳴る

長く聞くにはあまりにかさかさだ


巡るところに根を張って

巡るところに芽を出して

巡るところで風に吹かれ

巡るところに種を落とし


巡るところに帰っていく


どこにも長くは居られません。

どこにも長くは居られません。

巡らなくては居られません。

第三のプラン

2008-01-28 | せらせら
簡単に言うと「寒いならば寒さになってしまえばいい」という【PLAN B】(2007/1/8参照)は実践の中でダメージが蓄積し、後日、体調不良を引き起こす危険性が指摘され所詮人間はそれ以上にもそれ以下にもなれないという現実を目の当たりにした結果に終わった。

今回、新たに提案するプランはより実践的に、「Be(成る)」ではなく「Change(変える)」手法によるポジティブシンキングです。

外部からの負のエネルギーを正のエネルギーにChangeしてしまう大技。


説明しよう・・・
【PLAN C】とはッ!!

ものごとはすべからく空(くう)である、というインド的な思想に基づいて、その根底にある人間の不確実な性質を逆手にとって最大限に利用し、受けるダメージを喜びに変換してしまう精神論である。


具体例を挙げよう。

外は肌を刺す寒さ。
あ~ヤダヤダ。

いや・・・、まて。
本当に嫌だと、全面的に嫌だと言い切れるか?
俺は本当はどこかでこの寒さを欲していたのではないか?
寒いのが本当に嫌なら全てを差し置いてでも、家でぬくぬくと布団に包まってりゃあいいんじゃあないのか?
外出してるってことは本心の部分ではこの苦痛は俺自身が望んだものではないのか?
仮に苦痛が全く無ければ、そこに生きている感覚があるだろうか?
谷あればこその山じゃないか!
だったら、この寒さは俺自身が生きるために望んだもの。
望んだものが得られようとしているのに文句を言ってどうする?
逆だ!
全神経をもって皮膚の表面に降りかかる苦痛を感じ取らねば、意味がないじゃないか!!


・・・と、まぁこういった具合に自分の思考を煙に巻いてやって、感覚の錯誤を引き起こすワケです。
ミラクルフルーツの思考版と考えれば、分かりやすいかな。
そういうのもゆとりの為せる技ですが。

悪く言ってしまえば、どうせ人間は馬鹿なんだからコロリと騙して全部ハッピー、オールOKで済ませてしまえばいいじゃないってことです。

穴の中 同時に 枠外の存在

2008-01-28 | せらせら
肉を喰らえば硬く身は固形化され、漂う煙は地に堕ちる。

喰うという行為がこの下賤な足を地に接しめ、人を人で在らしめる。

博愛の涙を流しながら命を喰らいて高々と笑う人たち。

その一見矛盾とも感じられる行為をごく自然にこなさなければならない。

人間はとても難解な生き物だ。


ともすれば時を折り、人間を演じ続ける自身を失いそうになる。

そういう瞬間には、自分も確かに穴の中で見えなくなってしまう牛や馬と変わりないような錯覚が僕を襲う。

バンド

2008-01-26 | せらせら
自分の知っているバンドと言うと、それは所謂「ロックバンド」だったり「ジャズバンド」だったり、人数は多くてもせいぜい5~6人編成。
去年から参加しているスカバンドに「マーチング出身」を肩書きに持つ男がいて、僕の世界を少しずつ押し拡げてくれつつある。
要するに他ジャンルの開拓ということなのだが、“畑”とはよく言ったもので、まず耕して種を蒔かなければ芽は出ない。
音楽で言えば、よく解らないまま聴いているうちに徐々にそれを聴く耳が出来てる。
幾つかフレーズなり曲なりを拾っているうちに、自分の中からそれっぽいものが出てくるようになる。
それでようやく一応の畑が出来上がるワケだが、それから・・・
ちゃんと収穫できるかどうかは努力次第。
それで生計を立てられるかどうかは運次第。
大空に羽ばたけるかどうかは才能次第。
といったところか。



話を戻そう。(ケンジさんに捧ぐ)

マーチング出身のラッパ男a.k.aボッチが豪語するところによると「アメリカの歴史を知りたければ、ハンバーガーを喰うよりドラムコーを聴け!」とのこと。
それほどに“ドラムコー”と言うものはアメリカの文化に密接に関係したものらしい。
「ドラムコー??マーチングじゃないの?」と8割ぐらいの人は3つ4つ“?”マークが飛び出しそうな話の流れです。
?・即・wiki!!(悪・即・斬ね)
(まぁ、最近は便利ですね~、Wikipediaで大抵のものは輪郭が分かる。Wikipediaで得る知識は危険だと言う人もいますが、妄信せず一つの角度として捉えておけば大丈夫かと。)

しかしあくまで知識は知識。
DVDを借りて見てみても、体験と言うにはちょっと遠い。(かなり興奮してしまったが・・・笑。)

百聞は一見に如かずってことで
来月、ドラムコーを観に行ってきます。
何かしら種を蒔けるかな。

今から楽しみだ。

1006 不知

2008-01-25 | せらせら
憧憬に溢れた目で暗がりの中がキラリと光る欠如に次ぐ欠如がそこかしこを希望で満たしている。

そうでなければもう既に何周目かのCDは止められているはずであった。

新しく枠に入ってくる5の5という人間を憧憬で、枠から消えていく5の5をやはり憧憬で送り迎えせねばこの街はピンと張ることもくたらっと弛むことも、筆を執ることすらならないまま日が暮れて水溜りは白く凍る。

我、関せずといった面持ちで世間を盗み見たり、口笛が吹けない振りを真剣な眼つきでできない人達が歩いていた。

届けられた荷物には見知らぬ荷送人が記されていた。



もう印象すら残っていないような、それでいて手の爪の形だけは覚えていたり、浅い地中に潜んでいる孵りきらない世界に重石を載せていくことには罪の意識がない。

そういうもののほとんどが、かつて誰かに載せられた重石によって押し潰された世界に取り残されてきたのだと思うと、それらのために流す涙はどうしても生温く感じられてしまう。

だから外側から裏側を突付かれたときの人の目は誰よりも雄弁に人間の曖昧さを語る。

結局、脆い魂を入れるにはそれなりに屈強なケースがないと隙間から漏れ出してしまってケースのほうばかりを大事にしてしまうことがないとも言い切れない。




愉快な音楽が鳴っているとき、その音が届いていく先でいつも誰かの鼓膜を物悲しく震わせてしまうと考えると、先ほどの境界線のことばかり頭に浮かぶ。

時ばかりが過ぎていくような妄想に安らぎを求めては、不意に新しい枠組みをくみたて始めたりして、仕舞いには妄想も枠組みの中に収めようなどと次から次へと企んでいく。

穴に拒絶されたり、穴の中で見えなくなってしまったりするものが蔓延してしまっている街の中ではいろんなものが目を閉じて歩いているが、瞼の奥にどういった種類の光や鱗を隠しているかという想像は案外と難しいことではないようにも思える。

時間と手間をかけたなかなか姿を見せない形が2番目とか3番目に見つけられた時の喜びは下手を打つとそれが1番大切なもののように感じられてしまうのだから恐ろしい。

が、ほとんど人が通らない道に落とし穴を掘ってただ遊んでいるのだとしたらそれを茂みの中で見ている目を思うと愉快でもある。

それを見る目をまた見る目もあるのだろうかと。

世界はなぜ変動を常とするのか。

2008-01-25 | せらせら
外から帰ると部屋が少し暖かい。
そのまましばらくするとその部屋を寒いと感じ始める。

朝、布団からぬくりっと這い出るとき部屋はやたらと寒い。
熱いシャワーを浴びて熱気を纏ったまま髪を乾かしているときは部屋の温度など気にもならない。

実際はどの時もさほども室温に違いはない。



この現象は「色即是空」と言えば聞こえがいいが、根本的にはもっと単純に「人間はひどく曖昧な生き物だ」というところに起因する。

私やあなたが人間である以上はあらゆる賛美、あらゆる侮蔑、あらゆる形容が人間との相対に置かれざるを得ない。

ここは曖昧なものと相対関係にある世界。

或る人にとっての絶望の絶壁から身を投げてしまう状況は、また或る人にとっての日常であったりする。

また或る人に対するはろーは、別の或る人に対するばいばいであるかもしれない。

そういう一連の不確かさを感覚として身につけている人とそうでない人の間には一つの境界線がある。皮肉にも奇妙なほど確かな境界線が。