せせらぎせらせら

日々思うこと

はや 日も暮れぬ

2008-12-29 | せらせら
別段 区切る必要もないが

10年を一区切りにしたら

次の10年で僕はいろんなものを失うのだろうねぇ

そうするうちに慣れてしまうのだろうねぇ 失うことに

そうしたら もう僕は気付きさへしない

もう僕は気付きさへしないのだろうねぇ

次の10年が終わる頃には

僕は盲目であることにさへ気が付かず  

美味い美味いと息巻いて 肉を喰っているのだろうねぇ

しからずんば・・・

2008-12-28 03:59:37

2008-12-28 | ぎらぎら
たぶんルーティンワーク中ってのは、脳のどこかが睡眠時に似た状態になるんだろうなぁ。
ただ、確実に睡眠時よりは活性化してるので、情報整理の結果得られるものがより現実的なんだろうと思う。

天啓にうたれるというか「あぁ、そうか、そうだよね。」と、特に謎でもなかったことがひとりでに氷解する。
そういうことってけっこう頻繁にある。
シャワーを浴びてるときとか掃除してるときとか。

『「ありがとう。」という気持ちです。』
いつだったか、実家がお寺だという知人に不躾に「仏教とは何だ?」と尋ねてみたとき彼はそう言った。たしか即答だったと思う。
へぇ、なかなかいいことを言うじゃないかと思った。(←凄く上から目線だけど、それが俺だ。)

で、ついさっきEstの掃除しながら(笑)、こう考えた。
(そういえば漱石扮する画工も「山路を登る」というルーティンワーク中に天啓を得ていたな。山路ってのは人生のメタファーだったのか。)
っと、話が逸れそうになった。
とにかく、掃除をしながらこう考えた。
固執すれば苦痛を生む。
世の中は大概思い通りには行かない。
そうだったらラッキー!っていう風に考えれば、そうじゃなくても痛みもない。
しかし、苦痛を回避するように生きるだけでは、ちと消極にすぎる。
仮に人生が軸より下の部分だけで賄われているようでは、死は救いでしかない。
それではあまりにも惨めだ。
より攻めの生とは幸福に向かうことだ。
ラックを掴み取ることだ。
つまり今がすでにラッキーな状態であることに気が付くことだ。
後にも先にも身に降りかかる全てのものに「ありがとう」という気持ちを持つこと。
まさに彼の言った通りだ。
自分の死もまたありがたいものだ。
そう考えたとき、俺は、いや!これだけは決して“ありがたいと思いたくはない”ものにぶち当たった。
「大切な人の死」。
このパラドックスに仏教はどう決着をつけているのだろうか。
今度、誰か造詣が深い人に聞いてみよう。

ところで、最近は静寂が含蓄するものをどれだけ掘り出せるかというネクラな趣味に没頭している。
本当に美しいものは静寂の中に潜んでいるような気がしてならない。
無音てことではなくて、精神的な静寂のことね!幽玄って言ったほうが伝わり易いか。
妙に幽玄の美に魅かれてしまう年の暮れです。
クリスマスだ忘年会だと浮き足立つ大衆と対比して際立つ閑雅に、独り恍惚するような暗い人間になってしまいました。
「これじゃイカン!馬鹿みたいに酒呑んで騒ぎたい」と「ただ静けさに呑み込まれて安らかに眠りたい」のアンビバレンス。
あらゆる猫的な。・・・か。

プロパガンダ

2008-12-26 | ぎらぎら
表現には二種類ある。

一つは発散としての表現。
もう一つはコミュニケーションとしての表現。

僕がそうだったのだけれど、若いうちはその二つがごっちゃになっているように思う。(まだ20代だぜ!)

前者はいわゆる自己満足の領域なので、その内容やディテール、クオリティなどは本人以外の人にとって特に問題にならない。
虚空に吐き出して自分が満足すればそれでよい。
満足するまで突き詰めればよい。
もちろん迷惑を被らない範囲内なら、他人が横からとやかく口を挟む必要もない。

一方、後者の表現は感受を必要とする。
コミュニケーションにはまず“意思疎通を図ろうとする意志”が不可欠になる。
それは関心や好意、強度のものになると愛と言ってしまってもよいと思う。
“意志疎通を図ろうとする意志”じゃ長ったらしいので、「ウトゥワスカラプ」の語を宛てておこう。(結局、長い・・・。)
ウトゥワスカラプは不可欠な上に、とても有り難いもの。
一度失われると取り戻すことは非常に困難である。
もし誰かからウトゥワスカラプが向けられていると感じたときは、それに報いるべく配慮と努力、細心の注意をもって対峙すると良いかと思う。それが優しさだと思う。

コミュニケーションとしての表現は作品を介して為されることが多い。
しかしながら、コミュニケーションの究極的な目的はあくまで自分と相手の中に同じ風が吹くことにある。
あくまで作品は媒体に過ぎないのだから、極論を言ってしまえば作品を評価する目安はその伝達力だけ。
テレパシーみたいなもので何物にも置き換えられないような感動を意識から意識へ直接伝えられれば、もはや作品すら必要ない。
舞踏などがそれに近いところにある表現手段だ。

したがって、センス(感性)やスキル(技術)の不足で作品としては多少稚拙であっても、コミュニケーションの両端に在る二者を一つの明瞭な風が吹き抜ければ、それは素晴らしい表現だということができる。
その風が心地好ければなお良いし、もちろんウトゥワスカラプを喚起するような意匠が散りばめられた作品は文句無く素晴らしい。

とにかく、表現にしても感受にしても、スキルとセンスの研鑽を怠ることは稀有なウトゥワスカラプを無力化することに繋がる。
果てはコミュニケーションブレイクダウンだ。
孤独の蔓延した冷たい世界だ。
それが現社会だ。

より高度なスキルとセンスでウトゥワスカラプが最大限に活かされれば、きっと世界はもう少し平和に向かう。

もっと自覚しよう。
人はみな表現者であり、また感受者である。
時には存分に発散としての表現をして、あとは形やモノに囚われずコミュニケーションとしての表現をもっと自由に愉しもうぢゃないですか!
愉しむ努力をしようぢゃないですか!!
(「ぢゃ」ってしとけば全体的にキャッチーになると思っているのは大きな間違いか?)

暴走資本主義が妄信した様々のものが崩れつつある今、なおざりにされていた部分を見つめなおして行きましょうぜ!
ここいらでいっちょ、パラダイムを大幅にシフトしてやりましょうぜ!

wikiより 猫のひげについて

2008-12-24 | せらせら
ひげ
哺乳類のひげは、正確には「洞毛」と呼ぶ。ネコのひげは毛根部分に感覚神経や血管が密に分布しており、非常に鋭敏で、先端に何かが少し触れても感じ取れる。口の周りだけでなく、眼の上、顔の横にもあり、それらの先端を結ぶと顔を一周する大きな円になり、これで狭い通路を通り抜け得るか否かを判断できるので、獲物の追跡、敵からの逃走に重要な役割を果たす(ただし、一部に否定説あり)。顔以外では、前脚の関節付近の裏側にも生えている。長さは若いほど長く、歳をとったものほど短い。ひげは生え変わるが、無理矢理抜くと酷い場合はストレスで死んでしまうこともある。

誰そ彼

2008-12-18 | せらせら

ミルクが静かに広がって、琥珀の液面にうっすらと不器用な白い楕円形を残したま
ま底の方にひっそり息を潜めた。

ソーサーの隅には子供の落書きみたいに気取りないフォントで「マサコ」と書か
れてある。

店内の雰囲気に重ねるようにオーナーであろうマサコの皺枯れた姿を想像し、彼
女がその一生を謳歌するうちにその身に重ねた苦楽とその味わいはどれほど深か
ろうかと考えて、気が遠くなった。

しばらく底に潜んでいたミルクが珈琲に温められて、無数のエノキ茸が伸びるよ
うにゆらりと上昇して再び液面を目指す。

ほんのり混ざり、濁り始めた珈琲がマサコの文字と同じ色になった。

やがて珈琲とミルクがどちらともつかない静かな熱均衡に落ち着くように、見も
知らぬマサコの最期が安らかであったことを、僕は溢れるヂャズに漂いながらに
内に祈った。

そうして今日を生きる者はぷいぷいと煙をくゆらせるのです。

幸福とは

2008-12-17 | せらせら
何一つ特筆すべきことのない日に、降って湧いたように「今日が人生最良の一日なのかもしれない」と思うことがある。

僕に一端の幸福論のようなものがあるとすれば、それは寄り添うタンポポを揺らす風みたいなものなのだろう。

時が来れば、その風に乗って彼の地へ向かうのも悪くないと思う。

純喫茶

2008-12-16 | せらせら
一泊二日の小旅行の行き先を決める際に、その主目的となり得る喫茶店はそうそう多くはないだろう。

昔通った店だとか、決定的な何かがあった場所だとか、そういうこともなく。

今年も行きます。

陰鬱なる街、金沢へ。

チカコさんはお元気だろうか。

何度でも中原中也

2008-12-16 | せらせら
さて何回目の登場だろうか。
僕の青春時代に重要な意味を添えるこの詩。
どうしてそれが捨てられようか。
なんとか繋ぎ留められなかったのか。



月夜の浜辺

月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。

それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
なぜだかそれを捨てるに忍びず
僕はそれを、袂(たもと)に入れた。

月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。

それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
月に向つてそれは抛(ほう〉れず
浪に向つてそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。

月夜の晩に、拾つたボタンは
指先に沁〈し〉み、心に沁みた。

月夜の晩に、拾つたボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?





あああ

2008-12-16 | ぎらぎら
部屋を掃除した。
PCに入ってた写真も整理した。
これで思い出も整理できれば楽なのだが・・・。

ベストな選択の中にある悲しさ。
それがベストなのだと自分に言い聞かせる寂しさ。
それからまた今日がそそくさと昨日になっていく虚しさ。
思い出ばかりが増えて、何かを満たしていく。
冬の風にはいろんなものが潜んでいる。
だから寒い。
カラカラに寒い。

嗚呼。
あああ。

春よ来い。
青くさい喜びの季節よ。
この冷たい季節を早く昨日に押しやって、せめて温かいやるせなさを運んできてくれないか。

The fool

2008-12-12 | ぎらぎら

当たり前にあったものが忽然と姿を消して、後には穴だけが残った。
それは避けようのないこと。
とにかくそうやって、人はいろんな形にあいた穴だらけの世界を生きているんだろうねぇ。
また、それが当たり前の生活になってしまったとき、穴は僕の思惟からするりとこぼれて、忘却の彼方へ置き去りにされてしまうんだろうねぇ。
そして僕は当たり前の生活の中で、きっとへらへらと醜く笑うんだろうねぇ。
今、僕が、いつか当たり前の世界でへらへら笑うであろう自分を嫌悪するように、その自分はこの穴の痛みを恥らいを込めて哂うだろう。
「そう言えば、そんな時もあったな」などと満足気に笑い飛ばすかもしれない。
そして、不意に生活のゲシュタルトが壊れるとき、穴だらけの世界でそれらが穴とも気付かずに僕はこう思う。
「何かが足りない」と。
でもそれが何なのか。
それが分からない。
そんな生き方が時間を空虚なものに変えていく。
そんな生き方をする僕は欠如してしまった欠如を喉に詰まらせるように、ただ漠然と痛む心を携えて悶え苦しむぐらいがちょうどいい。
そんな馬鹿につける薬はなくていい。

傍目八目

2008-12-10 | せらせら
ヒトが知性を以って知性から逃れようとするのは傍目にはひどく滑稽に映る。
それでいて如何にもそれこそが自然(じねん)であるようにも思えるのは不思議だ。
ヒトとは一体何を目的とする者なのか。
どうやらヒトの向かうところは八目よりだいぶ先にあるようだ。

夜に音をたててはいけない。

2008-12-10 | せらせら
夜に音をたててはいけない。
ことさら静かに息を殺して待っていれば、ゆらりくらり。
煙草の煙は形を変えながら、ぼやけていく。そうして消えていく。
外側と内側から同時に浸蝕するように闇夜が僕らを呑み込む。
僕は身を捧げるように寂寥を心地好く充満させながら、また朝が夜の暗さをくだらないものに変えてくれるその時まで。
その束の間を背徳の喜びに従事する。
そして思う。
長すぎた夜が、美しすぎた闇がどれほど多くの命を魅了してきたのだろうか、と。
夜の美を知りすぎた魂の冥福を祈る。
そのために。
夜に音をたててはいけない。


つまみ食い

2008-12-04 | せらせら
使い方次第では、どんな物でも格段に味わいが深まる。
その箸には、柄のところに「metaphor」の文字が彫り込まれている。

その箸使いは極致に達して、きっと、人生は丸ごと美味くなる。

只々、それを求めて、砂を一粒一粒摘み上げてはひねもすエランヴィタる。



大学時代には、真っ赤になるまで唐辛子を入れた肉野菜炒めを好んで食べていました僕も、いつしか石のように硬いパンなどかじっては小麦の味に身も心も満たされてしまうような人間になってしまったのです。

ほおっておくと逃げていこうとするだけの時間の空虚を、徒に箸で突っついてみたり、腹が減れば、つまんで口に入れては、隠れて悪戯をした子供の顔で、くふふふふ、とほくそ笑んでしまうような生き方ではあまりに退廃が過ぎるかと、ふっ、と29歳ぶって悪童を諫めたりするのです。

随分と気味の悪い趣味だこと。笑

なにより、そのような嗜好の人間を恕するだけの容積が、今も昔も社会にはないのです。


2008-12-04 | せらせら
先日、29年間生きてきて初めて人から曲をプレゼントされた。
タイトルは不明だが穴作家に捧げる曲ということだった。
僕の思索が人に影響を与え、そこから作品という形で自分に返ってくるとはね!
これぞまさに僕の求める循環エネルギーですよ。
表現に対して表現で応えるとは彼女もずいぶん粋な女性です。リサイクラーです。
こういうコミュニケーションは本当に大事にしたい。

『咳をしても一人』
に和して
『鴉啼いてわたしも一人』
と詠む。

そういう和の心。

嬉しかったので歌詞だけでも載せておきます。

12/4 NEW!
北亜記子さんのmyspaceで曲が聴けるようになりました。
http://www.myspace.com/kitaakiko

輪になった中ないね
輪になった中ないね
和になった

差になった中が居て
差になった中が居て
和になった

輪になった仲がいいね
輪になった仲がいいね
間になった

差になった中が居て
差になった中が居て
和になった

あちらはこちら
あちらがこちら
あしたはどっちだ
あちらこちら




写真は友人でもあるサイ君が送ってくれた輪のオブジェ。
どこかの結婚式場で発見したらしい。
なにはなくとも幸せな世界への入口に違いない。

2008-12-03 | せらせら
裸足で歩くこと。
地面の暖かさを足の裏に感じること。
地面の孕む危険を肌で感じること。

長い旅路を行くにはやはり靴がいる。
とはいえ、地面を知らぬまま旅路を行くことに何の喜びがあろう。


12月。
人はみな2~3割増しのスピードだ。
川の流れも歳月も、瀬にさしかかれば早くなる。
皆様、急流に足元を掬われないように兜の緒を固く締めて参りましょうぞ!