たまりにたまった仕事を後送りにする言い訳を探していたところに、友人Iが大量のビールを持って押し掛けてきた。
普段からお世話になっているH夫妻からお中元として頂いたそうで、それをお裾分けしてくれるということだった。
Iは先日『砂の女』を読み終えたばかりだった。そのため、話題は“砂の流動性”から“年齢ごとの性意識の在り方”などから始まり、何の転換点だったかを経て、humorousという英単語について論じることになった。
まったく、会話というのはどこにどう転がるか分からないが面白い。たいていの話題は何かしらイメージのリンクを伴って次に移行していくものだが、例えば或るイメージを言葉にして発する前に次のイメージへリンクしてしまうことも多々あり、一聴すると唐突な話題の飛躍のように聞こえる。
しかしその実は、発言者の中でイメージのリンクが何段階か行われているだけ場合がほとんどのはずで、実際には話題が突如として空から降ってきたような非連続的であるようなことはほとんどない。
それが起こるのは、その発言者は直前の話題を聞いていたふうでいて、実は適当に相づちを入れながらすでに別のことに思いを馳せていた場合だろう。
それにしたって、こちらが提供した話題が、相手にとっては一聴にも値しない退屈だったということだし、さらにそれにさえ気付かずに話題をさらに展開してしまっていたとすると、果たしてY2Kは一体どちらかということになる。・・・Y2K? 違う。正しくはKYだ。Y2Kはジョン・タイター的なあれだ。
まったく、一世を風靡した言葉というのは、突然持ち出すとそれだけで滑稽に見えるのが面白い。
僕らの話はいくつかそんな非連続的な飛躍を見せながらも、頂き物のビールのお陰で嫌な気分にもならず【humorous】に辿り着いた。
humorousというのは見たとおりhumor(滑稽)とous(…の特性を有する)からなり、wiki先生の話ではこのhumorがhumanにルーツを持っているという説もあるらしい。google先生と一緒に言葉のルーツを探る行為は、ちょっとした宝探し気分で手軽に楽しめるし、言葉遊びの延長で思索の引き出し作りにもなるので、是非オススメしたい。
もし、本当にhumorのルーツがhumanにあるならば、人間存在が根源的に滑稽であっても不思議はない。少なくとも昔の人は、そう感じたのだろう。
このところの民意と国政のちぐはぐさなども、 見ようによっては十分に滑稽だ。もはや笑っていられないレベルに達しているが・・・。
さらに興味深いことに【滑稽】を調べると、補説の項目に次の記述が出てきた。
ー「滑」は「乱」、「稽」は「同」の意で、弁舌巧みに是非を言いくるめること。ー
これを見て、すぐに政治経済の世界に横行する詭弁のイメージとリンクした。
男は、食べ物がほしいと言う。その男は食べ物の代わりに紙切れをやるという。
金という概念を持たない知的生命体が見たら、いかにも滑稽なやり取りに違いなかろうが、事実、世界はそういうふうに成り立っている。
紙切れと紙切れをタイミングを見計らって交換していくと、紙切れは増えたり減ったりする。
しまいには、紙切れがあるものとして交換するふりをしたりもする。そして、紙切れは実際の量以上にあることになってしまう。
一体なんの手品だ。
一体なんのユーモアだ。
夢が醒めそうになると、足りないからなんとかして補わないと・・・!とあたふたする。
田舎に移住して農業でもやろうかという動きは、そういうhumorousな世の中の動きに嫌気というか胡散臭さを感じる人が増えて来てるってことなんだろうなぁ。
紙切れなり、木切れなり、ドロ団子なりにそれなりの価値を持たせてトレードしようというルールそのものはゲームとしては、面白いと思うし、そういう価値の転換なくしては成せないことも多いとは思う。
しかし、そのプレイヤーたちが、ゲームに無理矢理参加させられた人たちの命を容易に左右できるようなことになってくると、正直たまったもんじゃないというのが本音。