せせらぎせらせら

日々思うこと

本気の不知火

2014-04-02 | ぎらぎら

不知火という柑橘をご存じだろうか?

不知火にはデコポンという別名もあり、むしろそちらが一般化しているのではないかと思う。 

wikiには「流通果実としての『デコポン』は熊本県果実農業協同組合連合会が所有する商標登録であり、全国の柑橘関係農協県連合会を通じて出荷された不知火のうち、高品質を保つ一定の基準(糖度13度以上、酸度1度以下)をクリアしたものだけがその名を使用することができる」
とあるので、つまりデコポンが正式な品種名と思っている人が多いのは熊本の農協がブランディングに成功した証なのである。


それは素晴らしいこと。優れた品種が広く知られるようになることは一柑橘生産者としても喜ばしい限りだ。


……ところが、だ。

そのユニークな形で広く知られるようになった不知火。すなわち、ヘタの周りがボコッと凸状に突起したその形状が、のちに柑橘業界に思わぬ誤算を招いた。
 
そもそも、一部の柑橘(晩柑類)は成長の過程で二次肥大を起こし、ヘタの周りがデコッと突起するのである。これは柑橘栽培に携わる者なら誰でも知っている常識だか、一般の消費者はそうではない。

厄介なことに「デコポンという名」は知っているが、「一部の柑橘が二次肥大によってデコがデコッと突起する」ことまでは知らない人が多すぎるのである。
その結果、柑橘初級者はデコッとした柑橘を見ると「あ、知ってる!これデコポンでしょ?」と得意げに言う。

彼らにとっては…
これも!

 

これも! 

これも!
デコポンなのだ。

柑橘は形状よりも、果皮のキメや油胞のパターンなどで見分けるベシ!ということを知っていれば、これらが、『いよかん』や『はるみ』であることは一目瞭然なのだが……。

 


そんな初歩的なミステイクが日常茶飯事になっている昨今。
いよいよ怒り心頭に発したのは、柑橘生産者……ではなかった。

「俺が不知火だ!」と言葉で主張できぬ彼らは、なんとその身をもって、他の追随を許さない“高み”を目指した。

 

この堂々たる姿は、どうだ。

瓢箪に似た瓢柑という柑橘もあるが、この不知火はもはやだるまに近いレベル。
平均的にこの形になるなら、もうだるま柑という名で売ってもいいくらいだ。

「男なら、四の五の言わずに態度で示せ」という白州次郎ばりのダンディズムを、僕はこいつから教わったよ。
ありがとう!だるま柑!!






忙しいときほど、ちょっと一服。

2012-12-23 | ぎらぎら

国を1つの生命体としてみると、国民感情と政治との乖離が激しい今の日本は、いわば大規模な自律神経失調症のような状態。

その程度は早急に投薬を要するレベルでしょうねぇ。

ところが国には、通うべき医療機関もなければ投与すべき薬もない。

なので、僕らはこの巨大にして過度な複雑系が持つホメオスタシスに期待するしかない。

でもそれってのは、個人レベルでどうこうできる問題じゃあないわけです。

じゃあ、救世主は地方自治体? 国家政府?

 


おそらくすべてハズレで、すべて正解。

生体の恒常性が何重もの調整メカニズム(フィードバック)によって保たれているなら、個人、家族、地方自治、国家、それらあらゆる大きさの活動が、それを維持・構成しているフラクタルを意識し、階層を越えて同時多発でその健全化に努めなければ解決にはならないと思う。

国民が思想や生活スタイルを変えないまま政権をひっくり返しても快方に向かうことはないってのは、もう十分に分かったでしょ。

なんとなく分かっちゃった人たちが、厭世して山奥で隠遁生活をしても同じ。

 

冷静に考えれば、実はそう難しいことでもないと思うんだよね。

こんなに恵まれた国に生まれて、みんな基本的な学力や思考力は持ってるんだから。日々に忙殺されて思考停止に陥り、言い聞かされた価値観にのみ従って生きる日常を少し離れて、ちょっと木陰で一服しながら「本当に大事なことってなんだろ?」て考えてみるくらいでよいと思います。

年末年始は無理にせよ、少し落ち着いたらでいいと思います。

「どこに入れても変わんねーよ」とか思いながら、とりあえずの一票を投じるより、まずは僕ら自身の生き方を変えてみるほうが良さそうじゃない?

一時期、「技術者にも営業力が求められる時代」とか言ってたけど、それはつまり分業や細分化に寄りすぎる弊害が顕在化してきたってことだったわけでしょ?

木を見て森を見ずともいいます。

教員は教鞭をのみ、音楽家は楽器をのみ、農家は鍬をのみ執っていればいいなんて考えはどう考えても古い。

さらに古くは、高度経済成長期に席巻した「勤勉こそが美徳」だとか、ついでに正体不明の「楽しむことへの背徳感」とかも、もういいでしょーよ。

そんな旧世代のパラダイムは全部取っ払って、みんなでちょっとずつ、みんなが楽しいことしましょーぜ。

 

 

今年もこの国は、どんよりと重苦しい欺瞞に満ちたまま年の瀬を迎えていますが、そんな時代は早く乗り越えたいですねぇ。

 
「来年こそ新しいこと始めます!」とか思ってる人も多いと思いますが、去年から田舎でこんなこと始めてるヤツらもいるので、よかったら参考までに見てやってくださいまし。
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http://noon-nakajima.com/ 

ふらり

2012-06-07 | ぎらぎら

自分のなかに、自分なりの幸福論を構築することは、人生を謳歌するための必須条件だ。

漠然とした幸福を追い求めるから、人生はままならぬのであって、理想がしっかりとあれば、現実をその状態に近づけていくことは案外難しいことではない。

千里の道も一歩から。その一歩を力強く踏み出すために、日々の自己分析と絶え間ないイマジネーションを欠かさぬこと。

とはいえ、あてもなくふらふら散歩するのも、嫌いじゃない。


アイドルで村上春樹な乖離と共有による確信的肖像画シュプレマティズム風(会話の記録としてのウェブログ)

2012-06-04 | ぎらぎら

U「大友さんと同居するようになってから、知らぬ間にiTunesにアイドルソングとか入れられてるんだけど、これは聴いとけ!ってことなの?」

W「主にアレンジを聞くべし」

U「ごめん、ふつーに飛ばしてる(笑)」

W「いいさいいさ。俺なんか自分で入れて全く聞く気になれないからね。」

U「どっちかっていうと、理詰めの音楽よりインプロ系のほうが好みだから。ファイアよりメラって感じ?」

W「例えがわかりづらい(笑)。理論を構築した上でのアドリブ満載→JAZZ。言いたいことはわかる。」

U「いや、たぶん想像してるよりフリーな。原初的な感覚をそのまんま音にした感じの。舞踏みたいに、表現対象に輪郭を与えず、伝達しようと努める感じの。更に分かりづらいか。動物的な、なら分かる? フォービズムを押し進めたような音楽。音楽に限ったことじゃないが、そういう表現が好きなのよ。」

W「そうなるとリズムにフィードバックしちゃわない?」

U「リズムはアタックがあるじゃない?どっちかっていうとアンビエント系っしょ。」

W「なるほど。それはファイアよりメラだわ。音像を捉えさせるような捉えさせないような。」

U「でしょ? どうも輪郭というやつが苦手で……。というか、心底求めてるものは音楽じゃないのよ。荒木さん風に言うと(代弁したのは「東方大弥」だけど)『共有』なんだと思う。より直接的な。」

W「ほうほう。たゆたうがゆえの掴み処のない感じなのかな。鼓動よりも悠久。でも人間は鼓動を打つ生き物だから、それとの乖離感か。」

U「さすがです。鋭い洞察。さて、この欲求を突き詰める俺の人生の行く末は……?」

W「まあ答えは出ないだろうね。出す必要性すらあんま意味がないような気もするし。100%の共有は、今までの見てきた風景がホンノ少しでもずれていれば出来ないし、する必要すらないよね。例えそこに摩擦が生まれようとも刺激になればヨシ!っていうね。」

U「必要性というなら、『そうしたいから』じゃ不足? 自己分析をさらに掘り下げると、他者との共有を深めることで、自己存在をクリアに捉えたい欲求ではないかと。『明確に』ではなく『クリアに』。輪郭をではなく、そのものを。」

W「うん、俺は欲求に必要性はいらないって思うんだよね。他者との関わりをもって自己分析はするよ。そして正にクリアにしたいとも。ただそれはあくまで自分がしたいことであって、必要か?っていわれたら、う~ん…ってなるの。」

U「……客観的にこのやりとりを見ると、オトナ思春期真っ盛りだな、俺。一児の親としてこんなでいいはずはないのだが。こんなやり取りを礼奈が見たら、『もう、あんたには付き合いきれないわ』ってメモとともに離婚届が送られてきたりするのかも。そりゃ困るので、今夜の話はなかったことにしよう。アイドルソングもなかったことにして削除!」

W「あら?それを踏まえた上での結婚じゃないの?知ってるって。Uさんの隠しきれるもんじゃないもん(笑)。アイドルソングはとりあえず一回聞いてみるのも時間の無駄だよ!」

U「モンキーなんだよジョジョォォォーーー! ハッ!! 無駄って言葉を聞くとつい……」

W「最後に。村上春樹の言葉を借りると、説明しなくてはわからない事は説明してもわからない、共有ってこういう事はだと思うんだよね。概念的過ぎるけど。言葉ではなく感覚で理解したっ!っていうのかな。寝ようとしたタイミングで始まった深夜の討論。有意義な寝不足を抱えて月曜を始めよう。」

U「ウィ、ごもっとも。間違いなく概念的な人間だと自覚してます。だから最近の目標は『より現実的に』。遅くまで付き合ってくれてありがとう。感覚的なものを共有できる人間を友と呼ぶなら、わたるんは間違いなく友の1人と確信した。」

W「もはや病気(笑)。結局最後のシメはジョジョになるっていうね。こちらこそいい頭の体操になったよ。Uさんは言っても、会ったコトあるのそんな多くないよね。でも未だに繋がってるってことは、こういう事なんだなって思ったよ。いや、確信した!」


煙の形、ドーナツの形、辿り着くべきところ

2012-05-17 | ぎらぎら

静寂と対話することによってのみ、人は真に成長することができるのではないか。

そして現代社会には、そういう場が少なすぎるのではないかと思う。

 

 

穴の中で、穴に拒絶されながら生きる。

それが僕の願望であり、これを捨てることによって、僕らは幸福になる。

 

しかし、その幸福は僕が辿り着くべきものなのか。

僕はそういう類の幸福に満たされる人間なのか?

 

人生をかけて追求すべき形は、存在と欠如の融和、即ち、それはたゆたう紫煙の曖昧さであり、よりソリッドに言えばドーナツに象徴される○○(感覚的には掴みつつあるが、○○に置くべき単語、概念と言ってもいいかもしれない何かを僕はまだ見付けられていない)と考えている。

そのために、生きていく上で必要最小限の線は力強く引きながらも、その行為の意味を理解し、同時に恐怖することを忘れてはいけない。

 

線を引く喜びに支配され、その行為に対する恐怖心を失ったとき、僕の中核をなす何かが死んでしまうだろう。

裏を返せば、それさえ忘れずにいれば、どこで何をしようとも僕は僕で在り続けられるということでもある。

 

 

人生のなかで、真を見付けたのなら、全身全霊でそれを守り通すこと。

さもなくばすべては徒労に終わる。


ゲートキーピング

2012-04-25 | ぎらぎら

自分の生きる場所って、自分で作っていくもんだと思うんだよね。

他人が用意した居場所にピッタリはまれる才能を持ってる人はそれでいいんだけど、僕や僕が共感するような人たちは、そこから何らかの形ではみ出すタイプが多いみたい。

はみ出し方はいろいろだけど、自分の居場所がどこにもないような錯覚にとらわれて自殺なんてのは、もってのほか。

そうなる前に、僕らみたいなアウトサイドでこっそり楽しんでる人間と出会って人生の楽しみ方を見出せればいいんだけど、ピッタリはまれる人たちに囲まれて暮らしていると、どうしても自分がダメなヤツに思えてきちゃうんだろうね。

友人のゲンキくんの名言にこんなのがある。

「イビツな形にはパワーがある」

その通りだと思う。そして、本来、正円の形で生きられる人なんてそうそういるもんじゃないと思う。

 

個々に完成した形が整然と並ぶ幾何学的な社会もいいけど、不完全な形がピースとなって全体を構成するような社会のほうが、より人間的で美しいよね?(感性の問題だけど)

微力ながら、そんなコミュニティを作っていきたいと思い、瀬戸内の離島で暮らしてます。

アウトサイダーにはスーツはキツすぎる。百姓はスーツとか着ないからいいね。

 

ところで、百姓の「姓」って漢字は仕事のことなんだって。

農産物を作るには、それに付随する様々なことを自分でやる必要がある。つまり百の仕事をやるから百姓。

メディアなんかでは差別的なニュアンスを含むという認識の単語だけど、実際の農家と話していると百姓と自称することが多いことに気付く。

その根底には、なんでも自分でやってやるっていう気概が感じられる。

自分の居場所は自分で作ってやる!っていう気概。

 

でも、現状、日本の農業は個人では難しいので、僕の理想はあくまでDIO。

Do It Ourselves.

(故ロニー・ジェイムスさんのファンではないよ。笑)

みんなで楽しみながらいきましょ~。


問答無用

2011-12-19 | ぎらぎら

僕の周りには一癖も二癖もある連中が多いので、必ずしも先に進むことを良しとしないんです。

そういった生き様を見ていると、芸術というのは形にするものではなく、軌跡のことをいうのだという気がしてきます。

生きるじたばたと言いますか、行き着くところまでの過程そのもの、目に見えないその線こそが芸術をなし得るんじゃないか、と。

だから、本来、1つの作品を真剣に鑑賞しようと思えば、その一挙手一投足から目を離してはいけないんです。

お金を払って美術館に行ったら、気に入った作品の前では何十分でも全神経を集中して対峙するでしょう?

それと同じことを生活のなかでもしていかないと、ややもすると肝心なところを見落としてしまいます。

でもどんなに近しい距離にあっても、他人のことを四六時中鑑賞し続けるわけにもいきませんし、自分には自分の表現がある。

だから、僕はせめて自分からは目を離さないようにしておきたいんです。

それが生きることを真っ向から楽しむことに繋がりますし、痛みや苦しみも味わい深くなる。

そうしてまた新しい表現が生まれるんだと思うんですよ。

重ねて重ねて深みが増していくんだと思うんです。まるで古い酒のように。

まぁ、冒頭でも申しました通り、それを良しとするかどうかはその人次第ですが。

 

とりあえず、脇目もふらず生きてみろ。


生活を再構築する

2011-11-18 | ぎらぎら

ポイントはこれ。

『本来、権利であるはずのものを、知らず知らず義務化してしまってはいないか』

定期的にこれを意識して生活のすべてを細部にわたるまで見直してみる。

PCをデフラグするように。

それだけで、惰性でやっていたことや無駄な苦痛が取り除かれ、人生は驚くほどサクサク動くようになる。

これホント。だまされたと思ってやってみて!

 

我ながら、人間ってつくづく馬鹿な生き物だと思う。


種2

2011-11-12 | ぎらぎら

小遣い稼ぎと繋がり拡大を兼ねて、僕が週に2回通っている『中島青果』の選果場。

全国有数のみかん産地・中島のなかでも、特に美味しいと言われる地区の8人の匠たちが持ち寄るみかんを選別している。

まだ最盛期ではないため、作業は早々に終わる。作業後はコーヒーを飲みながら談話。

そこで中島青果の社長さんから、こんな言葉を頂いた。

「君らが島に来てから、いろんな人が刺激を受けているよ。音楽をやってる人はもちろん、我々も。まさか素人よりダメなみかんを作るわけにもいかないからね(笑)」

 

 

僕らは、自分たちのことを表現者と自覚して生きているし、表現者である以上、誰かに何らかの刺激を与えながら生きたい。

そして表現者たるもの、人生そのものをもって表現としたい。

 

僕ら個人個人の力は微々たるものだとしても、複数で動くことによって、大きなものが動き始める実感を、その言葉によって得ることができた。

変化なんて最初はほんの少しでいい。

 

僕らが来たことによって、この島がなにか良い方向に動こうとしているのなら、これほどうれしいことはない。

 


2011-10-17 | ぎらぎら

土を楽しむ贅沢を求めて、瀬戸内の島にやってきてもうすぐ3カ月。

ついに、念願かなって小さな畑をやることになった。

と言っても、よもやこれで生計を立てるつもりもなく、あくまでも現金収入は他から得つつ、片手間に悠々自適な農的生活を営む趣旨なので、「収穫できれば御の字」という緩いモチベーションで臨むことができる。

生来、普通のことを普通にやるのが苦手(その重要さは知っているつもりではあるが)なので、当初はまだ世間に広く知られていないような目新しい野菜を植えようと思っていた。しかし、「まずはフツーにやりなよ」という同居人の訓諭を受けて、ダイコンやニンジン、豆といったありきたりな種を撒くことにした。

 

畑は家から2分ほど歩いた山の麓にある。

聞けば義祖母が元気だった頃はみかんが植えられてあったということだが、この数年はすっかり荒れて放置されていた土地だ。

キャリー1つで公務員の月給が稼げたという“みかんバブル"以降、みかんの値段は右肩下がりに安くなり、20年前の台風や近年のイノシシの被害が追い打ちを掛けて、畑をやめる農家が増え続けている。

そのため、このような耕作放棄地が島にはたくさんあり、かつて収穫期には山全体がオレンジ色に染まったということだが、今ではそんな光景が見られる場所は限られる。

土地を荒らすことは農家にとって不名誉なこととされる。そうでなくとも雑草が生い茂ると種が拡散し、近隣の畑に被害が及ぶ。

今回、僕が畑をやることにした土地がまさにそれ。奇麗に手入れされたみかん畑のなかにポツンとできた雑草地帯で、誰からも苦言こそ出ないものの、迷惑を掛けていることは明らか。

その意味で土地を手入れすることは一石二鳥なのだ。

 

 

まずは草を刈る。装備はホームセンターで買ってきた1本の鎌のみ。ハッキリ言って無茶だが、それも一興。まぁやれるとこまでやってからダメなら次の手を考えればいい。

どこから手を付けていいかもわからないまま、とりあえず大きな草を苅り倒し、足場を確保していく。しばらくすると、鍬を持った東さん、チェンソーを持った林さんが助っ人に現れ、あっという間に作業が進む。

島に越してきてから何かとお世話になっているこのお二人。都会から来た若者の動向を気に懸けてくれているらしい。

一通り、草木を刈り終えて、帰宅。東さんの奥さんの言葉を借りれば、「農作業は頑張りすぎないのがコツ」だ。

 

翌日、再び雑草地帯に足を運ぶと、なんと既に土地が耕されていた。すぐに現れた東さんが笑顔で「ちょっと作業を進めておいたぞ」と。

そこへ鍬で溝を掘り、まずはダイコンの種を撒く。種の上にそっと土を被せ、続いてニンジン、豆、カリフラワーと撒いてみる。さらに東さんの奥さんに頂いたネギと水菜、ブロッコリーの苗を植え(実は奥さんが植えてくれた)、保水効果のあるバーク堆肥(これも頂き物)を散らして終了。

と思いきや、東さんは「柵をしとかんと、1日でイノシシに荒らされるぞ」と柵を持ってきてくれた。鉄柱を土に打ち込み、鉄の柵を立ててヒモで留めていく。

 

こうしてあっという間に畑が完成。

そう簡単にいくとも思えないが、今から収穫が待ち遠しい。

 

しかし恐るべきは、ご近所の方々のお力添え。「これを使え」と農具や作業服をくれたり、「お腹空いたやろ」とご飯を差し入れてくれたり、至れり尽くせりでなんだか申し訳ない気がしてくる。

本当にこの島の人の親切さは想像を絶する。

 

作業のあとは借りていた農具を返しに、東さんのお宅を訪問。すると奥さんが出てきてこんな話を聞かせてくれた。

「ゆう君の義祖父さんと、うちと林さんは兄弟のように親しかったんよ。義祖父さんが亡くなるときに、『あとのことは頼んだ』と言われとるんやけん、困ったことがあったら遠慮せずに言ってくれてええんよ」

 

 

どうやら、種蒔きはもう何十年も前に行われていたらしい。

今、僕は奇妙なほど真摯な心持ちで考える。

僕がこの島のためにできることってなんだろう。

 

何か確かなものを実らせねば!という使命感に駆られつつ、この地に根を張る覚悟が固まっていく。

 

まずは明日の朝一番、墓参りから始めよう。

それが礼儀だ。

 


さて、どうしたもんか。

2011-07-28 | ぎらぎら
バンドマンから雑誌編集者ってのも自分的にはかなり面白い転身だったけど、その次に離島暮らしってのはさらに面白い。

ベランダから東京タワーとレインボーブリッジが見えた品川から、ビルも橋もない瀬戸内の離島へ。
毎日のように終電帰りだった都会生活から、ゆる~い時間が流れるド田舎へ。
ドブ川とも思える京浜運河からウブな魚が戯れる蒼い海へ。

それそのものに絶対的価値を見出せないニヒリストゆえ、こうしたギャップ(相対) を楽しむしかない、というのはあまりに愚かしい動機か(笑)。

ま、一度しかない人生だ。振れ幅は大きく。

ダダイストゆえに生きようとすれば、人に迷惑は掛けてしまう。
ならば、それ以上に価値のあるものを生み出して、恩返しをしよう。

心地好い場を作って、愛すべき社会不適合者たちが、キラキラと輝いていられるように。

そんなわけで、これからもよろしくです!


距離感

2011-07-15 | ぎらぎら
楽しみ方は人それぞれとしても、一度きりしかない人生はやはり楽しまなきゃソンなのである。

真実の在りようは一つだとしても、楽しめる角度から眺めるのがやはり得策である。

自分以外の人にとって、何が正しいとか間違っているとか、とやかく言うつもりはない。というか、そんなことはどうだっていい。

その顔が笑みを湛えていさえすれば、それでいいのだ。

残念なのは、どうやら僕というの人間はもっとも身近な人間から笑顔を奪ってしまうヤツだということだ。もちろん、そんなつもりは毛頭ないのだけれど、どうやら結果的にそうらしいことが最近分かってきた。

分かったところでどうしようもないのだけれど・・・。


物事にはちょうどいい距離感ってものが確かにある。


どうしようもないことを話しても仕方ないので、

話を変える。

これまでの30年で空気の楽しみ方、海の楽しみ方を知った。そして人生の最終段階では「土を楽しむ生き方」を目指していたのだけれど、その準備がいよいよ始まった。

そこに気の置けない仲間や酒、煙草があればこれ以上ない贅沢。

すべてをそろえたいというのは、ちと高望みかもしれないが、一度きりの人生だ、挑戦してみる価値は十分にある。もちろん可能性もね。

少しゆっくりと時間をかけたい場面ではあるけど、そうもいかないのが現実。ない頭をひねって作戦を練ろう。



普通に考えたら電車の中にネコはいないだろう

2010-03-19 | ぎらぎら
人のまばらな電車の中で、それはもうしばらく前から僕の脚にじゃれついていた。
それ、というのはネコなのかヒトなのか、いずれにしても性別が女に属することは確かだが、それが何かということについて僕には判別ができない。
じゃれつかれている僕にわからないのだから、きっとほかの誰にもそればっかりはわからないに違いない。
ただ、わからないからといって、“それ”と呼び続けるのも忍びないので便宜上、小夜子と呼ぶことにした。
小夜子はいつの間にかスケッチブックを開いて、落書きを始めた。
これが結構上手い。
ふんふんと鼻歌でも歌うようにのたうちまわる線は、あれよという間にきらきらと森の中にこぼれ落ちる陽の光を描き出していく。
大したもんだと僕は思った。
「だってわたし、絵描きだもの」と小夜子は言う。
僕は絵描きという言葉に僕は記憶の中の柔らかい部分を思い出しながら、どうして心が見透かされたのか不思議に思った。
「だってわたし、絵描きだもの」と僕はオウム返しに口にした。なぜかは自分でもわからない。
小夜子は僕の言葉などまるで聞こえない様子で絵を描き続けていた。
かと思うと、スケッチブックはいつの間にか小説に変わっていて、今の今まで軽やかに動いていたはずの小夜子の手は嘘のように大人しくなっていた。
「もう描かないの?」
「描かない」
「なんで?」
「……」
文字に夢中になって黙りこくってしまったので、何を読んでいるのかと本を覗き見ると、それはいつだったか僕も読んだ覚えのある小説だった。
「それ、読んだことあるよ」
「……」
「聞こえてないの?」
「……うるさいなぁ」
「ごめん……」

アナウンスが流れ、電車が速度を緩め始めた。
次は僕の降りる駅だ。
僕は足元からカバンを取り、何を取り出すわけでもなく習慣的にカバンの中をまさぐった。
カバンの中からは入れた覚えのない本が出てきた。
見るとそれは、ちょうど今、小夜子が夢中になって読んでいる小説の作者がかなり前に書いた別の小説だった。
なぜこんなものが僕のカバンに?とは思ったが、それほど不思議な気もせず、僕は「これも読むかい?」と言って小夜子に差し出した。
ありがとう、と言って小夜子は本を受け取り、再び目を小説に戻した。
ドアが開いて、僕は電車を降りた。
これでもう小夜子に会うこともないのだと思うと、なんだか悲しくなってしまった。
そうだ、電話番号を聞いておけば会うことはなくても、いつか小説の話ぐらいはできるかもしれないと思いついて、僕は歩み始めていた足を止め、振り返った。
(小夜子がネコであるか、ヒトであるかは別としても、今のご時世だ、携帯ぐらいは持っているに違いないと僕はとっさに思ったわけだが、夢にしても奇妙な設定だ。)
「電話番号、教えてくれる?」
小夜子は少し困った表情を見せたが、すぐに頷いた。
「080……」
途中まで言いかけたところで電車のドアが閉まって、声が遮断された。
声はそこで途切れたが、目覚めたとき僕は確かに小夜子の電話番号を覚えていた。動き始めた電車のガラス越しに、半ば無意識に小夜子の唇の動きを追ったのだろう。
布団の中で夢の一部始終を振り返りながら、この電話番号はひょっとしたら“あの番号”かもしれない……とも考えたが、残念ながら目が覚めてしまった以上は現実に即した思考で物事を考えなければならない。
僕は悩んだすえに、携帯のメモリーを確認して“あの番号”ではなかったときのかなりガッカリするであろうリスクを回避するため、確認はやめておくことに決めた。
そのまま、その番号さえ忘れてしまった。
そんなはずはない。
夢は夢だ。

ルアー

2010-01-31 | ぎらぎら
訳あって、ルアーの勉強をしています。
ある本の中で、リアリティを持つことはルアーにとっての退化である―というような言葉を見つけ、そこにちょっとした美学を垣間見た気がしました。
おかげで俄然、興味がわいてきました。
日本語では疑似餌と訳されるルアー。
基本的にはベイトをイミテイトして喰わせるもんですが、中にはそれを頑なに拒んでいるとしか思えない、それでいて喰わせるという目的からは逸れていないようなものがあるのです。
擬似しない疑似餌。
ルアーとは、なかなか奥の深い代物のようです。
エサ釣りとの決定的な違いは本質を結果に置くか、はたまた過程に置くかの違いと見た。
そして、その非効率的な行為が、またいかにも男性的です。
そういうのが好き。
釣ることより釣りをすることが好きになりそう。笑