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日々思うこと

ルアー

2010-01-31 | ぎらぎら
訳あって、ルアーの勉強をしています。
ある本の中で、リアリティを持つことはルアーにとっての退化である―というような言葉を見つけ、そこにちょっとした美学を垣間見た気がしました。
おかげで俄然、興味がわいてきました。
日本語では疑似餌と訳されるルアー。
基本的にはベイトをイミテイトして喰わせるもんですが、中にはそれを頑なに拒んでいるとしか思えない、それでいて喰わせるという目的からは逸れていないようなものがあるのです。
擬似しない疑似餌。
ルアーとは、なかなか奥の深い代物のようです。
エサ釣りとの決定的な違いは本質を結果に置くか、はたまた過程に置くかの違いと見た。
そして、その非効率的な行為が、またいかにも男性的です。
そういうのが好き。
釣ることより釣りをすることが好きになりそう。笑

とりとめのない探求

2010-01-31 | せらせら
ヒトデだったか、海には胃袋を体外に出して獲物を消化する生き物があるらしい。
実は人間も知らずそれに似たことをやっている。
思想というものは形而上の消化酵素のようなもので、物事の意味ってのは、思想をもってのみ消化することができる。
何らの思想も持たなければ、あらゆる事象はオブジェに過ぎず、日々は空虚そのものだろう。
ボーっとしていて、うっかり電車のドアが閉まり始めてから降りるべき駅に着いていたことに気が付くようなことがある。目を開いているだけでは光しか入ってこない(そして光には本来意味などない)。
それが一粒の砂から世界を知る人とそうでない人の違いだろう。
より深く認識するためには、事象に対して能動的に思想をぶつけていかなければならない。
(思想というと大袈裟に聞こえるかもしれないが、文字通りに解釈すれば思想なんてそれほど大したものでもない。要は何を思うかってことだ。)

何を思うかによって得たものは、更なる思想の一部となり次の獲物を消化するための酵素となる。そのようにして人の意識は成長していく。

なら、赤ちゃんは一番最初に何を思うのだろう。
のちに巨大な塊となる意識の核には何があるのだろう。
意識界と呼ばれる世界の中心にあるのは一体なんなのか。
微細な埃に水分が吸着して雨粒になるように、意識の核にも最初の思想(それこそ思想と呼べるほどのものではないのだろうが)があるはずだ。この際、ゲシュタルトとでも言っておこうか。
小夜子を観察する上で、意識の芽生え、原初的なゲシュタルトの形成、その発現がいつになるのか非常に楽しみだ。


Balance Toy

2010-01-31 | せらせら
ここに来てバランスというものの重要さを噛み締めている。
身の周りにある大切なものを出来る限り壊さないように有らしめるには、細心の注意を払って絶妙なバランスを模索しなければならない。
バランスと言えば、まぁヤジロベエですよね。(?)
というわけで「存在と自由との両立」はヤジさんに学ぶことにする。
とにかく重心を支点より低く取ること!
コミュニティを個々の複合体としてみた場合、重心というのは必ずしも中にあるとは限らない。

こじつけとも言える発想の問題だが、僕の場合はこの喩えがしっくりくる。
そう考えると、なんだかヤジロベエがひどく象徴的なオブジェに思えてきた。
たぶん世の中にはヤジロベエ作家とかいるんだろうなぁ。
そういうストイックな表現に憧れる。
なんだか枯山水とヤジロベエって似てるなぁ。
解釈次第では同じ類の思想を具象化した物と分類できる。
ある種の哲学の究極形というか。
国破れて山河在りというか。

じたばたするな。
さすれば自ずから成る。

To be or Not to be…is not the question.
無作為にして導かれるところに探し物はある。
だが探し物というのは探して初めて探し物になる。
それは探さない人には全く意味を成さないもの。

僕にとっては目的地。

退廃的と言われそうだが、確かにそうとも取れる。
ただ男という生き物は内に退廃を秘めているものだと思う。

僕らはやはり死に向かうことでしか生きられない。
藤村先生がそう老いを捉えたように、死(まぁ同義みたいなもんだけど)もまたそれを求めて初めて真にそこに辿り着くと思う。

しかし、ヤジさんに学ぶならば、それが無用な力ってやつだが。
ほっときゃいつか死ぬわけだから。

そう考えるとますます難しい。
支点と言うのは意識としての自己そのものか?
そもそも物理的な質量をともなう存在ではない?
この考え方は僕にとって凄く新鮮で、かつ面白みがある。

(ああ、思想ってのはなんて自由なんだ。)

180

2010-01-24 | せらせら
何を重んじるかによって、いや、むしろそれが全てだと言っても過言ではない。
それ次第で人生観なんてものは180°変わってしまう。
だから万物が流転する中では自在に自らの人生観を変化に対応させられる柔軟性が重要だ。
それに逆らって一貫して堅牢な拘りを持つことは不毛だ。
しかし、不毛かつ非効率的だからこその魅力というものが、ある種の美学に見られる特有の魅力でもある。

器用に生きるか不器用に生きるか。

マイウェイ

2010-01-24 | せらせら
明確なヴィジョンがあるのなら、迷路をゴールから辿るようにスタートへ迎えば、きっと今とるべき選択は見えてくるはずなのだ。

時間に余裕があるならば手探りで進むのも悪くないが、状況によってはそういう方法も使わざると得ない。

けれど、その場合にはどうやってもプロセスの味わいは著しく損なわれてしまうから、出来得る限り、僕はゆとりというものを持ち続けていきたい。

のんびりと試行錯誤しながらやればいいさ、というスタンスで生きましょうぜ。

そういうのが楽しい。

時折、僕は変化というものに恐怖する。

2010-01-24 | ぎらぎら
本当に恐ろしい崩壊は、音もなく、まして痛みや危機感さえないうちに起こっている。
それが自然を模した皮を被っているからなのか、またはそれが自然の変化そのものなのか、僕には分からない。
が、もし後者であれば、僕にとっては最大の悲劇だ。
認識さえ出来ないものに抗う術を僕は知らないのだから。

物語る。

2010-01-24 | せらせら
「ええ。まぁ、それはそうですがね」
と言って彼は直接的な否定を避けた。
だが、直後に沈黙に逃げ込んでしまうのが彼の悪い癖だ。
その沈黙が伏せた否定をより確実なものにしていることを彼は知っていた。
また、それが誠意の正しい示し方だと彼自身は考えていた。

そうして彼は、火をつけたばかりの煙草の煙が風に呑まれて消えていく様子を虚ろな瞳で眺めながら、確かにそこに在る物が目に見えて消えていく感覚をこれまでに経験したことのない強さで噛み締めていた。
それでもなお、次に発するべき言葉が、彼にはどうしても見つからないのだった。
次第に、もどかしさがやり場のない怒りを伴なって彼の中に込み上げてきた。
そうなるともう、場の沈黙がますます重く、また確信的なものに変わっていくのを彼に止めることは出来ない。
時間が全てを洗い流してくれるまで少し眠ろう、と彼は思った。
それが最善とは言えないにしても、残されたたった一つの方法に思えたのだった。




タイトに重ね合わせるために

2010-01-24 | ぎらぎら
「理論化できないことは物語らねばならない」という言葉がある。
僕はその言葉を生きるスタンスとして受け取った。
人の一生、物の一生、要は“始まりから終わりまで”の一連の流れに秘められたアクチュアリティは、まさにそれ自体でしか示し得ないものなのである。
そういう風に考えると、いかに自分自身と言えど、一瞬たりとも目を離すことができない。
僕の一生は何を示現するのか。

より真摯に自分に臨むこと。

ゆあーん

2010-01-10 | せらせら
たまにはドーナツを食べましょうぜ。

いつもの珈琲を気まぐれに紅茶に替えてみるのもいいもんですぜ。

そしたら、またぽっかりと月も出ることでしょうぜ。

中原さんのやるせなさ。

だったら

たまにはドーナツを食べましょうぜ。

あんまいドーナツに濃い目の紅茶を合わせてみましょうぜ。



無題

2010-01-10 | せらせら
ことある毎に、どうしても振り返ってしまう人生の分岐点がある。
「たら・れば」なんて無意味という信条に反して、「たら・れば」も事実として現在へと続いている。
そんなパラレル。

満たされると同時に、ファジーになってゆく確固たる何か。

ネーミング

2010-01-10 | せらせら
ところで、昨年末に生まれた娘に小夜子と名付けようとしたら、周囲(特に母)から異様なまでに猛反対を喰らった。(母はいまだにメールでは「小夜子」を「さよこ」と平仮名で綴る。)

それでも、反対を押し切って命名するだけの想いが僕にあったことを、娘はいつか理解するだろうか?

そういう想いを“呪い”と受け止めるだろうか?

頼むから、そういうのを「めんどくせー」とか「うぜー」と一蹴するような女にはならないで欲しいです。(切実)

不思議と友人ウケは良い「小夜子」。

あの反応のギャップは何だったのだろうか。

やはり夜には何かがある。

2010-01-10 | せらせら
「その先」に何かが見えたら、そっと教えてね。
と彼女は言った。

それを教えるための手段があるとするなら、それは「生きる」ということそのものに他ならない。

つまり、そういう人生には“そっ”と、というスタンスが不可欠だということを彼女はその時すでに知っていたということになる。

そう言えば、僕には大事な事を話すときほど声を押し殺す友人がいるが、彼もまた“そっ”と、の重要性を知る者なのだろう。

そういう人たちは往々にして夜行性の気があったりすることも併せて興味深い。

なんにせよ、夜を知らずしては辿り着かない境涯があるみたいです。

挑戦的

2010-01-10 | ぎらぎら
それと時を同じくして、僕の中でラウドなサウンドへの憧れのようなものが減衰していったのは偶然ではないと思う。

今、ラウドなサウンドに興味を見出すとすれば、爆音をもって直接的に(反面的ではなく)静寂の含蓄を表現することができるかどうかというくらいのものだ。

影さえも視覚的なものだということを踏まえて、表裏一体というアプローチではなく、より包括的または相即的な観点でロックミュージックというものを聴いてはみれないものだろうか?

変化と成長

2010-01-10 | せらせら
僕はある時期まで、過去の自分を振り返って嘲笑することが多かった。
成長とはそういうもんだと思っていた。
ところが、ある時期を境に今度は今の自分を俯瞰して嘲笑する傾向が強くなった。
今はそれが成長というものだと思っている。
そういう考え方が今後どういう風に変わっていくのか、それがまた楽しみでもある。