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日々思うこと

一息

2009-11-26 | せらせら
このところ朝の通勤ラッシュ時に都心の鉄道を利用することが多くなった。

水平垂直様々に直線で構成される世界に、柔らかく冬の朝陽が降り注ぐ様子には思いのほか趣がある。



友人たちと話していると「日本人は根源的に農耕民族だから…」などという切り口の話も少なくないが、都心の朝、我先にとギラつく人々の眼を見ていると、本当にこれが農耕民族の眼光かと疑ってしまう。

そんな電車に照る朝陽の柔らかさは一際優しく感じられる。

さよならだ

2009-11-22 | せらせら
僕はそんなに感傷的なタイプでもないはずだが、それでも長く住んだ町を離れるのはそこはかとなく寂しい気持ちになる。

こんな気持ちは去年の秋以来だ。

得る。失う。


どちらにしても前進はしている。


Home is where the heart is.

2009-11-16 | ぎらぎら
人が集い生活をする。
それが集落であり、村となる。
それがコミュニティの基本。
人が創造し、身をもって生きるすべてを感じ得るすべてを実寸で体現する村は動的な芸術の最たる形だと思うのです。
土、風、海。
四季を五感で味わいながら、ときには自然と戦いつつ、共生する非自然かつ非人情。
僕の究極的な理想はそれです。
最近どうにも都会が無粋の塊に思えて仕方ない。
最も簡素で最も贅沢な生活を求め、無知から農を模索する。



2009-11-16 | せらせら
今という時代の生活にはどうしても虚が横行しているように感じる。
あらゆる物事が相反する表裏のバランスの上に成り立っていることを考えれば、得てしてバランスの悪さは物事を継続していく上では早めに是正しておかねばならない問題だと思う。
では生活の実とは何か。
体を使い汗を流し、得られた物を食し、眠り、目覚めて生活を思索し、また思索を表現する。
それを総合的に体現するものがまさに創造的農生活であるのだと思う。

ホロ苦ぇ。

2009-11-16 | ぎらぎら
この十年、どういう形であれ表現者としての自覚を持つ人と接することにすっかり慣れてしまっていたようで。

おかげで、そうでない人の中で僕は耐え難い退屈と、やるせなさ、孤独、嫌悪さえ感じるようになってしまった。

なんというか…。

そういう変化も人生の味として受け入れていくことができるだろうか。

今後、そういう機会が一段と増えそうだ。

渋みや酸味はもちろんのことエグ味をも拒絶しないくらいの大人な味覚を手に入れたい。

哀しい哉、それもきっと慣れなんだろうなぁ。

呑舟之魚不游枝流

2009-11-12 | せらせら
紙の生産地として日本でも有数の四国中央市に住む父から、厚手の手漉き和紙で作られたこんな葉書が届いた。


呑舟の魚支流に游がず

どんしゅうのうおしりゅうにおよがず
舟を飲み込んでしまうほど大きな魚は、常に水量豊かな本流を泳いでいて、支流に姿を見せることはない。
転じて、大人物は細かなことに手を出したり、小人物と交際したりしない、とか、高い志をもつ者は小さなことにはこだわらない、という喩えらしい。


父よ。
叱咤激励にしても、ちと親バカが過ぎますぞ。

2009-11-07 | せらせら
ヒトが力になり得るなら、ヒトとヒトの繋がりを強化すればカネに縛られすぎないコミュニティは存在し得るはずだ。

そういう形で貨幣経済依存症を打破したい。

そんな村。

大都市への一極集中型社会という名の集団引き篭もり

2009-11-02 | せらせら
過密な都市部での暮らしは類として見れば、引き篭もりも同然。そりゃ知らず知らず内面が鬱々ともしてくる。

全体的な見えざる文明病だ。


それを考えると、僕個人としては視界の中に直線を見出すのに一苦労するようなところで暮らしたいと思う。


発展途上期に直線を好んだプロダクトデザインが、後に丸みを帯びたフォルムに傾倒していくのは、あるいは過度な文明化を遂げた消費者が潜在的な意識として自然を求め始めていくという変遷ではないのだろうか。


とにかく引き篭もりを脱するには相応の勇気が必要だと思うのです。

目指すはド田舎ライフです。おそらくかなりのリハビリがいるなぁ。

経済

2009-11-02 | せらせら
引越しの準備で、CDを売り払った。
PCに読み込んで物理的な占有空間がCD400枚分からHDD一つ分に減った。一体何分の1になったのだろうか。

殆んどのCDが中古品だったから平均すると一枚1000円としても400枚で40万円か。売却金額もだいたい20分の1になりました。



さうして、いろんなものがコンパクトになってゆきまする。

このまま資本主義経済もコンパクトになっていくのか。(僕の理想はコンパクトというよりソフトな感じだが)

政府は経済の拡大を目指し、一般家庭は家計の(出費の)縮小を目指し、大型の激安量販店ばかりが肥大する始末。

この複合社会は全体と部分との関係がどうもおかしなことになっている。

これじゃ経世済民なんだか経民済世なんだか。

本末転倒。形勢逆転。ま、どっちにしても経済か。

というか本来は相即であるはずなんだが。

いかんせん社会が大きすぎる。

というわけで、ミニマルコミュニティを重視する思想が強まってきて然るべきなはずなのだが。

村。

義と理と趣を求めて。


ゆとり

2009-11-02 | せらせら
不本意な事態に遭遇しても、それを包括するより大きな環境に対してならば、より積極的に打開に向けて能動のスタンスで臨むことができる。

つまり、いわゆるドロ沼にハマってフンダリケッタリという状態は、喫緊の問題に対してミクロな視点で向き合ってしまうことが事態を悪化させる大きな要因になっているのだと思う。

そういうときこそ俯瞰をもって広く見るのがよい。

いかなる時もゆとりを友としたい。

秋だし、振り返るのもよかろうかと。

2009-11-02 | ぎらぎら
なんで人は失ってからじゃないとその意味を知ることができないのだろうと考えた。

事象を否定も肯定もできて初めて真に理解したと言えるなら、言い換えれば、裏も表も知ってこその理解であるのならば、その事象に関する全てを心身で味わい尽くすには、それを失うということも知らなければならない。(さらに言うと、それを知らないということも知らなければならない)

当然ながら、手に入れ、そして失い、その意味を十分に知るときにはそれはもう手元にはない。

その理屈でいくと、自分自身とは本来、自らには知りえない存在ということになる。

残念というか、皮肉というか、不思議というか。


詭弁というか。笑