せせらぎせらせら

日々思うこと

スカ・ライブ・告知

2009-03-30 | ぎらぎら
久しぶりにライブのお知らせをしてみるッス。
(しかも人様のをコピペ)

ベルビュー・スコーチャーズ ライブ

日時:04/05 (Sun)
イベント名: STUDIO 24 プレゼンツ
会場:町田clove
open 18:00 - start 18:30
adv.1,500 - door.1,500

出演:うすしお / BELLEVUE SCORCHERS / Scarteries / SYNC / 517

【PC】http://clove.cc/
【携帯】http://clove.cc/mobile/




おっと。早速忘れかけてたス!

ベルスコブログ、略してベルブロ。
覗いてみてくださいまし。
http://bellevuescorchers.seesaa.net/

奇遇だなぁ~

2009-03-30 | せらせら
去年の今日、勝手に「Everybody's party」と題して非営利目的適投げっぱなしジャーマンスープレックス企画にしてはわりと人の集まった花見をやりました。

「Everybody's party」というタイトルはJohn Scofield & Pat Metheny名義で出ているCD「I Can See Your House From Here」の曲名に由来するものでした。

つい一昨日、その音源が職場のPCに新しくインポートされた。
どうやら壮ちゃんが入れたっぽい。
タイミングっていうのはつくづく不思議だ。

しかし、「Everybody's party」ってタイトルが凄く感慨深い。
そうでもしなきゃ顔を合わせることがなかったであろう関係の人たちが、桜の樹の下に一堂に会することができた。
天気は良くなかったけど。



人と人。
良くも悪くも人と人。
死んだら終わりよ。
みんな、死ぬまで生きて、みんなで楽しめりゃあいいのにね。
せっかく生きてんだから楽しまなきゃ損だ。



今年は4/11(土)に似た趣旨の呑み会をやるそうです。
葉桜上等!らしいです。
皆様、こぞってご参加ください。
公園、昼間から酒。
晴れてれば、それだけで気持ち好いかと思います。


2009-03-30 | ぎらぎら
日本では花と言えば桜。
綺麗な花は桜だけじゃないのに!この提喩(シネクドキ)め!と悪態をついてもみるが、やはり桜は好いもんだ。
毎年、綺麗だなぁとは思うのだけれど、年を追って綺麗さを増していくように思えるのは、僕自身がそれなりの生き方を出来ている証だと思いたい。

酒も同じく。
美味い酒を呑むためには美味い人生を送らなければならない。
煙草が体調のテスターならば、酒は人生のテスターだ。

珈琲、酒、煙草、etc。
自分が投影されるような嗜好品をもっともっと深く愛したい。

原点は自愛だ。
それだけじゃ他愛ないが(笑)。
ただの言葉遊びか。

河原の石の丸さ

2009-03-30 | せらせら
自分の過去を振り返って、尖っていた頃があっただろうか、と考える。

たぶん、ない。

川底を転がりながら丸みを帯びた石に憧れる僕は、その場合どうすればよいのだろうか。

今更、一度尖ってみるってのもなんだしなぁ。

僕の人生、すでに拾い損ねた楽しみが幾つもあるみたい。ちっ!

これぞ転んだ先の杖だ。

そこから教訓を得て、一歩一歩を楽しみながら摺り足で生きよう。

棚を見上げれば・・・

2009-03-30 | ぎらぎら
さてさて、日々思うところをつらつらと書きなぐっておるわけですが、時折ふと棚を見上げれば自分のことがごっそり仕舞い込まれていたりして、自嘲してしまうわけです。
そういう笑いに使う頬の筋肉が僕のはずいぶんと発達してしまっているような気さえします。

友人の親子関係に口を挟むのもいいが、多くの場合、父というのは息子の生き方に関していささかなりとも所懐はあるもの。
僕の場合は父が多くを口にしないことが、却って雄弁に感じられたりもします。
さてと、そろそろそういった気遣いに感謝しつつ、見える形でお礼をしていかなければなぁと思う所存であります。

崩れる前に、ちょっとずつ棚卸をしていこう。

父と子

2009-03-30 | せらせら
友人が父との溝渠(こうきょ)に向き合おうとしている。
軋轢(あつれき)という言葉もあるが、人に限らず複数の個体が接するところには、とにかく何かしらの音が立つことは避けられない。
ピンと張った太鼓の皮に勢いよく桴(ばち)が当たれば大きく鳴る。
その時、鳴っているのは太鼓だけではなくそこに関与した両者である。
隻手声あり。その声に耳を傾ければ得られる含蓄は限りない。

僕は彼の過去を知らない。しかし、僕の知る彼は好いドラマーだ。
好い音の出し方、その愉しみ方を彼は知っている。
彼がドラムから何を得たか、それが今日試されるというわけだ。


2009-03-28 | ぎらぎら
20XX年、人口爆発に歯止めがかからないまま世界はいよいよ致命的な食糧難に突入していた。
耕作が可能な土地は全てコンピューターによって細かく管理されるサイバー農場となり、いかに効率よく収穫できるかのみが追求された。
やがて、すべての植物は直接的に“食べられるか否か”ということが唯一の価値基準とされるようになってしまった。

22世紀がちらほらと語られ始めたある年、突如、人類を原因不明の難病が襲った。
世界各地で同時多発的に人間が案山子化するという過去に例を見ない奇病だった。
身体的な症状は全くなく、ただ精神だけが極度の不感症に見舞われて、人々は次々に生きた人形へと変貌してしまった。
第一罹患者の発覚から一ヶ月が過ぎても感染の経路は特定できず、WHOは対応の遅れを指摘されながらも、この未知の症例に何の対処できないまま一年が過ぎた。
すでに患者は世界で500万人を越え、今なお事態は収束の兆しを見せないどころか、逆に急激に悪化の一途を辿った。
罹患者は特に先進国に多く見られ、携帯などの電磁波の影響がついに出始めたのだと各種マスメディアはこぞって取り上げた。
結局、公的には何ら原因の解明はなされないまま、世界中からありとあらゆる医療分野の権威が集められ、特効薬の開発に手探りで取り組むしかなかった。
しかし、関係者は、患者の身体的に全く異常がないことを挙げてはただ頭を抱えることしかできなかった。

助手「博士、この患者も脳のスキャンから血液検査、どこをとっても問題がない。これでは健常と言わざるを得ません。薬物投与の結果も有効と思われる反応は何一つない。そもそも異常がないんです。これでは我々は手も足もでませんよ」
博士「・・・うむ。もはや、これは医学の問題ではないのかもしれない。現象だけを取ってみれば、人類が“こういう風な進化を遂げてしまった”と考えるのが妥当なのかもしれない。キリンの首が長くなったように、進化の過程でヒトは案山子化してしまったと言うより他にない。しかし、現状では人類が未曾有(みぞゆう)の危機に瀕していることには変わりない。まさか我々が諦めるわけにもいかないだろう?」
助手「博士・・・。いえ、なんでもありません。私は過去の文献をもう一度洗い直して似た症例を探してみます」

助手のMは精神医療の文献を片っ端から読み漁り、化学から生物学、ついには宗教学、哲学の本にまで手掛かりを求めた。
そうして、ついにある哲学書の中にもう50年も昔に記された恐るべき警鐘を発見したのである。
それはまさに案山子病とピタリと一致する症状の予言だった。
そこにはこう記されていた。
―人の世は無数の創造と、それと全く同数の喪失に満ちている。利便の追求によって生じた神の不在は警告に過ぎない。追って世に美の崩壊が訪れたとき、人はついに人たる所以を失い、生きて屍となるだろう―
と。

助手M「博士!案山子病の正体はこれではないですか!この文献によると・・・?
博士!?博士―・・・」

哲学書に予言に対する明確な対策は記されておらず、著者が自身に問いかける形で筆は擱かれていた。
Mは研究所を飛び出して、中国の山奥に住む哲学書の著者Kを尋ねた。

Kの住まいは山間の退廃した農村の中にあった。
農村の入口あたりには荒れ果てた田畑が広がって、そこに襤褸を着た数体の案山子が雨風に晒されていた。Mの肌がにわかに粟立った。
集落には人気がなく、時流から取り残された過去のような不思議な閑かさがあった。
Mは屋敷の前に立ち、風合いのある木製の扉を二度、小さく叩いた。
少し待ったが、返事がないのでノブに手を掛けた。木製のノブは心なしか辺りの空気よりも暖かい。
屋敷の中はガラリと簡素だったが、確かな生活の気配があった。
恐る恐る屋敷へ足を踏み入れたMは中を見渡してKが居ないことを確認すると、さらにその足で屋敷の一番奥の書斎と思われる扉に近づいた。
息を押し殺して少し開いた扉から中の様子を覗くと、竹で編まれた椅子に座る人影が見えた。
「失礼ながら勝手に上がらせていただきました、Kさんでいらっしゃいますか?」とMは問いかけた。
Mの予想通り返事はなかった。

Kは案山子病ではなかった。
髭に覆われた顔は安らかな微笑を湛えたまま、冷たくなっていた。
Mは死因を調べたが外傷らしきものがないところを見ると、おそらく老衰で亡くなったのだろうと判断した。
書斎の机の上には茶色の小さな瓶とその下にKが最期に遺したと思われる手記があった。

―私もついにこの時を迎えてしまった。もし、誰かがこの瓶を見つけることがあったなら、これを世に役立てて欲しい。今、世間を騒がせている奇病について、私は生涯をかけて研究を進めてきた。そして、ここにその成果を残すことにする。しかし、この成果は決して結果ではない、あくまで一つの過程なのだ。願わくばこの薬が少なからず人類の救いにならんことを。K―

Mが奮う心を抑えきれず力いっぱいに瓶の蓋を開けると、中から4つ折りの紙切れが出てきた。
紙には「美とは何であろうか」と一言だけ書かれており、紙の折り目に挟まっていたゴマ粒ほどの小さな錠剤のようなものがパラパラと幾つもこぼれ落ちた。
Mはすぐにその錠剤を研究所に持ち帰り、薬の専門家に分析を依頼した。

ところが、すぐに研究室から出てきた専門家は嘲笑交じりにこう言った。
「ふん、こりゃ大した薬だ。確かに今となっては貴重だが、こんなもの何の役にも立たんよ。これは植物の種だ、しかも、もうずいぶん昔に絶滅してしまった鑑賞用のね。」


あれから

2009-03-24 | せらせら
「君が死んでしまったあと、僕は君の言うところのあの“素晴らしき腐った世界”でいろんな花を見てきたよ」
庭先に少し突き出した縁側で、男は珈琲を、女は日本茶を飲みながら日向ぼっこをしていた。傍に置かれた灰皿からは二筋の煙が細く上がり、暖かな風に乗って混ざりながら融けていった。
「君が“わかってしまった”と言ったもののほかにも、綺麗な花がたくさんあった。もちろん下らないものもたくさんあったよ。でも、あれから僕はそういったものを全部集めてアルバムを作ってたんだ。今じゃただ一つの宝物。ほかのはこっちに来るときに全部捨てちゃったから。ほら、古いものはもうずいぶん色褪せてぼやけてしまったけど。」
「へぇ、コレなんか凄く綺麗!ちょっと褪せてる感じがまたいいじゃない。あ、コレは知ってる。あの時のヤツでしょ。懐かしいなぁ」
楽しそうにアルバムをめくる女の姿を男は満足そうに見ていた。
風が庭の花を揺らして、ほのかに懐かしい匂いがした。

EVERYBODY GOES MINIMAL!

2009-03-24 | ぎらぎら
藤村先生の場合。
晩年に迎えていよいよ「簡素」を追い求めた。
藤村先生に限らずとも人には皆、年を重ねてその嗜好が簡素へ向かう傾向があると思われる。
それに比例するように生活は充実していくものとも思われる。

土方さんの場合。
身体表現の道を究める過程で「肉体の無用さを知った老人の縮まりや気配り」を語った。

弓道で言えば、
射法は弓を射ずして骨を射ること最も肝要なり。


めき

2009-03-23 | ぎらぎら
今年もついに春めいてきました。
いろんなところがメキメキめいています。

メンタルステイタスをザックリと波で表すと、上昇中はその直前の下降を払拭するカタルシス期と言えるワケです。

一般に喜びの季節とされる春には悲しみが払拭される悲しみがアルワケデス。

(あるわけですをカタカナ表記にするだけでアルバトロスとメルセデスの発覚してしまった隠し子のようになるなぁ。それか神話とかに出てくるなにがしかのようだ。)

嗚呼、今気付いた。3のつく月には僕はバカになってしまうようだ。

まぁいい。

そろそろ猫に線香をあげに行こう。

世迷言

2009-03-23 | せらせら
囚という漢字の中にある人を囲う口(くにがまえ)は自分自身だ。
もっと正確に言うと、過去の自分だ。

窮屈さを感じたら、たまには思い切って脱皮してみるのもいいんじゃないか。
でもその時は細心の注意が必要。
事実、今の自分の大部分は過去の自分だ。
一気に捨て過ぎると、えらいことになりまするぞ。
画描きが画を描くように、物書きが文章を書くように、木々が葉を落とすように。
(作家と作品にもフラクタルは見て取れる。)
緩やかさもまた美なる営み。
ささやかに、ささやかに。


樹木の枝を離れた木の葉は、まだ樹木の一部だろうか?
風に吹かれて地面に落ちたもくれんの花弁は孤独だろうか?自由だろうか?
花弁を見下ろしながら樹は何を思うだろうか?

風の日は気分も目まぐるしく変わる。
そうして、確実に季節は変わりつつある。

あーうーあー





よし!


感覚の融合するところ

2009-03-23 | ぎらぎら
小さなシンクロニシティは、より大きなモノの存在を感じさせる。
見えない理が万物を在らしめているのだということに気付き始めれば、人間社会は次第にはアクチュアルなサイズに落ち着いていくと思われる。
なぜ人はかくも見えないものを見落としてしまいがちなのか。
人の感覚器はなぜ光に特化してしまったのか。
漆黒の闇に潜む形而上の美を模索していこう。
そうして改めて光の中の美を認識していこう。
美しい色。
美しい香り。
美しい音。
美しい手触り。
美しい意味。

ライヒが反復から多くを取り出すくらい貪欲に日々を生きよう。

2009-03-23 | ぎらぎら
真っ白な霧の中で右も左もわからなくなるなんてことは、誰にでも日常的に起こり得る迷いだ。

時間は万物を風化させる。

それは自分自身も例外じゃない。

風化が進めばクリアだった視界は必ず霧に覆われていく。

今が自由であるために、日々、自分と向き合うことを怠るべからず。


A CAT NAMED TIME

2009-03-22 | せらせら
彼はその猫にタイムと名を付けた。

タイムはその他大勢の飼い猫と同じように、気まぐれに家を出てはどこかをふらふらと彷徨い、腹が減れば我が物顔で彼の家に戻った。

そうして缶詰を食べて腹がいっぱいになると、いつの間にやら今度は何食わぬ顔で彼の膝の上に乗り愛嬌を振り撒いた。

タイムが好き放題に振舞うほど彼はタイムを愛くるしく感じ、彼がタイムを愛するほどにタイムは逃げ出すように家を空けた。

ある時、彼はタイムに首輪をつけ紐で繋いで飼うことにした。

そうすることで、いつもタイムと一緒に居られる。彼はそう考えた。

彼はいつものように缶詰を開け、紐を握り締めてタイムの帰りを待った。

だが、タイムは二度と戻ってはこなかった。





(数日後、彼は首を吊った姿で発見された、と締めくくるとエグ過ぎるからやめとこう。)