せせらぎせらせら

日々思うこと

オトナの自由研究

2008-08-27 | ぎらぎら
ツクツクボーシを聞きながら、毎年、夏の終わりは宿題に追われていたアノ頃。

そんな少年時代に思いを馳せながら、友人と自由研究の話になった。

自由研究とは言っても、オトナの自由研究は“自由な研究”ではなく“自由の研究”。


freedom? liberty?

開放されることが自由か?

independentな自由。

depend on my ownな自由。

自由は孤独か?

孤独は自由か?

人は自由存在たり得るのか?

程よい束縛がもたらす心地よい自由。

開放がもたらす崩壊。

点と線。

自由意志の否定。

民主主義社会において積極的自由を実現できない大衆が、その孤独感・無力感から、他者との関係、指導者との関係を求めて全体主義を信奉している?

それなら、なぜクラムボンは 笑ったの?

人間はおかしくてかなしい?

人の一生は重荷を負いて遠き道を往くが如し、急ぐべからず、不自由を常と思えば、不足なく、心に望み起こらば、困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基。
怒りは敵と思え、勝事ばかり知りて、負くる事を知らざれば、害その身に至る。
己を責めて人を責むるな、及ばざるは過ぎたるより勝れる。

自由という名の拘束衣を着る大衆?

水とグラス。

獣性を脱した人と人の間に浮かび上がる虚像。

音と音の間を埋める休符の自由。

摘まれる花の自由。照らし出される闇の自由。

それなら、なぜクラムボンは 笑ったの?

せせらぎに身を任せるのは自由か?

ダダがダダをも否定するように、自由は自由を許容するのか?

自由に幻想を思索し紡ぎ出すことこそ自由。

それが完全な自由意志でなくとも。

自由から開放されたとき、人は人で居られるだろうか?






ツクツクボーシを聞きながら、毎年、夏の終わりは宿題に追われていたアノ頃。

20代終盤の夏の終わりになってようやく駆け足で自由研究してるなんざぁ、アノ頃と大して変わってないってことだなぁ。笑

いや、“楽しんでやっている”という点ではやはり歳を食ったに違いないか・・・。



in summary

そもそも、自由を研究しようなどと思う心のゆとりがどうして自由じゃなかろうか。

けだし!!

2008-08-26 | ぎらぎら
不協和音はチューニングが狂っている合図だ。

何かをやって上手くいかないときには自分のチューニングを見直す必要がある。

新しいことを始めて失敗が続く時期はチューニング中。

熟(こな)れてくればこそ実奏できるってもんだ。

どうやってもチューニングが合わないような場所には居るべきじゃあない。

不協和音は長時間聞くには心地よいサウンドではない。

自分にとっても他人にとっても。

誰にだって心地よく自分が響く場所があるはず。

そこを居場所にすればいい。



自他共に感じる美しい響きこそ「和の心」の賜物だ。

茶道だとか武士道だとかの形骸化した道のみをとって和の心とするのは馬鹿げた妄信ではなかろうか。



時流に左右されない道の真髄は別として、少なくとも嘗ての形式的な美学は過去に燦々と輝かせておけば好いものであって、必ずしも現代に輝く必要はない。

現代には現代の輝きがある。(・・・と信じたい。)

それにしても個人主義の横行とともに全体的な美の響きを欠きがちな現代社会は、過去の輝きを軽んじたことによるある種の大病を患っているようにも思える。



それは美学の細分化がもたらす副作用か。

あるいは美学の喪失による何か重大な崩壊か。

それとも不協和を感じ取る洞察力の衰弱が原因か。

その要因も恐らく単一なものではないだろうと思う。

“私”という人間は実在ではない!?

2008-08-26 | ぎらぎら
セイゴオさんは国家を論(あげつら)っているが(笑)、僕はミニマリズムに則って、言葉遊びの側面から人間を論じてみようと思う。


人間ってのはかなり不思議な言葉だ。

人間とは個人のことじゃなくて、個人と個人の“間”に存在する関係のことなのだろうか。(関係の中に真を見出そうとするのは仏教の影響か?)


僕は、この人間という単語を生み出した人はこう考えたのではないかと推測する。

「個人というのは数学的な点と同じように、それ自体では存在を定義されるべきものではない。」と。


個人はあくまで指標としてのポイントなのだから、“私”という点と“あなた”という点の間にこそ定義されるべき存在がある。

もし、個人が人間として定義されるとすれば、主観的な“私”とそれを客観視する“私というあなた”の間に関係を仮想しなければならない。

ただし、同一点上に“間”と呼べる距離を見るには外部の何かしら鏡となるものを利用する必要がある。

特に自分の痕跡(部屋の荒れ具合や文字の拙さなど)は虚像としての“私”を映すにはもってこいだ。

それにしたってその客観的な観測が主観の域を脱することはない。

つまり、“私”が私を人間として見るとき、それは架空の存在であって、実在の人間ではないのだ!

ただの言葉遊びなのだ!!


仮定とは言え、思索の原点である自己が、仮想によってしか定義されないというのは面白い矛盾だ。

どんな哲学者も思想家も、“仮想の自己”という不確かな点から出発せねばならないのは、さぞかし酷い苦痛だろうなぁ。・・・あながち他人事でもない笑。



とまぁ、冗談はさておき・・・

私という人間に何か確かなものを見出したいという欲求が自我なのだろうけれど、どこかでそれがただの思い違いだということを理解しておかないと、身に余るパワーを手にしたとき、歴史に新たな惨劇を刻み続けそうだ。

とかく人間の為すことは、勘違いが甚だしい。


(?_?)

2008-08-21 | ぎらぎら
人口生命Tierraが知性と呼べるものを持ったとき、創造主トム・レイは神と呼び、崇めたてたのちに存在を否定するのだろうか。

また、Tierraが文明を発展させたとき、Tierraは新たな人口生命を創造するのだろうか。


我々もまた何者かが実験的に生み出した物なのだろうか。

だとすると、かなり興味深いデータを提供していると思う。



いずれにしても、この手の実験は謎を深めるばかりで問題の解決にはならないのではないか?


そもそも、解決などないのかもしれない。

そこに問いなどないのかもしれない。


そう考えると、“存在”というものをこう定義することができる。

“問いのないところにある答え”と。

詭弁だ。

2008-08-21 | ぎらぎら
海と空は不思議な関係にある。

昼間の海が空を映せば、夕方の空が海を模すこともある。

そういう海と空の関係を僕は理想と考える。


人はなぜ土を選んだのか。

僕は土の魅力をまだ知らない。


まだまだ知りたくねーなー。


絶句

2008-08-21 | ぎらぎら
今日また蕎麦を食った。

先日の蕎麦との違いに愕然とした。

美味いものを知ることは、不味いものを知ることでもある。

空の美しさを知ることは、人の醜さを知ることでもある。

そう悲観的に考えるのは、おそらく僕の若さだ。

今の僕は状況に即応するチューニングの器用さを必要としている。

海で

2008-08-21 | ぎらぎら
今年も8月の後半に差掛かって、ようやく海に行った。
伊豆は下田の穴場的な海岸。
小さな浜を挟んでそびえる断崖絶壁。
波が浸食する断崖には永い時間が刻んだ地層が、たかだか数年前の記憶とはなんら変わりない姿で在った。


行きがけに釣具屋で買った680円のヤスで一匹のニザダイを衝き殺した。
丸一年ぶりの素潜りだったが、最初の一撃で結構な大物を仕留めた。


ヤスを引き抜くときに出た血の赤い色を見て「僕はなぜコイツを殺したんだろう。」と考えた。



遊び。
ただ生き物を狩るという残酷な遊びだ。


「・・・いいや、食うためだ。」

素手で頭を引きちぎり、皮を剥ぎ取って食った。
味どうこうより、とにかく身が生臭い。



食うためだとか生きるためだとか、正当化しようとする理由は自分への言い訳で、コイツを食わなくても俺は死にはしない。


やはり遊びだ。
殺す快感だ。

殺される恐怖。
殺す快感。

なんたる矛盾だ。




無邪気に蝉を殺していた夏もあった。

食えないような魚を殺してはしゃいでいた夏はいつの間に過ぎ去ったのか。

子供の頃、夏はもっと熱いものではなかったか。




この夏、初めて蕎麦の美味さを知った。


歳を取るとはそういうことだ。


思い違い

2008-08-16 | ぎらぎら
社会にモラルの欠如を見出すのは、単に自分の美学と大衆の美学とがズレてしまっていることによる思い違いか。

それを肌で感じたとき、奮起して声を上げるべきか憮然として口を閉ざすべきか。

いずれにしても、滑らかに迎合できるほどの器用さはまだない。

20代後半とはそういうことに大いに思い悩むお年頃だ。

なりふり構わず自己の存在を叫ぶ蝉たちのイノセントな姿が悩める脳にはとても心地好い。夏はそれ自体が巨大なカタルシスだ。

大衆の美学をモラルと呼ぶならば、モラルが欠如しているのは確実に自分の方だし、思うがままに周囲を変えたいと考えることが人類の犯してきた数々の過ちの根底にあることは明白だ。

ただただ願わくば、いつのときも大衆に“美学”の意識があらんことを。



グローバリゼィションももちろん好い。
が、嘗て日本人の特徴とされた内省の慣習が失われることは、日本文化の崩壊に直結するだろうね。間違いなく和の心は内省の上に育まれてきたのだから。

自分の名前よりも国の名前を大きく背負った選手が必死に戦う姿を見れば、やはりなんとか勝ってほしいと願うのももちろん人情だし大切なナショナリズムだが、自らを制するよりも相手を制することに重きを置くような、もはや日本文化とは呼び難い競技を見てチクリと心が痛むようなナショナリズムもあってほしい。

とは言え、崩壊する文化や加速する若者の晩熟化に代表されるような一見すると憂うべき現状さえも、ポジティヴに長いスパンで見れば国家規模で大器晩成の過程に入った証であるようにも思える。

序破急ならば守るべきものの崩壊もまた重要なプロセスだ。



社会のホメオスタシスに期待すればこそ、何事も別段憂うべくもない。

まぁ、神不在の国で“神の手”に期待するのも可笑しな話だが。

無神論者の立場から、僕はそれを“せせらぎ”と呼んでおこう。

ラプソディ

2008-08-12 | せらせら
麦酒なんぞ呑みながら旧い友人たちと話していたら、
美少年とされるカイロスの美しさの秘密はその後姿にあるのだなぁと、
心酔してしまった。

人の喜びとは幸福という“状態”ではなく、いつも幸福へ向かう“変化”なのだ。

去る るるる。

ミニマルの衝撃でコワれたアタマが仮説する

2008-08-09 | ぎらぎら
テーマ的にけっこう長くなる予感。

士郎正宗&押井守のタッグが現代に投げかけた古風な問いかけ「私とは何か?」は、星の数ほどの哲人たちが挑んできた知恵の輪だ。

結論から言って、おそらくそこに物質的な形を見出した人はいないだろう。

誰もが精神や意識といった形而上学的なところにある程度の“答えらしきもの”を置いて自身を安心させるに止まる。

その“答えらしきもの”を置く形而上学的な世界をネットという時流にすっぽり被せたという点で、popularityを得たのが少佐こと草薙素子という偶像の哲人だったのだろう。

ネットに関してここで着目すべきは、A)いわゆる形而上という概念よりも遥かに実在を感じやすいこと、そして、B)「部分と全体」の関係がより形而下的な特徴を持つ複雑系であり比較的把握しやすい集合知であること。

A)については、“形而上”とか“非物質的”と言ってもピンとこない人も“ネット”と言えば即座にそれが大体どういうものか頭に浮かぶということ。

B)の複雑系という見方は少しわかりづらいが、目視できる情報のすべてが同じ土俵に上げられているというふうに考えれば、その一つ一つが全体を構成する要素であるということが言える、ということ。そしてインタラクティブな情報は自分自身が系全体の一端を担っていることを意味する。

嘗ては、情報と情報との繋がりが今よりもずいぶん希薄で、個人の中で関連付けられ“編集された”情報群もほぼ孤立に近い状態で棚に置かれていた。まして複数の人の思考や感性などにリアルタイムに近い状態で触れるなんてことは至難の技だった。今はまだ脳からネットへ直結とはいかないが、広大に拡張され続けるこの仮想空間に“別人格”と称して既に人々は意識の一部をネット上に置き始めている。(物質的な縛りがない分だけ、より精神を露出しやすい環境で、モラルの欠如が騒がれるのは忌々しき事態だ。)


まぁ、つまり、情報化社会の副産物として人類は“よく解らないもの”を、以前よりは身近な“よく解る場所”に置く術を手に入れたということだ。

昔の人たちは宙に投げた魚を巧みに捌くようなことをしていたのに対して、今の人はまな板の上でしっかり捌ける環境にあるようなものだということ。

今後、AIの開発が進めば現実的に「自己の本質」という難攻不落の問いに曝される人がさらに増えてくるだろう。

情報化ということ自体が形而上の簡易的な具現化であり、社会の情報化はモノが溢れる時代から意味が溢れる時代への推移していく変化なのだ。

そして形而上学とは、モノから切り離された意味を扱う哲学なのだから、モノに溺れて哲学することを忘れつつある現代人が来るべき意味の時代に備えて今為すべきことは、まさに知恵の輪なのだ!(笑



・・・ま、それはさておき、

そんな諸々を考えながら、夏の灼熱におぼろぐ僕の意識が流れる時間にそって記憶を風化させ発酵させ熟成させながら縦横無尽に妄想アブダクションしていたら、一つの仮説が形作られてきた。

記憶の風化は人の不完全性がもたらす作用だ。

ある経験の記憶は風化の過程で無作為に不本意な捨象を施され、既に同じく捨象された他の経験の記憶と強引な共通項で結び付けられることがある。

劣化した情報と情報がメタファー観を経て新しい情報を生み出すわけだが、そういう真似は機械にはできまい。

これがいわゆる創造的発想というやつで、それは往々にして偶発的で破天荒なアブダクションの結果だ。

そういうふうに人間的な不完全が“揺らぎ”を生み出し、幾重にも重なった揺らぎの中で新たな可能性が生まれる。

『この風化から発案までの一連の流れこそがアンリ・ベルクソンが「持続」とした概念やチャールズ・パースのdeductionやinductionを絡めたabductionの概念を組み合わせた“時間的な幅を持つ個人のオリジナリティ”だ。』

意識を情報の錬金釜という目で見れば、草薙さんが人形遣いと結合すること自体にも新たなフラクタルを見出せる。


これからしばらく、この仮説を生活の中で検証してみようと思う。


通人のススメ

2008-08-03 | せらせら
珈琲がそうであるように人間もまた“深イリ”するとしばしば苦味ばかりが強くなる。

それじゃあ、甘味も風味もあったもんじゃない。



深い嗜みを知る通人は、浅いなかにある“仄か”を味わう術に長けているものだ。

若いうちは発火寸前まで煎った豆の苦味ばかりを求めがちになってしまうので、豆の個性というものをなかなか知り得ない。

珈琲に恋してさんざん苦味を楽しんだら、あとは浅煎りで豆の個性を深く愛してみればいいと思う。

音楽だってそう。

なんだってそう。



そう言えば、藤村先生a.k.a島崎藤村も「深く入って浅く出る」というプロセスを強く推していたな~。

昭和の初期、彼は既に“文明化社会におけるシンプルライフの重要性”を説いてもいた。

彼もかなりの人生通だったようだ。



ところで僕はまだまだ20代。
こんな爺さん臭いこと書いてないで、もっと何かに深イリしたほうが良さそうだな。

入力過多でオーバーヒート気味な脳につける冷却ファンは無いが髪を切るくらいならできる!(あくまで空冷)

2008-08-03 | ぎらぎら
ここ数日は押井さんの流れから、シロマサさんの世界観を喰らう日々です。

宮崎さんか押井さんかって言ったら、押井さん。

押井さんか士郎さんかって言ったら、士郎さん。

あー、アニメの話ですよ。これ。

今となっては、どうやら日本の三大精神は「わび・さび・もえ」らしいですので。

萌えって言うとヲタっぽいですけど、要は幼女趣味にしたってチラリズムの精神と根を同じくする現代の「奥床しさ」でせう?多少の精神歪曲は時世的にも“しょうがない”。(アルカイックな諦観)

HAPPY WITH WHAT YOU HAVE TO BE HAPPY WITH.

他者に示しているワリに自分の言葉で喋りすぎるあたりもシロマサさんには、共感を覚える。

思春期を過ぎても知恵の輪“THE GOD”に飽きない生き方にも共感。

自己の探究と人類の探究はフラクタル。

生命の起源が宇宙から飛来した説は、地球に衝突する隕石と有性生殖のフラクタル。


エアポートGtのフミ氏は「未来ではマイ宇宙が持てるらしいぜ!」って言っていた。(無重力と無重力がどうとかこうとか。笑)

誰の言葉か、「空想できるものは必ず実現する」だって!?

人間の世界は夢と希望のメルヘンなのか。

それは「実現されてきたものは過去に誰かが妄想していた」っていうだけの結果論じゃあないのかい?

帰納と演繹を繰り返し過ぎて頭がおかしくなっちゃったのかい?


梅雨の空気は体に纏わりついてきた。

夏の長髪は顔に纏わりついてきた。

だから伐った。

脳みそクールダウンしたら、まとめて出力だ!


とりあえず今日は一言、自他に向けて言わせて頂きたいことがある。

「ダダイストである前にモラリストであれ!」

ていうかダダとか関係なく、モラリストであれ!(モラルの定義は各自のゴーストのささやきに任せます。)