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日々思うこと

こころのかたち

2014-09-17 | せらせら

何かとやることが多い日々。

昨夜は珍しく早めに夕食を取り、寝た。

朝早くに目が覚め。草刈りに行っても良かったのだが、物思いに耽ることにした。

季節はいつの間にか秋。

少し肌寒いくらいの風。蝉の声はもう聞こえない。


数週間か数カ月か。とにかくしばらくぶりに自分と向き合いながら、表現ということについて考えた。

このテーマが自ずと湧いてきたのは、おそらく今の自分に必要なことだからだろう。

そういうことはいつも意図せずとも、自分の中に沸き起こる。

自浄の種は内在していると信じている。

それを見過ごすのは、何かに追われているときだ。

どんなときも、こころのどこかに逃げ隠れする場所は、確保しておかねばならない。


かつて芸術と表現を同義のように捉えていたが、今はそこに違和感を感じるようになった。

今の自分の行いは芸術というにはあまりに稚拙なところまで後退してしまっているように思う。 

そのありのままを文章にして、音でもつければ曲になるかと、書き綴ろうと試みたが、人の目、人の耳を意識するとありのままではいられなくなるので、やめた。そしてここに書き捨てることにした。


表現ということは意識せずとも、24時間やっている。
存在が他者に認識され続ける限り、死ぬまで続く。
寝ていても、誰かに見られればそれは無意識の表現とも捉えられる。
(むしろ、無意識の表出こそ芸術に近いとさえ思う)
先日、仮眠中の動きを他者に観察され、分析された。呼吸や鼓動などの生理的な動きを除外して、まったく意識せず体が動いているということは自分でも不思議だ。
なんのためにその動きをしていたのだろう?
ハトはなぜこんなリズムの鳴き方をするのだろう?

他者を意識して生まれる表現は、ほとんどの場合、認められたいという欲求バイアスがかかっている。
社会の中で在り続けるために最低限ならばそれもありだが、過度なものは見るに堪えない。
あらゆる他者の目を逃れ、認識されないところで滲み出す表出。真実という言い方も妙だが、経験のすべてから形作られるこころの形が、一切の影響を受けず物質としての体に現れることこそ、その人間の真実といっていいと思う。
そういうものを感じ取る感性こそ審美眼だと思う。

こういう解釈をすると、表現と芸術と真実との言葉の重なる部分と異なる部分が明確になってくる。
頭が醒めすぎて、思考が明確になってきたので、もうだめだ。今日はこの辺で切り上げることにする。



日々、社会性とその対極にあるものとの両立を模索している。
NPOとはいえ、代表という立場。ともすると社会性ばかりに気をとられてしまいがち。
一表現者として、そんなもの糞喰らえと公言しておこう。
政治屋や権力者、団体としての動きにとってプラスになる人間と嘘臭い笑顔で取り繕って話しはするが、本音では外交などどうでもいい。芸術至上主義であることが自分の本懐だ。


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