「―でも、なぜでしょうね。急に捨てたくなっちゃったんですよ、全てを。そうすることでしか手に入らないものにとり憑かれてしまっていたかもしれない。……それがもう十何年も前の話」
そう言って男は雲を見やった。
青く澄んだ空には、いくつかの雲が行くあてもなく流れていた。
数分前、雑誌掲載用の写真を撮りに公園にやってきた僕に、見知らぬ男が声をかけてきた。
聞けば彼もかつては出版の仕事をしていたらしい。
最初はカメラの話、それから仕事の話、そして捨ててしまった家庭の話へと、数分のうちに話題は変遷した。
男の年齢は50歳くらい。白髪混じりの頭が品よく調えられ、いかにも知的な雰囲気がある。
「でも、そうやって過去を美しく省みられることは、ある意味では幸せなことじゃないでしょうか。世の中には、そんな過去さえない人だっています」
「幸せ!? 冗談じゃない! 毎朝目が覚めるたびに、この悪夢が現実だと思い知って死にたくなりますよ。」
男はにわかに感情をあらわにして、声色を強めた。
僕は軽率な発言だったかと、投げ掛けた言葉を一つずつ反芻してみたが、これといって見当外れなことは言ってないと納得した。
そのわずかな間に、男の表情には元の穏やかさが戻っていた。
そして男は諭すようにこんなことを言った。
「とにかく、どんなに重かろうと一度手にしたものを投げ出さないことです。本当の自由というのはそんな風にして手に入れるものじゃない」
男は携帯灰皿に煙草をねじ込んだ。
その言葉を素直に府に落ちないものを感じながら、同時に彼に対して不思議な親近感を抱いた。
そして、そこからどういう方向へ話が向かうのかに期待したが、その後の話題は、今どきの学生がいかに本を読まないかとか、聞いたこともないような日本映画の話ばかりだった。
そのうちに「今日はいい話ができました」と話を締めくくり、男は公園を囲むように乱立するビル群に消えた。
昼休憩の終わりが近付いていたのだろう。
去り際に互いに名前を名乗ったが、すぐに忘れてしまった。どうせもう会うこともないだろう。
ただ、彼が口にした“自由に関する考察”は僕のなかに深く刻み込まれた。
その後、何かを手放しそうになるたびに、その言葉を思い返しては、様々な角度から自分なりに解釈を試みた。
しかし、いまだに自分のものにはできないまま、それはもわもわとした柔らかい塊となって僕のなかに居座り続けていた。
そして、その塊が一つの選択を妨げるのだった。
現状、僕はこう考える。
誰にせよ、彼の言葉にすんなり共感できるような道を歩むなら、やはりそれは悲劇と言わざるを得ない。
ならばやはり、あの日の僕の発言はあまりにも思慮を欠くものだったに違いない。
もし、また会うことがあったなら、まずそのことを一番に謝りたい、と。
そう言って男は雲を見やった。
青く澄んだ空には、いくつかの雲が行くあてもなく流れていた。
数分前、雑誌掲載用の写真を撮りに公園にやってきた僕に、見知らぬ男が声をかけてきた。
聞けば彼もかつては出版の仕事をしていたらしい。
最初はカメラの話、それから仕事の話、そして捨ててしまった家庭の話へと、数分のうちに話題は変遷した。
男の年齢は50歳くらい。白髪混じりの頭が品よく調えられ、いかにも知的な雰囲気がある。
「でも、そうやって過去を美しく省みられることは、ある意味では幸せなことじゃないでしょうか。世の中には、そんな過去さえない人だっています」
「幸せ!? 冗談じゃない! 毎朝目が覚めるたびに、この悪夢が現実だと思い知って死にたくなりますよ。」
男はにわかに感情をあらわにして、声色を強めた。
僕は軽率な発言だったかと、投げ掛けた言葉を一つずつ反芻してみたが、これといって見当外れなことは言ってないと納得した。
そのわずかな間に、男の表情には元の穏やかさが戻っていた。
そして男は諭すようにこんなことを言った。
「とにかく、どんなに重かろうと一度手にしたものを投げ出さないことです。本当の自由というのはそんな風にして手に入れるものじゃない」
男は携帯灰皿に煙草をねじ込んだ。
その言葉を素直に府に落ちないものを感じながら、同時に彼に対して不思議な親近感を抱いた。
そして、そこからどういう方向へ話が向かうのかに期待したが、その後の話題は、今どきの学生がいかに本を読まないかとか、聞いたこともないような日本映画の話ばかりだった。
そのうちに「今日はいい話ができました」と話を締めくくり、男は公園を囲むように乱立するビル群に消えた。
昼休憩の終わりが近付いていたのだろう。
去り際に互いに名前を名乗ったが、すぐに忘れてしまった。どうせもう会うこともないだろう。
ただ、彼が口にした“自由に関する考察”は僕のなかに深く刻み込まれた。
その後、何かを手放しそうになるたびに、その言葉を思い返しては、様々な角度から自分なりに解釈を試みた。
しかし、いまだに自分のものにはできないまま、それはもわもわとした柔らかい塊となって僕のなかに居座り続けていた。
そして、その塊が一つの選択を妨げるのだった。
現状、僕はこう考える。
誰にせよ、彼の言葉にすんなり共感できるような道を歩むなら、やはりそれは悲劇と言わざるを得ない。
ならばやはり、あの日の僕の発言はあまりにも思慮を欠くものだったに違いない。
もし、また会うことがあったなら、まずそのことを一番に謝りたい、と。