せせらぎせらせら

日々思うこと

MUSIC 

2008-07-30 | せらせら
睡眠不足の7月30日深夜遅く(または早朝非常に早く)Steve ReichのMusic for 18 Musiciansを聴く。

頭の中に何かが組み立てられていくような、崩れていくような、体の周りの薄い膜が暗さに融けていくような、睡眠の中に覚醒していくような。




これは冒されているのか清められているのか。





いずれにしても心地は好い。





或る者にとっての異常とまた或る者にとっての正常の区別がつかなくなってくる。





今、自分はどちらに属しているのか。





数分前までどちらに属していたのか。






音のフラクタル。極大と極小の酷似。





安堵が鳴らす警鐘。




これは大丈夫なのか?

精神的に大丈夫なのか?

人間として大丈夫なのか?







今自分が聴いている音は実音なのか、という疑念。





現実感がどこにもない。

もともとそんなものは無かったのではないか、という疑念。






何一つ乱れないということがこれほどの混沌とは!







違うということがこれほど同じことだとは!









複雑系の至るところにある簡素は狂気の美。












あ、終わった。


同一民族間カルチャーショック・・・

2008-07-30 | ぎらぎら
彼「今日セミが鳴いててさー」

俺「へ~。それって何ゼミでした?」

彼「は?そんなの知らないよ!」

俺「え!?」


どうやら彼は俺にとってそこそこ遠くてとても遠い人間だ。

民族ってのは、文化的な共同体と定義されているらしいが、同じ民族でも日々感じてることはだいぶ違うもんだ。

カムイとアイヌ

2008-07-30 | せらせら
アイヌの平和的な思想が好きで少し調べてみたら、面白いことを知った。

彼らアイヌにとってカムイは絶対的な支配者ではなくて、カムイがあまりに理不尽な仕打ちをしたときはアイヌ側から抗議することもあったらしい。

実状は知らないが、その様子を想像して少しほのぼのしてしまった。

絶対神の下に盲目的に従うタイプの宗教より、そういった自然崇拝の持つユルさが好きだ。

取捨の義

2008-07-30 | ぎらぎら
まずいね。

これほど連続してエナジェティックな夏に乗じた凶行が起こると、オーバーフローしてシステムオブアダウンがちな人の暴走行為選択の中に「人込みで刃物を振り回す」っていう項目が、あたかも当然の選択肢のように加えられてしまいそうだ。

一時期は、暴力的な表現を含んだ映画やゲームなどがその危険性を指摘されて、一部のモラリストさんたちの槍玉に挙げられていたけど、今や多発する凶行事件の報道自体が破裂寸前の風船たちにもう一つの選択肢を提示しているようにも感じられる。
現実に起こっていることだけにゲームなどよりよほど実行へと繋がりやすそうだ。

ああいった事件の報道は取り扱い方次第で大きな後続抑止にもなるが、予備軍層に対して多大な影響力のあるコメンテイターさんが大袈裟なぐらい痛烈に批判してしっかり釘を刺しておかないと、反対方向の力が抑止力を上回る危険性は高い。



人間って簡単には意識の及ばない行動を取れないかわりに、目の前の棚に陳列されたCMで見た商品には安易に手を延ばしてしまったりするもんだ。

ワイドショーがこぞって事件を取り上げるのはサブリミナル効果を狙って数打つCMみたいなモンですぜ。

しかも、加害者のみなさん、動機については言うことがコロコロ変わったり、ワケの分からないこと言ったりするでしょ?

あれってトボけてるんじゃなくて、実際当の本人自身が動機なんてものをよく分かってないんだと思う。

ひょっとしたらただ思春期のモヤモヤ的な正体不明の負のエネルギーなのか。

その辺の負の螺旋が加熱されて「ストレスフルな社会」+「報道サブリミナル効果」+「猛暑の熱気による思考力低下」→凶行

ってな短絡を招かなければよいが・・・。

人間って結構短絡的な生き物(ばか)だからなぁ。



まぁ今後、これ以上そのテの事件が起こらずに、実は僕が短絡思考だったというオチと反省だけで済めば万々歳です。

もとより秋がくれば浮かれ過ぎた夏を反省するつもりです。

ゾーン

2008-07-29 | せらせら
まさか!と思わず疑ってしまうほどラッキーな偶然が自分の身に降り注ぐ日は、自分が大いなるせせらぎとともに流れているような感覚がある。

大切なのは、全身で流れを感じること。
流れの一部になること。

まぁ完全には無理にせよ。
それなりにね。

距離

2008-07-29 | せらせら
おそらく誰の周りにも、遠くて近い人間と、近くて遠い人間がいる。

遠くて近い人間は共生する安らぎを、近くて遠い人間は孤独の寂しさを運んでくる。

その両者が同じくらいのバランスでいることが、僕にとってはとても重要な気がしています。

このバランスが崩れれば、今の自分なんてものも簡単に崩れてしまうのではないかとさえ感じてしまう。


気ままにその日暮らし

2008-07-29 | せらせら
“美”の域まで到達しているものには、もはや優劣をつけてみようなどとは考えなくなった。

今まで見た夕焼けの中で一番美しかったものは?と聞かれても答えられる筈もない。

ただ、昨日わかったことは・・・
ヒグラシの声とニィニィゼミの声は非常に相性が美いってことだ。

しかし夏と麦酒は言うまでもなく好い。

トップ・リサイクラー

2008-07-27 | ぎらぎら
頭の中を徒然なるままに書き綴るというのは僕にとって一種の発散だ。

以前に脳の消化器官的側面に言及したときにも書いたが、良くも悪くも日々の経験の全てはストレッサーと言える。

どうせ発散するなら、それをどう処理するか。

それをどうやって無害化するか。

あわよくば、それをどうやって有効に吐き出すか。

舵取りを誤れば誰だって公共の場で刃物を振り回しかねない。




僕は「人間たる者、須らく表現者であって常に何らかのエネルギーを周囲に発しながら生きている」と思っている。

当人の意志に関わらず生きている限り発せざるを得ないとさえ考えている。

現に本人が意識しなくても、そこにいるだけで場を和ませる人もいれば、辺りかまわずイライラさせる雰囲気を持っている人もいる。
(そういう曖昧な判別は受け手の感性に因るところも大きいので一概にどうこう言えるものでもないが・・・。)



人と人とのコミュニケーションで取り交わされるちょっとした仕草や感情のような非物質のエネルギーも、リサイクルの概念を取り入れた循環エネルギーだという考え方で扱えば、自ずと世の中はもっともっと住みやすくなる。

例えば、イライラした仕草や荒々しい口調のように怒りをストレートに吐き出せば誰かに何らかの負の感情を伝達することになり、放射状に伝達が繰り返されるが、それは裏を返せば映画「ペイ・フォワード」のように善意が循環コミュニケーションに乗って伝達することも自然と起こりうるということでもある。


しかし残念ながら、僕の目には今の世の中は多少、負のエネルギー過多に映っている。

負のエネルギーが循環し膨張しながら、どこかで繊細な風船が割れ続けている。

誰かが循環の途中で負を正に変換していかないと悪循環を抜け出すのは難しそうだ。
(悪循環の原因の一端は“現代人の疲れ”にあると睨んでいるので、その辺りは後日さらに考察して書きます。)


とにかく、ストレスの舵取りが上手い人というのは、自分が受けた負のエネルギーを他者にとっての正のエネルギーに変換して発散する術を知っているもので、芸術家と称される人達の中には「怒り」「憂い」「悲哀」などのインプットを見事なアウトプット術をもってして他者に感銘を与える作品に仕上げてしまう人もいる。

そういうエネルギーの華麗な浄化の匠を目の当たりにすると、思わずJ・P・ポルナレフばりに「ブラボー、おぉブラボー!」と声なく喝采してしまう。





自分の感じた素晴らしいものを人に伝えることはもちろん好い。

ならば自分が感じた嫌なものを素晴らしい形に浄化して人に伝えていければさらに好いだろうと思う。



実は、毎日このブログのアクセス件数をチェックするのが僕の密かな楽しみなのだが、ここのところアクセス数が大幅に増えてきている。
これは“伝える”チャンスだ。

目下、僕の目指すところはそういうトップ・リサイクラーだ。

差し当っては、この「発散される感情も循環エネルギー」という考え方が循環に上手く乗っかることを願いたい。

BBQ or not

2008-07-27 | ぎらぎら
こんな有名なやり取りがある。

スパイク:「肉のないチンジャオロースーなんてのはチンジャオロースーとは言わねーんじゃねーか?」
ジェット:「いや、言うね。」
スパイク:「言わねえよっ!」
ジェット:「金がないときゃ言うんだよ」

そうだ。
ほかに運転手がいなくて酒が飲めなくてもBBQはBBQなのだ。
仕方がないのだ。

無神論者は知恵の輪が数寄!

2008-07-26 | ぎらぎら
これまでもこれからも、恐らく永久に人類が挑み続けるであろう最も難解な知恵の輪を誰かが“神”と名付けた。


一般に知恵の輪は解くより元に戻す方が難しいと言われる。

難易度∞の“神”も多分に洩れずそうであるならば、いまだ解の糸口さえ見出せない人類はまだまだ前半のキックオフ直後なのに「いきなりCMかよ!?」的な下世話な資本主義だ。

まぁ資本主義の理念が上手く機能すれば学者さんたちの研究も進み、解法に光明を見出せるのかも知れないが・・・。

案外、寄ってたかって奮闘する学者さんたちを尻目に、どこかの遊子か数寄者が世界の隅でニヤリとアルカイックに微笑んでいるかもしれない。(ドラクエ3的解釈)

そうだとしても知恵の輪の解法は他言無用が原則だから、秘密裏に“神”の御許に還されるんだろうね。


・・・ほんと、よくできた知恵の輪だよ。



とにかく俺はまず、カルテットを元に戻さねば!
戻すのが異常に難しいカルテットのテーマを「絆」とした製作者サイドのネーミングセンスがやたらニクイ。

難儀なこった

2008-07-26 | ぎらぎら
解るということは、言葉を失うことでもある。

そこに教授の難しさがある。

一つの道の極みの域まで到達した宗匠は大概多くを語らない。

学ぶものは師の纏う静寂を聴くことをしなければ到底得心には至らない。


学びの真髄は様々の静寂を聴くことにある。

まずは目で聴き、心で観る力を養いましょう。

わかる

2008-07-26 | ぎらぎら
知っていたものが解ってくる感覚ってのは、思索する為に便宜上分けていたものが融和していく感覚と非常によく似ている。

「解」というバラバラになるようなイメージと、「融」というドロドロなイメージとが感覚的に酷似するのは考えてみれば奇妙なことだ。