せせらぎせらせら

日々思うこと

遺憾

2012-05-25 | せらせら

「ほんとは○○したいんだけどね…」って発言を聞くと、やりたいなら早くやればいいじゃん、と思う。

やらないんなら、その“ほんと”はウソなんだと思う。

死ぬときに「あれやってりゃよかったなぁ」なんて思ったらヤじゃない?

俺はイヤだ。

 

惰性で生きて、惰性で老い、惰性で死ぬなんて、考えただけでもゾッとする。

ま、ラクはラクなんだろうけど。

 

ごめん。言い過ぎた。幸福の形は人それぞれだよね。

最近、頭が固くなってイカン。

 


あるべきものをあるべきところへ

2012-05-24 | せらせら

自分ではほとんど使わないけど「ぱねぇ」って言葉がかなり好き。

「半端じゃない」→「ハンパない」→「ぱねぇ」

う~ん、無駄がない。

言葉のアイデンティティを損なうことなく、ここまで簡素に表現できるとは。

お見事。

誰が言い始めたかは知らないけど、引き算で創造するのは大事だと思うし、過不足ない状態ってのはそれだけで美しいと思う。

 

「ぱねぇ」。ふつーに辞書とかに載って欲しいもんね。

例えば、お茶の席で「結構なお点前で…」の代わりに「ぱねぇ」と言ってみてはどうか。

国会で子供のようなヤジを飛ばされたら「あんたら、ぱねぇな」と返してみてはどうか。

 

使い古された行為や言葉は、どうしても形骸化して本来の意味を失ってしまう。

そこに新しいものを置くことによって、場が彩りを取り戻すのであれば、その行為はもはや芸術と言っても過言ではないと思う。

こと言葉には、常にそういうふうに呼吸していてもらいたい。

 

古いものの良さ、新しいものの良さ。

島崎藤村的に考えると、恐らくどんな言葉よりも「ぱねぇ」がはまるシチュエーションというものがあって、他の言葉では置き換えることができない唯一無二の効果をもたらすことができるはず。

人も言葉も、そういうところに置くことで、本当の意味で生きることになる。


よがり

2012-05-22 | せらせら

『宇宙戦争』って映画があるじゃないですか。

あれ、昔あった映画のリメイクらしいんですね。

僕はスピルバーグ版のほうしか見てないんですが。

宇宙人がいきなり現れて問答無用の殺戮を始めるわけですよ。

その圧倒的な科学力の前に人間はなす術なし。

巨大なマシーンから発射されるレーザーで粉みじんに消されちゃうんです。

理屈が通じない相手って恐いな~って思います。

 

名もなき草その1「おはー。今日もいい天気だね!」

名もなき草その2「おはーってお前、古くね? あ、やべ。今の風、超やべー。スガスガしい! やっぱこの時期は朝が最高に気持ちええわ」

名もなき草その3「ちょっと、アレ見て。なんか来たよ。なんか手に持ってる……。え? ウソ!? やめろって!! おい、やめ……ギャース!!」

名もなき草その1&その2「ギャース!!」

大量殺草鬼・U(俺のことね)「ふ~、朝の労働は気持ちがよいゼ。やっぱ田舎暮らしはこうでなくっちゃ! 東京のヤツらも早く来て、こういう健全な汗を流すといい。これで帰ってシャワーを浴びれば、ストレスなんか全部流れていっちゃうってもんよ」

 

いきなり鎌を持って現れ、バッサバッサとなぎ倒していく人間。

 雑草にとっては、人間も同じなんだろうな~って思う。

 

なるべくなら、除草剤を使わずより人力に近い形で、やっつけてやるのがせめてもの誠意。

装備を全部外して、素手で殴り合うプレデターみたいに。

当然、殺るからには殺られる覚悟も必要。そのうちM・ナイト・シャマランの『ハプニング』みたいに、草たちに逆襲されても文句は言えません。結局、『宇宙戦争』でも宇宙人たちはウイルスにやられちゃったしね。

あと、名もなき草呼ばわりするのも失礼な話なので、近いうちに野草事典でも買おうかと思ってます。

ま、全部自己満です。

 

どうあがいても僕には「殺す」行為を正当化は出来ません。

俺の欲求のために死んでもらいますとしか言えません。

罪悪感が残らないように、「誠意」などという言葉を使ってみるも、つまりは道化でしかありません。

 

同族を殺せば世間から責められるのに、他の種族はいくら殺してもほとんど責められない、害虫や雑草に関しては殺さないと周囲の農家さんから責められる始末。

人間社会はひどく独りよがりだ。

 

それでも、分業化が進んだ都市部で殺すことを知らずに生きていくのもアレなので、田舎でそういう生の経験(草だって刈れば、血に相当するものを流す。泡を吹くやつもいる)をしながら生きるほうが性に合っています。

自然界には生も死も無数にある。自分自身もその1つに過ぎないことを肌で感じたい。


分からない…

2012-05-21 | せらせら

—前略

礼奈「結局、ユウは私のこと、何も分かってない…」

俺「そんなことない、分かってるって(棒読み気味)」

礼奈「じゃあ、私が今1番欲しい物、何だか分かってる?」

俺「(きた。厄介な質問。しかしコレを外すと更に厄介な事態を招くことは必至!!)……指輪?」

結婚したときは、そんな束縛の象徴のような物をわざわざ身に付けることはない、ということで納得してもらい指輪は買わなかったものの、先日の妹の結婚式を見て、やはり欲しくなったのだろうという読みだ。

しかし、礼奈の回答は意外なものだった。

礼奈「やっぱり! 全然分かってないね。答えは『ミキサー』よ。私がどれだけ健康志向か、知らないでしょ! 毎朝、野菜やフルーツをミックスして飲みたいの!!」

俺「分かるか!! っていうか、そんなん欲しいならすぐ買え!!」

 

分からない。女という生き物が分からない。

分からないから、分かり合おうとする姿勢が大事なんだと思う。

僕らはそれを愛と呼べばいいんだと思う。

 

でも、愛があっても、この質問には答えられないと思う。

だって、どう考えても「指輪」だろ、ふつー。


煙の形、ドーナツの形、辿り着くべきところ

2012-05-17 | ぎらぎら

静寂と対話することによってのみ、人は真に成長することができるのではないか。

そして現代社会には、そういう場が少なすぎるのではないかと思う。

 

 

穴の中で、穴に拒絶されながら生きる。

それが僕の願望であり、これを捨てることによって、僕らは幸福になる。

 

しかし、その幸福は僕が辿り着くべきものなのか。

僕はそういう類の幸福に満たされる人間なのか?

 

人生をかけて追求すべき形は、存在と欠如の融和、即ち、それはたゆたう紫煙の曖昧さであり、よりソリッドに言えばドーナツに象徴される○○(感覚的には掴みつつあるが、○○に置くべき単語、概念と言ってもいいかもしれない何かを僕はまだ見付けられていない)と考えている。

そのために、生きていく上で必要最小限の線は力強く引きながらも、その行為の意味を理解し、同時に恐怖することを忘れてはいけない。

 

線を引く喜びに支配され、その行為に対する恐怖心を失ったとき、僕の中核をなす何かが死んでしまうだろう。

裏を返せば、それさえ忘れずにいれば、どこで何をしようとも僕は僕で在り続けられるということでもある。

 

 

人生のなかで、真を見付けたのなら、全身全霊でそれを守り通すこと。

さもなくばすべては徒労に終わる。