せせらぎせらせら

日々思うこと

エンジン音だけ聞いてブルドーザーだと認識できるようにわかった!

2008-05-30 | ぎらぎら
ココで松岡氏の本気を一寸垣間見ることが出来ます。

彼はここに主語をおく人なのか?

完全にその分野の知識が不足している僕にもこの熱はわかる。
取っ手に触れただけでフライパンの中の油が発火寸前だとわかるほどに!

ディスプレイに表示された文字を追いながらでも、時間軸を違えた彼の眼差しの奥にギラギラと澄んだものが見えるほどに!

この凄まじいエネルギーは遊蕩と呼ぶには少し高温すぎるんじゃあないだろうか?

そして一体何箱の煙草がこのエネルギーの前に灰と化したのであろうか?笑


不図

2008-05-30 | せらせら
考えてみれば、「皆が『金』という共通の価値観に従って世界に興じましょう。」と言っている中で「金に何の意味があろう」とか言い放って遁世してしまうのも、いささか興醒めに思える。

数人で桃鉄をやってて内一人が「俺、目的地とかキョーミねーし・・・。」とかそういう感じだ。


639年

2008-05-30 | せらせら
まずは自分を万物から切り離す。

そうして万物の何たるかを知る。

そしたら万物が自分に見え始める。

いつのまにか、自分と万物が融和する。




今、人類が自分たちと自然を切り離して考えているのは、この過程の途中だからだろう。

その意味で先進国の文明はようやく青年期に差し掛かった段階と言える。

この社会全体が積み重ねてきた過去を、遠い未来に起こるであろう回帰に向く動きに帰納するとき、人類は新しい過去を経験するだろう。

それが人類の老後の愉しみ方だと僕は思うのです。



ジョン・ケージ作曲の「Organ²/ASLSP」が2639年に演奏を終えるころには世界はもっとゆっくり流れているといいですね。

たばこ

2008-05-27 | ぎらぎら
喫煙とは何だ。

煙草とは何だ。

そこら辺の答えを見出せずして、煙草の是非を問うことはままならない。

論議とは、知識の上に成り立つ二次的な立体塑造なのだ。



一度は止めておこうとも思ったが、ここにきて敬愛する松岡正剛氏が愈「煙草」に言及しているので僕も微力ながら発言を、と。


そもそもが、煙草は無駄なのである。

その無駄を肯定することも無駄なのである。

そこに小難しい理屈を並べ立てようとすることが無駄なのだ。

DIOなのだ。



しかし、僕の人生は無駄に満ちている。

僕は無駄を求めている。

謂わば、

それは舞踏だ。

文学だ。

言語だ。

それは人情だ。もちろん非人情だ。

オブジェに見る芸術だ。

押入れに漂う蠢きだ。

我々の後ろにある未来だ。

昼下がりの欠伸だ。

死をも含蓄する活力だ。

ニコチアナだ。タバカムだ。つまりナスの一種だ。

流動するメタファーだ。

神との対話だ。

形式の誇大と本質の欠落だ。

俗習だ。

儀式だ。

座ることを拒む椅子だ。

なんことでせうか。・・・・もういい。

煙よりよいものはないのだ。

かくて夜は更け夜は深まつて
犬のみ覚めたる冬の夜は
影と煙草と僕と犬
えもいはれないカクテールです。だ。

生活の句読点だ。

革命だ。

デカダンスだ。

それから公害だ。

百害だ。

1500年続く文化だ。

格好の爪先立ちだ。

海鳥の悲しみだ。

遊子の慰みだ。

場末の居酒屋だ。

世界の調和だ。

調和のとれた不協和だ。

仏教徒のジンテーゼだ。

ぶらぶらブルースだし、ベルビューに吹く熱風だ。

ブラジルに吹きつける極寒の激風だ。

此処に在って此処には無いものだ。

輪郭をぼかすテレピン油だ。

歪みを捉える超広角だ。

世界の静けさだ。

有為の奥山だ。

超克を許さぬ存在だ。

ビョーキだ。

安価なダンディズムだ。

安易なペシミズムの呟きだ。

安直なイデアの偶像だ。

真紅の口元に咲く花だ。

分断されていく連続だ。

客観の模索だ。

破壊と創造だ。

それでいて煙だ。

機の円熟を示す狼煙だ。

終焉を語る烽火だ。

鈍色の河原に積まれる石だ。

明鏡止水の映す波濤だ。

奥に感じる微かな痛みだ。

箱に入っていたものだ。

モノローグの問答だ。

紙に巻かれた葉だ。

灰を落とす燃焼だ。

道に捨てられるモラルの欠如の具象だ。

ただの煙草だ。

順不同だ。

全ての無駄だ。

そして全ての意味だ。

ただそれだけだ。




もはや議論の余地もない。


!?

2008-05-23 | せらせら
アラビア語って「?」までもが左右反転すんのね・・・。
まず「?」に方向性があることを知らなかった・・・。

「?」マークは万国共通なのか!?

起源についてはウィキには
「ラテン語のquaestioの最初のqと最後oを縦に重ねた合字という説がある。」
とありますが・・・これも定かではないな。

スペイン語では
文頭に上下反転の「?」が付くのね。
例)¿Qué dices?

各国の言語文化によってされるがままに転がされているこのお茶目な形にすごく愛着が湧いてきた。

煙に見る自我像

2008-05-23 | せらせら
実際の鏡面とは違って、いわゆる鏡とメタファーされるもの(それはつまり万物がなり得るワケですけれども)は曖昧に曇っているほどハッキリと自己を映し出す。

それが光学的な鏡と形而上学的な鏡との決定的な相違だ。

その両者の関係は金と情の関係にも似て、上手いところで折り合いをつけないとバランスを失って物質と精神の関係自体が崩壊してしまう。

電車内で鏡片手に化粧具合を気にしているような人ほど、自分というものが見えてないのではないだろうか。

ま、カタチが綺麗ならそれでいいって人には余計なお世話か。

昨日のまとめ

2008-05-23 | せらせら
■不安
暗闇に潜む漂いを怖れる気持ち。
それを照らし出すか、何が潜んでいようと関係ない強さ(=自信)を手に入れるか。
そこに目を叛けて生きていくことは簡単だが、長期的に見て楽な道ではない。
照らし出すなら、徹底的に調べ上げ隅々まで熟知すること。
強さを求めるなら、逆に自分の弱点を人前にまた自身の前に曝け出すことが重要なプロセスだ。
中原風に漱石の言葉を借りれば「自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかける」行為が自分の負を清算するということでせう?
未来への不安は過去に起因しているということを知るところから。

■自信
金融界でいうところの投資だ。
投資家は自分、投資先も自分、投資するものは気概。
投資家は企業の経歴、実績、経営手腕、将来性、時代適正などを参考に投資の是非を決定する。
投資できないような自分なら早急に再生プランを要するのではないか。
自分で出来ない場合は冷酷なコストカッターをターンアラウンドマネージャーに起用することも時には必要ではないか。
とにかく、これは出来る、これは出来ない、という冷静な判断ができれば自分が活きる場所も自ずと見えてくる。
何事も自分を知ることから。

骨格の変化

2008-05-22 | せらせら
それを眼前に人は問う。
「これは何だ。」
それはこう答える。
「私は私だ。」
それを聞いてか聞かずか人はまた問う。
「私は何だ。」
それはこう答える。
「私は貴方だ。」
それを聞いてか聞かずか人はさらに問う。
「貴方は何処だ。」
それはこう答える。
「貴方は此処だ。」
それを聞いてか聞かずか人はやがて何処かへ立ち去った。

これがあらゆるローグの原型だ。

今日の境川

2008-05-22 | せらせら
今日も境川、せらせらと流れて行きます。
一昨日の彼、ぎらぎらと流れておりました。

怒涛の流水の中を鯉や亀はどのようにやり過ごしているのかと水棲生物愛好家のケン・マツダに訊きましたところ、「激流の中でも流れの無い所がある。」と彼は言いました。僕は俄かにそれが信じられず、一昨日の明け方、嵐の中を傘も差さずに境川沿いを歩いておりました。そうしましたら、確かにありましたねぇ。そこには緩やかな濁りの中から顔を覗かせている亀、激流を避けて耐え忍ぶ鯉。やはりこの目で見るという説得力は格別だ。

今日も境川、せらせらと流れていきます。
一昨日の彼、ぎらぎらと流れておりました。

今日はまたいい天気だ。

秘密

2008-05-20 | せらせら
その箱の中にはこの世のものとは思えないほど美しいモノが入っていた。

誰かがそれを一目見ようとそっと箱の中を覗いた。

だが美しいモノは、もうそこにはなかった。



Q、さて美しいモノは何処へ行ってしまったでしょうか?
(この問題が解けた人にはイイモノを差し上げます。)

鍵と鍵穴

2008-05-20 | せらせら
僕の理解の中だけでも本当に大事な部分を人に伝えようとすると、いつも言葉に詰まる。
言葉じゃあないものを人に伝えるために言葉を用いることは無意味だとも思う。
だが、言葉じゃあないものを理解するにも言葉を知っておくことは大事だ。
言葉や言葉を使った情報といった知識は大事なことを理解するための鍵になる。
いろんな鍵を収集して、いろんな扉を開けていけば、必ず理解は広がる。
その行為が学ぶということではないだろうかと思う。

言葉を知っていても理解のない人もいるけれど、理解のある人は言葉を知っているものだ。


物語

2008-05-20 | せらせら
求めて得られる儚き喜劇はプロローグ
求めて得られぬ暗き回廊はエピローグ
求めぬ至りと寂寞の舞台はモノローグ
得られる慰みは束の間のダイアローグ
語られることのない美しきメタローグ

紡がれる時間のローグ