せせらぎせらせら

日々思うこと

梅雨の終盤はやけに湿度が高い。

2008-06-30 | ぎらぎら
即応:
故デレク・ベイリーはギターを手にした際、常に周囲に対して集中していたという。
故土方巽は日常のピアニッシシモを凝視していた。

何かが動けば波及して全体に響く。同じ世界に在って全体に影響しない部分はない。止揚の至りに一頂点が存在する構造体にはそういう性質がある。

プラグマティックに考えると、必要以下は切り捨てていかなければ毎日がドラッギーな至福やペシミスティックな大惨事で溢れてしまう。それでは息が詰まる。
その防止策として各々が独自のゲートをかけたりコンプレッサーやリミッターを踏んでいるわけだが、世界の豪快なダイナミズムを存分に味わう為にはどれも無用の産物だ。

息が詰まるなら感性に無理にエフェクトをかけるより、深呼吸した方がいい。
安息の中でこそ活きるものは多い。

ミニマルな反芻、アバンギャルドな解体、プログレッシブな再構築も閑雅な即興劇も郷愁にたゆたうナイヤビンギもハードコアな衝動もクラシカルな心の震えもジャジーな鳥の羽ばたきもノイジーに行き交う人々もコマーシャルな装飾花も90'sなエレクトロニカも悠然な原始のミメーシスも。


だが小麦の味を知るには市販のパスタソースは少し味が濃い。
だが雨の語りを聞くには、やはり世の中は騒々しい。


数日前から国道16号線の脇に手向けられた花にはミスドの袋が添えて置かれている。
僕は毎朝そこを通る。


梅雨も後半に入って湿度が増してきた・・・

深呼吸しながら蝉を待とう。

ノスタルジア

2008-06-28 | せらせら
名前さえ思い出せない時間の残り香に心が馳せる柔らかい痛み。

人は自己の経験を超えるノスタルジアに身を埋めることもできる。

そういう術をどこで身に付けるのか知らないが、なんとも贅沢な愉しみ方だ。

風穴

2008-06-28 | せらせら
ジミー・クリフの"The Harder They Come" という曲を初めて聴いた。

英詞なので一聴しても意味までは解らないが、いろんなものを孕んだ風が胸の奥を吹き抜ける感覚があった。

名曲の持つエネルギーには毎度畏れ入る。

ああ、そろそろ

2008-06-27 | せらせら
夏ですね・・・。

夏が好きすぎて嫌いになりそうだ。

好きという感覚も度が過ぎると大きさだけを残して方向性がコロリと反転することがある。

心惹く花を伐って一輪挿しにという風情も、人に対して行えば猟奇殺人になる。

「一枝伐ったら一指斬れ」というような戒言もある。


夏が好きすぎて・・・というのは、夏を愛するが故、夏の何たるかを熟慮するうちに概念的に飽和してしまい、部分が全体に拡張されてしまうような全体が部分に飛散してしまうような、兎に角ものごとが“ある段階”に昇華されてしまう状態だ。

そうやって白昼にまどろむ夢が初蝉の声に醒める瞬間に僕の全てが凝縮されている。


新旧

2008-06-25 | ぎらぎら
未来は常に新しいパラダイムを必要としている。
激動の時世に古いパラダイムで臨むのは愚かだ。

かと言って無下に「古い慣習を捨てよ!」と言うわけではなくて、新旧ともに洗練されながら許容されていくことが望ましい。

人が歳を重ねて優しくなるように、人類自体も時を経て、より多くを許容する者が現れて当然だと思う。

寂然

2008-06-25 | せらせら
静寂の音がする夜は時もせせらぐ。

やがて来る朝には時のせせらぎも雑踏の中にのみ込まれてしまう。

だからこそ

静寂の音がする夜は時もせせらぐ。



昼間は時間が暴君のように人間を支配しているように思うけれど、このせせらぎを聞いていると、実は人間が脆弱な時間を無闇に掻き乱しているだけのようにも思えてくる。

いずれにしても、時間と上手く共存している現代人はそう多くはない。

もとより、僕らは共存できるほど時間のことを知り得ないのだろう。

不治の病

2008-06-25 | せらせら
地球上のあらゆる存在あらゆる事象が一つのグルーヴの中にあったなら、それはどんなに素晴らしいことだろう。

通常はそれをあくまで理想と呼ぶが、“常にそう在る”と感じられる心でいることが真に健全な生き方なのかもしれない。

その意味では皆どこか少なからず病んでいる。

狩人

2008-06-21 | ぎらぎら
弱肉強食の法則に則って「追う者は追われる者より強い」と言える。

弱者は時間に追われ、強者は時間を追う。

ウィークデイの朝はほとんどの人が対時間弱者だ。


実体のない時間を“狩る”とは一体どういうことか?

端的には“時間の有限に身を置きながら、やらなくてよいことをどれだけやるか”ということだ。


即興とサンプリング周波数

2008-06-21 | ぎらぎら
人間の行動のほとんど全てがは意識先行型の後追い行為だと言っても過言ではない。
人が意図して行動するとき、どんな場合もシナリオに沿って動いていない場合はない。
人は空腹を感じたとき、それに反応して「飯を食う」というイメージを意識の中に作り上げる。
チェーンスモーカーは「一本吸い終わると、次の一本に手を伸ばす」というイメージが焼きついてしまっているので、いちいちイメージ作り上げる手間をかけないが(笑
この場合の意識とは、癖のように一般に無意識と呼ばれる“極度にこなれた意識”も含むことにする。筋肉の反射運動のように物質的な反応は除く。

意識を「行動のシナリオ」と見なせば、逆に意識的にイメージできないことはどうやっても行動に移すことが出来ない。
仮に筋書きのないぶらり旅をするにしても、実際はその都度、即興的にシナリオが書かれていくものだ。

物事を滞りなく進めるためのシナリオを書くに際には、『物事が相対する関係の中で初めて意味を持つ』ことを踏まえて、まず周囲の動きを読み取る(サンプリングする)必要がある。
僕は感覚的に途切れることなく連続して周囲を感知しているように思っていたが、研究者によると人間は無意識に認知クロージャーと呼ばれる“閉じた状態”を合間合間に挟みこんで、入力と解析を細かく断続的に繰り返しているらしい。
人間の知覚構造では情報を認識するまでに0.5秒かかると言われているので、サンプリング周波数はせいぜい2Hzということになる。
比較の対象でもないが、確かCD音源のサンプリング周波数は44.1kHzだったはずなので、そういう見立てをすると2Hzという数字は意外なほどローテクだ。笑

即興に於いては、このサンプリング周波数が即興性の度合いに直接の違いを与える。大袈裟に例を挙げると、もし1分に1度しかサンプリングしないなら5分間に最大5回しかシナリオの書き換えが出来ないことになる。
その間に10回周囲の状況が変化すれば半分近い時間は対応しきれないことにり、俗に空気が読めていないという状況が起こる。

少しスケールを大きくしてサンプリング周波数の観点を応用してみよう。
例えば国が制定する法律。
所謂“法律の寿命”は短くて数年、長いものは数十年。
時間が加速する今日では、短命化傾向にはありつつもまだまだ即興性は極めて低い。まぁ国会が全部即興だったらだいぶ困るが(笑)場合によっては“暫定”が30年生きることもある。なんたる延命技術だ!

法律の場合は、なにぶんモノが大きいので見直しや改正など方向転換にも時間が掛かるのは分かる。
しかし個人の場合はそれに比べると随分身軽なので、細かくサンプリングしシナリオの書き換えをすることは容易い。
生活習慣にしてもその日一日の行動にしても、コーヒーの飲み方一つとってみても即興で楽しめることは多い。

「茶の湯は即興劇である。そこには無始と無終ばかりが流れている。」と言ってのけた岡倉天心。茶の湯ならずとも生活の中に即興を取り入れて遊興することもまた雅趣。

確かに、繰り返されるものにこなれて無意識領域に追いやってしまうことは作業効率アップには繋がる。しかし日々ルーティンに従事することは精神面では暗黙のストレスとなり、気付かないうちに心を蝕んでいく。人が蝕まれれば社会も国も病んでいく。
世の中の構造は「部分」と「全体」とが複雑に重複することで保たれているのだから。


そうなる前に、よりより意識的に、短期的に、遊蕩的に身の周りをサンプリングして即興劇に興じてみてはどうでしょうか。

The Point of Veiw

2008-06-16 | せらせら
街の賑わいも工事の音も少しの距離を置けば静寂の一部となる。

痛みを伴う思い出も少しの距離を置けば安らぎの記憶となるように。

この距離を測り違うと安らぎも無暗に痛みを生む。

「観」に於いて重要なのは角度と距離。

人生観とは自分との距離感に因るところが大きい。


ある程度の俯瞰は周囲を把握するのに必要だ。

自分に没頭しすぎて俯瞰を忘れては、道に迷うこともある。

俯瞰にのみ頼って進めば、石に躓くこともある。


遊びとは主観と俯瞰を自由に往来することのように思う。

楽園

2008-06-15 | せらせら
ちょっと「楽園」を想像してみてください。

桃源郷でもパラダイスでもイーハトーヴォでもユートピアでも何でもいい。

要するに理想郷にいる自分を思い浮かべてほしい。

















































もう少し!






















































そこは、高度に文明化された社会でした?

先ほど、人はなぜ理想に背を向けて歩みを進めるんだろうかと、ふと考えこんでしまいました。

何かに駆り立てられるように研究・開発を進め、文明は日々躍進しているけど、これではもはや、ウソかホントか死ぬまで続けると言われる“猿のマスターベーション”と大差はない。

まぁ、生命は生まれたときから死に向かっていることを考えれば、人が花を愛でて獣性を脱したことが絶滅への第一歩だったとも言える。

「―あるいはいま、人間は人間以外のものになりつつあるのかもしれない。」
の一文を受けて、思わずそんなふうに世界を悲観してしまった。

日々繰り返される凄惨な事件にはいろんなことを考えさせられてしまう。

言語

2008-06-11 | ぎらぎら
明治時代には「国語を英語にしよう!」とか「フランス語にしてみてはどうか?」などといった動きがあったりなかったりですが、もしその案が通っていたら今頃日本の国民性はどうなっていたことかと考え出すと、明け方の妄想は地球サイズにまで膨らみます。

とは言え母国語が日本語であったことに一先ず感謝します。サンキュー!


風土と言語は文化を形成する二大要素です。

風土が人を育み、人が言語を作り、人が風土を変え、言語が人を変え、鶏と卵が隻手の声です。



いろんなものが関係性の中に存在します。



でわ! サヨーナラー(_´Д`)ノ~~ オー ルヴォワール!

後の先

2008-06-11 | ぎらぎら
人が未知の物に出くわしたとき、その時点で既にその人は情報の受け手として後手に回っていることになる。

そこで意識的にアブダクション(仮説的推論)をするかどうかで勝敗は分かれる。

その仮説形成が、その後の論証の是非に係わらずその未知との遭遇を未来の既知とするか、または時間の藻屑と消えるかの境目になる。

後の先を取れば光明は多分に見出せる。

後の後に待つのは文字通り無残な結果だ。