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せせらぎせらせら

日々思うこと

時折、僕は変化というものに恐怖する。

2010-01-24 | ぎらぎら
本当に恐ろしい崩壊は、音もなく、まして痛みや危機感さえないうちに起こっている。
それが自然を模した皮を被っているからなのか、またはそれが自然の変化そのものなのか、僕には分からない。
が、もし後者であれば、僕にとっては最大の悲劇だ。
認識さえ出来ないものに抗う術を僕は知らないのだから。

タイトに重ね合わせるために

2010-01-24 | ぎらぎら
「理論化できないことは物語らねばならない」という言葉がある。
僕はその言葉を生きるスタンスとして受け取った。
人の一生、物の一生、要は“始まりから終わりまで”の一連の流れに秘められたアクチュアリティは、まさにそれ自体でしか示し得ないものなのである。
そういう風に考えると、いかに自分自身と言えど、一瞬たりとも目を離すことができない。
僕の一生は何を示現するのか。

より真摯に自分に臨むこと。

挑戦的

2010-01-10 | ぎらぎら
それと時を同じくして、僕の中でラウドなサウンドへの憧れのようなものが減衰していったのは偶然ではないと思う。

今、ラウドなサウンドに興味を見出すとすれば、爆音をもって直接的に(反面的ではなく)静寂の含蓄を表現することができるかどうかというくらいのものだ。

影さえも視覚的なものだということを踏まえて、表裏一体というアプローチではなく、より包括的または相即的な観点でロックミュージックというものを聴いてはみれないものだろうか?

緩急

2010-01-10 | ぎらぎら
凄く疲れたとき、布団に入って眠りに落ちる瞬間のアノ感じを思い浮かべて一人でニヤリとする。

人生もそんなノリで、晩年が解放へ向かう快楽であったなら、どれほど幸せだろうか。

そんな可能性を考慮すればこそ、たまにはタイトに生きてみる時期も必要かと。

そんなわけで今年のテーマは緩急。

そして新婚生活。…何かが奇妙だ。

2009-12-08 | ぎらぎら
七月に入籍し、九月に式を挙げ、十一月の末にようやくそれぞれ一人暮らしの旧居から新居へと引っ越しを終え、僕らの新婚生活が始まった。

朝。
「ゆうきさーん、ご飯できましたよー」
と布団の中で起き渋る僕を呼ぶ声。
僕はのそのそと布団を抜け出てテーブルにつく。
テーブルの上には薄い琥珀色に焼き上がったトースト。
僕は用意されたお湯にインスタントコーヒーを溶かし、それからたっぷりとミルクを注ぐ。
たち込めるコーヒーの香りとトーストの上でダリの描く時計のようにだらしなく溶けていくバターの香り。
これぞ新婚の朝の匂いだ、と僕は思う。

僕らは朝食のテーブルに向かい合って座り、無言のまま手を動かす。
沈黙の中にカチャカチャとバターナイフが音を立てる。

「…バターつけます?」
「いえー、私はジャムでいいのよ」

ぎこちなく一言二言の言葉がテーブルの上を行きかう。

…何かが奇妙だ。

目の前に座っている女性は僕の妻ではなかった。
目元や鼻のあたりの雰囲気は妻によく似ているが、やはり違う。

僕の妻はレイナという名だが、この女性は「くに子さん」という女性で、レイナの実母である。
わけあって、新婚生活開始からの一週間を僕はこのくに子さんと二人っきりで過ごしているのだった。




六月―
風邪っぽいからと病院に行ったレイナから昼過ぎに電話がかかってくる。
「妊娠してた」
「…すぐに向います」

七月―
そうとなれば早い方がいいということで入籍する。
村上家の三男と田中家の長女の結婚は僕が婿養子に行く形で話がまとまる。

八月―
就職氷河期のツンドラを着馴れぬスーツで駆け回る僕。
レイナはひどい悪阻に見舞われ、すっかり洗面器とお友達になる。

九月―
レイナの悪阻も一服し、瀬戸内海の離島にて厳かに式を挙げる。

十月―
新居探しと職探しに奔放。
探しものはなんですか。
見つけにくいものです。

十一月―
新居、職、ともに決まる。
ホッと一息吐く間もなく、月末、切迫早産の可能性を示唆されていたレイナが破水。緊急入院する。

そして十二月―
超低体重女児(小夜子(仮))を産み落としたレイナ(入院中)。
愛媛の実家から娘の危機に駆けつけた義母。
義母さんと朝食を食べながら違和感を覚える僕。



この新婚生活でたった一つ、僕が掴み取った確かな事実は…
『バターはマーガリンより美味い』ということだ。



小夜子(仮)
生理的体重減少により現在594g。

「生きろ。」(糸井重里 作)

2009-11-16 | ぎらぎら
人が集い生活をする。
それが集落であり、村となる。
それがコミュニティの基本。
人が創造し、身をもって生きるすべてを感じ得るすべてを実寸で体現する村は動的な芸術の最たる形だと思うのです。
土、風、海。
四季を五感で味わいながら、ときには自然と戦いつつ、共生する非自然かつ非人情。
僕の究極的な理想はそれです。
最近どうにも都会が無粋の塊に思えて仕方ない。
最も簡素で最も贅沢な生活を求め、無知から農を模索する。



ホロ苦ぇ。

2009-11-16 | ぎらぎら
この十年、どういう形であれ表現者としての自覚を持つ人と接することにすっかり慣れてしまっていたようで。

おかげで、そうでない人の中で僕は耐え難い退屈と、やるせなさ、孤独、嫌悪さえ感じるようになってしまった。

なんというか…。

そういう変化も人生の味として受け入れていくことができるだろうか。

今後、そういう機会が一段と増えそうだ。

渋みや酸味はもちろんのことエグ味をも拒絶しないくらいの大人な味覚を手に入れたい。

哀しい哉、それもきっと慣れなんだろうなぁ。

秋だし、振り返るのもよかろうかと。

2009-11-02 | ぎらぎら
なんで人は失ってからじゃないとその意味を知ることができないのだろうと考えた。

事象を否定も肯定もできて初めて真に理解したと言えるなら、言い換えれば、裏も表も知ってこその理解であるのならば、その事象に関する全てを心身で味わい尽くすには、それを失うということも知らなければならない。(さらに言うと、それを知らないということも知らなければならない)

当然ながら、手に入れ、そして失い、その意味を十分に知るときにはそれはもう手元にはない。

その理屈でいくと、自分自身とは本来、自らには知りえない存在ということになる。

残念というか、皮肉というか、不思議というか。


詭弁というか。笑

DIY

2009-10-24 | ぎらぎら
不思議なのは自分自身の運転で車に酔う人は圧倒的に少ないということ。

人生もそれを苦とするか楽とするかは、やはり受動をどれだけ能動化できるかに大きく左右されるのだと思う。

Once I was born, now I live, and I will.



何もかもが肥大化してしまったこの社会では、人は気付かぬ間により大きなものによって飼いならされてしまう。

社会が利便性ばかりを追求した結果、考えることをしなくてもそれなりには生きらてしまうから、人はいつしか考えることを忘れてしまったのだろう。


村 コミュニティズム

2009-10-17 | ぎらぎら
コミュニティとは何か。
生活とは何か。
ゲマインシャフトとゲゼルシャフト。
そこに生きるとは何か。
住居とは何か。
資本とは何か。
経世済民とは何か。
産業とは何か。
ヴァーチャルとリアル。
リベラリズムからリバタリアニズム(さらにアナルコ・キャピタリズム)へ。(嘘です。)
暗がりにある赤を捉える私の特異網膜。意味不明気味。
アナキストにはならない程度のコミュニティズム。
打倒よりも地域コミュニティ再建による共存へ。

ザックリまとめよう。
バランス感覚。

それは光を良しとせず、影を悪しとせず、和を調える精神力。
深く入って浅く出る美学。

名前は呪縛か。

2009-10-08 | ぎらぎら
なぜか、ふと男の子が生まれたら「佐助」っていう名前にしようと思った。
和風だし、可愛いし、ちょこまかとすばしっこそうだし。
が、予期せず周囲から(特にレイナから)猛反発を喰らう始末。
しかも、今のところ、エコーの映像からは男性器は確認できず。

名前と言えば、先日、僕の名付け親が実は叔母だったことが発覚。
てっきり両親が漢字の意味だとか画数だとかにさんざん頭を悩ませた末についた名前だと思い込んでいたら(いつだったかそういう風に聞いたような気がしていたのだが。)、会食の席で隣にいた叔母がさらりと「あんたの『佑』っていう字、あたしが考えたんよ」と言う。さもことなげに。
しかも、何某(なにがし)とかいう歌手から取った字なんだとか。
僕はその歌手の名前を聞いたことさえなかった。(あまり有名ではないようだ)

唖然としてしまった。

こうして予期せず呪いは解かれたというお話。

ちゃんちゃん♪

妄想癖

2009-10-08 | ぎらぎら
引越しに向けてCDをPCに取り込んでまとめて売っ払おうと思い立つ。
HDDも安くなったもんだ。
物の大半がそうであるように、この物質社会は基本的に相対価値の概念で成立している。特にPC関連のアイテムは製品の高機能化が早く、今日のように2TのHDDが一般に流通すれば300GのHDDなどもはや低スペック扱いで、安価で扱われることになる。
僕のように時代の二歩後ろを歩む者には有り難いかぎりだ。笑

CDを一枚一枚MP3に変換してHDDに移していると、いつか人間もこうやってデータ化され、圧縮され、小さな容器に格納されていくのだろうかという思いに取り憑かれる。

人から無駄(必要ではないものという意味で)を排除し、その脳内に構築された知識と方法論をデータ化し、そこに不確定なゆらぎを加え、集積した知能(それはもはや生命ではないのかもしれない)に例えば「HUMAN」と名付け、独立させる。人間と言っても全部ではなくて、国ごとに20種類ぐらい(以前から人間のタイプは少なく見積もって20種類ぐらいと考えている(根拠0))の代表的なタイプを選出しても195×20=3900。さらにそれから類似性をまとめた1000ぐらいの数の人格を、相反する性質ともども一つに体系化、それぞれの性質を併せ持つ(時と場合により、または比重を加えた確率で発現する)知能。
で、知識はウィキ的な感じで一つのデータベースにまとめ、特に歴史的な出来事は低圧縮でアーカイブへ。
そうすると、生身の人間は特殊な労働力としてか、または検証実験材料としての少数以外に必要がなくなり相当数は強制削除。
あとは膨大な知識を巧みに操り、柔軟に進化し続ける超高性能情報編集機構「HUMAN」が人類を名乗り、地球には争いのない世界が半永久的に存続する。

その流れで考えると、いつかUFOが飛来して知的生命体が降りてくるかと思いきや、知的生命体の産物(進化の最終形態)である機械的な何かがやってくるかもしれないな。

とか。
そんなシロマサ的妄想が膨らむ。
だって、CDを読み込むのに思ったより時間がかかるんだもの。。。
一体何枚あるんだ。
嗚呼、この作業のアナログ感がたまらないゼ。

臨死!

2009-10-02 | ぎらぎら
実は僕は江古田ちゃんファンです。
瀧波ユカリさんの洞察眼やメタファー観、それらを踏まえた妄想力には毎度毎度、まことに恐れ入ります。
もちろん江古田ちゃんの激しく捩れた直線のような性格にも密かに共感するところも多い。
最初は、友人に半ば無理矢理貸されたのですが、今では家に1~3巻があります。
知らぬ間に第4巻も発売されているらしいので、明日にでも書店に走ろうかと。
機会があればサイン会にでも行って素顔を見てみたいもんです。
それくらい(どれくらい?)ファンです。

4コマ漫画というものは、漫画界の川柳のようなものだと思います。
表現が簡潔であるだけにセンスが問われるところ。
時勢をよく捉え、何の気なしに生活しているとつい見過ごしがちな問題点を鋭く風刺したり、現代の若者(特に女性なんだろうか?)の特徴を揶揄したり、時折、キラリと光る美学を見せたり。
基本的にfunnyで、はたとhumorousでまたinterestingで。
セイゴオさん風に言うと、古代ギリシャの創作3原則と言われる「ミメーシス:模倣」「アナロギア:類推」「パロディア:諧謔」がバランスよく鏤められた漫画だからじゃないかと勝手に解釈してます。

なんか眠すぎてワケの分からん褒め方になってきたのでそろそろ終わります。
一応、念を押しときますが、実際はそんな高尚なものではなくて、随分下品な漫画です。(そこが面白いわけですが。)