風をうけて vol.3

お引越ししてまいりました。
拙いブログですがよろしくお願いします。

かるく受け流してくだされ。。。

2020-11-26 05:10:33 | 日記・エッセイ・コラム
ただの気まぐれではありません。

気の迷いでも、発狂した訳でもありませんよ。

家のローン、残りを一括返済してしまいました。

元々、長く勤めた会社の退職金をあてにして新築した家ですから。

35年返済計画、丸々その期間を使っての完済でも良いと思っていたのですが、どうも金利が惜しくなって・・・(笑)

いやいや、そうでもないのよ、、、ただ、毎月かなりの金額を返済のために消えていくのが嫌らしいと、奥様が。

だけど、いざ返してしまうとお金に対する緊張感というか、使命感というか、そういうものがガラガラと音を立てて崩れていくんですわ。

どんなに嫌でも仕事をしなければ、給料をもらってこなければ成り立たないと、ずっと無理と我慢を重ねて繋いできた心の糸がぷっつりと切れてしまった訳ですから。

あとは、なんとか生活をしていけばいい訳で、年金支給の65歳までをぐうたらしながら、あるいはぼんやりしながら、なんとかお金をと思う訳ですよ。

絶対にローンの返済を滞らせることはできない、という理由は無くなってしまった訳です。



もしも、もらうお給料が少なければ、ご飯を3食から1食抜けばいい、、、(笑)

寒くてもこたつもストーブも付けない。

車は乗らず、徒歩かまたは贅沢をして自転車だけ。

そんな生活で我慢をすれば何とかなるんじゃないかと。。。

毎日、慣れない仕事で怒られながらも我慢する必要なんてひとつもない、、、のにね。

という訳で、上司に退職を打診したところ、年末まで頑張ってくれと、、、。

頑張れるぐらいなら退職を申し出ないって!

いやあ、分かりますよ、会社の都合ってのもあるんだからね。

だけど、こっちにもそれなりの事情ってもんが存在する訳で、、、。

それがね、そう心に決めて、それを口に出した瞬間からかなり心も楽になったって言うか、、、使命感から解放されちゃって、糸の切れた凧が風に乗って気持ちよく旅に出て行ったというか。

早く仕事に慣れて、な~んてシャカリキになっていた自分が笑えたりするんだね、これが。

心の持ちよう、、だからと言って、そんな中途半端な気持ちでいたらきっと他の従業員さんの迷惑にもなるやも知れないからね。

しっかりとけじめだけはつけましょうよ。

さて、そんなことでまたハローワークのHPから色々な職業の求人情報をチェックしているのですよ。

時給とかあまり気にならないけど、意欲の低下は支給額からもあり得るとは経験値が示しておりますがな。

でも、それ以上に作業内容でしょうね。

自分に合った仕事ってなんなのよ!?

これが一番気になるところ。

この年になってもまだ自分のことがわからないなんて、まったくもって情けないってば。



それだけ人生経験が浅いって事なのかもね。

今からそんなに経験を積めそうにもないけど、経験しないよりはいいかもね。

ああ、しかしこの経験は、、、随分と人間を丸くしてくれたなぁって思うのよ。

なるほど、勢いのある若いうちはぴょんぴょん跳ねまわって、角も尖ったまま転がりもせずに行っちゃうぞって感じかな。

だけど、跳躍力のなくなった老体は角を削って転がらずには前に進めんのよ。

だから余計に丸くなっちゃう。

そうしてどんどん自分を小さくしちゃう。

なんだかなぁ~って言うのが、正しいお年寄りの生きる道なのですよ。

何かの番組で、”60歳以上の高齢者の方”というコメントを耳にした瞬間、鳥肌が立ちましたわ。

そっか、高齢者なのねって。

本当は高齢者にも意地もあればプライドだってガチガチにあるんだけどなあ。



”高齢者はコロナに感染すると重症化するから”だってよ。

文句のひとつも言おうものなら、それはただの愚痴にしかとられない、、、ああ、嫌だ嫌だ!

「山は富士山だけが山だと思っていたのが、実は深谷市民の憩いの場、仙元山もれっきとした山でしたとさ」

ふふ、何が言いたいのかと分からないでしょうから説明すると、80歳、90歳を高齢者と呼ぶのかと思ったら、自分の年令の者も実は高齢者でした、という意味です、お分かりかな、、、(笑)

ローン返済も終わって、死亡保険金に寄る返済が無くなってしまった今、もう90歳を超え100歳みたいな立派な富士山並みの高齢者を目指しますかな。

はっはは、、、なんだか支離滅裂なワタクシメの今の心境でございまする~。
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どうにかしたいのです。

2020-11-16 04:42:10 | 日記・エッセイ・コラム
朝晩、ぐっと寒くなりました。

今までならば、とっても気持ちよく走れる季節になったと喜ぶところでしたが。。。

ウイルスにとってもこんな乾燥した空気の季節は”気持ちの良いお天気”だそうで、その道の権威である医学者さんたちはこの頃の新型コロナウイルス感染者増大を第三波と位置付けたみたいです。

ひとの動きを政府が推奨しているのだから、それは仕方ありません。

その代りに経済という命の糸を、細々とつなぎとめることができた事業者さんも少なからずいらっしゃると思います。

どちらを優先すべきか、なんてことを私ごときが語れることも無いのですが、ともかく早くこの騒ぎを終息させなければ、楽しいはずの休日がただの休息だけの時間になりかねません。

そうなんです。

休息とはカラダだけのものではなく、心もリフレッシュさせなければ人間はバランスを崩し、有意義な時間を過ごすことが叶わなくなってしまいます。

医学的にも心理学的にも私の知識の中では新名程度の事しか持ち合わせてはいませんが、心に重い荷物を背負ったままの状態でいると、カラダにも異常をきたしてしまうのです。

私の場合、この頃のお話しなのですが、胃腸の働きに支障が出ているようです。

あまりきれいなお話しではないのですが、「便秘」がそれなのです。

以前から、疲れてくると横腹に痛みを感じ、医師の触診によると腸の動きが鈍くなっているとの診断をいただいたことがあります。

この頃では、痛みの前に「便秘」の状態になるのです。

これもきっと老化が一因しているのではないかと思うのですが、若い頃にはその様なことを一度も経験していなかった症状の為、何か他に嫌な病気が存在していないだろうかと直ぐに不安になるのも情けない話でもあります。

先日の事、高校時代の友人との会話の中で「あとは苦しまずに最後を・・・」なんて、随分力を失くしたなとお互い思うようになったことに苦笑してしまいました。

また、あらたに就業した私に「自分だけの時間がなくなる」と、離職の道を勧められたり、若かりしの日には間違っても話したこともない話題でひと時を過ごしています。

確かにそれは自分でも思わない事はありません。

GoToトラベルとやらで格安の旅行に行ってきたなんて話を聞くと、何で自分だけはと暗い気持ちにもなります。

気ままな時間をもてない職業に就いてしまった自分のせいなのですが、政府が盛んに進める支援事業へのやっかみを口にしてしまうのも残った時間の短さを感じるが故の焦りなのでしょうか。

その時代を飾った芸能人や知名人、文化人たちが逝去したなんてニュースを目にするたびに、自分にもその時が確実に迫ってきているはず。

それは逃れようもない生命の摂理なのですから。

ああ、嫌だ、嫌だ。

これから自分の描かれる歴史とは、ろうそくの炎がしずかにその役目を終えるその時の姿だけなのでしょうか。

今だからこそ、もっと自分の時間を有意義に使う算段を組み立てなければいけないのでしょうか。

先人たちはそんな時、何をどうしようと思って生きて行ったのでしょうか。

孔子は”四十にして惑わず”と説きましたが、私は六十を過ぎても迷っているばかりです。

ああ~、人間、できてないよなぁ~。



この頃、まったく走れていません。

だからこその「便秘(運動不足)」だともいえるかも知れない事も無いのですが。

以前から不調を抱えていた、踵の痛みが再発してしまいました。

右側から痛めた踵は約一年の歳月と共に、いつの間にか完治してくれたようです。

その代りに左踵は、その右足と入れ替えで同じ痛みを発症してしまったのです。

それから一年を過ぎ、ようやく痛みから解放されつつあるなと思っている最中、またもや激痛にて普通に歩くこともできないほどになってしまいました。

座っていればなんの痛みもない踵ですが、一歩踏み出した瞬間から痛みが脳天まで突き抜けることさえあります。

”まったくこのオンボロのカラダめ!”と、泣きたくもなりますが、泣いたところでどうにもなる事はなく、歯がゆい毎日を送らざるを得ないのです。

この踵さえ、、、そう思っても今は大会が開催されることも無く、それだけ考えればラッキーであることも確かな事ですが、抱えたフラストレーションは半端ではありません。

サークルの方たちが秋空の下、気持ちよさそうに汗を流している姿を見るとその気持ちは高性能アンプで100Wの大音量に増幅された心の叫びとなって、私の心を震わせてくれます。

”右踵は一年で完治した”との僅かな望みをせめてもの心の支えにして、今も左足のみのフォアフットにて歩く毎日なのです。



とは言うもの、サークルへの練習会や企画ランには参加しています。

11月には数名のメンバーさんと共に秩父路を走って参りました。

”走った”というほど走ってはいませんが、それは楽しい時間でもありました。

マラソンと言えば個人の競技であり、練習もほぼひとりで行う事が当たり前。

そこが悲しいところで、孤独感や孤立化を感じさせられてしまうことも少なかれ無いとは言えません。

ところが競争でもなく、練習でもなく、その地方の空気や景色に触れ、人々の暮らしの中を歩んでいくと自然と笑顔になっていくものです。

それを同じ仲間と共有できるということの素晴らしさは体験したものでなければ分からないものだと、大袈裟ではなく声を大にして言いたいところでもあります。

また、そうすることによって、次なる計画も自然と浮かんでくるもので、「次はあの場所に行きませんか」と、すんなり提案されたりもするのです。

踵は痛くて仕方ないのに、それ以上の楽しみの中でトランス状態。

それも走っていればこそのことです。

きっとまた出かけていくと思います。

できれば、なんの不都合もなく、不安もなく走れたらもっと楽しめることは間違いのない事です。

その日の為に、今は運動不足になろうとも、左踵のケアに全力で当たりたいと思っていますが、さて、どうしたものでしょうか、この痛みは。
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「ことば」

2020-11-08 03:27:00 | 日記・エッセイ・コラム
今日は(昨日でしたが)立冬、暦の上では冬です。

それに合わせるかのように寒くなりましたね。

朝晩は気温一桁の日も多く、なのに日中は20度にもなるような微妙な気候です。

そうなれば体調を維持するのも大変。

特に深夜に仕事をする身にとっては相当な負担です。

今は風邪でもひいて咳でもしようものなら直ぐにコロナウイルス感染を疑われるようなご時世。

本当に厄介な時代となったものです。

相変わらず、最初に来るのはそんなウイルスのお話し。

もういい加減にそんな話題から離れたいし、もっと明るい材料があればと思うのですがどうしようもないですね。



じっと耐えるしかないのだと思うと、余計に暗くなってしまいます。

そんな中、最近では”コロナ慣れ”してしまったせいか、走る時にはマスクを外しています。

それは公園で散歩を楽しんでいるひとも多くがそうしています。

あの暑かった夏の名残りが未だに続いている、そんな感じだとも思います。

熱中症と感染のリスクを考えたら、、、そんな風潮でしたもんね。

もし、それを公園のような場所なら許される、そう理解するひとがきっと多くなり、もちろんその中には自分もいる訳で、それが第三波と最近感染者激増と騒がれている要因のひとつかも知れません。

確かに見えないモノであり、誰もが自分は大丈夫と信じています。

だからこそ、公園には元気に走ったり歩いたり、程よい運動で汗を流している訳で・・・。

そこに油断があると言えば、その通りだと思います。

正直に言えばマスクなんてして走れませんよ。

でも、それをしなければ自分だけでなく、周りに迷惑をかけてしまうんだということを改めて肝に銘じる必要があるのかも知れませんね。



一方で、職場においてもマスクをかけていない者に対しては厳しく指導されてしまいます。

マスクにどれだけ感染の抑制効果があるのか、その辺も疑問が無い訳でもないのですが、決まりは決まりです。

そこは信じるしか手立てがないですね。

いやぁ、それにしても会話がありません。

自宅に居ても生活のサイクルがひとり違うために顔を合わせる時間は極端に少なく、また職場でも仕事以外の会話を交わす相手は多くなく、残念なことにほぼ毎日無言で過ごしています。

このままでは言葉を忘れてしまうのではないかと心配になるほど。

それを物語るように忘れてしまう単語の多いこと。

”あれ、ほかに言い換える言葉ってあったよな?”

なんて思うこともしばしば。

これはヤバいと、この頃沢山の本を読んでいます。

車がガソリンで動くように、時計が電池で時を刻むように、言葉は言葉を補給してこそうまい表現ができるのではないかと思っているのですが・・・。

ところが、本を読むと客観的に言葉だけを拾い集めて、それを吸収しようとしいてもストーリーにのめり込んでしまい、なかなか拾い集めることができないのが辛いところ。

そう、読書は国語の時間ではないんですよね。

もっと若い脳があれば、記憶の中にしまい込めるのにと、、、だったらもっと勉強もできたでしょ、って自分で突っ込んでもみたりして。

要するにセンス、能力、感性の欠落、、、ああ、才能って限られた人にしか持つことができないライセンスのような物なんだろうなと、再び落ち込んでみたりするのですよ、これが。。。

”もっと上手く話したい、書きたい”

言葉って本当に能力の差を感じさせてくれる、意地の悪い嫌な代物ですよね~(笑)

今もこうして言葉を、文字を、ディスプレイの中に押し込めていますが、その押し込んだ以上に補給をしていかないときっと何時かは”歌を忘れたカナリヤ”になってしまうのではないかと恐怖するのです。

脳の言葉中枢がどの部分なのかは知りませんが、脳梗塞で言葉を失った母親のあの姿を今も鮮明に思い出し、どうか自分の命の尽きるまで、その部分だけは健全に生きていて欲しいと思うのですよ。

あのに今の状ときたら、、、ああ、なんて孤独な老人なんだろう・・・(笑)

やっぱ、この仕事から離れた方が良いのかも、、、もっと人の中で生きていたほうが自分らしい?

ゆっくり考えている時間はそうある訳でもなく、、、自分が労働者としていられる時間はそう長くもない?

孔子が解いています。

「吾、十五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして迷わず。五十にして店名を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従えども、のこりをこえず」

いやあ、孔子とははるかかなたほどの差のある人生観ですわ、、、このワタクシメは・・・(笑)

まったくもってお恥ずかしゅうございます。。。
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