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学ぶ沖縄戦8・日本軍は住民を盾に抗戦・米軍の無差別攻撃によって9万4000人が巻き添えに/少数派

2022年06月11日 | 戦争を繰り返すな
少数派シリーズ/二度と戦争を繰り返すな
Okinawamanabu 毎日新聞「学ぶ沖縄戦」1945年 第8回 
日本軍は住民を盾に抗戦・米軍の無差別攻撃によって9万4000人が巻き添えに
沖縄戦での日本軍の組織的戦闘の終結から6月23日で77年。
なぜ沖縄が戦場となり、多くの悲劇が生まれたのかを考える。

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米兵に見つかり、赤ん坊を抱いてガマ(自然洞窟)から出る住民=1955年4月撮影(沖縄県公文書館提供)

Q.太平洋戦争末期の沖縄戦では約9万4000人の一般住民が亡くなったとされるけれどなぜ住民までもが犠牲になったのか?
A.1944年7月に琉球諸島の住民の島外疎開(避難)が決定し、県史によると、主に45年3月までに本土に約7万3000人、台湾に1万人余りが疎開しました。しかし、当時の県人口は約60万人で、多くの住民が沖縄に残りました。44年8月には疎開船「対馬丸(つしままる)」が米潜水艦の攻撃で沈没し、幼い子供ら約1500人が亡くなる悲劇も起きました。住民の避難が十分でない中、45年4月1日に沖縄本島中部に上陸した米軍は本島を南北に分断。多くの住民が南部へと逃げざるを得ませんでした。

一方、米軍の猛攻に対し、日本陸軍第32軍は降伏せず、首里(しゅり)城(現在の那覇市)の地下に置いていた司令部を放棄し、5月下旬に本島南部に撤退しました。このため沖縄本島南部は軍と住民が入り交じって逃げ惑う戦場と化し、そこに米軍の無差別な攻撃が加えられました。自然洞窟(どうくつ)(ガマ)に隠れていた住民を日本兵が追い出すことも多々あり、逃げ場を失った多くの住民が犠牲になりました。

2021年、毎日新聞が同タイトルで10回の連載を掲載したものです。
戦後77年など時間的な表現は、一部変えております。


■復帰50年(沖縄の課題)毎日新聞
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Sankoub
次号/9・司令官自決前に「最後まで戦え」、6月23日命を絶ったことで日本軍の組織的戦闘終結
前号/7・辺野古米軍新基地建設の埋立工事に県民の遺骨が残る土砂を使う「戦没者への冒涜」

Akahatatop

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