いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(162)「あなたは何者か」

2014年04月08日 | 聖書からのメッセージ
 イザヤ書51章1節から3節までを朗読。

 1節に「義を追い求め、主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ」。
 ここに「義を追い求め、主を尋ね求める者よ」とあります。「義を追い求める」とは、神様を求める者、神様を信じ、信仰に立って生きようとする人たちのことにほかなりません。それはまた私たちであります。このとき、預言者イザヤが語った相手はイスラエルの民でした。私どもは、生まれたときから神様を知っていたわけではありません。イエス様と親せき関係になっていたのでもありません。イエス様のことも神様のことも全く知らなかった者であります。そのような私たちが、それぞれ具体的な事情は違うかもしれませんが、計らずもこのように教会へ導かれ、聖書を通して真(まこと)の神様、天地万物の創造者なる神様がいらっしゃることを知るに至りました。そして、神様の前に私たちがどんな者であったかをつぶさに教えられたのです。イエス・キリスト、神のひとり子でいらっしゃるイエス様が、私たちの罪のあがないとなってこの世に来てくださった。そして十字架に命を捨て、私たちの赦されざる罪を赦して、今、神様の救いに引き入れてくださっている。そのような身分に変えられています。それは大変大きな恵みであると思います。宝くじに当たるよりも、また、人生のどんな夢が実現し、大成功を収めて世のさまざまな人々の賞賛を受けるような富や財宝に恵まれること以上に、私たちにとって幸いなことであったと言うほかはありません。

ところが、私たちはともするとそのことを忘れてしまう。このように神様を信じる者とされ、祈ることによって慰められ、御言葉を通して日々新しいいのちにあずかって、感謝をもって生きることができる。だからといって、人生に悩みがない、問題がない、困難がないというわけではありません。現実の生活で、次から次へといろいろなことに会います。今年も、もう半年が過ぎました。考えてみると、あっという間の半年だったと思いますが、この半年間、事もなく、何の心配もなく、憂いもなく、感謝、感謝と、手放しで来た方はまずいらっしゃらない。どんなことがあったのか、もう既に忘れているかもしれない。一月、二月、三月、六月と、6ヶ月間生きてきましたが、その間に不安なこと、家族の問題、自分自身の問題、健康の問題、経済的な問題、あるいは周囲の人々の問題、親族の中の問題などがありました。こうやって今皆さんのお顔を拝見しながらも、病気のことがあった、あるいは家族が召された方もいらっしゃる。いろいろなことが怒涛のごとく、大雨で山津波が起こるくらいの勢いで、この6ヶ月間は過ぎてきました。ところが、その間、どれほど行き詰ったかと言うと、案外ケロッとしているでしょう。何度入退院を繰り返したか分からない、あるいはどれほど眠れない夜を過ごしたか分からなくても、その中で私たちを支えてくれた神様がいらっしゃる。しかも、私たちを愛して、ひとり子の命によって、あがなって、いつでもどんなときでも、神様を信頼することができる者に、私達を造り変えてくださっている。何度祈ったか分からない。あるいはどれほど御言葉によって励まされてきたか分からない。ところが、それもだんだんと忘れる。 “のど元過ぎれば熱さを忘れる”で、過ぎてみると「そんなことあった?」「そういえば、あったな、懐かしいな」と、思い返して懐かしむほど、気持ちが穏やかに、平穏な状態に日々保たれている。私たちがイエス様を知らなかったら、神様を抜きで生きていたら、こんなににこやかな顔をしておられるわけがないでしょう。考えてみたら、自分たちの将来のことだって、心配すればいくらでも心配の種はあります。でもどっち道「あすのことを思いわずらうな」(マタイ6:34)と主がおっしゃる。いくら思い煩ったとしても、あなた方の命を少しでも延ばすことができるか、と言われる。その神様の御言葉を信頼し、必要なものをご存じの神様が恵んでくださると知っていますから、絶えずその方に私たちは呼び求めることができる。これはどんなに感謝してもしすぎることのない、大きな恵みであります。

私どもは初めからこのような恵まれた境遇、神様の大きな平安、望みといのちと力をいただく者ではありませんでした。私たちは神様を知らず、イエス様を知らないで、世のさまざまな事に不安と恐れを抱いて、失望落胆していた者であります。

エペソ人への手紙2章1節から3節までを朗読。

ここに私たちのかつての姿といいますか、どんな状態であったか語られています。1節に「自分の罪過と罪とによって死んでいた者」。私たちはこの世にあって望みなく、喜びなく、感謝ができない。何があったか? 不平不満、怒り、憤り、苛立ち、ねたみ、そのようなものが私たちの心の中に常にある。そして自分が、自分が、自分がと、自分の考え、自分の思い、自分の正しさを主張した。あいつが駄目だとか、こいつがと、常に怒りの心、そして人を裁くこと、人を非難することだけが得意であるような生き方をしていた。

私自身も振り返って見るとそのような時期がありました。若いころでありますが、自分は正義だと。牧師の家庭に生まれましたから、神様のことはよく分かっています。そして自分は神様の側に付いていると思っていたのです。だから自分が神様に成り代わっているのです。そのころ神様がいらっしゃることは分かっているが、イエス様がもうひとつ分からない。神様がいて、イエス様がいて、聖霊なる神がいる。ややこしい、まぁ、取り敢えずは神様一本でいこうと思ったのです。この神様さえいらっしゃればいい。神様にお祈りしたら聞いてくださる。子供のときからそのように育てられましたから、何かあるとお祈りすること、神様を求めることを、また信頼することを教えられました。だから自分は正しい人間だ、子供のときからうそもついたことがない、神様にちゃんと従っている。そのような意味で、自分ながらに品行方正だったと思いました。他人の評価はわかりませんが、自己評価で言いますと100点満点。自分は立派だと思っていたのです。皆さんもそうだったと思うのですが、自分は正しい、自分は100点満点だと、そのように思う人は、大抵、他人に対して厳しいのです。人を見ると、あいつは駄目、こんなところがある、あんなところがある、あそこが駄目、ここが駄目とけなす。あなたにとって立派な人は誰か?この世の中でいちばんいい人は誰か? と問うと、私だ、私以外にいないと言う。あんな立派な人がいる、こんな立派な人もいる、と言われても、あの人にはこんな所がある、あなたの知らないこんなところがある。他人の裏から表まで探りまわって、あいつは駄目、こいつは駄目と、け飛ばすことで自分が立っている。そういう時代が私にもありました。それは本当にきつい、生きることがつらいのです。皆さんもそういう事を思い出すでしょう。もう忘れているかもしれない。かつては、皆そうだったのです。そして、不平不満、苛立ち。家族が「お母さん、こうしようか」「いや」「お父さん、こうしようか」「そんなもんいい」と、そうやって必ずけなす。

時に私もそういう方に出会います。「これしてあげましょうか」「いいです」「じゃ、これをあげましょうか」「いりません」。必ず「ノー」という言葉で会話が始まる方がいるでしょう。私の家内の父親は極めてそうです。家内が心配していろいろなものを持って行きますと、「そんな物を持ってくるな!」と怒る。それで今度はこうしてやろうとすると、「そんなことをするな!」と。この間も入院先の先生から呼ばれて、家内が出かけました。最初の言葉が「お前、何しに来た」と。「『何しに来た』って、先生から呼ばれて来た」「帰れ!」、もう5分もしないうちに帰れと言われて、腹を立てて帰って来ましたが、まだ腹が立つ間は駄目ですね。でも言うほうも言うほうですよ。「ノー」と言うのです。皆さん、自分を考えてご覧なさい。家族から「お父さん、こうしようか」と言われて、「いや、いい」。「お母さん、こうしてあげようか」、「いや、いい」。そのような時、もう一度自分を振り返って、自分はちょっとおかしいのではないか、と考えてください。皆さん、私たちは「イエス」から入るのです。なぜならイエス様に従うのですから、私どもは「はい」というところから入るのです。「お父さん、こうしようか」「はい、そうして」と、「お母さん、こうしようか」「あ、いいねー」と、それが言えないのは、私たちの心の中で、「己」(おのれ)を神としている。

1節に「先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者」。死んだ者なのです。そして2節に「この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである」。これは何のことかいな、と思うかもしれませんが、分かりやすく言いますと、この世の仕来りや習慣、慣わしに従うことです。家の中で偉そうに「おれは主人だ!」「おれはおやじだ!」と言って、「お前たち、何する者か!」とけ飛ばしているお父さんでも、外に出るとペコペコする。人から何か言われはしないかとか、町内でこんな決まりがあったら、それを守らなければいかん。これもしなければいかん、あれもしなければいかん。日本の社会は実に因習といいますか、そういうしがらみの多い社会でしょう。人が死んだ、生まれた、何した、かにしたと、その度ごとに周囲から、ああせい、こうせい、ああしたらどうだ、こうしたらどうだと言われる。言われるものだから、戦々恐々として、あちらをしなければいけない、こちらをしなければいけない。そうやって、何かを恐れながら生きている。人を恐れ、世間を恐れる。だから、偉そうなことを言っている人でも、他人に対しては非常に弱い。人から何か言われると、コロッと変る。

家内の父も、家族には威張って偉そうなことを言いますが、他人から、ヘルパーの方から何か言われたら、「はい」、「はい」と言うのです。今病院に入っていますが、看護婦さんから「あなたのお父さんはおとなしくていいかたですね」と。それはなぜかと言うと、人を恐れ、自分を正しいとしたいからです。神様を知らないこと、あるいは自分を神とすることとは、そのような生き方です。

私もかつてはそのような生き方をしていました。あいつがいけない、こいつがいけない、正しいのはただおれ一人。この世界の中で自分だけが100パーセントO.K.という生き方をしている。それはまた、実に苦しいのです。毎日、外出するとき、自分の部屋から出るとき、よろいかぶとをかぶって、人から何か言われないように、人は自分をどういうように見ているだろうか、そのことばかりが頭の中にあって、言葉が出ない、何もできない。それでいて、世の中の人がああしている、こうしていると、気になって仕方がない。

この1節に「この世のならわし」「不従順の子らの中に今も働いている霊」。「不従順の子ら」とは、神様を知らない人たちのことですが、彼らが大切にしている事柄を追い求めていくことです。そのような生き方をしていた。ですから3節に「また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い」。誠に、自分の欲望、自分の情欲に従って、感情に任せ、あるいは自分の損得利害、そろ盤ずくで生きている。かつて、私たちはそのような生き方しかできなかったではありませんか。今は立派な生活に変わって、安心していますが、もう一度自分たちが、もしこの主の救いがなかったなら、イエス様を知らないで生きていたら、今、どんな生き方をしているか。そのことを思うと、どんなに恵まれているか、感謝しても感謝しきれない。

「あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ」。罪の中で、希望もなく、喜びもなく、罪と咎とに死んでいた、ただ怒りの子、神様から怒りを受けるだけの、そのような肉の欲にだけ従って生きていた私たち。そのような私たちを、その先のところに4節以下に「しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、5 罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし」と、そのような死んだ者で、滅びに定められていた私たちを、父なる神様は憐(あわ)れんでくださった。尊いひとり子を罪のあがないとしてこの世に送ってくださった。4節にありますように「大きな愛をもって」と、神様は私たちを愛してくださって、十字架に私たちの罪を潔め、私たちを新しくしてくださった。そして、イエス様は死んで墓に葬られ、今度はよみがえってくださった。そのよみがえりのいのちをもって、私たちを生かしてくださった。そうでしょう。今、私たちがこうやって神様を信頼して生きるいのちの力はどこからくるか。それはよみがえってくださったイエス様の霊、神の御霊が、私たち一人一人に与えられて、神様を信じる者とされている。だから、今、私たちはこの恵みによって、神様を信じてお祈りをすることができ、御言葉によっていのちをくみ取り、喜び、感謝して、力をいただく。どうしてこんなことができるのか。皆さんの努力や熱心や何かの業によるのではない。よみがえってくださったキリストの霊が、私たちに働いてくださって、知恵なき者に知恵を与え、悟りの鈍い者に悟りを与え、不信仰な、かたくなな心を砕いて、イエス・キリストを「あなたこそ生ける神の子キリストです」と信じる、信仰へ導いてくださっている。ただ、5節に「罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである」。一方的な神様の憐れみと恵みによってこの救いに引き入れられた。6節に「キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである」。なんと、私たちをして、キリストと共によみがえらせ、やがてこの地上の生涯を終わるとき、既に神の御国に住まいを、住むべき場所を備えられている。こんなにまで、私たちを神様は恵んでくださる。滅ぶべき者、失われて当然であった者が、今日もこの恵みにあずかっているのです。

 もう一度初めのイザヤ書51章1節に「あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ」。私たちは、絶えず今ある恵みの原点がどこにあるか、このことを決して忘れてはならない。そのことを覚えておかなければいけない。この「切り出された岩」「掘り出された穴」というのは、かつて自分がどのような状態であったか、過去の自分をはっきり知っておくことと同時に、そのような私たちが、神様からどんな大きな恵みをいただいたか、御愛をいただいた者であるか、最初の恵みを忘れてはならない。というのは、なるほどそのような罪ととがに死んで、神様の怒りを受けるべき、永遠の滅びに定められた者であって、この世のさまざまなしがらみに縛られて、不自由で窮屈な、それでいて己を義とする、自分だけが正しい人間であるかのように思い高ぶっていたという、そのような過去の自分の姿ばかりでなくて、そこから神様がどんなことをしてくださったか、これも私たちの忘れてはならない大切なことです。そのことを忘れますと、心が形だけのものになって、喜びを失います。

 ヨハネの黙示録2章3節から5節までを朗読。

 これはエペソにある教会に対して、神様が警告をなさった愛の書でありますが、これはまた私たちに対する警告でもあります。エペソの教会は1節以下に語られているように、大変まじめな教会。2節に「あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている」とあります。さまざまな悪から遠ざかって、神様の教えに忠実に従い、また神様の業を励んでいたのです。どこにも非の打ち所のない立派な業をしていたエペソの教会ですが、神様の目からご覧になったとき、4節に「しかし、あなたに対して責むべきことがある」と。それは「あなたは初めの愛から離れてしまった」ことです。エペソの教会がイエス・キリストの救いにあずかって、十字架の御愛を感謝感激して喜び、その御愛に応答して、主にすべてをささげて始まった歩みが、だんだんと定例化といいますか、ルーティン化、日常化していく。こうするものだと決められて、それを守ることが神様の御愛に応えることだと、律法化されると言うか、習慣化されてしまった。そこには神様に対する愛の応答としての心が消えている。やっていることは変わらない、していることは同じだけれども、その人の心に感謝がない、喜びがない。主の御愛に応える熱意が欠けてしまう。これは私たちが最も警戒しなければならないことでもあります。

それはどこから始まったか。「掘り出された穴」「切り出された岩」を忘れてしまった。私どもは、神様にはばかることなく近づいて、天地万物の創造者でいらっしゃる神様を「アバ父よ」と呼ぶ御子の霊をいただき、日々、御言葉に励まされ、祈りをもって慰められ、力づけられて生きています。ところが、それが当たり前のようになってしまう。祈ることは当たり前、何だか祈らなければ歯磨きを忘れたような感じ。そんな感じで、お祈りを欠かすことはないけれども、心ここにあらず。聖書は読みます。週報にも日々の聖書通読箇所が書いていますから、それを丹念に忠実にお読みになる方がいらっしゃる。それはうれしいことです。うれしいことですが、しかし、喜んで1章ならず2章3章読みたいけれども我慢しながら1章にしておく。そのうち今日は長いな、この章はとか、でもちょっと読まなければ気が済まないから読む。毎朝、聖書を開いてめくってはいくけれども、心がなく、喜びがない、主に対する愛がない。これは恵みに慣れることです。神様の恵みを侮っていく、軽んじる。これは、私たちがいちばん陥りやすい危険な状態です。そのような時、もう一度、「掘り出された穴」「切り出された岩」を思い見て、自分の原点に立ち返っていきたい。そうしないと、新しいいのちがわいてきません。気がつかないうちに、神の御霊が私たちのうちから消え去ってしまう。といって、しないわけじゃない。礼拝も欠かさず守っている。そうでしょう。今日も、このように蒸し暑い中を頑張って出てきている。主がこのような者を愛して、十字架に命を捨ててくださった主の御愛に生かされて、この一週間過ごしてきた。この礼拝を待ち望んで楽しみにしていた。あそこへ行って、主の臨在に近づき新しい霊といのちをいただくのだと、感謝と喜びをもって出てきていると思いますが、案外そうでない方もあるかもしれない。日曜日? 仕方がない、今日も行かないと先生から何か言われるかもしれん。今年は今のところ休んでいないから続けなければいかんと、だんだんと「初めの愛から離れていく」。形としてはどこにも非難されるところ、とがめられるところはありませんが、しかし、それでは神様の前に生きていると言えません。

 もう一度、イザヤ書51章1節に「義を追い求め、主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ」。その後に「 あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラとを思いみよ」。神様はイスラエルの民をエジプトでの奴隷の生涯から救ってくださいました。そして、カナンの地、約束の地に彼らを置いてくださって、そこにイスラエルという国を建ててくださった。ところが、そのイスラエルの民はよほど神様に感謝感激したかと言うと、そうでもない。四百年以上にわたって過酷な奴隷の生涯にあった彼らが救い出された。それだけでも神様に感謝してもしきれない。パロ王様は繰り返し、繰り返し言葉を変えました。その度にモーセは事を行い、業を行い、神様の神様たることを現しますが、なかなか頑固で、とうとうついにエジプトのすべてのういごを神様がうち滅ぼされた。「エジプトに大いなる叫びがあった。死人のない家がなかったからである」(出エジプト12:30)と記されています。そのような大きな犠牲を払って、ついにパロ王様は彼らに「出て行け」と命じたのです。彼らはそのとき大喜びで出て行きました。出エジプト記をぜひお読みください。そこにエジプトを出て行った時の民の喜びの歌が、手放しで神様を褒めたたえて感謝しています。ところが、そうやって喜び感謝したのもつかの間です。二、三週間たって荒野を進んだ時、紅海に出会う。後ろからエジプトの軍勢がやってきます。そのとき民は、どうしておれたちをこんな所に連れ出したか、エジプトに墓がなかったからここで殺そうというのかと、そう言ってモーセやアロン、指導者をのろう。「馬鹿な連中だ」と思うでしょう。それはイスラエルの民だけではない。実は、私たちも同じことをするのです。イエス様の救いにあずかって喜んで、神様がこのような者を愛してくださってと、調子のいいときはそう言っている。ところがちょっと困難なことに遭う。どうしてこんなになった、何で私が……と、つぶやく。神様に向かって文句を言う。それでも神様は、イスラエルの民を見捨てなさらない。海に乾いた地を開いて、道を設け、イスラエルの民を通された。その後を追って入ってきたエジプトの軍勢は、ぬかるみにはまってしまって動きが鈍くなる。そこへ海が元に戻って、すべてのエジプトの軍勢は滅ぼされてしまう。その時イスラエルの民はまたまた喜ぶのです。単純ですからね。紅海を渡って向こうへ着いたときの、その救いにあずかった喜びを歌ったうたが出エジプト記にあります。神様は幾たび彼らを恵んでくださったことか。どれほど恵まれたか分からない。やがてダビデ王、ソロモン王という素晴らしい王様を与えられて国を造ったときに、彼らは神様を忘れていく。ほかの神々を慕い、神様ならぬほかのものを追い求めるようになって、とうとう神様はバビロンを興(おこ)してイスラエルを滅ぼされる。旧約聖書のイスラエルの記事を読む時、非常に厳粛な思いがします。それは、私たちも彼らと同じことをするからです。悩みのときだけは一生懸命に神様を呼ぶけれども、のど元過ぎればほかのことに、神様を抜きにして、あるいは神様第一から二番三番へと順番を変えて、私たちは神様を裏切るのです。

イスラエルのいちばん最初は何であったでしょうか。アブラハムは選ばれるべき特別な理由は何もないのです。ただ神様が一方的に憐れみをもって彼に目を留めてくださった。そして彼を祝福の基(もとい)とし、イスラエルの始まりとしてくださった。しかし、彼には子供がいませんでした。年も取りました。ところが、神様は約束をもってアブラハムを恵んで、イサクを与えてくださった。アブラハムは神様の恵みに感謝して、神様に生涯仕えました。アブラハムとサラ、彼らは「ローマ人への手紙」にもあるように、「死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じた」(4:17)のです。ただその信仰一筋に生涯を歩んだ。信仰を抜きにしてはイスラエルの民は有り得ないのです。イスラエルがイスラエルたる由縁は、神様を第一にして、神様に仕える信仰に立って生きるゆえにイスラエルなのです。

私たちもそうであります。神様から大きな恵みを受けた者です。その信仰に立って生きているのです。「あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ」。心を低くしてへりくだり、謙そんになって、主の恵みを感謝する者となりたいと思います。主の御愛と恵みに答えていく生涯でありたいと思います。潔い生き方というのはそこにあります。「潔い」とは、道徳的に正しいとか、品行方正な生き方というのではなくて、神様の御愛に答えていく、ここにあるのです。神様の恵みに感謝して、それに対して、私たちがすべてをささげて主に応答していく、答えていく。この生き方が聖なる生き方です、潔い生き方なのです。神様の御愛に感謝して、主がこんな者を愛してくださるから、今日、私はこの事をさせていただこう。主がこのことを願っていらっしゃるならば、私は自分の命も惜しくない。それほどに主の御愛に答えていく生き方。これが気高い、高貴な、尊い人の生き方です。そうでないかぎり、私たちの心は常に損得利害、欲得、自分の好き嫌いや、自分の感情ばかりで生きている。そんなことばかり考えて生きているから、私たちの心は曇ります。喜びをなくします。そうではなくて、ただひたすらに初めのときの愛に立ち返り、私どもがイエス様の救いにあずかった時、洗礼を受けた時、皆さんどれほど感謝したでしょうか。「もう私のこの身がどうなっても構わない。神様がこんな私を愛してくださった」と言って喜んだ、その喜びはどこにあるかというのです。私たちは絶えずそこに立ち返って、主の十字架の御愛に応答していきたいと思います。一日、一日、主の御愛と恵みに生かされるために、「切り出された岩」「掘り出された穴」をはっきりと認めて、それを原点として、そこから出発していきたいと思います。
 
 ご一緒にお祈りをいたしましょう。