いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(169)「信仰という冒険」

2014年04月15日 | 聖書からのメッセージ

 創世記12章1節から9節までを朗読。

 

 1節に「時に主はアブラムに言われた、『あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい』」。

 イエス様を信じる信仰、このように神様を信じる信仰に立って生きる、信仰生活とはどういうことでしょうか。世の中ではご利益信仰という言葉があります。自分の幸せのため、といってもこの地上での事情境遇、病気であるとか、経済的な悩みであるとか、家族や人間関係のさまざまな問題から救われる、それが信仰だと考える。だから、神社仏閣へ出かけて、そういう事を祈願する。これが世間で言うところの信仰の姿、形ではないかと思います。ともすると、私どももそういう所に心が向く。これはやむをえないかもしれません。事実、生活の中で心配なことや不安なこと、悲しい出来事などに出会います。そのような試練といわれるもの、艱難といわれるもの、苦しいといわれる事柄を避けることができないだろうか、と思います。自分で解決ができるのだったらしてしまうに違いない。私がこうすればなおる、あるいはこうすればよくなる、ここをこうしとけばいいんだと、手立てがちゃんと自分でできる事柄については、心配しません。悩むこともありません。ところが、手に負えないこと、自分では考えられないような事態や事柄の中に置かれると、うろたえる。あるいは不安になり、思い煩い、心が騒ぐ。ですから、何とかそれを避けたいという思いで神仏に頼もうとする。自分の力ではできないから、それよりももっと違った神なるものがあるならば、仏なるものがあるならばと、多くの人々はそのようなものにすがります。

 

そのようなことを専門にする宗教はいくらでも世の中にあります。私が以前住んでいた所には、弘法大師を祭る寺がありまして、一月に一度か、二月に一度くらいですが、大祭の日があります。そのときは周辺の農村からたくさんの人がやってくる。関係するお寺が近在に三つほどある。そこが三つの寺が重なって祭礼になると臨時列車が走るのです。たくさんのお年寄りたちがぞろぞろ降りてきます。田舎ですから、田んぼが周囲にズーッとあります。ところどころに集落があるのですけれども、3箇所の寺を回る。電車が着く度に何百人という人が細い田舎道をズーッと列をなして歩く。一つのお寺に行って、今度は次に行って、3箇所巡る。そうするとご利益がなお一層大きいということです。どこからこれだけの人が来るかと思うくらいいっぱいなのです。私はそれを見てびっくりしまして、いったいどういうことがあるのかと一度行って見ました。そうしましたら、弘法様の銅像があります。みんなそこへ集まってくる。お年寄りですからどこか体の悪い所がある。足が痛い、ひざが痛い、腰が痛い、頭が少し鈍くなったとか、いろいろな目的がある。それでどうするかと言うと、その銅像の所へ行って、自分が治してもらいたい部所、ひざが悪い人はひざ、足が悪い人は足、おなかの悪い人はおなか、心臓の悪い人は心臓など、銅像の体のその当たりを触る。頭の悪い人は頭を触るのです。そこに人体模様が書かれた紙があり、自分のどこが悪いかを印をして、願い事を書いて銅像の横にある掛札に貼り付けておくのです。たくさんの札が掛かっています。その銅像を見ると特定の場所だけが、人の手でなでられてピカピカに光っている。もう少し知恵があればと願って、私も頭をなでてきました。利いたかどうか分かりませんが。そして、なるほど人はこのようなことを願うのだなと思いました。今よりもズーッと若かった私ですから、体の不調についてはあまり気にはならなかったのです。けれども、皆さんを見ていますと、やっぱりそういう悩み事を何とかしたいという気持ちがあります。

 

ところが、私たちにとって大切な信仰は、何でしょうか。ただ地上の何十年か、70年80年90年ですか、あるいは長くても100年でしょうか、あと何年か分かりませんが、その間病気をしないでピンピン元気で、そしてコロンと死んでしまえればいちばんいい。PPK(ピンピン、コロリン)というのだそうですが、そうなればいいと願います。では、それで人生はすべてかと、人が生きるとはそれですべてか、と言われると、実はそうではないと思います。私たちの地上の生涯、人生はいくら避けようと思っても避けられない問題や悩みがあります。自分の想像がつかない、自分の計画しない、自分の思わないことが起こること自体、実は私たちが自分の力や業で生きているのではないことの証詞です。だから、自分の人生はこうだと決めて、大学に入って卒業して、就職して、結婚して、子供を育てて、老後はこのようにと、恐らく若いときに夢を描いておられたでしょう。ところが、現実は今振り返って見ると、思ったとおり、願ったとおりなんていう人は誰もいない。想像もつかない考えもしなかった所に、今置かれている。そこで、私たちは気づかなければならないことがある。それは目先の悩みや困難や苦しみが取り除かれることが重要ではなく、実は自分では考えない、願わない、計画しなかったような事に私たちを導いている、私たちを生かしておられる方に気づくことです。しかし、人は愚かで、案外そのようなことには気がつかない。ただ闇雲に目先の問題、事柄を解決してほしいと思う。よく考えたら、そのことをいくら解決したからといって、人生に悩みがなくなることはない。いや、それどころか一つ解決したと思ったら、次にまた問題が生まれてくる。私たちが生きている間、暗やみと、悲しみと、多くの悩みと、病と、憤りの中にあると、「伝道の書」には記されています。では、それであきらめるのかというと、そうではなくて、もう一つ私たちをそのようなものの中に生かし、導いていらっしゃる神様がおられることを認めて、その神様の前に自分を置いて生きる生活。これが私たちに求められていること、私たちが造られ、この地上に命を与えられ、生かされている目的です。

それで、今お読みいたしました12章1節に「時に主はアブラムに言われた、『あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい』」。ここでアブラムという人物が登場します。この人は後にアブラハムと名前を変える信仰の父とも呼ばれる人物ですが、そもそも生まれたときから神様を知っていたかと言うと、そうではなかったようです。

 

少しその前の所、創世記11章27節から30節までを朗読。

 

ここにテラという人物が一人います。このテラに3人の子供がいた。アブラム、ナホル、ハランです。そのうちのハランは結婚してロトを生(う)んだのです。ハランはそのロトを生んでから早死にします。お父さんテラよりも早くに死んでしまう。29節にあるように、アブラムとナホルはそれぞれ結婚して、アブラムにはサライ、ナホルにはミルカという奥さんをもらったのです。ところが、このアブラムの奥さんサライは、30節にありますように「子がなかった」。子供が与えられなかったのです。その先31節を読みますと「テラはその子アブラムと、ハランの子である孫ロトと、子アブラムの妻である嫁サライとを連れて、カナンの地へ行こうとカルデヤのウルを出たが、ハランに着いてそこに住んだ」。あるとき、お父さんが、自分たちの住んでいたウルという町から一念発起して新しい地へ移住しようと計画したのです。それはカナンの地へ行こうという計画でした。そのときにナホルという息子夫婦、その家族は置いたままで、お父さんテラは、アブラムとその奥さんサライ、それに亡くなったハランの残した子であるロト、この人たちを連れてウルの町を出ました。そしてカナンをめざして旅をしたところが、途中のハランという町に着いて、そこに腰を落ち着けてしまった。せっかくカナンまで行こうと思ったのですが、途中のハランという町に着いたときに、恐らく想像ですが、お父さんテラは高齢になってこれ以上旅が続けられないと思ったのでしょう。取り敢えず、そこで家族で落ち着いて生活をしていました。お父さんのテラはハランで「205歳で」亡くなったのです。残されたのはアブラムと奥さんサライ、甥に当たるロトです。その3人になった。

 

ハランの町に住んでいたときに「時に」と12章1節に、これはいつであるか分かりませんが、あるとき、アブラムに神様が語りかけてくださった。これは突然のことで、いったい何が起こったのか、アブラムにもよく分からなかったと思います。これは一つの大きな転機です。彼の人生を根本的に方向転換させる事態、事柄です。このとき、アブラムは初めて天地万物の創造の神、聖書に証詞されている神様を知るのです。それ以前は、考古学の資料などを見ますと、ウルという町は、偶像崇拝の盛んな町だったことが今は知られています。発掘した所からたくさんのいろいろな形の偶像が出土していると言われています。ですから宗教心は豊かにあった。まるで日本人のように。そのようなご利益信仰、いろいろな災いを免れるためのまじない的な習慣の中に彼も生きてきたようです。ところがあるとき、神様がアブラムに臨んで声を掛けてくださった。声を掛けられるってどうすることか?神様の声が聞こえたのだろうか。アブラムはどのように神様の声を聞いたのだろうかと思いますが、必ずしも、今私が話す言葉を皆さんが聞いているような形で、神様の声を聞いたとは思えません。もちろんそのようなこともあったかもしれませんが、いずれにしてもアブラムの心の中に一つの決断、促し、押し出す思いがわいてきた。そのときに神様が何とおっしゃったか。この1節に「時に主はアブラムに言われた、『あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい』」。ここで神様はアブラムに「国を出て、親族に別れ、父の家を離れ」、そして「わたしが示す地に行きなさい」という言葉を与えられました。よく読んでいただくと、「出て」「別れ」「離れ」というのです。自分をすべてのものから切り離していくことです。国を出るとは、自分の母国である、自分の民族と共に生きている世界、そこから離れて、そこを出て行く。

 

私たちは生まれながらに日本という国に育っていますから、考えもしないで日本語をしゃべることができるし、生活習慣など食べるものや何にしろ、なじみがありますから、ほとんど違和感がありません。ところがいったんこの国を出てよその国に行きますと、言葉は違う、食べるものは違う、会う人々の顔も目の色も髪の色も違う、何もかも違いますからまったくなじまない、非常に抵抗を感じる世界です。私どもはどちらかと言うと、そういうあまり抵抗のない楽な生き方を求めます。国に住む、自分が生まれ育った国におることは、実に安心です。私たちは比較的そのように思います。余程物好きしか海外旅行なんかしないだろう、と思うくらいですが、若い時は好奇心がありますから、苦労はいといませんが、だんだん年を取ってくるとあまり好まない。今までどおり、ご飯と味噌汁と漬物で食事をして、これで安心、安心というそのような自分の国にいるのは幸いです。また「親族に別れ」とありますが、「親族」も、これまた非常に親しい関係です。叔父さん、叔母さん、いとこ、そのような血を分けた仲間たちは、言わず語らずお互いを理解しあうことができます。どこか親しみがある、居心地の良い所です。また「父の家」は家族です。親兄弟、そのような関係の中にいるのは、心落ち着く幸いなことです。ところが、神様はここでアブラムにそのようなもの一切を「出て」「分かれて」「離れて」と言われます。そのような日常的なものの一切、自分につける肉的な、安楽なもの、自分にとって都合の良い一切のものを捨てて、それを「離れて」というのです。

 

信仰とはここです。ある意味で信仰はギャンブルと言いますか、賭けです。あるいは冒険と言ってもいいと思います。自分が慣れ親しんだ生き方、自分が学んできた習慣、自分が身につけている生き方やそのような考え方、感情、そのようなものをそのままにして、信仰生活を続けることはできないのです。アブラムに対して神様は自分が生まれ育ってきた、自分が生活をしてきた、そのような環境から、それら一切を捨てて、それを離れて、今度は「わたしが示す地に行きなさい」と。「わたしが示す地」とは、神様の言葉を信じて従っていくことです。そこは未知の所です。まだ自分が見たこともない、触れたこともない、聞いたこともない場所、「そこへ行け」と。お父さんのテラがウルを出発したときに、既にカナンを目指していたのです。ですからアブラムは神様が示す地がどこであるか、それがカナンであることは知っていました。ですから、その後のところにそう記されています。5節に「アブラムは妻サライと、弟の子ロトと、集めたすべての財産と、ハランで獲た人々とを携えてカナンに行こうとしていで立ち」とあります。彼は「カナンに行こうとしていで立った」。ところが、「へブル人への手紙」を読むと「行く先を知らないで出て行った」(11:8)と記されています。「行く先を知らないで」と、何でやろう? 行く先は知っていたはずではないか。カナンに行くはずではなかったのか、と思いますが、この「行く先を知らないで」とは、カナンという名は知っていましたが、そこがどんな所であり、何があり、どういう待遇が受けられるか一切分からない、そういう意味です。「カナン」という名前は知っていても、今のように情報社会ではありませんから、何も知らないのと同じです。私たちだったらすぐネットで「カナン」と検索をする。カナンの気候、食べ物、人情やそこに住んでいる人々から生活習慣まで、ズラーッと分かって、ああ、なるほど、こういう所か、じゃ、もうやめとこうと思いますが、アブラムの時代はそのようなものは何もない。全く知らないのです。ただ神様が「行け」と、お命じになった所へ出て行く。これは冒険です。

 

皆さんが友達から誘われて、「明日、時間があったらいい所へ連れて行くから、何時に小倉駅に来て」と言われる。そのとき、皆さんは何と言いますか。「どこへいくの?」と聞くでしょう。「まぁ、いいから任せなさい。私が連れて行くのだから」と。「でもどこへ行くの? ちょっと言ってよ」と、不安です。「じゃ、何を持って行ったらいいの」「いらない、何もいらない」「お金は?」「私が全部用意しているから」と、それは有難いけれども、どこへ行くのか分からない。ミステリーツアーです。とにかく行ってみる。ところが、行くまでは大変に不安があると思います。そして連れて行かれる所がどこか分からない。列車に乗り、バスに乗り、何かに乗り換えながら「ここだよ」と言われて初めて「ああ、この温泉」と分かるのは後になってでしょう。

 

言うならば、神様を信じて生きる生活は、まさにそういうミステリーツアーなのです。私どもは明日のことが分からない、来年のことが分からない。これは当たり前です。なぜならば、私たちを造ってくださった神様が私たち一人一人のために、この地上で生きる道筋を備えておってくださる。だから神様を信頼する、そのためには自分が慣れ親しんでいる生活の場、あるいは自分の生き方、考え方、あるいは自分がしてきた生活をいったん御破算にして、それを捨てて、「わたしが示す地」、神様が備えられる場所、神様が与えようとしてくださるところを信じて踏み出していく。これが信仰生活の根本的な生き方です。そこでは、最初に申し上げましたように、日々の生活の悩み事がどうとかこうとか、それはあまり問題にはならない。その中には病気をすることもあるでしょう。あるいは宝くじに当たることもあるかもしれない。しかし、神様が今日私のために備えてくださる所へ出て行けとおっしゃる。神様の促し、神様のお言葉を信じていく、ただそれだけです。だから自分の経験であるとか、あるいは周囲の経験者の話を聞いて、今度はこうしよう、次はこうなるだろう、その次はこうするに違いないと、いろいろなことを自分の頭で計画してやっていくのとは違います。全く神様のなさる手の中に自分を置いていくことです。そのために、これまでの過去のいろいろな事柄は役に立たない。人の世というのは、過去の経験、自分がしてきた事、いろいろな事を蓄積して、そこから次なる一手を考え出す。あるいは方策や生き方、することを考えるのです。ところが信仰に生きる、神様を信頼して生きるとき、過去の経験であるとか、過去に自分が体験してきて身につけてきた知識や知恵は一切役に立たない。そのとき、そのときに神様が「行け」とお命じになる所に出て行かなければならない。これはある意味で、私たちにとって大きな自由を得ることです。私たちは案外と過去に縛られて生きている。むしろ縛られて生きているほうが楽な面があります。みんながこうするから、うちの習慣ではこうなっているから、我が家のやり方はこうだから、日本という国はこういう国だから、こういう生き方で、こういうことをすればいいと、決まった一つの枠組みの中に人が生きている。そうであるかぎり案外楽であると同時に自由がありません。常にその社会、あるいはその生活の中で外れるわけはいかない。それについていかなければならない。少しでも人と違うことをすると白い眼でみられるかもしれない、人から何を言われるか分からない。常に不安と恐れを伴います。だからいつも周囲を見ながら、人がすることを眺めながら、ああしたらいいのだ、こうしたらいいのだ。案外、そのように縛られていることに気がつかない。ところが、神様は私たちをそこからもう一つ全く新しい、新天新地、未知の世界へ私たちを引き入れようとしておられるのです。これは大変ドラマチックな生き方、あるいはダイナミックと言いますか、変化の大きい生き方です。

 

この1節に「時に主はアブラムに言われた、『あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい』」。「わたしが示す地に」出て行く。これは私たちが、案外気がつかないうちに、実は神様から求められている事態や事柄です。アブラムのように北九州からどこかよその国に行けと言われたわけではないと思われるに違いない。しかし、毎日の生活のどんなに小さなことの中にも、これまで自分がしたことのない、自分が経験しなかった、自分が体験しなかった、また思いもしなかった事態へ、神様は私たちに「わたしが示す地に行きなさい」と言っておられる。私どもは気がつかないうちに、神様から促されてそこへ出て行こうとするのです。しかし、自分の周囲のいろいろな事柄が、私たちを阻(はば)む。出ていくことを引き止めてしまって、そのために私たちがどれほどいろいろな事柄を没にした、つぶしてきたか分からない。考えてご覧なさい。過去にあの時、あの選択ではなくてこちらを選んでいたら、今の皆さんと違っていたかもしれない。あの結婚のときあの人ではなくてこの人を選んでいたらという、それだけでも大きな違いでしょう。私どもは何かのときに、神様が常に私たちの生活の中で、人生の中で干渉しておられる。アブラムに語られたように「国を出て、親族に別れ、父の家を離れ」、自分が慣れ親しんだ、長年生活してきた習慣や考え方、そういうものとは全く違った道へ出なければならない。

 

私は家内の両親のことを思うとき、想像もしなかったような事態へ事柄が発展していきました。つい1、2年前は夫婦仲良く老後の生活をやってくれるかな、と思っていた。父はそれまで母の世話をしていたのです。一生懸命尽くしに尽くしました。見ていて大丈夫かなと思うくらい頑張っていた。ところがある日「もうわしはやれん」と、お手上げとなってしまった。それから事態がガラガラッと変わっていく。家内もそうですけれども、私もそばにいながら関わるわけですが、「どうしてこんなになるの?」。家内は「これから年老いた両親をどのように処遇するか」と課題を与えられた。どこに預けたらいいか、どこにどうしたらいいか、そのことで毎日毎日祈るしかない。と言って、やはり娘として、子供として、こうあってほしい、ああなってほしい、このようにあってほしいと思う具体的な世界があるのです。ところが事態は必ずしもこちらが願ったような、考えたような方向にはいかない。私はそのとき、はぁ、これは神様が今促していらっしゃることがあるな、と思うのです。つい、これはこうあったほうがいい。次にこれはこうなるに違いない、その次はこうして、やがてそのうちこうなって、三日間ぐらい寝込んだ後死ぬだろうとか、自分で思い描いた国に、あるいは親族や自分の家にしがみつこうとする。ところが、神様は、私たちにそこから「出て」「別れて」「離れて」、さぁ、わたしがこれから示すからそこへ行けと。そこはどんな所か分からない。そのように、私たちの生活の中で絶えず神様は、私たちに踏み出すことを求めておられます。これは非常に大きなチャレンジです。神様からの挑戦を受けるのです。これが嫌だったら信仰をやめたほうがいい。私たちは死ぬまで神様からチャレンジされている。そこで神様のお言葉を信じて、踏み出していくのか、それを拒んでとどまっていくのか、これは非常に大きな決断が求められる事態、これが信仰生活なのです。だから、絶えずいろいろな問題、事柄に出会うときに、「国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」と、神様は語っている。その声はあなたにしか聞こえません。家族であっても周囲の人には分かりません。このときアブラムは、彼一人そのことを聞いたのです。そして彼は神様の約束を信じて、それまでの生活を捨てて踏み出して行った。

 

最後に一つだけ読んでおきます。創世記22章1節から3節までを朗読。

 

これは先ほどの記事から25年以上、ほぼ30年以上たったと思います。その間、もちろんいろいろな事があったのです。アブラムは神様に従って行ったのですが、失敗もしました。時には神様を疑いました。揺れに揺れる旅路を経て、やがて約束の子供・イサクが与えられたのです。そのときアブラムは100歳、奥さんは99歳、到底見込みのないと思えるところに、神様の力によってイサクが与えられて、彼は大変に喜んだ。アブラハムはイサクを愛しました。ところが、そのイサクが可愛い盛りになって、10歳か12歳、そのあたりかもしれませんが、そのとき神様はアブラハムに言われた。「お前の愛するイサクをわたしのためにささげよ」と。犠牲のいけにえとして彼をわたしにささげなさいと。これは惨いことですね。ある人は、もし自分にこのようなことがあったら、はっきり言ってすぐ無神論になるだろうと語っています。神なんか信じることができなくなる事態だと。このとき、アブラハムはどうしてこんな事を神様は言うのだろうかと、疑ってしかるべきだったのでしょうが、彼はここで何も言わないで、3節に「アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた」。彼は朝早く起きて、言われたときすぐに出発しました。少しでも長く我が子と居たいと思ったに違いないが、そんなことではない。神様が「行け」とおっしゃったから、彼は「はい」と従ったのです。そして自分の愛する子を連れてモリヤの山に行きました。そこで彼を縛っていよいよ彼を殺そうとして、刃物で彼を刺さんとしたときに、神様は彼をとどめました。そのとき、アブラハムはたとえこの子を今殺しても、死んだイサクをよみがえらせることができると神様を信じたと、「ヘブル人への手紙」に記されています。神様に対する絶大な信頼をもって、自分の命を神様にささげたのです。このようなことはアブラハムにあったのであって、私には無いよな、と思うかもしれませんが、そんな事はありません。長い人生の中で必ずこのような事態に出会うのです。自分が愛してやまない、自分が大切にしているもの、それを手放さなければならない、そのようなのっ引きならない事態は必ずあります。それは事の大小を問わずです。あるときは、自分の健康であるかもしれない。あるいは、自分の命がそれであるかもしれません。神様が「それをわたしにくれ」、「わたしにささげなさい」と求められるそのとき、「はい」と従えるかどうか。ここが信仰の問われるときです。どうぞ、私たちはまだそのような事態がなかったかもしれない。いや、もう既にそのようなことがあった方もいるでしょう。「なんでこんなことになったのだろう」、「どうしてわたしの愛する子が……」というような事態や事柄があります。そのとき、アブラハムのように、神様がこれを求めていると、はっきり信仰を持って受け止めることができるかどうか、信仰生活は、実に命懸けです。時には自分の命を懸けなければならない事態、事柄の中に立ちます。人のことを考え、事情境遇を考え、自分の生活を考えて逃げるわけにはいかない、そのような事態を私たちは必ず迎えます。いや、これまでにあったでしょう。またこれからも一度や二度ならず、神様に求められることがあります。どうぞ、そのときに、私たちは「わたしが示す地に行きなさい」と、神様が「行け」と言われる、神様が「ささげよ」と言われる神様の促しと、お言葉を信じて、大胆に信仰を持って踏み出す、そのような信仰をはぐくみ持ち続けていきたいと思います。

 

もう一度初めの創世記12章1節に「時に主はアブラムに言われた、『あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい』」。これは信仰の最も基本の原点です。私どもは絶えず主のみ声に従っていく者となりたい。このとき4節に「アブラムは主が言われたようにいで立った」。実に、潔(いさぎよ)くアブラムは神様がおっしゃることですからと、従ったのです。私どももこのアブラムの信仰に倣(なら)って、神様に従っていく生涯でありたいと思います。

 

ご一緒にお祈りをいたしましよう。