いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(158)「羊飼いと羊たち」

2014年04月04日 | 聖書からのメッセージ
 詩篇23篇1節から6節までを朗読。

 1節「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」。

 詩篇23篇はそらんじるくらいに繰り返し読まれる箇所であろうと思います。「主はわたしの牧者」、このお言葉は大きな慰めであり、力であり、望みであります。私は数年前に病気のために手術をしましたが、病院におりますと、いろいろな不安や恐れ、心配が襲ってきます。そんな中で、この言葉がどれだけ大きな力であったか、今も忘れることができません。「主はわたしの牧者」、神様が私の羊飼い、牧者であるということです。

日本の社会では、羊のことについてはほとんど分からない、せいぜい動物園に行って子供動物園で、子供を対象にしたふれあい動物の一つとして羊が飼われている。その程度のことしか知りませんが、ダビデはそもそも羊飼いの子供でしたから、羊飼いの役割や飼われている羊たちを大変よく知っていました。羊は、自分では決して生きることができません。弱く、牙もありません。足も速くない、闘う武器、強力な猛獣のような才能があるわけではありませんから、ただ群がって、集団になっているだけです。それだけに羊飼いが彼らの命の源であることは確かです。羊は餌となる草を求めて移動しますが、これだって自分で探すわけにはいかない。群がって何百、何千頭というたくさんの羊が、一箇所にじっとしていたら、すぐに食べ尽してしまいます。だから、羊飼いはある一定間隔で絶えず移動していく。その場所にズーッといたら、食べるものがなくなります。一月もしないうちに緑は食べ尽して、赤茶けた土だけになってしまうから、羊飼いはあちらの山の斜面、こちらの山の斜面へと、羊を追いながら餌場を探し、水場を求めていく。もし羊飼いがいなければ、羊は自分でその水場に行くことができない。またどこに餌がたくさんあるか、分かりません。ライオンや猛獣であれば、行き来する弱い動物を捕らえて食べるわけですが、羊達はそれができませんし、また知恵がありませんから、右往左往しておしまいです。そのうち強い敵にやられてしまうに違いない。

だから、羊飼いと羊との関係は実に密接で、羊にとって羊飼いは命の源でもあるわけです。ダビデは羊を飼う生活を通して、そのことは痛いほど知っていたと思います。だから、ここで「主はわたしの牧者であって」と、この一言を語ったとき、ダビデは心からそのように思ったのです。私たちも自分の力で生きるすべがありません。何をするといっても知恵もなければ力もない。では誰が養っていてくださるか? 実は神様が私たちにこの地上での命を与え、また養い育ててくださっているのです。私どもは、自分で生まれてきた人はいないのと同じように、また死ぬ時も自分の力で自分の時を定めて、そろそろ自分の死ぬべき時がきた、なんてことにはならない。始まりも終わりも、実は神様の手の中にある。ではその中間である今、こうやって元気で生きている私たちは自分の力で生きているかと言うと、そうではない。神様が私たちに必要なものを備え、すべてのものを与えてくださっているからです。だからパウロは「あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか」(1コリント 4:7)と言っています。これは私が稼いだもの、私が働いて得たもの、私が頑張って……と言いますが、その頑張る力も、頑張る知恵も、あるいは働く場所も、そういうものを誰が備えてくださったか。これはすべて神様です。

 最近しみじみと思いますが、世の中の状況を見ますと、危険に満ち溢れている。あちらで殺され、こちらで生き埋めにされて殺される。いろいろな問題があります。そのような中にあって、私たちが今日もこうやってノビーッとして生きておれるのは、何故か? 心配すればいろいろと心配はありますが、今、目の前に殊更に何か生きることができない問題があるわけでも何でもない。それだからと言って、誰よりも知恵があり、力があり、財力もあり、学力もあり、人を超えて優れた自分である人は、一人もいないですね。自分でそのように思っている方はいらっしゃるかもしれませんが、私達はそのように弱いのです。だから、本当にこれは神様の憐(あわ)れみによって、このように守られている。目に見えない神様の力によって、私たち一人一人を「今日も生きよ」と、神様が生きる使命を与え、命を与え、すべての災いから守ってくださっているとしか言いようがない。世界を見ますと、このような太平楽な国はないと思います。しかし、日本でもいろいろと困難や危険やあるいはさまざまな問題は山積みしています。もちろん、イラクであるとか、アフリカの内戦状態の国々に比べれば、見えるところは平和そうです。しかし、私たちの置かれている現実の状況を見てご覧なさい。政治も経済も教育も、本当に今はひどい状態になっています。

 先だって、NHKの『クローズアップ現代』を見ていましてびっくりしましたが、最近は若者がフリーターやパートタイムの仕事しか与えられないので、生活保護水準に満たない収入のために行き詰ってホームレスになる。といってテントを張って公園で住んでいるわけではないが、24時間のネットカフェというインターネットカフェであるとか、いろいろな24時間営業のファーストフードの店などで、一晩いすに座って寝ている。朝になると自分のバイト先に出かけて行く。そういう人が増えているというのです。経済界は、正社員はお金が掛かるからリストラで、そのような使い勝手のいい人を雇って『人件費削減』というわけでしょう。それで企業は大もうけをする。そのような今の経済状況を見て、私達は本当に今日も食べるものに事欠かない、まぁ、時には不平すらも言うぐらいゆとりのある生活を送らせていただいている。私が若いときから働いて、そして蓄えて、年金がもらえるようになったからだと言われるかもしれません。年金だって、先ごろ5千万人ですか、自分のもらえるべき年金の一部が分からなくなった人がいる。自分の掛けただけの年金が全部もらえないでいる人がいるという。政府もいい加減だなぁ、と思います。ついこの間までは、国民年金未納者をやっつけておりましたが、今度は徴収する側がやられている。実に奇妙でおかしな世の中だと思うのです。皆さんの年金が減らされているかもしれない。もし、神様の守りがなければ、ひょっとしたらとんでもない災難に遭い、問題に遭い、悩みに遭うに違いない。

どうぞ、もう一度、自分に与えられている恵みが何であるかをよく知っておきたい。そのようなことを忘れてしまい、当たり前のようになってしまうから感謝ができない。不平不満、つぶやくしかなくなります。つぶやいている間はゆとりがあると考えたらいいと思います。いよいよ行き詰ったらつぶやく元気もなくなるのです。ですから、私たちは感謝だと思います。その原因はどこにあるか。ただ一方的な神様の憐れみです。私たちが何かできるから、神様にとって何か役立つからではなくて、一方的な神様の御愛の中で、「主はわたしの牧者」となり、養い主になってくださっている。羊は羊飼いがいなければ命を全うできないように、神様がいらっしゃらなければ、神様が私たちを顧(かえり)みてくださらなければ、恐らくとっくの昔にどんな悲劇に遭っていたか分からない。あるいは、今こうしておられるかどうか、これは全くもって不確実であり、また恐らくできなかったと思います。振り返ってみますと、いろいろな問題もあり、悩みもあり、困難もありました。しかし、そのような中で落ちこぼれて消えてしまうことなく、行き詰って倒れておしまいになるのではなく、今日に至るまで神様が憐れんでくださった恵みであることを、決して忘れるわけにはいかない。私どもはそんなこととはつゆ知らずに生きてきた時代もありますが、私たちが知る、知らないにかかわらず、神様は一人一人に目を留めてくださって、主イエス・キリストを、ひとり子を世に遣わすほどの限りない御愛によって愛してくださった。イエス様は「わたしはよい羊飼である」(ヨハネ10:11)と語っていらっしゃいます。

 詩篇100篇1節から5節までを朗読。

 この3節に「主こそ神であることを知れ。われらを造られたものは主であって、われらは主のものである」。私たちは神様によって造られ、神様に生かされ、神様によって養われ、神様が持ち運んでくださる。「われらは主のもの」、私たちは自分のものではない。神様のものなのです。だから、私たちの健康も体も、家族も生活も、命も、これは全部神様が私たちに与えてくださったといいますか、使わせてくださっているものに過ぎない。このことを絶えず自分自身に言い聞かせる、きちっと信じたいと思います。なぜなら、やがてこれらすべてを神様にお返しするときがくるのです。「私は主のものです」と言い切って、それに徹底して信仰を持って生きていくことができれば、やがて終わるときに「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ記1:21)と、ヨブのように「主にすべてのものをお返しする時がくる」。これが私たちの信仰であります。だから、今健康な時に、これは私の健康だ、私のものだと、そのような心を捨てて、主のものです、神様から預かっているもの、神様が使わせてくださっているものということを徹底して信じていくこと。

 先だって、ある兄弟とお話をしておりましたら、その方は「先生、この体も健康も主のものですから、もし、主が『これで終わりだ。もうお前はそれを返せ』とおっしゃったら、いつでもそれをお返しするようにと、いつも心掛けています」という。なるほど、私もそこでもう一度教えられました。本当にそのとおりだと思います。いつまでも長生きしなきゃと、棺おけに半分足を突っ込みながらも、「何とか命を取られまい」ともがく。そんなみっともないことはしないでおきたいと思いますね。主が「人の子よ、帰れ」と定められるとき、そうだ、これは主が私を取られる時だと、主のものとなりきっていく。

 福岡にいらっしゃった一人の姉妹、末永雪という姉妹がおられました。その方は70代くらいだったでしょうか、胃がんになってその手術を受けられたのです。その時、私の母の叔母にあたりますから、両親がお見舞いに行った時に「榎本さん、私の病気が癒されるように祈ってください」と言われたので、その時、手を置いてお祈りをしました。その方は伝道館時代からの古い方ですから、大変喜んで、やがて病気が癒されて元気になられました。何年間か、数年か、十年足らずだと思いますが、元気にしておられたのですが、ところがまた再発して、もう一度その病気になってしまったのです。父も母もお見舞いに行きました。その方の病床に行って「一言、お祈りしましょうね」と言いましたら、その方が「榎本さん、今回はどうも神様が私を御許(もと)に召される思いが強くしますから、癒されるように祈らないで下さい。そうでなくて、私が平安にこの地上の生涯を終わることができ、神様の所に帰ることができるように祈ってください」と言われた。父はまだ若かったのです。そのころ40代後半だったと思いますけれども、びっくりしました。それまでは癒されるお祈りばかりしてきたのですが、召されるお祈りをしたことがなかった。それで父は一瞬、さぁ、何とお祈りしようかと……「どうぞ、神様、早く召してください」というお祈りも……、ちょっと困ったと語っていたのを思い出します。「何とお祈りをしたの? 」「これまでの人生を感謝して、そして本当に痛みや苦しみもなく速やかに神様の御許に帰ることができるようにとお祈りをしてあげた」と言う。そうしましたら、その方が大変安心して「ああ、これで本当に心が軽くなりました」と言って、スーッと休まれた。それから日ならずしてお召されになられたということでしたが、私にはその方の信仰の素晴らしさが印象深く残っています。

私自身がそうでありたいと思っているのですけれども、今日明日ではなれないから、そのためには今元気なうちから常に、私は主のものと信じて生きたい。「主のもの」と言いますのは、健康も家族も仕事も、この世の一切のものは、神様、あなたのものを今使わせていただいている、期限付きなのです。それを「おれのものだ」と、自分のものにしては駄目です。神様が「もうお前はおしまいだから、私の所へ帰ってきなさい。私の貸していたもの、命も健康も家族も返しなさい」と、神様がおっしゃったときには、「はい」と素直に従いたいと思うのです。

そうなるために、3節にありますように「主こそ神であることを知れ。われらを造られたものは主であって、われらは主のものである」。イザヤ書43章に「わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ」(1節)と言われています。「主のものである」というのです。何かそのように言われますと、死ぬときの準備ばかり言われているように思うかもしれませんが、「主のものである」とは、生きるためでもあるのです。私たちが今日生きているのも主のものですから、主のために生きる。パウロがそのように言っています。「生きるのも主のため、死ぬのも主のため」、生きるにしても、死ぬにしても、わたしは主のものである、という。だから、真剣に生きるためには、自分を主のものとしてささげていなければ、生きられません。また同時に、平安と望みをもってこの地上の生涯を安らかに終わるためにも、「主のものである」ことを徹底していなければできないのです。だから「主のものである」というのは、生きるためでもあり、死ぬためでもある。

その後に「われらはその民、その牧の羊である」とあります。私たちは神様の民であり、「その牧の羊」、神様の牧場に養われている羊の一匹であることを自覚していく。私たちを養う方、命の根源でいらっしゃる方は、イエス様、神様ご自身であります。この方が羊飼いとなってくださる。

もう一度初めの詩篇23篇1節に戻ります。「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」。神様こそが、イエス様こそが、私の羊飼いとなって、私の命の根源でいらっしゃる。主が私たちを守ってくだされば、そのとおりに命にまで導いてくださいます。たとえこの地上の命が終わるにしても、神様は永遠にわたって私たちの牧者でいらっしゃる。その後2節以下に「主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。3 主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる」。「主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる」と。神様は私たちが疲れたとき、悩みにあるとき、苦しみにあるとき、失望落胆したとき、ちゃんと憩わせてくださる。「いこいのみぎわに」、また「緑の牧場に伏させ」て、慰め、励まし、力づけてくださる御方です。それは生活の目に見える条件においてもそうであります。そればかりでなく、3節には「主はわたしの魂をいきかえらせ」、ここですね。主は私たちのそのような生活上の苦しみ、悩み、困難、あるいはさまざまな失望落胆の中から私たちを助けてくださり、「いこいのみぎわに」「緑の牧場に伏させて」くださり、また命に導いてくださるばかりでなくて、「わたしの魂をいきかえらせて」くださる。魂は何のためにあるのか? それは神様との交わりを回復させてくださる。3節に「み名のためにわたしを正しい道に導かれる」。神様は「魂をいきかえらせて」、神様との交わりに導きいれ、そして「正しい道」に導いてくださる。「正しい道」はどんな道なのか、私たちには分からないのです。何が正しいか、何が間違っているか。人間は、誠に自己本位でありますから、極めて偏(かたよ)った物の見方、自分中心の物の見方しかできません。どんなに客観的といっても、客観性というものは、人には有り得ないのです。横から見ていて、あの人はああだ、こうだ、と言いますが、それだって必ずしも客観的な正確な物の見方とは限りません。常に人間はいろいろな事柄で心が曲がっていきますから、「正しい道」が分からない。しかし、神様は、牧者でいらっしゃる御方は、私たちがどこへいくべきか、どの道が正しい道であるかを知っていらっしゃる。だから、羊飼いは羊の群れをきちんと正しい道に導き入れてくださる。羊は右に左にと群れから離れていくことがあります。自分勝手な生き方をする。そのときにでも神様は、絶えず私たちを「正しい道に導かれる」。

4節に「あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます」。「むち」とか「つえ」、殊にこの「つえ」は、羊飼いの持っているつえです。クリスマスの時など、羊飼いのつえを持ちますが、劇のときは場所がありませんから短い小さなつえを持ちます。本来羊飼いのつえは、長くて先端が曲がっている。遠くからでも羊をグッと引き寄せる、あるいはカチッと頭をたたく。だから、必ずしも羊飼いのつえは、気持のいいものではありません。痛いのです。苦しい。首に引っ掛けられてグッとのどを詰められるわけですから、そんなことをされたら嫌なことですね。むちはもちろん痛いものですが、「むちと、あなたのつえはわたしを慰めます」と言う。これは考えてみますと、誠に矛盾したお言葉です。「むち」や「つえ」は慰めどころか、恐れですよ。しかし、それが「慰め」と言えるのは、主が私たちを「正しい道」へと導きいれようとしてくださる。

私たちの生活でも、時々思いがけない痛い思いをすることがあります。失敗したり、人とのあつれきがあったり、あるいは自分自身の健康上の不安や問題の中に置かれます。それはまさに「むち」であり、「つえ」です。それを通して正しい道に魂を生き返らせようとする神様の愛の「むち」であり、愛の「つえ」です。それはそのときは痛い。いろいろな悩みに遭うとき、どうしてだろうと、初めは思います。どうして私が!と。ところがよくよく考えますと、それを通ることによって味わう恵みがあり、またそのことを通して、自分の生き方、あり方、神様に対する信頼の仕方、信仰の土台がどこにあるかを、もう一度点検させられる。悔い改め、また新しいものとしてくださる大きな恵みのときなのです。だから詩篇119篇をうたった記者が、「困難(くるしみ)にあひたりしは我に善(よ)きことなり、これによりてなんぢの律法(おきて)を学び得たり」(71節:文語訳)。神様の正しい道、神様のおきてを知る。言い換えますと、神様の御思いを知る。神様が正しい道へと私たちを引き入れてくださるために事が起こっている。だから、私どもは何かいろいろな事に遭った時、まず自分自身を神様の前に置いて、自分の姿勢を整えましょう。いや、私はそんな神様からコツンとやられるようなへまはしていないはずだと思いますが、案外気がつかないところで、先ほど申し上げましたように、私は熱心です、と言いながら、だんだん神様から離れていく。

エリヤがカルメル山でバアルの預言者と一騎打ちをして大勝利を得たのですが、その後スランプに落ち込んで、イゼベルという妃の一言で、怖気づいて、とうとう逃げ出した。そして「れだまの木」の下で「もうわたしの命を取ってください。これ以上、私は何もすることがありません」と、不平を言った。その時、神様は「お前はそこで何をしているか」と問われた。「私はあなたに対して甚(はなは)だ熱心なり」(列王記上19:10:文語訳)と言ったのです。と言いながら、心は神様から離れて逃げ出している。どうして私はこんな目に遭うの。私ははなはだ熱心に神様に仕えているのにと。案外、神様から見たら逃げているじゃないかと。お前はわたしの前からいなくなっているではないか、と言われるに違いない。しかし、自分ではそれが分かりませんから、「私ははなはだ熱心です、どうしてこのような目に遭わなければいけないのですか!」「いや、もう一度よく考えてご覧」。エリヤはそこで神様の慰めを受けて、更に進んで神の山・ホレブに着く。そこで初めて神様に出会います。正しい道へ導き入れるために、時々私たちの目を覚まさせてくださる。だから、私たちは問題に遭うとき、悩みに遭うとき、それに負けたら何の意味もありません。そうでなくて、羊飼いであるイエス様が私に何かここで語ろうとして、教えようとしてくださるのだから、「主よ、お語りください、僕は聞きます」と、主に心を向ける。そうするとき、魂を生き返らせ、正しい道へ導いてくださる。

先だって、ある姉妹がこのお言葉を通して大変恵まれました。その姉妹は一つの問題にあたって本当に悩んでおられました。その時、この23篇、いつもは1節の「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」とのお言葉で励まされていましたが、今度の問題にあたった時に、ハッと気がつかされたのは、3節と4節のお言葉。殊に3節の「主はわたしの魂をいきかえらせ」との言葉です。なるほど、この問題を起こしてくださった神様は、私の死にかけていた、なえ切っていた魂をもう一度生き返らせて、神様の恵みに満たしてくださった、とお証詞をしておられました。「緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる」。これはなかなかいい話です。その前半の1,2節は「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。2 主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる」と、実に優等生の言葉でしょう。ところが、その後の「主はわたしの魂をいきかえらせ」、言い換えますと、死んでいたんだよ、ということです。そのことに気づかせていただいた。私の魂が死んだものであって、神様から離れていたものを、もう一度生き返らせて、正しい道へ導きいれようと、「つえ」と「むち」とをもって慰めてくださった。その姉妹はそう言って、喜んで感謝しておられました。確かにそのとおりで、1節2節のところだけを読んで、「なるほど、ああ、有難い」。神様はこんなに恵んでくださると、そちらばかりを思いますが、神様のご目的は3節4節です。神様は私たちの魂を生き返らせ、神様との交わりに引き入れ、霊の賜物をもって満たして、生き返らせて、正しい道、神様の御心にかなった歩みへと、引き帰らせてくださる。

だから4節に「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません」。どんな事があっても、「死の陰の谷を歩む」、まさに死ぬ間際のきりきりのところを通るようなことがあっても、災いを恐れない。死を恐れないというのではなくて、「わざわいを恐れません」。と言うのは、死が何であるか分かりませんから、死を恐れることはありませんが、どんな風に死ぬだろうか、どのような痛みがあるだろうか、どんなに苦しいだろうか、それがどのくらい続くだろうかと、そんなことばかりを考えて怖くなるのです。これは災いを恐れるからです。災いを恐れなければ死は怖くありません。なぜなら「あなたがわたしと共におられるからです」。主が私と共におられるから、災いを恐れる必要がない。苦しくてもつらくてもどのようなことがあっても、主が共にいてくださって、逃れるべき道を備え、耐えられない試練に遭わせることがない。また私たちを喜ばせ、楽しませてくださる。

主はわたしたちを養い育て、そして恵んでくださるばかりでなくて、魂を絶えずいのちに満たしてくださる。正しい道へと導き、常に共にいてくださって、私たちを新しい、正しい者へと造り変えてくださる。「主はわたしの牧者」、この一言にピタッと心を定めていきたい。私は私の牧者、なんて言ったら駄目ですよ。「私は」は違う。「主はわたしの牧者」です。神様が、イエス様がわたしのいのちのすべてでいらっしゃる。この生活上の肉体的な命ももちろんですが、魂の、霊のいのちすらも、主が生かしてくださる。主の御手がなければ、主が牧者でなければ、私たちはとっくの昔に失われて、消えてしまった存在であります。

今日もこうして神様が憐れんで一人一人にしっかりと目を留めてくださって、正しい道へと導こうと、「むち」や時には痛い「つえ」でこつんとやられますが、感謝し、喜ぼうではありませんか。神様はわたしのことを忘れないで、愛してやまないから、こんなに私を導いていらっしゃる、事を起こしてくださると、感謝して、主の導かれるところに従っていきたい。

やがて5節に「あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます」。魂が生き返って正しい歩みいく、潔(きよ)められた人の生涯です。私たちが潔きにあずかって生きるとき、「イエス様、あなただけです」と、心と思いを一筋に神様に委ね、向けていくとき、「敵の前で、わたしの前に宴を設け」、敵がいようと何がいようと、そこは感謝、感謝の連続です。「こうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます」。喜び、感謝のあふれる場所へと変っていく。6節に「わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう」。「あなたがわたしと共におられるからです」。また「わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう」。神様の住み給う所に、神の宮に、私たちはやがて移され、この地上にあるばかりでなく、やがて永遠に主の御許で生きるものとされるのです。

 その目的に向かって今日も生かされて、「私は主のもの」「主はわたしの牧者」ですと、はっきりと主を前に置いて、この方の御声に従っていきたいと思います。
 
 ご一緒にお祈りをいたしましょう。