いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(165)「信仰と忍耐」

2014年04月11日 | 聖書からのメッセージ
 ヘブル人への手紙10章32節から39節までを朗読。

 今朝は35,36節、殊に36節の所です。35節に「だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。36 神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である」。
 イエス様の救いにあずかって地上の旅路を毎日生かされています。ところが、実際の生活は、イエス様を信じているのと信じていないのと、どう違うか。あまり違いがない。食べるものも違わないし、着るものも違わない。住んでいる場所も違いがありません。

 ある方が私の所に来まして「先生、洗礼を受けてイエス様を信じたら変わりますか?」と問われました。「ええ、それは変わりますよ。それは大いに変わります」と答えました。「じゃ、私の生活がもう少し今よりも良くなる、あるいは住んでいる場所が、今このようなアパートだけれども、イエス様を信じたらもっといい所に住めるでしょうか?」と言ったのです。私は「いや、そんなことはない。イエス様を信じたからといって、豪華なマンションに住むように変わるわけではないし、あなたが美人になるわけでもない。着ている洋服が突然立派なものに変わるわけでもない。今と同じですよ」と言った。するとがっかりして「そうですか。じゃ洗礼を受けないでおきます」と言われたのです。もう少し言い方を変えればよかったかな、と思いましたが、実際そうですね。イエス様を信じたからといって、食べるものも着るものも住む場所も、また仕事も、あるいは悩みも、病気も、どれ一つ取ってほかの人と違いはありません。じゃ、何が違うかと言うと、私たちの心、魂、私たちのうちに望みと喜びと平安が与えられることです。「何だ、そんなもの。平安を与えられるのだったらお金がありさえすればいい」と考えます。安心を得るには、もっと事情、境遇をよくすればいい。仕事が順調に行って、景気がよくなれば安心だ、というようなことを、人はすぐに考えます。ところが、安心、平安、希望、あるいは望みというのは、お金があるから安心、あるいは事情、境遇が良くなったから、これで心配がないとは、決してならない。これは度々申し上げるとおりです。

 どこにあった話か忘れましたけれども、父がよく話していたのかもしれませんが、貧しいながらも、それなりに平安で感謝していた、一人の職人さんがいたそうです。まじめに働く人であると認めて、ある金持ちがその人へ、一年分の働きにも匹敵するほどの小切手を、「あなたはこれまで長年忠実に働いてまじめで、しかもみんなから尊敬されているから、もう少し生活が楽になるように、毎日仕事で汗水たらして働くような生活ではなくて、もう少し楽になるように、私がこれを差し上げましょう」とくれたそうです。初めはその人は喜んで「ああこれで安心ができるかな」と思っていました。ところが、2,3日たってから、だんだん夜が眠れなくなってきた。これがなくなったらどうしようか。このもらったものをどこに仕舞っておこうか。そんなことでだんだん不安になってしまった。今まで味わったことのない不安が積み重なって、とうとうたまらなくなって、その小切手をくれた人の所へ持って行って「こんなものはいりません」と返してしまった。返して家に戻った途端、今までの不安がスパッと消えてしまったという話です。

 そのようなことは、皆さんにもあると思います。下手に日頃持たないものを持つと不安になります。私はその話を父から聞いたとき「いやー、そういう不安でいいから持ってみたい」と思ったのです。皆さんもそう思うかもしれませんが、そんなものはいらん心配ですね。いらん不安です。私もあるとき、家内が盛んに勧めますから「夏のジャンボ宝くじ」というのを買ったのです。しかも、もう30年位前ですが、そのころはまだ大学に勤めていましたから、夏の避暑に別荘でも持ちたいものだと思いました。調べると安月給でうまくいかない。じゃ、宝くじを当てようと、家内と計画をしまして、10枚ほど買いました。買ってきたはいいけれども心配です。当たりもしないのに、当たったらどうしようかと悩む。家内が、その当時1億円だったと思いますが、1億円ってどのくらいの重さになるのかなと、計算してみると結構重たい。当たったとき、それをどうやって持って帰るか。これが心配。家内がジュラルミンのケース、よく映画なんかにありますあれを買わなければと言いますから、私は早速デパートに見に行きました。それをどうやって運ぶか、途中で取られないようにどうするか。そういうことを毎日、夫婦が顔を合わせると深刻に相談をする。今考えると、馬鹿馬鹿しいというか、「アホやなー」と思うのです。そしてだんだんとお互い、いらいらしまして、早く発表がないかと焦る。そして当選番号の発表の日です。大急ぎで新聞を見る。ない。あるはずがないですよね。たった10枚で当たるわけがない。無くて安心したのです。そのとき、二人で大声で笑いましたよ、「馬鹿だねー」と。じゃ、今までのあれは何だったのか。まだ当たりもしないうちに別荘地のパンフレットを取り寄せたものですから、電話がかかってくる。「榎本様、いかがでございましょうか。この間ご案内した物件はどうでしょうか」と、「いや、あれねー、宝くじが当たったら買おうと思ったんですが……」ガチャン!と電話を切られました。

 だから、何が心の平安なのか。何が私たちにとって望みなのか。何が喜びなのか。これがはっきりしていないと、人生を間違えます、私のように。仕様もない宝くじに振り回される。後で考えたら、やっぱり20枚買っておけばよかったかな、と思ったのです。皆さんもそのような経験があるでしょう。私たちの心に平安があることこそ大切です。その平安はどこからくるでしょうか。
 ヨブ記22章21節から26節までを朗読。

 21節に「あなたは神と和らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう」。平安はどこからくるか。それは「神と和らぐことだ」とおっしゃいます。また、幸せになるとはどうなることか。それは神様と和らぐとき、「幸福」のほうが私たちにやってくるという。これはうれしい話ではないでしょうか。幸福になりたくない人はいますか? 不幸になりたいという人は、まずいない。皆幸福になりたい、幸せになりたい。心安らかに、平安でおりたいと思いながら、そうならないのが現実ではないでしょうか。ところが、ここに平安を、幸福を得る道は「神様と和らぐことだ」というのです。神様と和らぐ、神様と和解すること、神様と親しい者と変わっていくことです。私たちはこの地上に生活を与えられていますが、考えてみると、すべてのものを造って生かしておられる神様がいることを忘れていますね。自然に気がつかないうちに、この世に生きていると思っていますが、実は、すべてのものを創り出された神様がいらっしゃる。そして神様が私たちにすべての必要なものを備え、生活を支え、命を与え、御手のうちに持ち運んでくださる。だから、今日、私たちが元気で、健康で集会に出てくることができた。これは誰の力でもない。ところが、私たちは神様を忘れて、自分の力で、自分の知恵で、自分の努力と業で生活をたてていると思っている。ここに諸悪の根源、すべての問題がある。なぜならば、私たちは自分の力で自分の命も生活も、どれ一つ自分では何もできない。イエス様は「あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか」(マタイ6:27)と言われる。自分の体だからといって、自分で病気を治せるかというと治せません。風邪一つ治せません。熱が上がって、体温が38度だ、これは上がりすぎたから下げよう、36度にしようと思っても、できません。どこかのスイッチをどうかしたら下がるかというと、そんなものはない。神様が、私たちを造り、生かしてくださる。ところが、その神様を忘れて、自分の力で自分の業で自分の知恵でやろうとし始めたから、不安と恐れと心配と不幸が絶えず身に降りかかってくる。先ほど申し上げましたように、自分の力で経済的な保証を得たい、何かそのようなものを取ろうとするために心配になる。持てば持つほど欲しくなる。満足することがなくなる。これが神様を離れた姿です。だから、私たちが神様と和らぐ、神様を信頼することができる者となりなさいと。これが私たちにとって平安であり安心で幸いなことではないでしょうか。

 23節に「あなたがもし全能者に立ち返って、おのれを低くし」とあります。「全能者に立ち返って」、「神様と和らぐ」ということは、私たちが神様の許(もと)に帰っていって、自分を低くする。自分が造られたものであること、神様の憐(あわれ)れみによって、神様の許しによって生かされていることを認める。これが「おのれを低く」すること。そして「あなたの天幕から不義を除き去り」、この「天幕」は、生活のことです。私たちの生活、日々の歩み、私たちの心の中から不義、正しからぬもの、これはありますね。こんな事をしてはいけないとか、これは良くないことだと分かっていながら、ついそれをやってしまう。そのような自分のいけないと思うことを取り除いて、それをやめてしまって、24節に「こがねをちりの中に置き」、「こがね」、これは宝です。生活の上でこれは必要だという預金だとか何とかいろいろなものを握っています。これが私の宝だ、これが私を支えてくれるものだ、これがあれば安心だと思っている、そういう「こがね」あるいは「オフルのこがね」ともあります。そのようなものを「ちりの中」川の中に捨ててしまう。

 先ごろ、あちらこちらで1万円札を封筒に入れたものを配っていると言う。いろいろと推測する。全国で集めると四百何十万円かになるというのです。いろいろな人が不思議だ、どういう人だろうと、推測をしていますが、私が思うには、お金に愛想をつかしたのだと思います。こんなのを持っていたら邪魔だと思うから、ばら撒いている。恐らく何かやましいところがあるから、やましいと言っても、別に犯罪者という意味ではありませんが、もうおれの人生も終り間近だ、今まで金、金と、金の亡者で来たから、ここはちょっと功徳をしなければと思ってばらまいているのだろうと私は想像する。言うならば、「こがねをちりの中に置き、オフルのこがねを谷川の石の中に置き」、あちらこちら、トイレというのは捨てる所ですから、そこへお金を置いていく。今まで金の亡者でいた彼が、その人生の終着に近づいて、自分がいかに愚かであったか悔い改めるためにそれを捨てている。私どもはそのように自分に良くないことを知っている。だからここで「こがねをちりの中に置き、オフルのこがねを谷川の石の中に置き」、これは大切、これは宝だと自分の心をかけ、命をかけているもの、言うならば、自分が神様にしているものがあるのではないでしょうか。それを取り除いて、「ちりの中」、あるいは「谷川の石の中」に捨ててしまう。ちりあくたのように、あるいは谷川の石のように、そんなものを誰が見向きをしますか。山に登ってご覧なさい。谷川に石ころだらけです。ほぉー、ここは宝の山だ、なんていう人はいませんよ。石ころばかりで何の価値があるかと思うでしょう。そのようなものと見る。

では、あなたにとって何が宝か。25節に「全能者があなたのこがねとなり、あなたの貴重なしろがねとなる」。「全能者」、万物の創造者でいらっしゃる神様が、私の宝、私の頼るべきすべてとなってくると、これは神と和らいだ姿。そうやって、神様が私のすべて、神様は私に必要を備えてくださる。必要ならばどんなことでもおできになる。健康であろうと、経済であろうと、あるいは友人知人、問題であろうと、仕事であろうと、何であろうと神様におできにならないことはない。その神様こそが、私のただ一つの頼るべき方、私の宝となるとき、人は本当に平安を得ることができる。そしてその人は幸せになる。確かにそうです。

私もかつてはいろいろと「こがね」や「オフルのこがね」を求めた時代があります。先ほど申し上げましたように、宝くじすらも欲しいくらいに思ったのです。こんな生活をして、こんなマンションに住んで、こういう生活をして、こういう車に乗ってと、求めていました。そのときは確かに自己満足はありますが、常に不安が伴います。心配が絶えずある。この先どうなるだろう、これがなくなったらどうしようか、これからこうだと思い煩う。ところが、あるときイエス様の救いにあずかって、イエス様の御愛に促(うなが)されて、それらすべてを捨てました。神様だけを頼りにする生涯に変えられました。これは本当に素晴らしい。今は不安とか恐れとかはありません。全部神様のものなので、神様にささげてしまい、神様こそが私のすべてですから、必要なものは神様が与えてくださるだろうし、必要がなくなったら神様は私の命を取られるに違いない。病気をしたら神様が与えてくださった病気ですから、神様がそれを癒してくださるに違いない。一から十まで神様だらけです。この生活はお金がどうとか、友達がどうとか、仕事が何とかというよりも、もっと素晴らしい平安ですよ。何も思い煩うことがない。

詩篇73篇25,26節を朗読。

25節に「わたしはあなたのほかに」「あなた」とは神様です。神様、あなたのほかに誰を天に持ち「地にはあなたのほかに慕うものはない」。天においても地においても私が慕うもの、私が頼りとするべき方はあなた以外にありません。これは素晴らしい恵みで、皆さんが「私は天においても地においてもこの定期預金が私のすべて」なんて言っていると大変ですよ。必ず行き詰りますから。その後26節に「わが身とわが心とは衰える」。それはそうです、私たちはだんだん年を取っていきます。決して若返ることはありません。気持ちはいくら若くても、体はついていきませんから、だから、私たちの体と心は衰える。ところが、「しかし」どんなによぼよぼになろうと、認知症になろうと、寝たきりになろうと「しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業」。神様こそが私の支えであり、より所であり、助けとなる方。この神様を信頼していく生涯、これは強い。また揺るがない。何があってもへこまない。これは素晴らしいことです。しかもこれはただなんですよ。何か景品があるとすぐスーパーに行くじゃないですか。それなのにどうして教会に来て、このただで、こんな素晴らしい宝を求めようとしないのか、私は不思議でならない。そうでしょう。それでいて、もう少しお金があったら、子供たちがもっと親切にしてくれたら、あれがこうだったら、これがこうだったら……、仕様もないことばかり、一生懸命求めますが、そこには望みはありません。平安はありません。神様を信じる信仰。神様をより所とし、味方とする。これは強い。

もう一度初めのヘブル人への手紙10章35節「だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない」。神様を信じる信仰、神様が私の後ろ盾となってくださって、私の救い主となってくださったことを信じる信仰、これが「私たちの持っている確信」です。神様が私の力であり、宝であり、望みとなってくださる方。その方を信頼していくとき、確かに今私たちの生活自体は、着るものも食べるものも住む所も、どこも変わりはないかもしれないが、私たちの心は望みと希望で輝くことができる。今どんな絶望的な、失望するような問題や事柄の中に置かれていても、そこに私を生かしてくださる、私の頼みとしている神様がいることを信じていく。そうすると、その失望する現実、望みの持てない現実の中にあっても、絶えず心に平安が与えられる。やがて神様は信頼するものに必ず答えてくださる。

その後に「その確信には大きな報いが伴っている」。「神様を信頼する」のは、ただ精神論として信頼するばかりではありません。信仰とは、ただ、心に思っているだけではなくて、それは具体化していくのです。私たちの生活の中に現れてきます。だから、神様が私の救い主であり、神様と和らいで天にも地にも私の慕うべき方は、神様、あなた以外にない。体も心も衰えていくけれども、私の頼りとするのは神様、あなたです。あなたは私の心の支えですと信頼して、どんな状態や事柄に見えようとも、あるいはいろいろな困難なニュースや暗くなるような、恐れさせるような事態や事柄が起こっても、そこで神様がいらっしゃることを信じ続けていく。どんなことがあってもですね。すると必ず具体的な結果がでます。

時々思い出しますが、私の父はそういうところがある人でした。私どもがいろいろな問題を持っていきます。ここがこうだから、こうなったらこうなるに違いない。こういうことがあって次はこうなるに違いないと、いろいろな問題が起こると父の所に持っていきます。そうすると父は「大丈夫」と言う。大丈夫って、「お父さんは何かできるの? 」と訊くと、「お父さんはできん」と。できないのだったら大丈夫と言うなよ、と思うのですが、父が言うには「大丈夫!神様がついておられるのだから」と。これを言われたら返事の仕様がない。先に「神様がいらっしゃるじゃないか」と言われてご覧なさい。「あ、そうだな」と。皆さんが行き詰っていることがありますか、今悩みの中にありますか、あるいは失望していることがありますか。だったら、「神様!どうぞ、わたしを哀れんでください」と求める。神様に信頼してご覧なさい。必ずそこから希望がわいてきます。平安が与えられ、喜びに輝いてくるでしょう。気がつかないうちに、喜べない現実の中で喜んでおることができる。そうするときに、実際に目の前の問題も変わっていきます。それがいつであるか分かりません。10年後であるか25年後、あるいは死んでからであるかもしれません。しかし、神様は必ず私たちの信頼に答える御方です。でも、私は10年信頼しているけれども一向に変わらないと言われますが、それはまだ足りないのです。あと20年ぐらい。「え!そんなに」と思われるかもしれませんが、それに変わるものがどこにあるか、ないですよ。この神様に頼る以外にない。神様に頼ってそれが10年であろうと20年であろうと、自分が死んだ後であろうと、神様は約束を成就してくださいます。

だからよく皆さんから言われます。「家族の救いは難しいですね。どうしたものでしょうか」と。ある姉妹は自分の娘たちや息子の家族を大変心配して「先生、何とかならんでしょうか。私の行いが悪いからでしょうか」と、「そんなことはない。それは神様の手の中にあることです。だから、聖書に約束されている。『主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます』と約束されている。あなたは神様を信じていらっしゃったら大丈夫。死んでからでも……」と言ったとき、「いえ、先生、死んでからでは遅すぎます。私の目の黒いうちに結果を見せてもらえませんかね」と言ったから、「それも頼みなさい」と言ったのです。でも、神様はその姉妹が生きているときは見せてくださらなかった。ところが、その姉妹がお召されになられて、娘さんが、教会に来られるようになりました。今に至るまで数年になりますが、その姉妹は礼拝を一度も休まない、いつも来ています。今ごろ天国でお母さんが「馬鹿ね、もっと早くしとけばよかった」と思っていらっしゃる。

35節にありますように「だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである」。神様を信頼する信仰、神様と和らいで、神様は私のより所、私のただ一つの頼りとするべき御方ですと信頼して、すべてを神様にささげて、宝も何もかもお金であろうと何であろうと全部それは主のもので、今私は神様からあずかったものを使わせていただいているのだと、心を変える。ちりの中にあくたの中に放り込んでしまって、そして、神様が生活する日々の糧を今日も備えてくださると、神様を前に置いて生きていくとき、すべてのものが喜びに変わり、望みがわいてくる。何一つ失望落胆することがなくなる。36節に「神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である」。後は神様任せですから、早くしてくれとか、何で遅いんだろうかと苛立って、神様にせっついては駄目です。神様は神様ですから、私たちの召使ではありません。神様、よろしくお願いいたします、と信じたら、委ねて、待つのです。神様がその結果を出してくださる時が来る。それがいつであるか分かりません。先ほどの姉妹のように「私の目の黒いうちに」と、思うかもしれませんが、もう白くなりかけていますから、そう長くはない。死んだ先まで、神様に期待していかなければなりません。

八幡の教会玄関のすぐ横に、更地になっている土地があります。以前ラーメン屋さんが居ました。この土地については、実は私自身もそうですが、この教会の先輩がどれほど願ったことか分かりません。この会堂ができたのが昭和22年くらいですね。そのころはこの辺は焼け野原で、戦争の後です。どこからでも教会が見えました。そして、教会の表通りは昔電車が走っていました。電車通りに通じるアプローチがありますけれども、これだって結構広いと思ったのです。堂々としているな、と思った。やがて、風呂おけ屋さんが、土地を借りて家を建てて商売を始められた。桶屋さんが竹を細くして、「たが」という桶の周囲にはめる輪を作るのです。それを教会の出入り口の所で竹を並べて、作業をする。大西さんとおっしゃる方でしたが、もう亡くなられました。そこのおじさんと親しくて、私どもはしょっちゅう遊びに行って木屑などを集めていろいろなおもちゃなどを作ったことを覚えています。ところが、昭和30年代から高度成長期になり、それまでは銭湯、共同浴場に行っていたのですが、だんだん家庭で風呂桶を設置するようになった。昔は楕円形の風呂桶だったものが、そのうちヒノキの四角のものができるようになってきました。お風呂で使う手おけも作るのです。漬物樽も作りました。いろいろなものを作っていたのです。ところが、玄関の横の会堂にいちばん近い所に新しい作業小屋を作ったのです。そこに電動のこぎりと電気かんなを置いた。高度成長期で風呂おけがどんどん売れるのです。それで日曜日にもかかわらず、電動のこをかける。しかも夏場は窓を開けます。教会も屋根がトタン屋根で焼けます。暑いから窓を開けっ放し、お互い窓を開けて、10時に礼拝が始まってみんなが讃美歌を歌い始めると、向こうの方でジャーン、ジャーン、えらいことでしたよ。忘れていた方も思い出されるでしょうが、耳をつんざくのです。教会も負けじと大きなスピーカーを付けてやるけれども、負けます。大変困って何度申し入れをしたか分からない。「日曜日の10時から12時まで2時間でいいから仕事を休んでください」と言ったとき、「うちは、これは商売や。そんなことで商売を休んで売り上げが下がったらあんたのところが保障をするのかね」と。これは神様に祈る以外にない。早くこの仕事が終わるように、この土地が神様の御用に用いられるように。そのうちだんだん時代が変わってきて、風呂おけが売れなくなってきた。いわゆるユニットバスに変わってきた。その主人も年を取りまして作業ができなくなり、廃業することになりました。「ああ、よかったな、これで土地が売りに出されて教会が買うことができるな」、と思ったら、残った家族が、別の人に貸してしまった。それから次から次へといろいろな借主が入れ替わりました。その度に教会は、いろいろと影響も受け、最後はラーメン屋さん。ラーメン屋さんはちょっと教会にも役に立った。礼拝の帰りに食べて帰る。やがてついこの間、気がつかないうちに、ご主人がちょっと体をこわして何度か休業しているうちに、いよいよ廃業をすることになった。そのとき、私は早く教会のものになるようにとお祈りをしました。そしたら、聞くうわさによると、ラーメン屋さんが仕事はやめるけれども、ここを自分たちが買いたい、そういう希望があることをうわさに聞いたのです。「これは駄目かな」、もう仕事はやめるけれども自分たちの住まいとして、この家も土地も買いたいという申し出があった。「これは困ったな」と思っていると、アッという間に建物が壊されたのです。「これからどうなるかな」、こちらはとにかく祈る以外にない、神様の業ですから。それで黙って……、そしたら先月初めですけれども不動産屋さんが訪ねて来て「実は地主さんがここを売りたいと。ついてはまず教会に打診してもらえないか、という話ですけれども、教会さんとしてはこれをお買いになるつもりはありませんか」。私は「しめた!これは神様がしてくださった」と思って、でもあまりうれしそうな顔をしたら足元をみられてはいかんと思いましたから、渋い顔をしまして「それは困ったなぁ」というような顔をして、でも内心うれしかったですよ。何よりも神様が多くの先輩たちの祈りに答えてくださった。これは主の時である。

本当に私はうれしくて、向こうの人はこれくらいと言ったのですが、「いや、そこまでは出せない」と言いましたら負けてくれました。それでもちょっと高いかなと思うけれども、もうそんなことはどうでもいいのです。神様がしてくださるならば、これに勝る幸いはない。思いがけない話でこうして道が開かれました。恐らく天にお帰りになった野村先生や高木先生を初め、先輩たちはどれほどこの土地のために祈ったことでしょうか。でも結果を見ないで天に帰りました。しかし、残された私たちに素晴らしい事を神様はして下さった。何と“果報は祈って寝て待て”ですよ。皆さん!

神様に信頼して、祈って、主が備えてくださる結果を待つに「必要なのは忍耐」、忍耐ですよ。忍耐といいますのは、『おしん』のように我慢、我慢、仕方がないから我慢と言うのではない。約束があるから、37節に「もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない」「遅くなることはない」という約束がある。それを待つのです。それを耐え忍んでいく。だから結果は必ずなるのです。ただ、その時期が生きているときか、死んだ後か、あるいは来年か10年後か、これは分かりません。それは神様がなさることですから、神様を信頼していくとき、どんな事の中にも希望があります。望みを持つことができる。私は本当に感謝せざるを得ない。こんなに多くの聖徒たちの祈りに、神様がこうして答えてくださる。今日皆さんにお渡しした紙に書いておきましたが、のどに刺さっていた魚の骨がパッと取れたとき、あの気持ちです。まさに教会の喉元に刺さったとげが今取れて、神様の御用のために用いられる。これはまた、どのように神様が祝してくださるか分からない。あの家がなくなっただけで通りから真通しで教会がよく見える。先だっても、ある一人の方が訪ねて来られて「こんな所に教会があるとは知りませんでした、ちょっと来てみました」という。見えるのです。これは神様の大きな力、なしてくださった恵みです。どうぞ、感謝していきたい。

また、皆さん一人一人持っている問題、事柄の中で、何が大切でしょうか。それは「約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である」、また「あなたがたの確信には大きな報いが伴っている」。「私たちの確信」、神様が私のより所、私の力、私のすべてですと、信頼する者に神様は必ず報いてくださる。このことを確かなこととして信じて勝利を得させていただきましょう。

ご一緒にお祈りをいたしましよう。