いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(175)「キリストを宿す器」

2014年04月21日 | 聖書からのメッセージ

 コリント人への第二の手紙47節から11までを朗読。

 

 7節に「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである」。

 ここに「土の器」とありますが、私どもは陶器で作られたお茶わんやお皿などを普段使います。この陶器あるいは磁器と言われるものはいろんな種類があります。北部九州、もちろんほかの所でもそうですけれども、その土地、土地に応じて名産の陶器があります。九州には有田、伊万里、あるいは小石原であるとか、小鹿田(おんた)焼であるとか、いろいろな窯元がたくさんありまして、陶磁器になじみの深い場所であります。

 

陶器は土の器ではあるのですが随分違いがあるようです。それを作る行程自体は、どれをとっても変わりがないのだと思います、詳しくは知りませんけれども。陶器は粘土を形作って、乾かして、それを火で焼き固めて器にするという、単純な作業でしょうが、もちろんそれが基本で、その工程にいろいろなものが加わってきます。上薬を塗るとか、あるいはそれを二度掛けるとか、あるいは焼く温度が違うなど、いろいろなことがある。それによって土の器ではあるけれども種類が変わってきます。有田焼に代表される磁器と言われるものがあります。これは非常に高温の1000度から1200度くらいの温度で焼き、非常に硬くなるのです。ですから金属のようなキーンと響く音がします。有田の有名な柿右衛門の器など、たたくと素晴らしい音色がしますが、値段も高いですから、そんなにたたくような器ではありません。磁器とはそのように硬いのです。だからちょっと落としたくらいではなかなか割れません。ところが小石原焼などは、磁器とは違って陶器です。それはどこが違うかといいますと焼く温度が800度前後だったと思いますが、磁器よりも低いのです。見たところ変わりがないのですが、すぐに欠けやすい。だから、皆さんのお宅で使っているお茶わんでも、小石原の陶器だと民芸風でなかなか味があって趣としてはいいのです。ところが洗う時、ガチャガチャとほかのものと一緒に洗っていると、ぶつかって欠ける。すぐに欠ける、ひび割れる。唐津焼というのがありますが、これはいちばんもろい。唐津焼は大体が薄くできていますから、湯飲みにしても軽くはありますが、磁器と違うのですぐに欠けます。小石原焼や小鹿田焼になると肉厚の、全体が厚ぼったい作りになっていますから割れにくくはありますが、やはり欠けます。それはもろいのです。もっと昔、陶器の初めのころはお庭焼と言って、粘土で形作ったものを庭に出して、その上にわらをたくさん積み、火をかけて長時間焼くのです。焼き芋式ですよ。落ち葉を集めて焼き芋を焼くごとく焼いたのが、縄文土器であるとか弥生土器と言われるものです。そういうものは温度がそもそも300度かそのくらいですからもっともろい。その代わり一応乾燥しますから粘土とは違って軽くはなる。それがだんだん進んできて、素焼きの土器というのが出来ます。素焼きの土器と言いますのは上薬も何も掛けない、ただ粘土だけで低い温度で焼いた物ですから非常に軽いのです。

 

皆さんもご存じかもしれませんけれども、四国の高松の沖合いに屋島という所があります。私も学生時代に行ったことがありますが、そこは台形になった有名な島といいますか山でしょうかね、そういう所です。端っこの所が切り立った崖になっている。そこに神社がありまして、 “かわらけ投げ„というのがあります。直径10センチか15センチ足らずの素焼きのお皿が神社で売っている。それを崖っ縁に行って投げるのです。そうすると下から吹き上げてくる上昇気流に乗って、うまくいくとスーッと遠くへ飛んで行く。下手をすると真直ぐに落ちてしまうので、下をのぞくとたくさん割れて落ちているのが見えます。それほどに土器は軽く割れて、だんだんと風化して土に返っていきますから、実にエコロジカルと言いますか、環境にいいものでもあります。そのように軽くてもろいものを素焼きの土器といいます。

 

7節に「土の器」とありますが、二千年も昔のパウロの時代に、柿右衛門のような、カチカチのたたいても割れない、落としても少々では割れない磁器はありません。まさに素焼きの土器のようなものです。「土の器」と言うのはもろい物の象徴、代名詞といってもいい。では、「土の器」とは何かというと、私たちのことです。私たちはこの「土の器」のようなもの、きわめてもろく弱い存在、力のないもの、そのような私たちに「この宝」が入っている。その「宝」とは何かと言うと、少し前の所に記されていますけれども……。少し読んでおきましょう。

 

同じ章の5,6節を朗読。

 

7節に「しかしわたしたちはこの宝」と続いていますね。「この宝」とは述べ伝えられているキリスト・イエス、また「神の栄光の知識」を現すキリスト。イエス様をこの「土の器」の中に持っている。私たちはもろく小さく弱い者、本当にはかない存在ではあるけれども、その中にキリストを宿している者であるというのです。私たちの内にイエス・キリストが宿ってくださっている。それは何のためかと言うと、その後に「その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである」。弱い者の中にキリストが宿ることによって、私たちをして力あるものに造り変えてくださる。8節に「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない」。さらに「迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない」。何とタフなと言いますか、しぶとい力です。考えてみますと、私たちはちょっとでも痛い思いをする、苦しいことに遭うと、意気消沈して元気を失ってなえてしまいます。一つぐらい何とか乗り越えますが、ここには「四方から」とあるように、前後左右から次々と矢継ぎ早に事が起こってくる。患難が押し寄せてくる。そうなったら、たまったものではありません。自分を考えると、気が弱い、力がない、すぐにへこたれてしまう自分であることをよく知っていますから、普段から、できるだけそのような悩みが来ないように、苦しみが来ないように隠れておこう、と思います。ところが神様は、そうは言わない。その弱い者、足らない者に対して、神様はその宝を土の器であるあなたの中に置いたとおっしゃいます。今、主イエス・キリストが私たちのいのちとなってくださった。先の御礼拝で教えられたように「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ15:5)。私たちをキリストという幹に接木してくださった。弱い小さな実を実らせることもできない、細い細い干からびたような枝である私たちを、そのいのちの源であるイエス・キリストに接木してくださった。言うならば私たちの内にキリストが宿ってくださる。私たちのいのち、力の源が、実はイエス様である。私たちには力がない、何もできない、知恵も知識も何もない。ゼロのようなものであって、それは当然です。どうぞ、私たちはまずそこのところをしっかりと知っておきたい。私たちは何一つできない、何者でもない。では何もないから、駄目かと言いますと、そうではなくて、そういう私たちを選んでくださった神様は御子イエス・キリストに私たちをつないでくださっている。イエス様が十字架にご自分の命を捨て、胸をやりで突かれ、両手両足を釘付けれられて、そして肉体を裂いて、その死によって、今度は私たちを生きる者としてくださった。私たちは今主イエス・キリストのよみがえり給うた命によって生きる者となっているはずです。クリスチャンとはそのような存在です。イエス様に連なって、イエス様の力と命と知恵とすべてによって私たちが満たされていく、命をいただいていく。弱い、はかない、取るに足らない、何一つできないと思える私たちをして、神様は力ある者に造り変えてくださる。決して私たちの力ではありません。私たちが強いからでも何でもない。

 

コリント人への第二の手紙12章7節から10節までを朗読。

 

これはパウロが自分自身の弱さを知ったときであります。「肉体に一つのとげが与えられた」、この弱い所、この問題がなければ、私はもっともっと神様のために働ける、もっと力が出せると思ったのです。ところがそのために祈って、祈っておりましたときに、神様は「わが恩惠(めぐみ)なんぢに足れり」「わたしの恵みはあなたに対して十分」、あなたは不足を言うかと。それでよろしいと。なぜなら、「わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。神様の力は私たちが弱いがゆえにこそ、その弱い所に完全にあらわされてくる。弱ければ弱いほどイエス様にとって都合がよいわけです。私たちが強ければイエス様に用がない、イエス様の力があらわせない。そうですね、だから私どもはだんだん年を取って、自分が弱きを覚える。自分が足らないことを感じることは、大きな恵みです。神様の手の中にあって生きていることを考えると、だんだん年を取ってくるのは誠に恵みだと思います。現実的にはいろいろな問題が生活上出てきます。あれもできない、これもできない、あれがどうで、これがどうで、人の世話になったり、家族の世話になったり、人の手を取りながら自分は肩身が狭いと思います。しかし、同時にそれは神様の、キリストの力が私たちを通して明らかにされるための素晴らしい時なのです。というのは、若いときは自分の力で走り回ります。自分の知恵であれをし、これをし、飛び回ります。神様にあまり用事がないと言いますか、そんな暇がない。ところがどうですか、皆さん、第一線を退いて時間はいくらでもある。そういう時にこそ、私たちは神様を求めることができます。神様はそういう恵みの時を残しておってくださるのだと思います。

 

この時、パウロも一つの弱さを知って何とか強くなりたい、これがなければ、と思ったのです。しかし、神様は「わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」、あなたが弱いからこそ、神様の力、わたしの力があらわれる。だから皆さん、自分が弱い、あれもできなくなった、これもできなくなった、こんなに弱くなって生きていても意味がない、そのように言ってはおしまいです。そうではなくて私たちは弱いけれども、本当に力がなくなったけれども、さてここで私を通してどのようにキリストの力が現れるのか期待する。神様が私に力を注いで、神の力を証詞する者としてくださる。だからどうぞ失望しないで、大いに喜んだらいい。また主を求める者になりたいと思います。この時にパウロは「わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」と神様のみ心を悟って、「それだから」と彼は語っています。「キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」と。キリストが力となり、いのちとなり、私を生かしてくださる。私を持ち運んでくださる。その力が私を通して現れてくる。だったら私はこの弱さを甘んじて受けようと、彼は言うのです。しかもそればかりでなく10節に「キリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう」。どんな問題や悩み、困難、苦しみが来ようとも大丈夫。では、なぜ「大丈夫」なのでしょうか。自分に力があるからではなく、キリストが私の知恵となり、力となり、又すべてとなって、いのちとなってくださるから、「大丈夫」なのです。その後に「なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」。神様の力が私を通して現れてくださるから、これは大きな望みであり喜びです。

 

自分が本当に弱いな、自分は力がないな、最近は記憶力も薄れてくるし、ひょっとしたら認知症かしらと思うとき、感謝したらいい。なぜならば、そこにキリストの力が現れる。だから、私どもは自分の状態を見て、心配したり、失望したり、嘆いたりするのではなく、その弱い自分を知ったら、そこでもう一度主を求めようではありませんか。私どもはキリストのために死んだもの、死んで、今はキリストによって生かされている私。私たちの内にキリストが宿ってくださって、いのちの源となり、力となってくださる。

 

コリント人への第二の手紙4章7節に「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって」、力は神のものであって、私たちのものではない。だから、今日も元気で、生きる者となっているのは、神様が私たちに力を与えてくださっているからでしょう。私たちに命を与えてくださるから生きていることができる。神様からの命が閉ざされてしまうなら、神様がいのちを取られるならば、私たちは生きることができません。

 

最近思いますが、人の命は、もろいようでそんなにもろくないな、と思う。家内の父などを見ているとそう思います。年を取って、青息吐息になって「わしはもうそうは長くはない。あと半年かそこらだ」とシュンとしてしまって、そうすると兄弟や父の妹にあたる叔母なんかは「お父さんは死ぬんやないだろうか」と心配する。家内も父の様子を見て「これはちょっと喪服の用意をしておかなければ」とか言い出す。それだから、もう死ぬかなと思って見ていましたら、一週間ぐらいして行きますと、今度はえらいピンピン元気になって、この調子なら……。先日も申し上げましたように素晴らしい老人ホームに入れていただいた。神様が備えてくださった場所、自分が思いもかけない素晴らしい所だと大いに喜んでいる。そして自分がこんな所にこの年になって入れたのが、うれしくてたまらない。けれどもそれをあまり言えないものだから、自分の兄弟にも「今おれがここに入っていることを言っとけ」と言うのです。「来ないでもいいけど言っとけ」と。それは、お父さんが「自分を見てみろ、おれはこんなに年を取ってこんなにいいところに住むようになった」と、見せたいのだろうと思うのです。だから先だっても家内が叔父のところに行って「父がこう言っています」と言ったら、「それじゃ、亡くなる前に一度ぐらい会っておかないといかんね。近々行ってみよう」とちゃんと父の思うつぼにはまってくれた。そのようになかなかしたたかですよ。先週行きましたら、家内に「おれはここで4,5年は頑張るぞ」と言っている。一週間前はあと2,3ヶ月という話だったのにえらい変わりようだな、と思う。

 

ところが逆にピンピンしてあの人は少々病気になっても死にそうにないな、と思う人が、気がつかないうちに、「あの方はどうしていますか」「いや、もう亡くなりましたよ」「え!まだ若いじゃありませんか」となる。本当にアッという間です。だから、ご存じのようにT兄がお召されになられたけれども、彼が秋口、丁度9月ぐらいですよ、「自分はとんでもないプレゼントを神様からいただきました」と言われて、私もびっくり、「手術も何も治療をしない」と決められ、それから半年後、あのかっぷくのよい、元気はつらつとして少々のことでは死にそうもないT兄が、仕事の方も一線を退いてこれからはご自分の時間がある、何をしようかという時に、あれよ、あれよという間に、まるでがけ崩れがドド―ッと一気に押し寄せてくるがごとく、アッという間に神様のところへ帰ってしまわれた。その様子を見ていますと、人が健康だから長生きをするわけでも、病気だから死ぬわけでもない。やはりそこに神様の許しといいますか、神様が一人一人に力を与えて生かしてくださっているのだな。だから、家内の父を見ていましてもそう思うのです。本人はその日その時の気分に応じて「明日死ぬ」と言ってみたり、「5年後」と言ってみたり、それは人ですから分からない。自分の命であっても分からない。神様がこうやって力を与えていらっしゃる。どんなに弱くても、力は神様から来る。人のものではない。私たちの中に生きる力があるのではなくて、一人一人に神様が今日も力を注いでくださる。

 

しかも、私たちは、ただ肉体の命ばかりでなくて、魂にいのちをいただいていく。それはもう二度と消えることのない永遠の命である、主イエス・キリストを内に宿していく。これがあって初めて人は生きることができるのです。喜びをもって、感謝をもって、望みにあふれて、輝いて生きる力を神様は私たちに日々与えてくださる。ですから、ただに肉体的に生きるだけではなく、私たちにもっともっと力を与えてくださる。ここに「その測り知れない力は神のもの」とあるように、肉体の力も含めて、私たちのすべての力は神様から来る。そして、私たちを生かし、導いて何をされるか?そこにありますように、神のものであることを明らかにする。この力が神から出たもので、私たちが神様によって生かされている者であること、その力を証詞する者として立てられている。ですから、自分に力がないのは当たり前なのです。私たちが消え去るような存在であること、何の力もいのちもないのであります。しかし、そのような私たちに今日も神様がいのちを注いでくださり、キリストが私たちの内に宿ってくださって、私たちのいのちとなってこのように元気付けてくださる、励ましてくださる、立たしめてくださる。これは何と感謝してよいか分かりません。私たちは日ごとにそのことに目を留めていきたいと思う。ただ昨日の今日、今日の明日、惰性で生きているのではない。一日、一日、神様は新しいいのちと恵みをもって、私たちを生かしてくださっている。目の前に問題があり、越えられない山があり、また渡れない谷があろうと淵(ふち)があろうと、私たちは自分の力、自分の考えでは駄目、自分では何もできない。そのとおりです。しかし、だから駄目なのではなく、そのような私たちによみがえった主がいのちとなって宿ってくださっているから、そのいのちに結びついて力を得させていただく。

 

10節に「いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである」。「イエスの死をこの身に負う」というのは、どのようなことでしょうか。私たちがキリストと共に日々十字架に死んだ者となることです。パウロが「ガラテヤ人への手紙」で語っているように「我キリストと偕(とも)に十字架につけられたり」(2:20)わたしはキリストと共に十字架に死んだのであると。といって、現実に死んだわけではないけれども、イエス様の死は私が死んだものだと認めていくことです。「いつも」とあります。「いつも」、どんなときもそこに立ち返っていく。私たちの力の源、原点はそこです。自分がキリストと共に死んだものとなっていくこと。死ぬつもりになればどんなことでも怖いものはないでしょう。私たちは死んだつもり、つもりではなくて事実死んだのですから、イエス様が私のために死んだのは私が死んだのです。もはや私が生きているのではない。私の内にあってキリストが私を生かしてくださる。今私が生きているのはキリストが私のために生きてくださるから、そのイエス様が私を生かしてくださっている。だから今知恵も力も健康も、これはイエス様が私どもに必要だからこそ、今日備えてくださったものなのだと、そのことを信じていくこと。これが「イエスの死をこの身に負う」ことです。だから皆さん、いつどんなときも、私はキリストと共に死んだ者だ。その死に徹底していく。キリストの死に、十字架に自分を合わせてしまう。そうしますと、何を言われようと、何をされようと、何の問題もなくなる。後はどうなるか。その後に「イエスのいのちが、この身に現れる」。イエス様の力が、いのちが、私を通して輝いてくる。私たちがイエス様のいのちにあずかれないのはなぜかと言うと、死なないからでしょう。十字架に自分をささげていかないからです。昔そういうことがあった、という話ではない。今日、今この瞬間も、絶えず「私が」、「私が」ではなくて、キリストが私の主であること、イエス様が死んでくださったのは、私が死んだのであることを絶えず、絶えず覚えていくことです。そうしますと、腹も立たないですよ。どんなことも主がご存じ、イエス様がしてくださる、イエス様が力を与え、知恵を与えてくださる。私が分からないとか、分かるとか、そんなことは問題ではない。私に力があるとかないとか、そんなものは問題ではない。主が「よし」と言われれば、どんなことでもできます。

 

ピリピ人への手紙4章11節から13節までを朗読。

 

パウロは「足ることを学んだ」と11節に語っています。そして12節以下に「貧に処する道」「飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも」どんなことにも対処していくことができる、そういう秘けつを自分は持っていると。それは何かと言うと、13節に「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」。私の中に力がなくても、私は空っぽであっても、そこに力が満ちてくるとき、私たちの内に力があふれてくるとき、私にできないことはない。私を強くしてくださる方がいらっしゃるのだから、その方が私の力の源となってくださる。私たちに無尽蔵の、尽きることのないエネルギーを、力を注いでくださるからです。だから、私たちは恐れないで、心配しないで、もしこうなったらどうなるだろうか、ああなったら私は耐えられるだろうか、我慢できるだろうか、といろいろなことを考える。認知症になって訳が分からなくなったらどうしようか、私はそんなのに耐えられるだろうかしら、あるいはがんになって、その末期になって苦しんで、あの肺がんの苦しみ、あるいは肝臓がんのときの苦しみ、私もいろいろな方を見てきましたから、自分でそのようなことを想像すると、私も気が細いですから、私も弱いですから、「え!もし私がそうなったら……、何がいいだろう、どの病気を選ぼうかしら」と思ってしまいますが、そのときこのお言葉に教えられるのです。「わたしを強くして下さるかたによって」、神様が通れとおっしゃるならば、神様はどんな力でも与えて、耐えることができるように、その弱い所にキリストの力が現れてくださる。だから、そんな先のあるかないか分からないことをいろいろと思い煩うのではなくて、絶えずいのちの源、力の源であるイエス様に連なるように努めるのです。そのことに全力を尽くしていく。日ごとの生活の中で絶えず、パウロがそう言うように「イエスの死をこの身に負うていく」という、イエス様の死に一つとなっていく、死んでいくのです。そして、よみがえってくださったイエス様が今日も私を生かしてくださっている。私に「これをせよ」と言われるから、このことをさせていただく。「ここへ行け」と言われるから、主よ、私は行かせていただきます。「これはするな」と言われるから、何があってもしません。能力があるからする、しないではない。キリストの力によって生きているのですから、主がここに導かれるならばどんな困難な中にも道は開かれます。そこを信じることではないでしょうか。お財布の中や健康状態を顧みて、自分にはこれだけの能力があるからこれはしよう、これはやめておこう、ここには行こう、ここはやめておこう。そのような生き方は主を信じている生き方ではない。キリストが私の中にあって私を生かしていらっしゃる。主が「せよ」と言われたら、できないことはありません。その代わり主が「やめよ」、「するな」とおっしゃったら、どんなことがあってもしません。非常に単純明快です、生き方として。主が力を与えてくださって、このことを導いて、み心をなしてくださいますから、させていただきます。神様が「せよ」と言われたときは、それに対する力も知恵もすべての必要を備えてくださる。その代わり、私たちがどんなにしたくても、神様が道を閉ざされるならば力があろうとお金があろうと何があろうと、その道が開かれない。だから、絶えずこのいのちの源であるキリストに連なること、ヨハネによる福音書15章に、イエス様が語っているように「あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない」と。ぶどうの木でいらっしゃるイエス様に、私たちが密着することを努めていきたいと思います。それさえ欠かさなければ、神様はいのちと力を次から次へと私たちの内にあふれるばかりに注いでくださる。ところがそのいのちから切り離されたら惨めですね。

車は誠に便利なものです。自分の思いどおり行きたい所へ自由に行くことができます。ところがこれにガソリンがなくなる、ガス欠を起こしてご覧なさい。これほど始末の悪いものはない。動かない、何をしても、どこにも故障がない、ただエネルギーが、命、力が消えてしまうわけでしょう。何百万円、何千万円の車であってもそうですよ。ベンツだろうと何だろうと、道の真ん中でストップしてご覧なさい。ガソリンがない、こうなったらお手上げです。大変な迷惑、無用の長物になります。私たちもそうでしょう。イエス様のいのちの力が消えてしまったら、エネルギーがなくなったら、私たちは生ける屍(しかばね)、腐敗していくだけ、枯れていくだけ。誰も見向きもしてくれません。掃いて捨てられ、焼かれるだけです。そうならないため、絶えず新しいいのちを神様から注いでいただく。主が私たちのいのちとなってくださることを絶えず求めていこうではありませんか。

 

 コリント人への第二の手紙4章7節に「その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである」。私たちは素晴らしいいのちに満ちた生涯を生きることができる。そのために、絶えずキリストと共に十字架に死にきって、死んだ者が主によって生かされ、キリストの命によって生きているのだと、絶えず自覚していきたいと思います。そして主が「せよ」とおっしゃること、主が「行け」とおっしゃる、主のみ心に従って生きるとき、どんなことの中にも主の力が働いてくださる。私たちを通して主の業を明らかにしてくださる。

 

 どうぞ、この宝を絶えず私たちは握って、そのいのちに生きる者となりたいと思います。

 

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。