コリント人への第一の手紙1章18節から25節までを朗読。
18節に「十字架の言(ことば)は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」とあります。
教会に来るといろいろな所に十字架の印が記されています。講壇の正面の所にも十字架があります。また玄関を入って来る時、屋根の上を見ると、そこにも十字架があります。地図を開いても、教会のある場所は十字架のマークが付いていますから、これはキリスト教の紋章のようなものかな、と思われるかもしれませんが、そうではありません。
そもそも十字架と言うのは、私たちにはあまりなじみのないものです。昔、十字架は犯罪者の処刑の道具でした。極刑に処する道具、いわゆる死刑を宣告された囚人が十字架にかけられる。十字架にかけられて殺されるのが刑罰の一つの方法、手段でした。考えてみたら、ちょっとおかしな話で、そのような刑罰の道具である十字架を、あちらこちら掲げて有難がっているのは、ちょっとおかしいのではないかと思われます。また、時々見かけますが、首にペンダントとして十字架をぶら下げている人、スポーツ選手など、時々アップした映像を見ますと胸元に十字架をつけている。「この人はクリスチャンかな」と思ってしまいますが、ただの飾りであまり意味がないようです。でも、なぜか十字架を付けるのです。
十字架には不思議な魅力があるようです。なぜそうなのか、説明がつかないのですが、処刑の道具だから珍しいというわけでもないでしょうし、やはり十字架がいちばん輝いた、輝いたというのはおかしな言い方かもしれませんが、或る出来事に結びついています。それはイエス様がゴルゴダの丘に十字架にかけられなさった。十字架に死なれたという事態、出来事、これが十字架の存在価値と言いますか、ある独特の意味を与えている出来事ではないかと思います。もちろん、十字架にかけられたケース、そのような刑罰の道具ですから、イエス様以外にもたくさんの人々が十字架にかけられて死ぬことがあったでしょう。私どもが一番よく知っているのは長崎の二十六聖人の殉教、浦上の丘でその当時のキリシタンの人々が十字架にかけられて殺され、火で焼かれて殉教したことがありました。ですからそのような十字架もあります。ところが、どういうわけかこのイエス様の十字架には何か独特なものがあります。
18節に「十字架の言(ことば)は、滅び行く者には愚かであるが」と、「十字架の言」とありますが、十字架に何かICの仕掛けがあって、近づくと声が出てくるという、そのような話なら分かりますが、十字架は何もしゃべりません。ただの印です。ところが、私どもの生活の中で、何も語らなくても、いわゆる音声でしゃべらなくても伝わってくるメッセージと言いますか、語られてくるものを感じ取ることができます。鳩であるとか、あるいはオリーブの葉を見ると、これは平和というものを象徴している。ある一つの物体が、何も語ったり音を出したりするわけではないけれども、それがあることによって、見るものに、その心に一つの思いをかきたて、一つの思考と言うか、考えを生み出してくるものがある。それが象徴的な作用と言いますが、言葉でない言葉、そのようなものがあるのです。
「十字架の言」というのは、まさにそのことです。私たちが十字架を見たときに、何かを感じ、何かを聞くのです。聞くといって言葉が聞こえるのではないけれども、十字架を通して私たちに語られてくるものがある。それはまさにイエス・キリストそのものです。
私は最近しみじみと教えられることですが、私たちの福音、信仰の原点はこの十字架にあります。また、ことごとくが十字架を抜きにしては始まらない。イエス様、神の御子でいらっしゃった方が、この世に来てくださった。クリスマスの出来事を通して「おとめマリヤから生まれ」と記されている。そして、イエス様は神の位にい給うた方が人となって、私たちと同じ肉体を持ち、この世にあって人の悩み、悲しみ、苦しみ、病を負うてくださった方。三十三年数ヶ月の地上での生涯を歩んでくださった。その最後は十字架の死でした。といって、イエス様が何か重大犯罪を犯した、あるいは何か死刑を受けるほどの悪い人であったかと言うと、そうではありません。ピラトの法廷や、カヤパの屋敷、あるいはヘロデの所へ、イエス様は引き回されて裁きを受けます。しかし、どこに連れて行かれて取調べを受けても、「この人には罪がない」と告白されているのです。当時のユダヤの地方はローマ帝国の支配下にありました。そこを統治する統治者としてピラトという総督が遣わされてきていたのです。言うならば全権を持った王様のような身分ですから、彼のもとにも連れて行かれました。そこでイエス様は徹底して調べられる。でも、その調べた挙句、「この人には何の罪もない」と言われたのです。ところがユダヤ人たちはイエス様を訴えて「十字架につけろ」と激しく叫びました。なぜ「十字架につけろ」と言ったかと言いますと、「ねたみのため」と記されています。多くの人々の憎しみ、憤り、ねたみ、そのようなものがイエス様に集中していく。すべてがイエス様に負いかぶせられて、ついにピラトはイエス様を彼らの手に引き渡した、と記されています。イエス様は十字架を負わせられてゴルゴダの坂道を登っていくのです。その丘に着いて両脇には犯罪者、真ん中にイエス様と3本の十字架が立てられました。
罪なき方でいらっしゃる、何一つ罪のない方が罪人とされて十字架に死ぬ。言うならば非業の死と言いますか、冤罪(えんざい)です。そんなことが何の意味があるかと思いますが、実はそのことは神様の深いご計画の下になされた出来事でもあったのです。表向きはユダヤ人たちがイエス様を憎んで、罪なき方でいらっしゃる、神の御子であられたイエス様を十字架につける事態になりました。しかし、その背後には神様が私たちすべての人を救おうとする、大きな計り知ることのできないご計画があったのです。
ヨハネの第一の手紙4章7節から10節までを朗読。
10節に「わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった」とあります。イエス様がこの世に来てくださったのは、私たちの世にあって、この世間にあって革命家となり、多くの人々を圧制から解放する解放者になるためではなかったのです。その当時、イエス様のおられたとき、今申し上げましたように、ローマの圧政下にありました。だから、多くの人々は過酷な税金を取り立てられ、異邦人であるローマ人に支配されている。そのような屈辱的な時代にありました。そこへイエス様が来てくださった。しかも、イエス様は旧約聖書に約束された救い主として来てくださった。これはきっと自分達を圧制から、ローマの支配から、救い出してくださる方だと期待したのです。だからイエス様がいつ、いわゆる武力蜂起(ほうき)をする、クーデターを起こすかと、多くの人々は固唾(かたず)をのんで見ておった、待っておった。もしイエス様が少しでもそのよう動きを見せれば、自分たちも加わろうと、行こうという機運がイエス様の周囲にたくさんあったのです。一般にイエス様の弟子たちは十二人と言われますが、それだけではなかったのです。もっとも、側近中の側近が12人ですから、選ばれた人たちです。それ以外にもたくさんの人々がイエス様の周囲に集まっていた。それぞれに意図するところがあって、多くの人々が集まっていたようです。なかにはイエス様についておれば、食いっぱぐれがないと思った人がいたかもしれない。あるいは、イエス様が何かそのような革命を起こすならば、自分も一旗挙げよう、仲間に加わろうと思ってついていた弟子たちもいたでしょう。そこにはどのくらいの数であったのか正確には分かりません。百人や二百人どころではない。イエス様をドンといいますか、首領として慕っていた連中がたくさんいたのです。だから「もういつでもイエス様、準備ができていますよ」と、みんな思っていた。ところが、一向にイエス様はそれらしい素振りをしない。あちらの町こちらの町に行き、病人を癒したり、あるいは悩める人を癒したり、いろいろなそういう多くの人々に神様の恵みを語るけれども、どこにも武力蜂起をする兆候がなかったのです。
いよいよ過越の祭のとき、イエス様がエルサレムに来られるときに、ろばの子に乗って来られる。それを見た多くの人々は「これぞ、今からイエス様が、いよいよ一旗挙げるぞ」と、ローマに向かって、圧政を行う指導者たちに対して立ち向かい、打ち破って虐げられた者たちを救い出してくれるに違いないと、期待にあふれた。だから、イエス様がエルサレムに入っていくとき、「ホサナ、ホサナ。王様万歳」と言って、イエス様を褒めたたえた。エルサレムへ過越の祭のために入って来られて、今か、今かと待っているのですが、イエス様はウンともスンとも言わない。イエス様に対する期待が大きかった反動、今度は失望落胆が一気にドーッと、「イエスを十字架につけよ」という憎しみに変わったのです。イエス様はついに捕らえられて、ピラトの法廷に立たせられる。しかし、一言もお答えにならない。ピラトの法廷の中で何かをするに違いない。今か、今かとみんな待っているが、一向にない。とうとうイエス様は十字架を担わされてゴルゴダの丘へ上がっていく。このとき人々の心は完全にイエス様から離れてしまいました。何もできない、言われるがまま、されるがままに十字架にかけられてしまう。そのときでも、まだわずかな希望を持った人もいました。最後に、イエス様が「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが、わが、なんぞ我を見棄て給ひし」(マタイ27:46文語訳)と言ったとき、これは神の力を呼んでいるに違いない。ひとつここからないか起こるぞ!と期待した人も、その辺にはいたのです。しかし、事は何も起こらない。やがて午後3時になって天は暗くなり、そして神殿の幕が上から下まで真二つに裂け、「わたしの霊をみ手にゆだねます」と、イエス様はそこで息絶えてしまわれた。
たったこれだけのことです。見えるところはまさにそれだけ。しかし、その無能無力と言いますか、何にもなすすべもなく、唯々諾々と、言われるがままに引き回されて、あの無残な十字架にぶら下げられてしまったイエス様に対する失望感は、非常に大きかった。ところが、神様はそのようなご計画ではなかった。もっと大きな、もっと根本的な私たちに対する救いの道をそこに開こうとしてくださったのです。
10節に「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として」と。実はイエス様はこの世にあって、そのような社会制度、政治制度、あるいは経済やいろいろな社会の仕組みを変革して、新しい村づくり、町づくりをする人として来たのではなくて、実は、私たちの心を作り変える、私たちの罪を赦す御方となって、ご自分が十字架にすべての罪を負うてくださった。ここに私たちの十字架があるのです。だからこの10節に「わたしたちの罪のためにあがないの供え物として」、言い換えると、私どもが本来かかるべき十字架、当然私どもが処罰を受けるべき、死刑になるべき、私たちがかけられるべき十字架に、それに取って代わってイエス様がついてくださった。ここに神様の大きな深いご愛がある。私たちの罪を赦すためにご自分のひとり子を敢えてこの世に送ってくださった。神様は義なる方、正義なのです。私たちは神様から造られた者であり、神様の恵みによって生かされていながら、神様を忘れて、自己中心、わがままで、自分勝手な生き方をした。人を恨み、憎み、恐れ、さまざまな問題や悩み、事柄の中に苦しんでいる。その元凶、その一番の根本は何であったかと言うと、私たちが神様の前に罪を犯した者であること、その結果です。常日頃受けるいろいろな問題や悩みの中で、私たちは苦しみ悩みます。悲しみのふちに沈みます。その根本は、造り主でいらっしゃる神様を離れて、自分が、自分がと、自分の思いと、自分の自我性から、どんなにしても抜け出すことができないのです。
皆さんが何かの病気になると、「どうしてこんな病気になった!」と苛立つ、憤る。そうすると「あれが悪かったのだろうか。これが悪かったのだろうか」と、自分の生活習慣を振り返って悔やんでみる、あるいは「あのときああすればよかった。こうすればよかった」「もうちょっとああしとけばよかった、こうしとけばよかった」と。何とかそれから逃れ出ようとするでしょう。そのときのほうが苦しいのです。
私は自分自身もそのような経験をしまして、「なるほど、これが罪なのだな」と思いました。何が罪かというと、まだどこかで自分の力で何とかできるのではないか、こんなはずではなかった、自分が生きているのは自分の力や知恵によると思う。自分の思いどおりに生きたいという激しい自我性が、私たちの心にしっかりとあります。だから、病気になったこと自体を受け入れられない、またそれをどうやって逃れようかと、もがき苦しむ。罪を赦されて、神様と一つになっていくことができたら、それもこれも神様のものですから、私たちが思い煩う必要がない。私を造られたのは神様であって、私を生かしておられるのは神様であって、今日の一日は神様が備えてくださったものであり、その一つ一つの事柄、病気にしろ何にしろ、嫌だと思うこと、つらいと思うこと、闇と思われること、それもどれもこれも神様が与えて、置いてくださっていることですと、本当に謙そんになる。私たちはそこまでなることができたら本当に幸いだと思うのです。ありのままの自分、何を受けても感謝ができるはずです。喜べない、感謝ができない、いろいろなことが不満で仕方がないとき、私たちの心は神様に対して憤っている。本当に神様を信頼しきってしまうとき、実は恐れがなくなるのです。不安もなくなる、いやむしろ一つ一つすべてのことが「神の恵みによって……」と、感謝ができる。
だからパウロは「自分の体に一つのとげが与えられた」と語っています。何とかそれを取り除いていただきたい。しかし、祈っているとき、神様は「わが恩惠(めぐみ)なんぢに足れり」(Ⅱコリント12:9文語訳)「わたしの恵みはあなたに対して十分である」と、おっしゃいました。言うならば、パウロはそれまで自分の考えで「これさえなければ自分は幸せになれる」、あるいは「自分はもっとよい働きができる」と思っていた。そのような思いがあったときに、そうではない、実はそれは神様の恵みであって、あなたの好き嫌いではなくて、神様が「よし」とおっしゃるのだから、何を心配することがあるのかと。パウロはそのとき初めて「喜んで自分の弱さを誇ろう」と、自分の弱いこと、足らないことを喜ぶことができる、感謝することができる。感謝することができるのは、根底に神様に対する信頼がある。それは罪が赦されることでもあります。私たちは本来十字架に死ぬべきものであるが、イエス様があがないの供え物となって赦された者であることを徹底して感謝することができるとき、私たちと神様は深い信頼関係に変わっていく。
パウロはそうだったのです。彼はクリスチャンを迫害するほど、神に対して熱心でした。しかし、彼の心の奥では神様に熱心と言いながら、自分の名誉のため、自分の欲のため、自分の何かのためであったのです。やがてダマスコに行く途中で、よみがえったイエス様に出会ったとき、彼の人生は180度変わった。今まで自分は正しい人間、自分ほどいい人間はいないと自負していたが、実はそうではなかったことを初めて知った。それによって彼は悔い改めて、イエス・キリストこそが、私のいのちとなってくださった、彼が語っているように「わたしはキリストと共に十字架につけられた」(ガラテヤ2:19)。言うならば、イエス様の十字架は私があそこで死んだのと同じなのだ、このことを徹底したのです。そのとき彼は、十字架に死ぬことは、父なる神様に赦され、生かされ、神様のものとされることを、心から信じる道だったのです。
これは、今の私たちもそうではないでしょうか。イエス様が十字架にかかられたことは、ただイエス様が無能無力だったからではなくて、実は私のために、皆さん一人一人の本当にどうしようもない、はしにも棒にもかからない私たちのような者を赦して、神様の手に握ってくださる。私たち全部を神様のものとしてくださるためにほかならない。まさにこれが十字架の語っている事柄ではないでしょうか。ですから、私たちは絶えず十字架を見上げるとき、そこに自分を見なければ、本当の十字架を見ることができません。十字架を見て「イエス様があそこへかかってくださったのだな」というのは半分です。そのイエス様は私なのだと、私はキリストと共に十字架に死んだものであって、今は神様が私の主になってくださって、わたしを生きる者としてくださっている。ここまでが十字架の言葉です。
9節に「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった」。今度はイエス様によって私たちが生かされていく生涯へ変えられていく。まさに十字架はその事なのです。イエス様が死んでくださった。そして、死んでくださったのはほかならない、私が死ぬべきところを主が赦してくださって死んでくださった。どうぞ、今日もう一度、十字架が何であるか、その十字架に対して私はどういう者であるかをしっかりと受け止めていきたい。
初めのコリント人への第一の手紙1章18節に「十字架の言(ことば)は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」。まさに「十字架の言」とは、罪なき方、神の御子でいらっしゃった方が、私の罪のあがないとなって、身代わりとなって、十字架に死んでくださった。そのことを語っているのが十字架。だから十字架を見るとき「私はあそこに死んだ者なのだ」と、認めていくことです。だから、「救にあずかるわたしたちには、神の力」、十字架に死ぬことは、同時に私たちにとっては神様の力でもあります。赦され、今度はキリストがいのちとなって、私たちを生きる者としてくださる。新しい神の力によって生きる道筋が十字架にあるのです。
この地上の生活にあって、悲しいことや苦しいこと、様々な喜怒哀楽、いろいろな問題の中に置かれます。そういう中にあるとき、悩みの中、悲しみの中、苦しみの中、不安の中にあるとき、どこへ帰っていくか。十字架に帰る以外にないのです。そのとき、十字架をしっかりと見上げて、私の原点はどこにあるか? 私が今、今日こうして生きているその土台に、主の十字架の死があることを認めていくこと。イエス様と共に死んだ者となって、今日生かされていること、これが十字架を力として受けていくただ一つの道です。そのとき、どんな悩みの中にあっても十字架を仰いでご覧なさい。イエス様が何を私のためにしてくださったか。死んだはずの私がここにいるのではないか。イエス様と共に死んでいるはずである、その十字架を見上げていくと、悲しみの中に喜びを見出すことができる。苦しみの中に、それに耐える力を与えられる。怒りと憤りの中にあって、心が大嵐の中にあるとき、十字架を見てご覧なさい。一瞬にして心は消えていきます、静まっていきます。この十字架を抜きにして、私たちの福音、信仰はあり得ないからです。だから18節に「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」。「神の力」となって、絶えず私たちの内に十字架を通して、神様は臨んでいてくださる。
コリント人への第二の手紙4章7節から11節までを朗読。
8節以下に「四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない」「倒されても滅びない」とあります。なぜそのようなタフな力があるか。その後10節に「いつもイエスの死をこの身に負うている」。言い換えると、イエス様と共に今日も十字架に死んだ者となっていくことです。私たちは絶えず十字架を前に置いていく者でありたい。「そこに私は今日も死んだ者だ。今生きているのは、私が生きているのではなくて、今度はキリストが私を生かしてくださっている」。そのことを信じて、そこに目を留め、思いを向けていきますと、どんな患難な中にあっても行き詰らない、窮することがない、倒されない。実に神様の力がそこから私たちに生きる力を与えてくださる。そこに耐える力を与えて、新しいいのちに輝く道へ導き入れてくださる。そのために、10節にパウロが言っているように「いつもイエスの死をこの身に負うている」者となりたい。
イエス様が、私についてきたいと思う者は、自分の十字架を負うてわたしにしたがってきなさいと言われました。自分の十字架を負うとは、イエスの死を私たちが絶えず身に負うていくことです。十字架を前に置いて、いつもそこに目を留めていきたいと思う。そこから目をそらしますと、いろいろなものが見える。そのために心が波立ち、騒ぎます。不安になり、恐れがわいてきます、心配がわいてきます。しかし、いつもイエス様の十字架に自分の姿を見ていくとき、「そうだ、私はもうあそこに死んだ者です」と。そのことをピシッと心に定めますと、力が与えられ、喜び、また望みを持つことができる。十字架はクロスと言います。クロスとは十字路ですね。そこで交差していくのです。交差するいちばんのところが十字架の中心です。私たちの生活に喜びがありますか、悲しみがありますか、望みがありますか、失望がありますか、すべてのものがこの十字架によって、そこに結び合っていくとき、望みがわいて、力があたえられ、生きる者へと変えられます。この十字架を絶えず見上げて、「イエスの死をこの身に負うて」、私たちはキリストと共に死んだ者となって、主のいのちと神の力に生かされていきたいと思います。
初めのコリント人への手紙1章18節に「十字架の言(ことば)は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」。どうぞ、人の力ではない、世の業ではない、この「神の力」を絶えず受けつつ、神の業の中で絶えず持ち運ばれ生きる者となりたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
18節に「十字架の言(ことば)は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」とあります。
教会に来るといろいろな所に十字架の印が記されています。講壇の正面の所にも十字架があります。また玄関を入って来る時、屋根の上を見ると、そこにも十字架があります。地図を開いても、教会のある場所は十字架のマークが付いていますから、これはキリスト教の紋章のようなものかな、と思われるかもしれませんが、そうではありません。
そもそも十字架と言うのは、私たちにはあまりなじみのないものです。昔、十字架は犯罪者の処刑の道具でした。極刑に処する道具、いわゆる死刑を宣告された囚人が十字架にかけられる。十字架にかけられて殺されるのが刑罰の一つの方法、手段でした。考えてみたら、ちょっとおかしな話で、そのような刑罰の道具である十字架を、あちらこちら掲げて有難がっているのは、ちょっとおかしいのではないかと思われます。また、時々見かけますが、首にペンダントとして十字架をぶら下げている人、スポーツ選手など、時々アップした映像を見ますと胸元に十字架をつけている。「この人はクリスチャンかな」と思ってしまいますが、ただの飾りであまり意味がないようです。でも、なぜか十字架を付けるのです。
十字架には不思議な魅力があるようです。なぜそうなのか、説明がつかないのですが、処刑の道具だから珍しいというわけでもないでしょうし、やはり十字架がいちばん輝いた、輝いたというのはおかしな言い方かもしれませんが、或る出来事に結びついています。それはイエス様がゴルゴダの丘に十字架にかけられなさった。十字架に死なれたという事態、出来事、これが十字架の存在価値と言いますか、ある独特の意味を与えている出来事ではないかと思います。もちろん、十字架にかけられたケース、そのような刑罰の道具ですから、イエス様以外にもたくさんの人々が十字架にかけられて死ぬことがあったでしょう。私どもが一番よく知っているのは長崎の二十六聖人の殉教、浦上の丘でその当時のキリシタンの人々が十字架にかけられて殺され、火で焼かれて殉教したことがありました。ですからそのような十字架もあります。ところが、どういうわけかこのイエス様の十字架には何か独特なものがあります。
18節に「十字架の言(ことば)は、滅び行く者には愚かであるが」と、「十字架の言」とありますが、十字架に何かICの仕掛けがあって、近づくと声が出てくるという、そのような話なら分かりますが、十字架は何もしゃべりません。ただの印です。ところが、私どもの生活の中で、何も語らなくても、いわゆる音声でしゃべらなくても伝わってくるメッセージと言いますか、語られてくるものを感じ取ることができます。鳩であるとか、あるいはオリーブの葉を見ると、これは平和というものを象徴している。ある一つの物体が、何も語ったり音を出したりするわけではないけれども、それがあることによって、見るものに、その心に一つの思いをかきたて、一つの思考と言うか、考えを生み出してくるものがある。それが象徴的な作用と言いますが、言葉でない言葉、そのようなものがあるのです。
「十字架の言」というのは、まさにそのことです。私たちが十字架を見たときに、何かを感じ、何かを聞くのです。聞くといって言葉が聞こえるのではないけれども、十字架を通して私たちに語られてくるものがある。それはまさにイエス・キリストそのものです。
私は最近しみじみと教えられることですが、私たちの福音、信仰の原点はこの十字架にあります。また、ことごとくが十字架を抜きにしては始まらない。イエス様、神の御子でいらっしゃった方が、この世に来てくださった。クリスマスの出来事を通して「おとめマリヤから生まれ」と記されている。そして、イエス様は神の位にい給うた方が人となって、私たちと同じ肉体を持ち、この世にあって人の悩み、悲しみ、苦しみ、病を負うてくださった方。三十三年数ヶ月の地上での生涯を歩んでくださった。その最後は十字架の死でした。といって、イエス様が何か重大犯罪を犯した、あるいは何か死刑を受けるほどの悪い人であったかと言うと、そうではありません。ピラトの法廷や、カヤパの屋敷、あるいはヘロデの所へ、イエス様は引き回されて裁きを受けます。しかし、どこに連れて行かれて取調べを受けても、「この人には罪がない」と告白されているのです。当時のユダヤの地方はローマ帝国の支配下にありました。そこを統治する統治者としてピラトという総督が遣わされてきていたのです。言うならば全権を持った王様のような身分ですから、彼のもとにも連れて行かれました。そこでイエス様は徹底して調べられる。でも、その調べた挙句、「この人には何の罪もない」と言われたのです。ところがユダヤ人たちはイエス様を訴えて「十字架につけろ」と激しく叫びました。なぜ「十字架につけろ」と言ったかと言いますと、「ねたみのため」と記されています。多くの人々の憎しみ、憤り、ねたみ、そのようなものがイエス様に集中していく。すべてがイエス様に負いかぶせられて、ついにピラトはイエス様を彼らの手に引き渡した、と記されています。イエス様は十字架を負わせられてゴルゴダの坂道を登っていくのです。その丘に着いて両脇には犯罪者、真ん中にイエス様と3本の十字架が立てられました。
罪なき方でいらっしゃる、何一つ罪のない方が罪人とされて十字架に死ぬ。言うならば非業の死と言いますか、冤罪(えんざい)です。そんなことが何の意味があるかと思いますが、実はそのことは神様の深いご計画の下になされた出来事でもあったのです。表向きはユダヤ人たちがイエス様を憎んで、罪なき方でいらっしゃる、神の御子であられたイエス様を十字架につける事態になりました。しかし、その背後には神様が私たちすべての人を救おうとする、大きな計り知ることのできないご計画があったのです。
ヨハネの第一の手紙4章7節から10節までを朗読。
10節に「わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった」とあります。イエス様がこの世に来てくださったのは、私たちの世にあって、この世間にあって革命家となり、多くの人々を圧制から解放する解放者になるためではなかったのです。その当時、イエス様のおられたとき、今申し上げましたように、ローマの圧政下にありました。だから、多くの人々は過酷な税金を取り立てられ、異邦人であるローマ人に支配されている。そのような屈辱的な時代にありました。そこへイエス様が来てくださった。しかも、イエス様は旧約聖書に約束された救い主として来てくださった。これはきっと自分達を圧制から、ローマの支配から、救い出してくださる方だと期待したのです。だからイエス様がいつ、いわゆる武力蜂起(ほうき)をする、クーデターを起こすかと、多くの人々は固唾(かたず)をのんで見ておった、待っておった。もしイエス様が少しでもそのよう動きを見せれば、自分たちも加わろうと、行こうという機運がイエス様の周囲にたくさんあったのです。一般にイエス様の弟子たちは十二人と言われますが、それだけではなかったのです。もっとも、側近中の側近が12人ですから、選ばれた人たちです。それ以外にもたくさんの人々がイエス様の周囲に集まっていた。それぞれに意図するところがあって、多くの人々が集まっていたようです。なかにはイエス様についておれば、食いっぱぐれがないと思った人がいたかもしれない。あるいは、イエス様が何かそのような革命を起こすならば、自分も一旗挙げよう、仲間に加わろうと思ってついていた弟子たちもいたでしょう。そこにはどのくらいの数であったのか正確には分かりません。百人や二百人どころではない。イエス様をドンといいますか、首領として慕っていた連中がたくさんいたのです。だから「もういつでもイエス様、準備ができていますよ」と、みんな思っていた。ところが、一向にイエス様はそれらしい素振りをしない。あちらの町こちらの町に行き、病人を癒したり、あるいは悩める人を癒したり、いろいろなそういう多くの人々に神様の恵みを語るけれども、どこにも武力蜂起をする兆候がなかったのです。
いよいよ過越の祭のとき、イエス様がエルサレムに来られるときに、ろばの子に乗って来られる。それを見た多くの人々は「これぞ、今からイエス様が、いよいよ一旗挙げるぞ」と、ローマに向かって、圧政を行う指導者たちに対して立ち向かい、打ち破って虐げられた者たちを救い出してくれるに違いないと、期待にあふれた。だから、イエス様がエルサレムに入っていくとき、「ホサナ、ホサナ。王様万歳」と言って、イエス様を褒めたたえた。エルサレムへ過越の祭のために入って来られて、今か、今かと待っているのですが、イエス様はウンともスンとも言わない。イエス様に対する期待が大きかった反動、今度は失望落胆が一気にドーッと、「イエスを十字架につけよ」という憎しみに変わったのです。イエス様はついに捕らえられて、ピラトの法廷に立たせられる。しかし、一言もお答えにならない。ピラトの法廷の中で何かをするに違いない。今か、今かとみんな待っているが、一向にない。とうとうイエス様は十字架を担わされてゴルゴダの丘へ上がっていく。このとき人々の心は完全にイエス様から離れてしまいました。何もできない、言われるがまま、されるがままに十字架にかけられてしまう。そのときでも、まだわずかな希望を持った人もいました。最後に、イエス様が「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが、わが、なんぞ我を見棄て給ひし」(マタイ27:46文語訳)と言ったとき、これは神の力を呼んでいるに違いない。ひとつここからないか起こるぞ!と期待した人も、その辺にはいたのです。しかし、事は何も起こらない。やがて午後3時になって天は暗くなり、そして神殿の幕が上から下まで真二つに裂け、「わたしの霊をみ手にゆだねます」と、イエス様はそこで息絶えてしまわれた。
たったこれだけのことです。見えるところはまさにそれだけ。しかし、その無能無力と言いますか、何にもなすすべもなく、唯々諾々と、言われるがままに引き回されて、あの無残な十字架にぶら下げられてしまったイエス様に対する失望感は、非常に大きかった。ところが、神様はそのようなご計画ではなかった。もっと大きな、もっと根本的な私たちに対する救いの道をそこに開こうとしてくださったのです。
10節に「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として」と。実はイエス様はこの世にあって、そのような社会制度、政治制度、あるいは経済やいろいろな社会の仕組みを変革して、新しい村づくり、町づくりをする人として来たのではなくて、実は、私たちの心を作り変える、私たちの罪を赦す御方となって、ご自分が十字架にすべての罪を負うてくださった。ここに私たちの十字架があるのです。だからこの10節に「わたしたちの罪のためにあがないの供え物として」、言い換えると、私どもが本来かかるべき十字架、当然私どもが処罰を受けるべき、死刑になるべき、私たちがかけられるべき十字架に、それに取って代わってイエス様がついてくださった。ここに神様の大きな深いご愛がある。私たちの罪を赦すためにご自分のひとり子を敢えてこの世に送ってくださった。神様は義なる方、正義なのです。私たちは神様から造られた者であり、神様の恵みによって生かされていながら、神様を忘れて、自己中心、わがままで、自分勝手な生き方をした。人を恨み、憎み、恐れ、さまざまな問題や悩み、事柄の中に苦しんでいる。その元凶、その一番の根本は何であったかと言うと、私たちが神様の前に罪を犯した者であること、その結果です。常日頃受けるいろいろな問題や悩みの中で、私たちは苦しみ悩みます。悲しみのふちに沈みます。その根本は、造り主でいらっしゃる神様を離れて、自分が、自分がと、自分の思いと、自分の自我性から、どんなにしても抜け出すことができないのです。
皆さんが何かの病気になると、「どうしてこんな病気になった!」と苛立つ、憤る。そうすると「あれが悪かったのだろうか。これが悪かったのだろうか」と、自分の生活習慣を振り返って悔やんでみる、あるいは「あのときああすればよかった。こうすればよかった」「もうちょっとああしとけばよかった、こうしとけばよかった」と。何とかそれから逃れ出ようとするでしょう。そのときのほうが苦しいのです。
私は自分自身もそのような経験をしまして、「なるほど、これが罪なのだな」と思いました。何が罪かというと、まだどこかで自分の力で何とかできるのではないか、こんなはずではなかった、自分が生きているのは自分の力や知恵によると思う。自分の思いどおりに生きたいという激しい自我性が、私たちの心にしっかりとあります。だから、病気になったこと自体を受け入れられない、またそれをどうやって逃れようかと、もがき苦しむ。罪を赦されて、神様と一つになっていくことができたら、それもこれも神様のものですから、私たちが思い煩う必要がない。私を造られたのは神様であって、私を生かしておられるのは神様であって、今日の一日は神様が備えてくださったものであり、その一つ一つの事柄、病気にしろ何にしろ、嫌だと思うこと、つらいと思うこと、闇と思われること、それもどれもこれも神様が与えて、置いてくださっていることですと、本当に謙そんになる。私たちはそこまでなることができたら本当に幸いだと思うのです。ありのままの自分、何を受けても感謝ができるはずです。喜べない、感謝ができない、いろいろなことが不満で仕方がないとき、私たちの心は神様に対して憤っている。本当に神様を信頼しきってしまうとき、実は恐れがなくなるのです。不安もなくなる、いやむしろ一つ一つすべてのことが「神の恵みによって……」と、感謝ができる。
だからパウロは「自分の体に一つのとげが与えられた」と語っています。何とかそれを取り除いていただきたい。しかし、祈っているとき、神様は「わが恩惠(めぐみ)なんぢに足れり」(Ⅱコリント12:9文語訳)「わたしの恵みはあなたに対して十分である」と、おっしゃいました。言うならば、パウロはそれまで自分の考えで「これさえなければ自分は幸せになれる」、あるいは「自分はもっとよい働きができる」と思っていた。そのような思いがあったときに、そうではない、実はそれは神様の恵みであって、あなたの好き嫌いではなくて、神様が「よし」とおっしゃるのだから、何を心配することがあるのかと。パウロはそのとき初めて「喜んで自分の弱さを誇ろう」と、自分の弱いこと、足らないことを喜ぶことができる、感謝することができる。感謝することができるのは、根底に神様に対する信頼がある。それは罪が赦されることでもあります。私たちは本来十字架に死ぬべきものであるが、イエス様があがないの供え物となって赦された者であることを徹底して感謝することができるとき、私たちと神様は深い信頼関係に変わっていく。
パウロはそうだったのです。彼はクリスチャンを迫害するほど、神に対して熱心でした。しかし、彼の心の奥では神様に熱心と言いながら、自分の名誉のため、自分の欲のため、自分の何かのためであったのです。やがてダマスコに行く途中で、よみがえったイエス様に出会ったとき、彼の人生は180度変わった。今まで自分は正しい人間、自分ほどいい人間はいないと自負していたが、実はそうではなかったことを初めて知った。それによって彼は悔い改めて、イエス・キリストこそが、私のいのちとなってくださった、彼が語っているように「わたしはキリストと共に十字架につけられた」(ガラテヤ2:19)。言うならば、イエス様の十字架は私があそこで死んだのと同じなのだ、このことを徹底したのです。そのとき彼は、十字架に死ぬことは、父なる神様に赦され、生かされ、神様のものとされることを、心から信じる道だったのです。
これは、今の私たちもそうではないでしょうか。イエス様が十字架にかかられたことは、ただイエス様が無能無力だったからではなくて、実は私のために、皆さん一人一人の本当にどうしようもない、はしにも棒にもかからない私たちのような者を赦して、神様の手に握ってくださる。私たち全部を神様のものとしてくださるためにほかならない。まさにこれが十字架の語っている事柄ではないでしょうか。ですから、私たちは絶えず十字架を見上げるとき、そこに自分を見なければ、本当の十字架を見ることができません。十字架を見て「イエス様があそこへかかってくださったのだな」というのは半分です。そのイエス様は私なのだと、私はキリストと共に十字架に死んだものであって、今は神様が私の主になってくださって、わたしを生きる者としてくださっている。ここまでが十字架の言葉です。
9節に「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった」。今度はイエス様によって私たちが生かされていく生涯へ変えられていく。まさに十字架はその事なのです。イエス様が死んでくださった。そして、死んでくださったのはほかならない、私が死ぬべきところを主が赦してくださって死んでくださった。どうぞ、今日もう一度、十字架が何であるか、その十字架に対して私はどういう者であるかをしっかりと受け止めていきたい。
初めのコリント人への第一の手紙1章18節に「十字架の言(ことば)は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」。まさに「十字架の言」とは、罪なき方、神の御子でいらっしゃった方が、私の罪のあがないとなって、身代わりとなって、十字架に死んでくださった。そのことを語っているのが十字架。だから十字架を見るとき「私はあそこに死んだ者なのだ」と、認めていくことです。だから、「救にあずかるわたしたちには、神の力」、十字架に死ぬことは、同時に私たちにとっては神様の力でもあります。赦され、今度はキリストがいのちとなって、私たちを生きる者としてくださる。新しい神の力によって生きる道筋が十字架にあるのです。
この地上の生活にあって、悲しいことや苦しいこと、様々な喜怒哀楽、いろいろな問題の中に置かれます。そういう中にあるとき、悩みの中、悲しみの中、苦しみの中、不安の中にあるとき、どこへ帰っていくか。十字架に帰る以外にないのです。そのとき、十字架をしっかりと見上げて、私の原点はどこにあるか? 私が今、今日こうして生きているその土台に、主の十字架の死があることを認めていくこと。イエス様と共に死んだ者となって、今日生かされていること、これが十字架を力として受けていくただ一つの道です。そのとき、どんな悩みの中にあっても十字架を仰いでご覧なさい。イエス様が何を私のためにしてくださったか。死んだはずの私がここにいるのではないか。イエス様と共に死んでいるはずである、その十字架を見上げていくと、悲しみの中に喜びを見出すことができる。苦しみの中に、それに耐える力を与えられる。怒りと憤りの中にあって、心が大嵐の中にあるとき、十字架を見てご覧なさい。一瞬にして心は消えていきます、静まっていきます。この十字架を抜きにして、私たちの福音、信仰はあり得ないからです。だから18節に「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」。「神の力」となって、絶えず私たちの内に十字架を通して、神様は臨んでいてくださる。
コリント人への第二の手紙4章7節から11節までを朗読。
8節以下に「四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない」「倒されても滅びない」とあります。なぜそのようなタフな力があるか。その後10節に「いつもイエスの死をこの身に負うている」。言い換えると、イエス様と共に今日も十字架に死んだ者となっていくことです。私たちは絶えず十字架を前に置いていく者でありたい。「そこに私は今日も死んだ者だ。今生きているのは、私が生きているのではなくて、今度はキリストが私を生かしてくださっている」。そのことを信じて、そこに目を留め、思いを向けていきますと、どんな患難な中にあっても行き詰らない、窮することがない、倒されない。実に神様の力がそこから私たちに生きる力を与えてくださる。そこに耐える力を与えて、新しいいのちに輝く道へ導き入れてくださる。そのために、10節にパウロが言っているように「いつもイエスの死をこの身に負うている」者となりたい。
イエス様が、私についてきたいと思う者は、自分の十字架を負うてわたしにしたがってきなさいと言われました。自分の十字架を負うとは、イエスの死を私たちが絶えず身に負うていくことです。十字架を前に置いて、いつもそこに目を留めていきたいと思う。そこから目をそらしますと、いろいろなものが見える。そのために心が波立ち、騒ぎます。不安になり、恐れがわいてきます、心配がわいてきます。しかし、いつもイエス様の十字架に自分の姿を見ていくとき、「そうだ、私はもうあそこに死んだ者です」と。そのことをピシッと心に定めますと、力が与えられ、喜び、また望みを持つことができる。十字架はクロスと言います。クロスとは十字路ですね。そこで交差していくのです。交差するいちばんのところが十字架の中心です。私たちの生活に喜びがありますか、悲しみがありますか、望みがありますか、失望がありますか、すべてのものがこの十字架によって、そこに結び合っていくとき、望みがわいて、力があたえられ、生きる者へと変えられます。この十字架を絶えず見上げて、「イエスの死をこの身に負うて」、私たちはキリストと共に死んだ者となって、主のいのちと神の力に生かされていきたいと思います。
初めのコリント人への手紙1章18節に「十字架の言(ことば)は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」。どうぞ、人の力ではない、世の業ではない、この「神の力」を絶えず受けつつ、神の業の中で絶えず持ち運ばれ生きる者となりたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。