いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(155)「御霊によって」

2014年04月01日 | 聖書からのメッセージ
 ガラテヤ人への手紙5章16節から26節までを朗読。

 16節に「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない」とあります。

 イエス様の救いを受けて、日々の生活の仕方についてよく問われます。「クリスチャンになったら、先生、何をしなければいけませんか?」と。また、他の教会から転会された方からよく尋ねられます。「先生、この教会にこれから通わせていただきますが、教会員として、するべきことは何でしょうか。クリスチャンらしい生き方をするにはどうしたらいいでしょうか」と。私は「いや、何もしなくていいですよ」と答えます。「え、何もしないのですか!月定献金はどうしたらいいのでしょうか。お掃除の当番はどうするのでしょうか」。あるいは、いろいろな部会がありますが「部会の費用は幾らずつでしょうか。年間どのくらい出席すればいいでしょうか。私はどんな役割を果たせばいいのでしょうか。どういう組織になっているのでしょうか」と、いろいろ尋ねられます。そのような質問に私は困るのです。「いや、何もありません」と言うほかないのです。その方はポカーンとして「何もないって、でもどうしたらいいのでしょうかね」と、相手の方も困る。「あなたが礼拝、各集会に出ていらっしゃって、そして、聖書を毎日読み、お祈りすることです。これがすべてです」と申し上げる。そうすると「それ以外にないのですか」、「ありません」、「でも、クリスチャンらしい生き方ってあるでしょう」としつこく尋ねられる。誤解を恐れず簡単に言えば、「ありません」と答える以外にないのです。あるのはただ「御霊によって歩きなさい」ということです。信仰生活をマニュアル化するとき、信仰から逸れてしまいます。

ともすると、救いにあずかったら生活が変わる、あるいは自分の性情性格も変わる。今まで怒りっぽかった人が借りてきた猫のようになるかもしれない。そのように生活や性質が変わるのではないか、と期待します。ところが、皆さんもご経験のように、イエス様の救いにあずかったからといって、次の日から途端に、今までみけんにしわを寄せていた人が、ニコニコ顔でハッピーハッピーと言っているかというと、そうでもなさそうです。確かに、イエス様の救いにあずかった喜びはありますが、日々の生活のどこが変わったかな?甘党が変わったというわけでもないし、趣味が変わったようでもない。ところが、案外、ほかの人から見ますと、しばらく付き合っていて「あなたは何かほかの人と違う感じがするね」と言われたりします。そのような話をよく耳にします。「先生、私はちっとも変わったつもりはないのですが、周囲の人から『あなたはほかの人とちょっと違うけれども、何しているの?』 と。『教会に……』『あ、やっぱりね』と言われます」。そんな話を聞きますと、教会に行っていることはどこか変わったところが出てくるに違いないと思います。確かに、自分で変わりたいと意識したわけではありません。変わろうと努力したわけでもありません。ところが、このように毎週木曜会に来たり、毎週日曜日は礼拝に来て、また家にあっては毎日聖書を通読したり、祈っている。そのお祈りたるや、自分の身勝手なことばかりか知れないけれども、いつもそこで神様の前に自分を置いては、足らないところ、欠けたところ、過ぎたところを一つ一つ絶えず教えられることがあります。「ああ、こんなんじゃ、いけないよな」と思うけれど、自分で変える力がない。しかし、ひたすら祈って従っていますと、どこか変わってくる。全体が変わるのです。これは確かに言える事です。だからといって、クリスチャンらしく、やはり愛の人らしく、ここは怒るわけにいかないから、腹の中で怒っても顔はニコニコなんて、そんなことでは偽善者ですから、そうはいかないでしょう。

この16節に「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない」と言われています。ここに「肉の欲」、「肉」という言葉があります。その後に「肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反する」。「御霊」と「肉」という二つの相対立するものがある。その「肉」とは何か? これは私たちの生まれながらの性質、肉性と言うものです。それはなぜいけないのか。人間が生まれながらに持っている性質のどこが悪いのだ、そんなもの自分が注文してもらったわけではない。仕方なしに与えられたもので、生まれながらに持っている性格、性質、それのどこがいけないのだ、と反論されるでしょう。生まれながらの性質には神様を畏(おそ)れる思いがないからです。神様を認める心がない。自分が中心、自己中心の思いです。そうでしょう。生まれたとき、オギャーと言って生まれた瞬間から泣いている。生まれた瞬間「ハレルヤ、主よ、感謝します」と言って、ハレルヤ、ハレルヤ、と泣いた赤ちゃんは聞いたことがない。生まれたときから、神様を知らない、といいますか、神様を認めない自己本位の、自分本位のものなのです。だから、よく幼児や子供は可愛いと言いますね。しかし、子供ほど残酷なものはありません。また子供ほど自己中心の塊はないのです。大人になればまだしも、世間体がありますから少し隠す。ところが、子供はストレートです。

金生先生のところの子供たちを見ていると、我の張り合いと言いますか、ぶつかり合いです。子供は、ある意味では残忍です。ですからゴールディングというイギリスの作家が『蠅の王』という小説を書きました。これは映画にもなりましたけれども、これは子供の持っている内面的な悪の力を描き出した名作です。それは私たちの周囲にも見ることができます。子供は昆虫を捕らえて羽を引っ張ってちぎる。虫を見ると必ず殺します。ある意味で残酷です。自分の気に入ったものとか、自己本位の生き方をするのです。そこには神様を畏れる思いがない。

聖書には「幼な子のようにならずば」とイエス様がおっしゃっています。子供は純粋無垢(むく)で汚れのないものだ、と思われますが、そうではなくて、生まれながらに人間は「罪ととがとに死んだもの」です。ところが、神様は人にもう一つ素晴らしい恵みを与えてくださっています。それは神様を求める心、「永遠を思う思い」(伝道3:11)とありますが、神様に心を向けようとする思いがあることも確かです。子供の中にもそれは明白にあります。教会学校でもそうですけれども、御言葉を教えますと、本当に素直にそれを信じるのです。神様のことをお話しますと、神様を信じるのです。その信じる力は幼な子に特に顕著です。だから幼児期は、ある意味で人間の罪がもろに現れ出てくる肉性、今言うところの「肉の力」に生きている側面が明確であります。それと同時に神様を知ろうとする渇き、そういうものも与えられている。だから神様のことを適切な時期に教えてやると、素直にそれを受け入れるのです。そのような二面性が幼な子にありますが、イエス様が言う「幼な子のごとくに」とは、その後半のほうの意味です。後者の性質のことを語っているのです。だから、私たちのうちにも、やはりそのようなものがあるのですが、大人になるとどちらかと言うと、理屈をこねたり世間体があったり、人前があったりしますから、素直になれなくなってくる。神様を求める心がだんだんと老化していく、消えていきます。だから、イエス様が「幼な子のごとくならずば」と言われる。

金生家の子供たち、先ほどは自我の塊と言いましたが、今度は褒めますけれども、本当に素直です。「お祈りする」と言ったら、本当に真剣に祈ります。短い言葉、つたない言葉であるけれども、また、ころんで泣いているときに祈ってあげると、ハッと素直に信じるのです。そしてコロッと心が変わる。これは子供の賜物だと思います。私達はそうはいかないでしょう。「お祈りしてあげる」と言われても、祈って効くかな、効かないかな、と疑う。私たちの心は疑いの塊です。なぜ疑うか、とそれは私たちの肉の働くところだからです。生まれながらの自己中心、いわゆる自我が大人になればなるほどいよいよ強くなる。年を取りますとなお強くなる。私の家内の両親を見ていますとそのように思います。だから、私たちの肉の欲というのは罪の証しです。ところが、それによって生きているかぎり、「いのち」に生きることができません。

エペソ人への手紙2章1節から3節までを朗読。

1節に「先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者」とあります。私たちはとっくに「死んでいた者」だと。いや、そんなことはない。私は元気で健康だし、どこをとっても病気はない。私は死んでなんかいないと思います。確かに肉体は元気で、健康であるに違いない。しかし私たちの魂、心と言いますか、内なるものが死んでしまっている。死んだ状態はどんな様子かと言えば、感動がない、動かない、冷ややかである、感謝ができない、喜べない。このような状況、状態は死んだものです。生きているとき、いのちにあふれているときは輝いています。喜びがあります。力に満ちています。そして、更に大切なことは先に対する望みにあふれています。子供もそうですね。小さなお子さんを見ていますと、本当にエネルギーの塊です。ひと時もじっとしていません。そしてキャッキャキャッキャ絶えず笑っています、喜んでいます。時には、けんかもしますが、けんかをしてもケロッとすぐまた楽しんでいる。悲しいこととか嫌だったことをすぐに乗り越えていく。力がある。私たちはどうでしょうか? 魂が本当にいのちにあふれて、周囲のどんなことが起こっても、自分の思わないこと、願わないこと、考えもしないことが起こってきても、絶えず感謝できるでしょうか。喜んでいられるでしょうか。望みを持っているでしょうか。常にしょぼくれて「ああ、今日もまた生きてなければいけない」と、シュンと沈んでいる。それは死んだ状態です。

1節に「先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者」。私たちのうちに罪の力、先ほどの「肉の力」という言葉です。肉の働くところ、自我、自分の生まれながらの人間性に乗って生きていると、どんなことにも満足がない、喜べない、感謝ができない。「なって当たり前」、「こうなって当然」、「もっとこうあるべきだ」。そのような欲がはらんでくるのです。しかも2節に「かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである」。「不従順の子らの中に今も働いている霊」とは、サタン、悪の霊です。その霊が私たちを導くのです。何か嫌な事があったら不平不満、どうしても納得できない思いがわいてくる。人を非難したり、あるいは自分をのろってみたり、自分の人生をつぶやいたり、そして「この世のならわし」、いわゆる世間のいろいろなことに従う、しばられる、捕われた者となる、自由がない。本当に私たちは肉によって生きているという、まさにそこに「不従順の子らの中に今も働いている霊」、サタンが肉を通して私たちのうちに働いてくる。私たちは自分のうちにある肉性がどういうものであるかをしっかりと理解しておきたいと思います。「私はそんなことはない、聖人君子とは言わないけれども、その端くれには近い所にいる」と、何か自己肯定、自分を肯定するものがあるとすれば、これは大きな間違いです。よくよく自分のうちに、本当に肉につける思いがないのかを探ってください。神様に感謝する思いがあるでしょうか。「これも神様の恵みでした」と言えるのは、肉につける思いからは出てきません。

3節に「また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった」。「肉の欲に従って日を過ごし」とあるように、私たちは「肉の欲」、自分がしたいからする、自分が嫌だからやめる。あるいは自分の思ったとおり、願ったとおりでないと納得できない。何もかも苛立つ、腹立つ、そのような心の状態は、まさに肉に支配されている。あるいは感情とか情、人情、あるいは親子の情、これはまた厄介です。

家内の両親は高齢ですが、二人で生活しています。父は年をとって病気もあったりしますから、だんだんと気力がなえてくる。そうすると、家内が事あるたびに呼び出される。今月も何度となく朝早くから電話が掛かって、家内は大慌てで飛んで行く。行ってみますと大したことはない。病院に連れて行くけれどもどこも悪いところはない。ただ本人が「はぁ、おれはもう老衰で死にそうだ。明日死ぬぞ」というようなことを言うから、家内は、やはり娘、親子の情がある。これが厄介なのです。情がありますから、つい一生懸命になる。一生懸命になって感謝すればいいけれども、肉ですから、「こんなにしているのに分かってくれない」。病院に救急で行って、予約なしで行きますから2時間も3時間も待たせられる。それでやっとお医者さんに診てもらったら、「どこも悪い所はありません。おじいちゃん、これからは娘さんの言うことを聴いて生活をしてください。どこも悪い所はありません。入院するようなことは何にもありません」と言われ、「ああ、そうですか」と、その瞬間からスタスタ歩く。次の日はケロッとしている。その上、一生懸命に来た家内に「もう邪魔だから早く帰れ」と言われ、カーッとくる。本当に「肉の情」とは、そのようなことがありますね。親は親で子のことを思う。それはそれでいいのですが、それはまた厄介。心の思いを探りますと、そのような情動で動かされている。

3節に「肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった」。「生れながらの怒りの子」と言われますと「ああ、そうや、私は生まれたときからプンプンカンカン、怒りっぽいこの性格かな」という。確かにそのようにも読めますが、ここで言われているのは、生まれながらに神様の怒りを受ける、神様ののろいの許(もと)に置かれた者だった、という意味です。私たちはそもそも神様からのろわれて、滅びの中に、死の中にあったのです。
エペソ人への手紙2章12節に「またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった」。「イスラエルの国籍がなく」ても、そんなものはいらない。私は日本の国籍があると言いますが、ここで言う「イスラエルの国籍」とは、神様の祝福の民、神様の選びと召しにあずかることです。これまでその恵みがなかった。それとは縁がない。また「約束されたいろいろの契約」とは、聖書に約束された神様の祝福の約束です。神様の約束と私たちは縁がなかった。そんなものは知らなかった。聖書の「せ」の字も知らない。「みことば」も知らない。神様は私たちの罪のためにひとり子を遣わしてくださったことも知らなかった。私たちの罪を赦し、永遠のいのちに取り込んでくださったことも知らない。また神様は私たちと世の終わりまでいつも共にいてくださるという、そのような約束、契約にも縁がなかった。ただ「おれが」「おれが」「私が」「私が」という自我に乗っかって、情動、情欲に従って生きていた。そのような私たちは、まさに生けるしかばね、死んだ状態です。そこにありますように「この世の中で希望もなく神もない者」。「希望もなく神もない」私たちであったのです。ところが、そのような私たちに、神様は時を定めてひとり子を遣わしてくださいました。そればかりでなく、まだ生まれてこなかった私たちを「愛のうちにあらかじめ定めて」とエペソ人への手紙1章に記されています。その時を定めて私たちをこの救いの中に引き入れてくださって、生きる者としてくださった。何によって生きるのか? 神の御霊によって生きるのです。
ですから、もう一度初めのガラテヤ人への手紙5章16節に「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい」。御霊とは何かと言いますと、これはキリストの霊、イエス様が天にお帰りになった後、父なる神様からすべての人に神の霊を注ぐ、と約束された預言に従って、私たちに今も注がれている神様の力、と言ったらいいですね。神様の霊です。ではそれはどこにあるか? 私たちが神様のことを心に渇き求める、主の思いを求めるときに既に、私たちのうちに御霊が宿ってくださっている。神様は御霊を求めることを勧めてくださいます。「神様の力を満たしてください。神様、あなたの霊に私の心を満たしてください」と求めます。確かにそのとおりで、求めれば必ず与えてくださいますから、絶えず日々に求めていきます。というのは、神の御霊はいったん与えられたら三年間有効期限があるとか、五年間は大丈夫という、そのようなものではない。御霊は一日、一日なのです。あるいは一瞬一瞬と言ってもいいと思います。神の霊が私のうちに注がれている、与えられたことを信じて、その御声に、御霊に従って行こう、と心を定めたときは、確かにそれに答えて神様が力を現して、業をなさいます。ところが神様を忘れて自分の肉の欲に従って、カーッと突っ走っているとき、御霊は私たちから離れてしまいます。また、「ごめんなさい」「ああ、しまった。これは間違っていた」と悔い改めて神様のほうに心を向けた瞬間、また御霊はサッと私たちのうちに来てくださる。だから「御霊を消してはいけない」(1テサ 5:19)と、聖書にも勧められていますが、自分は今御霊なる神、聖霊と共に生きている、と自覚できる、あるいはそのように確信を持って生きていかなければ、御霊は働きません。だから、まだ満たされていないみたい、顔を見るとまだ喜びが足りない、もうちょっと頑張ってみようという、そのようなたぐいのものではない。大切なのは、今、主が「与えてくださった」とおっしゃっているから、「はい、今私の心に主が宿ってくださった。御霊が私と共にいてくださいます」と信じることです。信じて、御霊が私に求めてくださること、命じてくださることに従います、と心を白紙にすることです。いつ来るだろうか。いつ御霊が与えられるだろうか。ペンテコステのような出来事が私の身に起こったら、あるいは柘植先生が体験されたように、手の舞、足の踏む所をいらず喜びにあふれてじっとしておられなかったと、そのようになるのかなぁと……。確かにそのような体験もあります。しかし、御霊の働きは千差万別、さまざまなかたちをもって、私たちに臨んでくださいます。だから他人(ひと)がこのような経験をしたから、私もそうならなければ、というのは間違いです。そうではなくて、私たち一人一人に神様は御霊を注いでくださいます。その御霊は私たちのうちのどこに有るか分からない、見えない。イエス様も「私たちは御霊を見ることはできない。その働きを見ることはできない。しかし風が吹くように、その結果を知ることができる」。風が吹いているのは見えません。窓から外を見ても見えません。ところが雲がスーッと流れていったり、あるいは木々がワサワサ動いているのを見ますと、今風が吹いている。「強いな」とか「そよ風だ」とか、風の強弱も知ることができます。結果は分かるのです。ところがそれがどういうものであるのか、目には見えません。御霊の働きもそれと同じだと。私たちのうちに神の御霊が宿ってくださっている。私たちが御霊の命じるところ、語ってくださるところに従おう、と心をその御方に向けていくと、気がつかないうちに、思わず知らず、神様の業が具体化していく。これはどこがどうって言いがたい。ただ言えるのは一人一人がそれを実体験する以外にないのです。

ですから、どうぞ皆さん、それを体験していただきたい。毎日の生活の中に御霊が、神様が私たちと共にいてくださる。イエス様、よみがえった主が私と一緒にいてくださるのだ、と言われているから、分からないけれども信じよう。そしてお祈りをします。「イエス様、今あなたが約束してくださいましたように、ここにいらっしゃる。こんな私ですけれども、あなたがいらっしゃると信じます。今この事柄について、あのことについて、このことについて、これはどうしたらいいでしょうか。神様、これはどうしたらいいでしょうか。神様、あなたは私にどういうことを求めていらっしゃいますか」とことごとく聞くのです。いらっしゃるのですから、まるでそこにいるかのごとく、その御方にお話しする。そうしますと、具体的なことは分かりませんが、お祈りして教えられたこと、心に思わされたこと、願いが起されたところに従っていくとき、今まで自分だったら到底するはずがないことをさせてくださる。自分だったら到底これはしないと思うことを、神様は気がつかないうちにさせてくださいます。これは御霊の働き、御霊が私たちに臨むとき力を受けてとある、力なのです。それは私たちの心を翻(ひるがえ)し、思いを造り変え、感情も何もかも破壊してしまって、「絶対あいつなんかと口をきくまい。あいつとは生涯、死ぬまで絶交や」と思っていた人も、御霊に従っていくときに、御霊の力に押し出されていくとき、促(うなが)されていくとき、気がつかないうちに、思いもかけないのに自分も周囲も変わってしまう。使徒行伝を読みますとそのような記事が沢山ありますね。使徒行伝は聖霊行伝ともある方は言われます。聖霊の働きが列記されています。

ペテロが捕らえられて牢屋に入れられたとき、熱心な祈りが続けられました。ペテロは牢屋の一番奥の奥に鎖でつながれて、両脇を兵隊がガードして捕らえられていたのです。ところが眠っているときに、何か彼を起こすものがいる。彼は知らず知らず起き上がってみたら手の鎖がはずれた。横にいた兵士は眠りこけて気がつかない。そして、「こちらへ来い」と声が聞こえるから、導かれるままに行ったら、第一の扉が開いて、そこにいた門番も気がつかない。それを通り抜けて次の所も通ったけれど通り抜けて、町に抜ける門も通り抜けて、ペテロはあれよあれよと夢うつつのうちに気がついてみたら、なんと牢屋の外に出ていた。彼は急いでみんなが集まっている家の教会、エルサレムの教会に行った。そして扉をたたいたところ、ロダという女中さんが出てきて、ペテロの声を聞いてびっくりして戸を開けないまま、みんなの所へ引っ込んでしまった。そしてみんなに「ペテロが戸口に立っている」と伝えたので、大慌てで扉を開けて中へ入れました。そのときも、彼のために熱心な祈りが神にささげられていたのです。お祈りをしていたときに、御霊、神の霊がペテロを思いもかけない、到底ありえない事態を通して、牢屋の外にまで引き出した。
いつもここで教えられることですが、いろいろな問題や事柄の中に置かれて、八方ふさがり、もうどうにも道がない、自分の賢い頭で考えても道がない、と思われるとき、ほかに何があるでしょうか? あります。御霊、神の霊が私たちを導かれるのです。聖霊に導かれて生きる。これは本当に素晴らしい恵みの生涯です。

16節に「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい」。「歩く」とは、生活することです。ですから、どんなことでも絶えず祈って、御霊が何とおっしゃるか、神様が私に何を求めていらっしゃるか。どうぞ、私たちのなすこと、語ること、出処進退の一つ一つ、すべての事柄が神様からのもので、今私は御霊が促してくださる、御霊が迫ってくださって、このことをさせていただいているのだと確信して、御霊に従って生きる者でありたいと思う。そうしますと、その後に「決して肉の欲を満たすことはない」。今まで自分の損得利害、さまざまな人の感情、情動、親子の情、肉欲、そのような心をしばっていたものから、気がつかないうちに抜け出ていく。ペテロを牢屋の奥から救いだしてくださった神様の力が、今も私たちに働き給う。

ですから、今こそ、本当に御霊によって歩こうではありませんか。主の霊に絶えず導かれて、どんなときにも御霊によって歩こうではありませんか。そのために何をしなければいけないか。ただ一つだけです。祈ることです。何をしていても、仕事をしていようと、どこにいようと、絶えず祈って、祈って、「私はこうしたい」「あれは嫌だ」と思った瞬間に「主よ、私は何をしたらいいでしょうか。このような思いがありますが、神様、どうしましょうか。あなたのみ心はいかに」と尋ねるのです。そうしますと、神様は考えもしない、思いもしなかった道を教えてくださいます。神様の導かれることは案外と自分のしたいことや、したくないことと、逆方向になることがよくあるのです。「私はこれがしたい」と思ってお祈りをしていますと、大抵それはとめられます。「私は、これはしたくない。あの人には会いたくない。あの人とは一言も口をききたくない」と思って、祈っていると神様はその方とどうしても口をきかなければならない状況へ動かされますね。だから、私は言われたことがあります、「神様のみ心に従うとは、自分の好きなことはしない、したくないことをすることだ」と。私どもの心は「よろずの物より偽るもので、はなはなだしく悪に染まっている」(エレミヤ17:9)とあるように、本当にずるいですからね。その点で肉から潔められるものでありたいと思います。

その「肉」から離れるためには何をするか? それは肉から離れようとしては駄目です。といって、それにしがみついてはいけませんが、御霊に従うことを一生懸命に努めていきますならば、気がつかないうちに、肉から潔められた者と変えられていくのです。だから「御霊に従って生きること」、これがすべてです。これが私たちのいのちなのです。私は近ごろ特にそのことを教えられます。今の時代は私たちにとって何が幸いか? 御霊なる神様が私たちと共にいてくださる、私たちのうちに宿ってくださる、共にいてくださることです。その神様を呼び求め信頼しなければ、何を頼りとするべきものがあるでしょうか。どうぞ、このことを心に置いて、16節に「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい」と。

どうぞ、どんなことでも、小さなことでも大きなことでも、絶えず祈って、主のみ心を、御霊と共に生きる生涯でありたい。今日も主よ、あなたと共に歩ませてください。神様、あなたに従うことができました、と一日を感謝して終わる日々でありたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。