いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(157)「奇跡を起こすしもべ達」

2014年04月03日 | 聖書からのメッセージ
 ヨハネによる福音書2章1節から11節までを朗読。

 5節に「母は僕たちに言った、『このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい』」とあります。

 これは、カナという村での婚宴、言うならば結婚披露宴の席の出来事ですが、「イエスの母がそこにいた」とありますので、イエス様のお母さんマリヤさんも招かれていた。また「イエスも弟子たちも」とありますので、お母さんの遠縁か親戚か、何かそのような関係の婚宴であったのではないかと思います。その婚宴の真っ最中に「ぶどう酒がなくなった」と言うのです。日本でも結婚式と言うと、大抵、式よりはむしろ披露宴のほうに力が入り、いろいろな準備をします。なぜ一生懸命になるかと言うと、せっかく来てくださったお客様に失礼がないように、最大限のおもてなしをしたいという主催者、招いた人の思いがあるからです。だから、できるだけ粗相のないように、不手際のないようにと考えます。言葉遣いひとつ気をつけます。もし、その途中で、宴会の真っ最中に何かが足らない、となりますと、大変ですから、料理にしろ飲み物にしろ、十分に用意するのは、イエス様の時代も同じです。二千年以上たっても、やはりそうだと思う。だから、一生懸命にその準備に励むのです。

 このときも用意はしたのでしょうが、お客さんが多かった。イエス様の弟子たちまでも来たのですから、ちょっと大掛かりな人数になったのだと思います。しかも、マリヤさんがイエス様の所に来て「ぶどう酒がなくなってしまいました」と言っているところをみると、どうもマリヤさんは主催者側の人物のようです。お客さんだったら、そこまで言うはずがないでしょう。皆さんもどこかパーティーに招かれて「ちょっと、飲み物が足らないわ」と言うことはありません。我慢して「ちょっと準備が足らないな」と思いながら帰ります。ところが、マリヤさんは責任を感じたのですね。「これは足らなくなった。どうしよう」と。それでイエス様のところに来て「ぶどう酒がなくなってしまいました」と訴えたのです。

 それに対してイエス様は、4節に「イエスは母に言われた、『婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません』」と。「お母さん」とか「母よ」とでも言えばいいのですが、「婦人よ」と。皆さん自分の息子から「婦人よ」と言われてうれしいはずがない。何か他人事で……。この時、イエス様はもう既にバプテスマのヨハネによって洗礼を受けた後ですから、イエス様は親子関係といいますか、肉にある母と子という関係ではなくて、公の神の子として、救い主としての使命、そのような新しい生涯へ変わっておられたのです。ですから、敢えてここで肉親的なつながりを断ち切っているのだと思います。

これは非常に大切なことで、私たちの親子関係でも、そのようなことは必要です。ある時期までは生まれたときのままに、親はそのような子供のときの様子を知っていますから、いつまでもそういうものと思って接しますが、ある時期に子供は成長して親から離れます。自立していきます。それをちゃんと認めてやることは、既に経験済みであり、失敗済みかもしれませんが、いずれにしても大切だというのはご存じのとおりです。だからマリヤさんは実に知恵のある方ですね。どうも息子の行動、言動、生活ぶりがちょっと普段と違う。これは母親でも入り込むわけにはいかないことがある、と知っていますから、「ぶどう酒がなくなってしまいました」と、イエス様に事実を伝えに来ました。皆さんが息子や娘、30も40もなった娘や息子に、「ぶどう酒がなくなってしまいました」と言うばかりでは終わらない。次に「あなたはこうしなさい」、「ここに行ってこうしなさい」、「お金は持っているの? 」と、逐一ぐちゃぐちゃ言うから「いつまで子ども扱いするの!」と言われる。ところが、親としては心配です。この子は大丈夫かしらと。

問題が起こって、イエス様の所に来て、その事実を伝える。「ぶどう酒がなくなってしまいました」とは言ったけれども、その後「どうしなさい」「こうしなさい」は言わない。これがくせ者ですから、そう言おうとしたときに、ウッと口をつぐむ。「ああしなさい」とか「こうしなさい」とか「これは出来たの」とか、言わなくてもいいことを言うから、親子げんかになりこじれる。やがて年を取ったときに捨てられる。最低限必要な事実を伝える。

「ぶどう酒がなくなってしまいました」と聞いたとき、イエス様は、マリヤさんが何を自分に求めているか、知っているのです。皆さん、息子たちや娘たちでも親の気持ちは知っているのです。だから、あまり深追いしないがいい。出来るだけ事実を語るのです。そうしますとイエス様が「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか」。実に冷たい、突き離された感じがしますね。それはむしろ喜ぶべきことです。その人が自立しているのです。イエス様はマリヤさんから離れて、肉親の情、そのような肉の思いを捨てて、霊の思いに立っているのです。イエス様は父なる神様と一つといいますか、一体となって生きていらっしゃる。だから、お母さんに対しても「なんの係わりがありますか」と言う。肉における親子関係は、もう私には無い、無いということはないでしょうが、それはもう終わったのだ。そして「わたしの時は、まだきていません」と。「わたしの時」、救い主として、神の御子、イエス・キリストとしての使命を果たすべき時、神様の時は今ではない。

それに対してマリヤさんが5節に「母は僕たちに言った、『このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい』」。「このかた」って誰かといいますと、イエス様です。イエス様があなた方に命じること、言いつけることはどんなことでもしてください、従ってください、と言われたのです。これは今私たちに対してもそうであります。礼拝で教えられましたように「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である」(ローマ8:14)。「御霊に導かれている」とは「このかたが言いつけることは何でもする」ことです。御霊はキリストの霊、イエス・キリストです。今もイエス様は、よみがえってくださった主は、私たちと共にいてくださる。今、私たちはイエス様の御声に従う。だからパウロは「神の僕として自分をあらわしている」(2コリント 6:8)と語っています。私はキリストの僕だ。キリストに仕えているものだというのです。今日マリヤさんが僕たちである皆さんに「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」と言われています。どうぞ、今イエス様に仕えている自分である、主の僕であること、また神の子であること、それは御霊に導かれていなければ子供ではありません。私は何年前、何十年前に洗礼を受けて、イエス様を信じました。「では、今あなたは御霊の導きに従っているのですか? 」、「いえ、そんなものは聞いたことがありません」と。使徒行伝にもそのような記事がありますね。「聖霊なるものがあることさえ、聞いたことがありません」(使徒 19:2)。それでは神の子にはなれない。神の子はイエス・キリストを信じて、その御声に従う者です。

5節に「母は僕たちに言った、『このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい』」。「なんでもして下さい」、ここは大切なポイントです。その後、6節に「そこには、ユダヤ人のきよめのならわしに従って、それぞれ四、五斗もはいる石の水がめが、六つ置いてあった」。入り口に大きな石の水がめが六つ置いてあった。これは大変な量だと思います。それは、ユダヤ人は外から帰ってきて家に入るとき、清めなければなりません。足を洗うのです。だから、最後の晩餐(ばんさん)でイエス様が弟子たちの足を洗われた。それは清めの印です。もっとも、そのときは既に足を洗った後だったとは思いますが、イエス様が敢えてもう一度それをなさったことで弟子たちはびっくり仰天しました。ですから婚宴の席に招かれたお客さんがそれを使ったから、水がめは空っぽになっている。もう必要ないのです。帰りがけにはいらないから、空っぽになっていて当然です。そこへ、イエス様は、7節に「イエスは彼らに『かめに水をいっぱい入れなさい』」と言われた。何のために? もう使わないじゃないか。いまさら入れてどうなる?皆さん、自分がこの僕になったとしたら何と言うでしょうか? 「何のためですか? もうお客さんは来ましたよ。次にくる人がいますか? いないのだったら、何のために使うのですか」? 私どもは頑固で、かたくなな所がありますから、自分が納得しないと動かない。それではイエス様に従うことはできない。しもべは理屈を言わない、つべこべ言わない。言われたとおり。イエス様が「あなたがたに言いつけることは、なんでも」「なんでも」ですよ。マリヤさんは文句を言わないで、黙ってそれをしなさい、と命じられました。彼らは言われたとおりに、7節の後半に「彼らは口のところまでいっぱいに入れた」。この「口のところまでいっぱいに入れた」と言うのも、なかなか意味のあることです。私たちだったら、納得しない、腹に膨れる思いがあって、「こんなの、どうしてしなければいけない!」と思っているから、八分目くらい、もうこのくらいでいいのではないか、と何度か聞くに違いない。「イエス様、もうこの辺でどうですか」と。ところが、この僕たちは忠実で、実に立派なのです。「口のところまでいっぱいに」、あふれるばかりに、しかもこの当時の水をくむのは、生易しい仕事ではない。水道の蛇口をサッとひねって入れるわけではない。カナの村の共同井戸に行って水をくんで、暑い日中、羊の皮の水袋を担いで運ぶわけでしょう。一度ならず二度三度行かなければいけない。一回でも数少なくやりたい。私たちだったらそのように思いますよ。かめ7分目、8分目、この辺でいいのではないだろうか。ところが「口のところまでいっぱいに」、大きな水がめがあふれるばかりに、彼らはくんだのです。

8節に「そこで彼らに言われた、『さあ、くんで、料理がしらのところに持って行きなさい』」。何と、今度はそのくみ終わった、かめの中に入れた水から、一桶分をくんで、料理頭のところに持って行く。これまた腹が立ちます。何だ、こんな事をさせといて、いるのはたったこれだけか。だったら初めから、この必要なおけ一杯でいいではないか。私達はとことん自己本位ですから、神様に従うというのは、自分を捨ててかからなければ従えない。いろいろと自分の経験、自分の思い、自分が楽をしようと考えている間は、神様の言いつけに従うことができない。しかもイエス様は小出しに言われる。初めから全部のことを教えていない。前もって、僕たちにこれをくんだら、次はこうして、その次はこうして、やがてそれがぶどう酒になるのだから、言うとおりにしてくれ、と言ったのではない。「水をくめ」、これでおしまい。「何のために? 」は聞かない。私達は聞かないでおれない。ご主人から「おい、これをしてくれ」、「どうしてですか? 」と聞くでしょう。「どうして、今するのですか? 明日では駄目ですか? 」と。すぐに素直に「はい」と言えない。なぜか、己があるのです。「どうして?」「何で?」「私が知っておかなくてどうする」、これが私たちの一番悪い所です。神様の恵みにあずかれない。このしもべたちは黙々と言われたとおりに忠実に水をくんだ。そして、桶一杯を料理頭の所に持って行った。持って行ったら、何とその水が最高の品質のぶどう酒に変わっていたのです。水がぶどう酒になる。これは先ごろはやりのマジックではありません。イエス様が、持っていく桶の中に仕掛けをして、一瞬にして水がぶどう酒になったのではない。イエス様が言ったからなったのではない。なぜ水がぶどう酒になったのでしょうか? ただ一つです。僕がイエス様の言葉に従った。だからなったのです。もし僕が従わなかったら、「いや、そう言われても、水は水でしょう。こんな水持って行っても仕方ありませんよ」と言って、持って行かなかったら、ぶどう酒にならなかったのです。ここで大切なのは、イエス様が何か不思議な力を持っているとか、あるいはイエス様がまじないを掛けたとか、そのようなたぐいのものでは決してないのです。水がぶどう酒になるという驚くべき奇跡を起こしたのは、イエス様でもなければ、誰でもない。僕たちなのです。僕たちが自分の思いを捨て、考えを捨てて、主がおっしゃるとおりに従ったから現れた事であり、なされた事です。これをしなかったら、聖書にこの記事は無かった。これは非常に大切なことです。今も、その事は変わらない。私たちがイエス様のお言葉に従うのか、従わないのか。イエス様が何か特殊な力を持っていて、イエス様の言葉に何か仕掛けがあって、それが人を動かして、どうこうするのではなくて、僕たちは「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」と言われた通りに、文句なしに従えと言われていましたから、そのマリヤさんの言葉に従って、イエス様が言われたことを忠実に一つ一つやったのです。そうしましたら、自分が考えもしない、想像もしない、驚くことがそこに起こってくる。これは二千年前のイエス様の時代だからではない。今もそうです。私たちは気がつきませんが、新約聖書の中でイエス様が不思議な奇跡を行っていますが、そのほとんどがイエス様の言葉に従った時に起こっているのです。従わないとき、それは消えるのです。神様は従う者を恵んでくださる方です。

ルカによる福音書5章1節から6節までを朗読。

これはイエス様がガリラヤ湖畔で神様のことについてお話をなさった時、たくさんの人々、群集が集まった。山上の垂訓と言われている記事と重なっている箇所ですが、その時イエス様は話すために船に乗って岸から少し離れた所、船の中から岸にいる人たちにお話になったのです。その時、シモンの船が夜通し働いて明け方戻ってきていました。そして、船具を整えて休息をする。昼間は休んで夜の漁だったのです。だから疲れてもいたと思います。そこへイエス様がシモンに頼んで乗せてもらった。このシモンはイエス様を乗せなければならない義理もあったのです。そのすぐ前の4章38節以下に、前日、イエス様は、シモン・ペテロの家に行ってしゅうとめの病気を癒してあげたのです。その時お礼もしていませんから、シモンは頼まれたら断るわけにはいかない。だから、この時シモンは夜通し働いて疲れてもいたでしょうが、これは仕方がないと乗せたのです。そしてイエス様のお話があった。恐らくシモンは、船にいながら積極的に聞きたいと思ったわけではない。仕方なしに聞いていたようなものでしょうが、そうしているうちにお話が終わった。

「話がすむと」と4節にあります。「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」。なかなか大変なことです。網と言うと、子供が魚をすくう小さなものを思いますが、漁師の網はいったん下ろしたら引き上げるのが大変です。水を含んで重くなる。しかもシーツ一枚ぐらいのものではない。大きな網ですから、そんなものを簡単に下ろせと言っても下ろせるわけではない。シモンは困ったと思います。だから5節に「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした」。これは事実をありのままに言ったのです。イエス様、そうはおっしゃいますが、私たちは専門家です。親の代から漁師をしています。夕べも働いたけれども何も取れない。「だからもうやめておきましょう」とも言えるでしょう。ところが、ここでシモンが無理だから、夕べもやったのだけれども取れなかったから、もうやめていきましょう、と言ったら、それでおしまいです。イエス様は決して無理強いはしません。ところが、この時シモンが「しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」と。イエス様がそのように言われるのでしたら「はい、いたします」と従ったのです。そして網を下ろしたところ、取れないはずの魚が「おびただしい魚の群れがはいって」とあります。一つの船では足りないくらいの大量の魚が取れた。こんな驚くことが起こる、なぜ起こったのか? それはシモン・ペテロがイエス様の言葉に忠実に従った、だから起こったのです。従わなかったらこれは無かったのです。イエス様が、何かまじないをして、気がついてみたら魚が船の中に飛び込んできた、というような話ではない。イエス様の言葉に従ったのです。そうしたところ驚くことが起こってくる。

これは現代も変ることのない真理です。イエス様は、私たちを通してご自分の力を現そうとしてくださる。ところが、イエス様の力、神様の力を引き出すために必要なことを欠いているのです。それは何か?「従う」というこのことです。「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」。どんなことでも、自分の常識はずれであろうと、何であろうと「はい、従います」と、イエス様の言葉に従っていく時、そのとおりに、私たちの思いを越え、想像をはるかに越えた大きなことを、人知では到底測り知ることのできない、考えられない事を起こしてくださる。そうでしょう。水がぶどう酒になるなんて、誰が想像できますか。あるいは素人であるイエス様が「さぁ、網を下ろせ」と言ったからといって、魚が取れる保証はどこにもない。私たちは、結果を知っていますから、イエス様が言われるのだから、これはした方がいいと思います。それはそうだよ、シモン、ここはイエス様のおっしゃるとおりにしたらいいよ、と言えますが、あなたは、今日、主が「こうしなさい」と言われることに対して、「はい」と従えるか、ということです。いろいろな問題を抱えて悩みます。「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」(ヨハネ福14:1)とおっしゃる。皆さんはそれを知っている、そらんじている。でも悩みに遭ったとき、それはどこかへ吹っ飛んで、目の前の問題だけに「どうしようか」、「どうしようか」ばかり言っているではないですか。神様のお言葉に従おうとしない限り、このおびただしい魚も、水がぶどう酒になる経験もできません。

いろいろな日々問題や事柄に出会いますが、そこで主が今このことを通して「何をせよ」とおっしゃるのか。今神様は私にこのことを通して何を求めていらっしゃるか、まず聞かなければ従えません。僕たちに対して、マリヤさんが「このかたが、あなたがたに言いつけること」を聞いて、「なんでもして下さい」と。まず聞くことです。私たちは今イエス様によってあがなわれた、買い取られたもの、イエス様は私たちの主、主人です。パウロの言うように、「わたしたちはキリストの僕である」。またパウロはもっと強く「わたしが主の囚人である」と、キリストにとらわれて、キリストに縛られたものであって、自分の自由はきかない。それを囚人という言葉で表現しています。私たちは、自分のしたいことはして、ちょっと足らない所だけ、イエス様助けてください。ちょっと困ったときだけ、イエス様と言って、後は私がやります。そんなことをやっているから、いつまでたっても、イエス様の力を、イエス様の知恵、イエス様の業を体験できない。それでいて「どうしようか」、「ああしようか。こうしようか」、「こうなったらどうしようか。ああなったらどうしようか」と、そのことばかりに心を奪われてしまいます。

どうぞ、私たちは何か事があるとき、まず祈りましょう。主を求めて、ここで、このことを通して、神様は何を私にさせようとしているのでしょうか。このことを通して、主が求めていらっしゃることは何でしょうかと、まず聞くこと。その中で、「こうせよ」「ああせよ」と、主が、御霊が私たちに語ってくださいます。私たちの心に思いを与え、願いを起こさせ、心を押し出してくださる。これが、私たちが従うべきときです。時には、それは自分の願ったことではないかもしれない。あるいは自分にとっては都合の悪いことかもしれない。あるいは、それはひょっとしたら自分の面子をつぶされるようなことであるかもしれない。しかし、主がこれを求めていらっしゃる。今私に対してイエス様がこのことを願っておられるのだと、知ったならば、どうぞつぶやかないで、疑わないで、主の御声に「はい、ではこれをさせていただきます」、「ここに行きます」と従う。その結果がどうなるのか、そうすることによって次なるものがどのようになっていくのか、私たちには分からない。分からなくていいのです。イエス様がすべて知っていらっしゃる。あの僕たちが石がめに水をいっぱいに入れよ、と言われた時に、「何でですか?」とか、「どうしてですか?」とか、「その先はどうなるのですか?」とか、何も聞かない。私たちはつい先先を考える。こうしたら次にこうなる。こうなったら次にこうなって、次はこうしかない。果たしてそうなのか。私が考えたとおりのことしかないのかと言うと、そうではない。水をぶどう酒に変えることができる。取れない所からおびただしい魚を収穫させることのできる御方。実は、私たちが従うことによって、その力を体験することができる。それ以外ではあり得ないのだと知っておきたい。私たちは自分自身が、まず謙そんになって、自分を捨てて、主がそうおっしゃるならばと、このペテロのように、「しかし、お言葉ですから」と、そのところで謙そんになる。そして、主の御声に従って行く。ともすると、私たちは日常生活のいろいろな問題の中で時間がない。そんなことをしている悠長な時はない。早く何とかしなければ、ああしなければ、こうしなければ、心が焦ります。そのために落ち着いてイエス様に聞くことをしません。祈ることを忘れる。いろいろなことが、カーッと頭にくる。「どうして!何でそんなことになったの!」と。「よし電話してやれ」と突っ走る。事がぐちゃぐちゃになったとき、「あら、お祈りを忘れていた」。そこでもいいのですよ。思い出せばまだいい。でも、思い出さないままで行き着くとこまで行ってしまいます。どうぞ、いつも主に心を向けて、イザヤ書30章に言われているように、「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」(15節)。まず、主の前にへりくだって、「神様、あなたが私に求めていらっしゃるのは何でしょうか」。謙そんに祈るとき、忘れていた御言葉を思い起こさせてくださる。御霊が語ってくださる。ここへこうしなさい。今は黙っていなさい。何も言わないでよろしい。いろいろなことをイエス様は私たちに語ってくださいます。そのときに、聞いた御言葉を信仰によって自分に結び付けていかなければなりません。言うならば、従わなければそれはただの言葉でおしまい。従うとき、私たちは神様の不思議な驚く業を体験します。それは従った人しか分からない。

だから、初めのヨハネによる福音書2章9節に「料理がしらは、ぶどう酒になった水をなめてみたが、それがどこからきたのか知らなかったので、(水をくんだ僕たちは知っていた)」。「水をくんだ僕たちは知っていた」と言いますのは、イエス様のお言葉に忠実に従ったことを体験したのは僕たちであって、料理頭は何も知らない。私たちもそうなのです。どんな親しい家族であっても、あなたが主に従ったことはあなたしか分からない。そして、あなただけに神様は不思議を現されます。だから、隣に寝ているご主人も同じように恵まれるかと言うと、そうはいかない。信仰は一人一人です。神様は公平な方ですから、従わなくても、うちの主人にもちょっとぐらいおこぼれが行きはしないかと思うでしょうが、ありません。信じて従った人に、神様がその不思議を体験させてくださいます。

だから、私たちはこの素晴らしい、秘密の宝を持っているようなものです。いろいろな問題や事柄があるとき、一生懸命に祈って、主の御声を聞きたいと思います。神様、ここはどうしたらいいでしょうか? 何をしたらいいでしょうか? 絶えず神様と語らうこと、神様に問うていく。主に問うことです。そうすることによって、主の御声を聞き、それに従う。これが私たちの最高の生涯。だから旧約聖書を読んでいますと、みなそのような生き方をした人たちばかりです。ダビデのことはご存じのとおりで、彼は事あるごとに主に問いました。サウル王様から命をねらわれて逃げているときでも、ケイラという村がペリシテ人に襲われて、その収穫物を取られてしまう。そのようなニュースが伝えられて「助けてくれ。ダビデ、助けてくれ」と言われた。自分も命からがら逃げているのにどうしようか。その時ダビデは祈りました。「神様、どうしましょうか? 」そのときに神様は「お前は助けに行け」。そう聞いてダビデは「よし、それでは行こう」と心を決めたのですが、彼に命懸けでついてきた部下が「ダビデ、今出て行ったら危ない。確かにケイラの人たちも気の毒だけれども、自分たちは今逃げている。サウル王様に捕らえられたら、おしまい。ここは我慢して黙ってやり過ごそう」と。その時ダビデはもう一度主に問うた、祈った。そうしたとき、神様はペリシテ人をお前の手に渡したから大丈夫、行けと。それで彼らは出かけて行って、ケイラの人を救いました。神様がその戦いに勝利を与えてくださった。ダビデには、わずかな部下しかいませんでしたが、敵を打ち破ったのです。またやがて彼が王様になりました。王の位に就いたとき、ペリシテ人が百万の軍隊をもって戦いを仕掛けてきました。そのときもダビデはお祈りをした。「主よ、敵がやって来ました。これは戦うべきでしょうか? 」と祈っているのです。いつも申し上げますように、この言葉で励まされる。王様ですよ。敵が来たのです。戦うのは当たり前じゃないですか。自分を守らなければいけない。でもダビデは、この戦いを戦うべきなのか、そのことからお祈りをしている。

皆さん、朝起きたらどうも頭が重い、測ってみたら熱があった、38度3分。これはどうしよう。早く行かなきゃ、病院に。それで行きながら「病気になりました、神様、癒してください」とお祈りをするでしょう。行く前に「神様、熱がありますが、これは病院に行くべきでしょうか。この病気を癒してくださるでしょうか」と祈るでしょうか。治すのは当たり前、治さないでどうする、先にそちらが来る。ダビデの信仰が本物であることはそこにある。私たちは、自分の考え、まず土台があって、その上に神様、何とかしてくださいと祈る。しかし、ダビデはこの戦いを戦うべきだろうか? もし神様が戦うなと言われたら、滅びるかもしれない。滅びてもいいではないか。そこまで神様の手の中に自分を置いている。いや、早くせんと手遅れになる。どこの病院がいいだろうか。すぐに電話してあちらこちら、飛び込んで待合室で待ちながら、「どうぞ、神様、この病気を癒してください」。その前にまず「この病気を、神様、癒してくださるのでしょうか。あるいは病気のままおるべきなのでしょうか」と聞いたらいい。「病気のまま今日死ねとおっしゃるなら死にます」と言えるか。「死んだらどうしよう」、「死んだらどうしよう」。すぐそういう所に走る。だから、神様の力を体験できない。病気が治った。あの病院が良かった。私が早く行ったから良かった。悪くならないうちに手を打ったから良かった。あの薬が効いた、これが効いたと。どこにも神様の「か」の字もない。それでは神様の力を体験できない。

ダビデがペリシテ人の軍隊が攻めてきたときでも、その敵を前にして「主よ、これは戦うべきでしょうか? 」と祈ります。その時、神様が「戦いなさい。行きなさい。この戦いに勝利を与える」とおっしゃいました。彼は出かけて行きました。敵よりも少ない軍隊でしたが、それで勝利をしました。神様が伏兵をもうけて敵をけ散らしてしまう。それから時ならずして、また同じ敵が攻めてきたのです。前回そうだったから、今回もこれで行こうかと、ダビデは思ったのではない。もう一度彼は問うています。神様、この戦いは戦うべきでしょうか? その時、神様は「今回は出て行かないで、敵の後ろに回りなさい」と作戦もちゃんと示してくださった。これはダビデの信仰であり、また私たちの信仰です。

どんなことでも、私たちはまず祈って、ここはどうすべきでしょうか? 主よ。あなたのみ心はどこにあるのでしょうか? 神様、私がすべきことは何なのでしょうか? つい幾つも選択肢を考えます。第一選択肢、第二、これが駄目ならこちら、こちらが駄目だったらあちら、もうちょっとないかしらと、いろいろなことを考えますが、まずすべきことは「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」。イエス様の御声を聞き、主が「せよ」とおっしゃること、求めていらっしゃることに、まず従っていきたいと思います。

その時、私たちに神様が驚く力を現し、水をぶどう酒に、死人を生かす神様の力を、経験することができる、味わうことができる。それは、それに従った人だけに与えられる秘密の隠された宝物です。これを私たちは受け取ることができる。どうぞ、5節に「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」とあるように、何でも主のおっしゃるとおりに従う生涯でありたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。