いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(156)「神の子とは」

2014年04月02日 | 聖書からのメッセージ
 ローマ人への手紙8章12節から17節までを朗読。

 14節に「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である」。
 今の世には、いささか理解に苦しむ、どうしてこのようになったのだろうか、と思う事態や事柄がたくさんあります。先日、若い人と話をしていましたら「先生、どうして今の世の中はこのようになってしまったのでしょうか。親が子供を捨て、子供が親を殺し、一日としてそのようなニュースのない日がない。しかも何もかもが崩壊する。家庭も学校も崩壊する。どうしてそのようになってしまったのでしょうか」と問われました。若い人たち、まだ20代半ば過ぎの人たちに、「あなたの友達のことを考えてご覧、あなたの後輩が結婚して家庭を持ったことを想像してご覧、いい子が育つと思う?」と言いましたら「それはない」と言うのです。なぜそのようになったのか、どうしてこうなったのか。私の世代から見ると、いよいよ分からない。昔は、まだまだハングリーと言うか、もっといい生活を望みたい、生活環境が行き渡らず、不自由や不便をかこっていましたから、何とか変わりたいという熱意が見られたのです。ところが、そのような意味では事情や境遇が何もかも行き渡って、求めなくても与えられる時代です。若い人に「今はホームレスだって行き倒れで死ぬ人はいないよ。もう福々と豊かに肥え太って、むしろホームレスの方が成人病の危険性があると言われているぐらい、何もしないでも、生きるに事欠かない世の中になった。その結果、人の裸の姿、人間性そのものが明らかに出てきた時代である」と話しました。

昔はいろいろな事柄で自分を抑えて、隠して、人間らしいとか、あるいは、世間の目があるとか、人からどう思われるかとか、あるいは生きていくためには、少しは我慢しなければいけないとか、いろいろなことでもろに自分を出せない、そのような時代でした。ところが、今は自己本位ですから、自分が好き、自分が嫌いと、衝動的に生きる時代ですから、もろに人間の悪い面、罪の面が色濃く出てきた時代です。またこれから、もっとそれは進んでいくだろうと思います。だからこそ、今こそ神様の救いのときが間近に迫っている、身近である。救いにあずかるにふさわしい時代であると思うのです。ただ残念なことに、そのような救いが必要である、自分たちが変わらなければならないことに気が付かない。若い人はこれで何がいけないのだ、と思っていますから。おのれを義とすると言いますね。人間は、肉なる罪の力に縛られています。先の木曜会でも教えられたように、自我性という「肉の力」は徹底して自己中心であり、自分を義とする思いがあり、私のどこがいけないと思います。

先だっても、痛ましいニュースがありました。生まれて一才ぐらいの子供を単車のボックスの中に押し込んで、殺してしまったと。そのニュースを聞くだけでも腹立たしい思いがします。本人たちには、自分たちのしたことは悪いことだという罪の意識があまり感じられない。動機は自分たちの生活に邪魔になったから、自分たちの思いどおりに事がいかないからです。その結果、とんでもないことをする。だからといって、私たちは余程出来のいい人間かと言うと、私たちもみな同じだったのです。今でもそのような側面が無きにしもあらず、いやそれどころか、結構たくさんある。自分が気に入らないと、納得できないと嫌だ。あるいは自分のしたいことはするけれども、したくないことは嫌だ、という自己本位の生き方。「それのどこがいけない? 」と居直るのです。私が若い人にそのようなお話をしますと「先生、それでどこがいけないのですか? 」と。困ってしまうのです。「それは間違いでしょう」と言ったら、「なぜ間違いなのですか。いいじゃないですか、僕がしたくないのはしなくて」と、そうなってしまったら話がかみ合わない。根本のところで、何故にこの地上に生きているか? 私たちがどういう者として、この地上に生かされているかが分からなくなっている。私たちはどこから来てどこへ行くのか、そのようなことを考えようともしない。今がよければいい。今さえよければという世界に、そのような世間に、成り変わってしまったのかなと、つくづくと思うのです。

ところが、そのような生き方は決して幸いな生き方ではない。常に苦しみと失望と苛立ちと憤りとが、絶えず心の中を大嵐のように吹き抜けているのです。面白いものですね。“貧すれば鈍する”という言葉がありますが、そのようなつらいはずの人生も、それに慣れてしまうのです。そうしますと「これでどこがいけないのだ!」と思う。鮎であるとかヤマメであるとか、清流に住む魚と、どぶのような、悪臭プンプンの中に生きている生き物があります。こんな汚いところでよく生きているな、と思いますが、生まれたときからそこにいますから、何でこれがいけないのだと思っています。ほかを知らないからです。自分はこれでいいのだと思っている。若い人を責めるわけではありませんが、年寄りも含めて、私たち人間は、そのような「これでどこがいけない!」と居直る、いわゆる自己本位、自分を義とする思いがありますから、変わることができない。“度し難し”という言葉がありますが、もう救い難い。幸いに、神様のところに来て、自分が何とか変わりたい、もう少しましな人生、「ましな」と言うのは、生活の事情、境遇がよくなるよりは、もっと心穏やかに楽しい思いを持って、いつも喜んで、またどんなものにも感謝できる心でおりたい、と願うではありませんか。そのようなことを言いますと「何でそれがいいんですか? 」と言われる。「心配がない生活がいいじゃないですか」、「心配がない生活なんてあるのですか? 」と言われる。「あるよ」と言うと、「そんなものは信じられない」と言う。実にあきらめがいい。だから、先ほど申し上げたように、今人間の堕落した姿かたちが、もろに見える時代だから、救いに近づいている、と言えば言えるけれども、逆に、自分たちがどんな罪の中にいるかが分からない。「これでどこがいけない? 」と思っている。そしていけないものは何かと言いますと、親がいけない、人が駄目、社会が駄目、政治が駄目、教育が駄目、おれはいいのだ、自分は被害者だ、と思って生きているのが今の世です。だからしみじみと、イエス様の福音を伝えるにはなかなか難しい時代だな、と思うのです。まずもって神様を知らない、ましてや罪についての自覚がない。人が何のために生きているか考えようともしない。これが今の私たちが生かされている時代だと思います。ところが、それでは本当の幸いはありません。神様は、造られた尊い人間としての素晴らしい生き方を味あわせたい、私たちにそのような人生を生きるようにと願っておられるのです。実は、私たちはもっともっと心豊かな人生を生きるべきです。日々に喜んで感謝して、そしてお互いがいがみ合わないで愛し合い、望みがあり力を持って生きることだと思います。

皆さん、どうですか?今年もこのように5ヶ月の旅路を過ごしてきましたが、毎日が、わが人生最高の日であったと、繰り返していらっしゃいますか? 私たちは、今日も生きていてよかった、よかったと言えますか? 生かされて、そして生きていることの喜び、また地上にあってなすべきことを果たし得た感謝と、明日への望みがあるでしょうか。またどんな小さなことも大きなことも喜んで感謝してつぶやかない、疑わない、苛立たない、憤らない、そのような一日を過ごしているでしょうか? もしそうでなくて、何かむなしい、どうして生きているのだろうか、早く死んだ方がましだ、と思って、毎日「はぁ…」とため息をつきながら生きているのか、あるいは、いろいろと身の回りに起こってくる出来事や事柄で不安になったり、恐れたり、思い煩ったり、心配したり、あれやこれや後先を考えて真っ暗な気持ちになって失望して生きているのでしょうか? もしそうであれば、何のために生きているのか分からない。神様の私たちに与えてくださる、人として造られた、人間として生きる生き方、それがどこにあるのかを知っておきたいと思います。

今読みました12節に「それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない」。「果すべき責任を負っている」とありますが、これは生きる責任です。自分の好むと好まざるにかかわらず、気が付いたらこの地上に命を与えられて生きている。そしてこの競争社会の中に放り出されて、四苦八苦しながら一生懸命に、とにかくしゃにむに働いて、働いて生活を立て、自分の命を養ってきたのです。その「生きる」ことのために、自分の生活、あるいは自分の求めるところ、自分の願い、自分の欲望、自分の計画、自分の夢を実現すること、それが私の人生だ、と思ってきた。ところが、ここに「肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない」。言い換えると、地上に生かされて自分のしたいことをする、自分の満足のいく人生を送る、そのために生きているのではない、というのです。私たちが自分のしたいことをし、自分の嫌なことは避け、自分の求めるところだけ、自分の願いだけを、夢を実現するために生きている人生ではないのだよ、というのがここに記されている事柄です。では、何かと言うと、13節に「肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである」。そのような自己本位の「肉に従って」、生まれながらの人間性、自我性に従って生きている限り、その行き着く先は滅びである、死であるというのです。そこには喜び、望みがない。やがて私どもの地上の生涯が終わるときに、その死を乗り越えて、その先に望みを持ち得るかどうか、これは私たちの生きざまに掛かっている。何を寄りどころとし、何により頼んで生きてきたかということが、やがて死ぬとき、それを清算しなければならないときが来るのです。自分の夢を実現し、自分の願いを、自分の欲望を満足させるためだけに生きる人生、言うならば肉に対して生きる責任を果たしているだけであったら、やがてそれは失望と落胆と、何だ!この人生は、こんな人生だったのか、何のために生きていたのか、これから死んでいく私はいったいどこに行くんだ!七転八倒の苦しみに遭います。

ひとりの方ですが、あるとき検診に行きましたら、胃がんが見つかったのです。そしてすぐに手術をしたら、スキルス性のがんだった。それから半年しないうちに召されましたが、一気に悪くなったのです。その方は信仰がありません。だんだんとやせ衰えて毎日が苦しいのです。そして夜が眠られなくなった。眠ったらこのまま目覚めないのではないかという恐れがのしかかってきて、夜もうなる、苦しい。看護婦さんが「どうして眠らないのですか。何か眠られない理由があるのですか。睡眠薬を飲んでください。楽になりますから」とすすめる。「いいや。おれは飲まん」と言い続けました。それはどうしてなのか? 死が怖い。自分がこれからどうなる。その人は、実に人間的には立派な生涯を、一生懸命に、人間的な意味では素晴らしい人物だったのです。ところが、自分を頼みとしてきましたから、自分の知恵と自分の努力と自分の計画で生きてきた人生でしたから、思いもかけない出来事で、一気に自分が死と直面したときに、彼は完全に無力になった。大変な苦しみの中に、もんもんとして終わりました。その方の話を聞いたときに気の毒だと思いました。この世で品行方正、人からあの人は仏の何とかと言われているような人生を送ったから、じゃ幸せな死を迎えるか? そうではないのです。肉に従って生きている間は、それは滅びです。死です。私たちにとって本当の勝利は何かと言うと、人生の総決算をして更にその先に望みを持って生きることができるかということです。だから、皆さんもご存じの、昨年召されたT兄はこの教会で信仰を持ってこられました。彼のことを思い出すと、大きな励ましを受けるのです。彼は自分自身が医者であり、病状をよく知っていました。そして自分の病気が分かったときに、私に「先生、私はもう一切の人間的な治療はやめます」と宣言されました。「でも先がいつまでか分からないじゃないですか」と言ったら、「いえ、大丈夫。神様がその終わるときを決めてくださるから、私はその神様の手に委ねていきます」。実に潔(いさぎよ)い。そして10月から、翌4月の下旬にお召されになられましたが、もちろんその間苦しいことはありましたが、絶えず望みを持ち続けている。私は素晴らしいなと思います。

先だって3月でしたが、私の親しいクリスチャンが召されたのです。彼はやはり医者でした。3年前に胆のう炎ということで入院をしました。入院して調べていたら、肺にがんが見つかった。そしてもっと詳しく調べてみたら、既に胸郭内のリンパ節に転移している。医者ですから、人間の力の限界というものをよく知っています。彼はそのとき、自分は一切の治療をやめると決めました。抗がん剤も何も一切やめました。そしてすぐに退院したのです。私は退院したときに彼に会いに行きました。それから彼に毎日御言葉のメールを送りました。毎晩休むときに、それを声に出して繰り返し、繰り返し読んで祈って休む。3年ほどたち、だんだんと病状が進行していきます。しかし彼は最後まで御言葉を信じて望みを持ち続けて、先だって奥様からお手紙をいただきました。「主人は本当に幸いでありました。神様の御言葉に日々支えられて、この3年間は最高の生涯であったと思います」と。私はその兄弟のことを思いますと、何といいますか、死は怖くない。なるほど、この地上に生きたごとく死んで行く、とありますが、私たちはどういう生き方をすべきなのでしょうか?

それが、その先のところに「しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう」とあります。「霊によってからだの働きを殺すなら」、言うならば、神の御霊に満たされることです。そのことが続けて14節に「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である」。「神の子である」と言われると、ちょっと特別なことのように思いますね。自分とは縁のない、自分は悪魔の子だと。「神の子」なんてとんでもない、そんなものにはなれない、と思います。しかし、神様の救いとは、私たちを悪魔の子、サタンの子供から、神の子供に変えてくださることです。先に申し上げましたように、今の世は非常におかしくなって、親が子供を捨てる時代です。熊本のある病院が“こうのとりのゆりかご”という一つのボックスを設けて、そこにどうしても育てきれない子供がいたらあずけてください、ということをやりました。国中で議論がありました。賛成反対両方ありました。しかし現実的にはあのような施設を早くつくらなければならない、と私は思うのです。すぐその後で、あのような子供を殺すような事件が起こっていましたから、なぜあそこへ入れてくれなかったか、と思うのです。

ところが、日本の民法はなかなか難しくて、子供が欲しいという夫婦がいても、その人に養子縁組をする法律的な手続きが大変難しい。その一番の原因は、生みの親がいて、その親の同意なしでは養子縁組は成り立たないのです。ところが、「こうのとりのゆりかご」のように、匿名で子供をあずけますと、3ヶ月間そこであずかった後に児童施設に移しますが、その間に誰かがその子を養子にしたいと言ってもこれはできないのです。その生みの親が誰であるか分からないから、同意を得られない。そのために、里親になる以外にないのです。養子縁組をして法律的に親子関係を結ぶということはできません。ここを変えないといけないのですが、日本の社会はまだまだ古いですから、家族崩壊ということを言いまして、もう崩壊しているはずなのですけれども、まだ愚かな政治家は夢を追っていますからそのようなことを言っていますが、ドイツなどでは三ヶ月間実の親が名乗り出なければ、そこで実の親の権利は全部消えるのです。公的機関が自由に養子縁組を手配できる。日本もそのようにならなければいけないのですが、日本の場合は生みの親はいつまでも権利を持ち続ける体制になっている。これはなかなか難しい。

私たちはサタンの子供であって、神の子ではなかったのです。ところが、神の子に取り返すために神様は大変ご苦労をなさった。私たちをつかんでいるサタン、肉の力というサタンの親が私たちを手放そうとしない。だから、神様はひとり子を敢えてこの世に送ってくださった。サタンから、私たちを代価を払って買い取って、神のものにしたいと。これが二千年前のあのゴルゴダの出来事です。それによってすべての人は、神の子供となる資格を与えられた。

ですからちょっと一言読んでおきましょう。ヨハネによる福音書1章12,13節を朗読。

12節に「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」。ここに「彼を受けいれた者」とあります。主イエス・キリストを信じて、イエス様が私の罪から私を買い取ってくださった。罪のあがないの代価となって、十字架に命を捨ててくださった。そのイエス様を信じることです。イエス様は、私たちの目には見えません。聖書に書かれているだけですが、その聖書の御言葉を信じて、ああそうだったのか、私のために命まで捨てて、まだ生まれなかったときから、あのゴルゴダで十字架にかかって苦しんでくださったイエス様は、私の救い主なのだ、私のためにも死んでくださったのだと、これが「その名を信じる人」です。ここ12節に「彼を受けいれた者」、受けいれるとは、イエス様が私の主です、と信じる人なのです。ただこれだけです。信じたかどうか、誰かに検定してもらう必要はないのです。「私は神の子になりたいと思って信じているのですけれども、合格できるのでしょうか? 」と、検定試験を受けるようなことは何にもいらない。問題は、あなたが自分で信じているかどうかです。たったこれだけです。皆さんが今「ああ、そうか。私のためにイエス様が二千年前あのベツレヘムに生まれてくださって、33年と半年近くのご生涯をこの地上に歩んで、歴史上の人物、宗教家として知られているイエス・キリストが、実は、神の子であって私たちの救いのためにこの世に遣わされてくださった。そのイエス様が私を救ってくださっている。私の罪を赦して、買い取ってくださった。それを信じた人は神の子となる。神の子供なのです。神の子になるのは実に簡単です。ところが、みんな難しい、難しいと言います。それは信じないからです。

その後にありますように「それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである」。人間は両親のもとから生まれて、そのような肉のつながり、血のつながりで生まれ、何々家の息子とか、何々家の次男、三男、長女であるという、そのような血筋とか肉の欲のつながりで、誰々の子供である、あるいは誰々の孫であるとかになります。ところが「神の子」とは、そのような人間的なつながりではない。クリスチャンホームに生まれて両親がクリスチャンだから、私も「神の子」だというのではない。一人一人、あなたがイエス・キリストを受け入れる、信じる、これだけなのです。そうするとき、その人は神によって生まれた神の子供なのです。これがイエス様の救いです。実に簡単で単純、ややこしいことは何にもない。イエス様、あなたは私の救い主です。イエス様、あなたが私のために命を捨ててくださったのですね。これを信じれば、ただそれだけです。

もう一度始めのローマ人への手紙8章14節に「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である」。そしてここでもう一つ神の子の資格、神の子になる道、それは「神の御霊に導かれている」ことです。そのようなことを聞くとまたややこしい、難しいのではないか、と思われるかもしれませんが、そんなことはない、実に簡単です。先ほどのように「彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々」、イエス様を私の救い主として信じた人、その人に今度は、神様は神の御霊、神の霊を注いでくださっているのです。信じることができたその人は、既に神の御霊が宿っているのです。だから、今、イエス様を信じていらっしゃいますか? だったら皆さんに神の御霊が宿っている。皆さんもご存じのようにイエス様が十字架に死んで葬られ、三日目によみがえって、そして40日間弟子たちに現れてくださった後、天にお帰りになられました。もうイエス様はこの地上にはいらっしゃらないけれども、父の御許から、私たちのために神の御霊、聖霊を送ると約束してくださいました。それは、私たちに力を与え、知恵を与え、また神様を知る者としてくださる。私たちのうちにあって、助けてくださる方、助け主でいらっしゃる方、素晴らしい賜物をいただいているのです。神様から、御霊、聖霊という素晴らしい力を、神様の霊を今いただいているのです。ところが、神の御霊が私のうちに宿ってくださっていることを信じないから、いつも悲しんで、不安になり、恐れて、失望しているのです。神の御霊が私たちのうちに宿って、神様の子供としてくださる。14節に「神の御霊に導かれている者」とあるように、今度は導かれるのです。朝起きて、一日いろいろなことをします。時には友達と遊びにも行くでしょう。あるいは家族のためにいろいろな用事を引き受けるでしょう。一日にたくさんのことがあります。そのときに「神の御霊に導かれて」いく、これが神の子としての使命であります。「御霊に導かれる」とはどうすることか。これは御霊に聞くのです。導かれるためには、先頭に進んでいく人を見ておかなければなりません。私たちが導くのではない。ここにあるように「神の御霊に導かれている者」ですよ。「導かれる」のですから、従うのです。自分の計画、自分のしたいことをするのではなくて、神様の御霊が今日何を求めているか。神様が今日させようと思っていることは何なのか。神様の御思いを絶えず求めていくこと。それに従うことが「神の御霊に導かれている者」です。

そのためには何をしなければいけないか。お祈りをするのです。祈ることをしなければ、それは分かりません。だから、毎日、毎日、いろんなことをしますが、朝起きて祈り、また事をするときに祈り、出かけるときに祈り、帰って来たときに祈り、もちろん座って静かに神様の前に密室の祈りをする、四六時中いつも神様と、うちに宿って共にいてくださる神の御霊、御霊なる神と共に絶えず対話をするのです。どうぞ、忘れないでいただきたい。目に見えませんから、つい忘れてしまうのです。目に見えることばかりに心が奪われてしまって、見えない御霊がいらっしゃるのを忘れる。これが一番厄介です。だから、忘れないために、いつも心を主に向けていく。だから、私はいつもそうしますけれども、歩きながらでも、こうやってお話していても、神様に心は向いている。主よ、何を話しましょうか。どう語ればいいのでしょうか。この次はどうしたらいいでしょうか。常に思いを神様に向けていく。これは自分で意識的に訓練しなければできない。だから「敬虔(けいけん)を修行せよ」(1テモテ4:7)と勧められていますが、敬虔というのは、神様を畏れ敬うこと、言い換えると、神の御霊に従うことを自分自身で練習するのです。今、目には見えないけれども、ここにその御方がいらっしゃるがごとく、絶えず、イエス様がここに私と一緒にいらっしゃる。御霊がいらっしゃるのだから、「主よ、このような心配がありますが、どうしましょうか。主よ、今ここに誘われましたけれども、行くべきでしょうか。主よ、私の目の前にこのハンドバックがありますが、買うべきでしょうか」、と聞かなければいけない。聞かない前にパッと財布を開いて「買おう」とする。これは御霊に従っているのではない。大切なのは祈ることです。

だから前にもお話したと思いますが、お召されになられたI先生がネクタイを買いにデパートに行きました。デパートに行ったら店員さんが「これが似合いますよ」「あれが似合いますよ」と持って来る。色が違うけれども、と思っても「似合いますよ」と勧められて、とうとう先生は困って、最後に2本残ったのです。どちらにするか。そのとき、先生は店員さんに「ちょっと待ってください」と2本のネクタイを手に持って、「天のお父様、今二つのネクタイがあります。どちらを神様、与えてくださいますか」と声を出して祈る。店員さんはその前でジーッと待っていたというのです。そうしたら、「そうだ、こちらにしよう」と、思いを与えてくださる。その思いは、神様から来た思いです。自分が買いたくて買ったのではない。私達はどちらかと言うと、財布を見たり、預金通帳を見たりして、これだけあるから足りるかな、足らないかな、もうやめとこうかと、そちらと相談する。しかし、御霊に導かれるには神様と相談するのです。神様と相談したら神様が責任を持ってくださるから、神様がそれを買いなさい、と言われたら、「はい」と買ったらいいのです。あとの支払いをどうしましょうか。神様がちゃんと支払ってくださる。神様が必要なものを備えてくださるのです。これは確かです。だから、私たちの生きる責任は、肉に対して負っているのではなくて、造り主でいらっしゃる神様に対して、生きる責任を果たす。どうぞ、だまされたと思って、今日から、いつも神様にお祈りをして見てください。そうすると、今まで自分が考えなかった、こんな事を自分はするはずがない、と思うことを、神様が喜んでするように変えてくださる。御霊は事実今も私たちと共に働いていらっしゃる。自分ではできない、あいつとは口なんかきくものか、と思った人とも、思いがけなく神様は仲直りさせてくださる。また、私はけちん坊の塊だ、財布のひもは二度と開かない、舌も出さん、というくらいかたくなな人でも、神様に聞いてご覧なさい。すると、神様が心を変えなさるのです。これは確かです。だから、御霊に導かれる生涯が、私たちにとって最高にして最善の生涯なのです。心配しなくていい。神様どうしましょうか、と尋ねればいい。神様、私はここがこうなっていますけれども、どうしたらいいでしょうか。人に聞かなくていいのです。誰に聞くのか。御霊は私たちにちゃんと答えてくださる。どうぞ、これまでもそうであったように、皆さん、神の御霊に導かれていこうではありませんか。嫌いな人がいたらお祈りをしたらいいのです。「あの人が嫌いです」と。神様はちゃんと思いを作り変えてくださいます。私たちは、ありのままに、「神様、お金が足らなくて心配です。これからどうしていったらいいでしょうか」。「老後が心配です」と祈る。心配のままでいいのです。それを神様に、御霊に打ち明ける。神の御霊が私たちの思いを知ってくださる。そして父なる神様にそれを執り成してくださる。更に私たちに思いを与え、願いを起こさせ、促して、神様のみ心にかなうものへと導いてくださる。これが神の子供なのです。

14節に「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である」。神の御霊に時々刻々絶えず導かれるために、まず祈り深く、主に祈って、祈って、これが主のみ心かどうか。「神様、あなたが私に求めていることは何でしょうか。神様、私は右にすべきでしょうか、左にすべきでしょうか、行くべきでしょうか、退くべきでしょうか」。ことごとく、どうぞ、私たちは祈っていきたいと思います。神様の御霊に従おうではありませんか。そして神の子としての生涯、やがて私たちの地上の生涯を終わるとき、先に申し上げましたように、御霊に導かれて、神の御国にいれてくださいます。喜び勇んで、常に感謝して、なお天に望みを持って生きる生涯を、私たちは与えられている。神の子でありますから、私たちは子供が自分の親の家に帰るのですから、こんなうれしい話はない。神の子供としての生涯を全うしていきたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。