いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(174)「収穫の多い枝となる」

2014年04月20日 | 聖書からのメッセージ

 ヨハネによる福音書15章1節から11節までを朗読。

 

 5節「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」。

 

 9月に入りまして、暑かった夏も過ぎ、この二・三日朝晩幾分しのぎやすくなり、秋が近づいたなと思います。秋はよく “食欲の秋”であるとか“収穫の秋”と言われて、大変楽しい季節でもあります。そのうち稲刈りも始まるでしょうし、既に秋の味覚が果物屋さんなどには並んでいますね。ぶどうであるとか梨であるとか、実りの季節を迎えます。

 

 この時期を考えますと、農家の人たちはどんなに心が弾むことだろうかと思います。私の知っている方にみかん農園をやっている方がいますが、このような収穫の時期になるのを心待ちにします。農家の人にとって、生活の糧を得る機会というのはこの時期しかないのです。一年間かけて、雨露、さまざまな自然の過酷な条件の中で苗を育て、あるいは木々の手入れをし、草を刈り、あるいは消毒をしたりして、やっと育てていく。やがて花が咲き、実が実ってまいります。それがだんだんと大きくなっていくのを楽しみに待つ。やがて年に一度の収穫の時がきます。そのとき、その収穫が思うようにいかなかったら、次の一年間は生活の糧がないのです。その意味ではサラリーマンは気楽なものです。毎月毎月、会社勤めをしておれば何がしかの収入がありますから、月々の生活の保障があります。農業をやる方々にとって、収入の時はこの時しかないのです。しかも一年に一度のことですから、これは大変です。

 

私がいつもお願いしている、梨を栽培する農園の方がいます。去年も梨を注文して、送ってきたのですが、おいしくない。どうしておいしくないのか。そこの梨は大変おいしいので、毎年長いことお願いしているのです。たまたま去年だけは悪かった。それで問い合わせましたら、「今年もちゃんと育てたので……」糖度、甘さの基準からいうと12ぐらいで、ぎりぎりセーフです。10以下になるとあまり甘味がない。ぎりぎりだったのです。ぎりぎりだったにしては普段とは違うなと思ったのです。よくよく考えてみたら、後一週間ぐらいで収穫時期に入っていたのですが、その一週間ぐらい前に台風が来たのです。8月の14,15日くらいに台風が来ました。北部九州、福岡も含めて風が吹いたのです。農家の人たちは台風の予報を聞いて、これはひょっとしたら大変なことになるかもしれない。収穫がなくなるかもしれない。まぁいいや、少しは早いけれどもここで採っておこうと、急いで収穫をしたのです。本来であれば後一週間、10日おけば、完熟するところをちょっと早めに収穫した。電話をしまして「台風が近づいていたから少し早いけれども、まぁ風で落ちるよりはいいかと思って収穫をしたに違いない。そういうことではありませんか」と尋ねたのです。すると「大っぴらには言えませんが、そういう気持ちもないわけではなかった」と。そうしましたら、10日ぐらいたって、今度のはおいしいはずです、ともう一度送ってきました。農家の人たちはその一回の収穫がすべてです。その時期に台風が来て全部実が落ちてご覧なさい。収入は半減どころではない、3分の1ぐらいになってしまう。それで背に腹はかえられない、少々まずくても早く採って売ってしまおうという気になるのは分からなくはない。それほど農家の人々にとって収穫は大変なことです。

 

 今読みました15章1節以下に、ぶどうの木の譬えが記されています。ここでイエス様が1節に「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」と、まず、イエス様がぶどうの木であって、父なる神様はそのぶどうの木を育て給う農夫でいらっしゃると言われます。イエス様を信じる私たちは、「その枝である」と5節に記されています。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」。この三者、父なる神、子なるキリスト、私たちイエス様の救いにあずかった者との三つの関係を農夫とまことのぶどうの木、その枝という関係をもって語っています。まず、ぶどうの木を農夫が植えるのは何のためでしょうか。「ぶどうの木」は観賞用に作るということはあまりしません。観葉植物のように、実は実らなくても姿かたちが美しいからと、そのようなものではありません。ぶどうの木はぶどうの実を得るためでしょう。といって、ぶどうの木はやがて大木になり、家を造るときの床柱、あるいは親柱にでもなるかというと、これは役に立たない。エゼキエル書を読みますと、ぶどうの木は物を引っ掛けるかぎの役すらも役に立たない。それは薪(たきぎ)にくべて暖をとる以外にない、と書いてありますね。何の役にも立たない、つまようじくらいにはなるかなとは思いますが、ぶどうの木は切って製材して板にしたり、あるいは何か物を作る材料に使うということはあり得ません。

 

 ところが、柿の木は柱として使うととっても素晴らしい。信州に木曽路と言われる地区があります。そこに馬籠、妻籠という村落があり、本陣という古い庄屋の家があります。そこの床の間の柱は柿の木です。柿の木は渋がありますが長年たちますと、その渋が表にズーッと模様になる。それを糠袋で磨きこんでいますから、飴(あめ)色に輝いて、その中に雲のごとく模様が現れてくる。それが床の間の横柱と縦に使われているのです。だから柿の木は実を食べることももちろんですが、そのような素晴らしい建築、特に茶室であるとか、あるいは和風建築の大切な材料にもなる。それに比べるならば、このぶどうの木は実を実らせる以外には何の役にも立たない。だから神様は私たちのことをまことのぶどうの木でいらっしゃるイエス様に連なる枝である、と記されています。 

Hさんから聞いた話ですが「ぶどうの枝は、どこからが枝でどこからが幹であるか分からない」。そう言われて私も改めて図鑑を見ますと、大抵の木、りんごの木や柿の木などは幹がズブッと太いものがあってそこから枝が分かれている。あ、ここが枝だな、というのが見えます。ところが、ぶどうの木は、つる性のものですから、木の幹がそのままズーッと細くなって枝になっている。つるのようになっているのです。それが何箇所からか出てくるわけです。だからどこが幹なのか、どこが枝なのかというのは判別しにくい。そして全体を見るならばどれも違いがないように連続している形です。ぶどうの木というのは、そのように枝と幹とが全く一体になっているということです。これが一つの特徴です。

 

ですから、ここでまことのぶどうの木であるイエス様と私たちとの関係を、幹とその枝、言うならばぶどうの木とその枝と言われたのは、一蓮(いちれん)托生(たくしょう)と言いますか、私たちをご自分の一部として受け入れてくださる。また、イエス様が私たちの中にいると言えます。そして2節に「わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである」。私たちを実の実る枝として残してくださる。いくら伸びてきたものであっても、ただ葉っぱばかりが立派で実が実らない枝は、それを刈り取ってしまう。なぜなら、そのような余分の物があったら、実が実るはずの枝を日陰にするでしょうし、ほかの栄養分を取ってしまうから、できるだけ実の実る枝は残して、そうでないものはどんどん切り捨てていく。これは確かに農家の人の栽培方法に違いない。

 

それと同じように、神様も私たちに求めておられることがある。それは私たちが実を実らせる者となることです。実を結ぶ枝になってほしいと願っているのです。私たちはこの地上に命を与えられて、地上の生涯を歩んでいますが、私は生きる値打ちがあるだろうかと思います。よく世間でもそう言いますね。生きがいであるとか、生きていてよかったと思えるのはどのような時かと。あるいは人の生きる値打ち、それは何にあるかと、議論されたり言われたりします。そうすると人が目に見える働き、ある会社に勤めたり、あるいは何か事業を起こしたり、あるいは世のため人のためになる何かをしている間は、これが私の生きがいである、あるいはこういうことのために私は生きているのだと思います。だから家族を養うお母さんにしてみれば、台所仕事ばかりしていても、これをすることで家族の健康を守り、家族の成長のために大いに役立っている。自分が役立った存在であることを喜びます。だから子育ての間のお母さんやお父さんは大変生きがいに満ちている。ところが、子育てが終わった皆さんぐらいになると、生きがいがなくなる。何のために生きているのか分からない、と思いますね。そのようにこの世の中では、外に現れたことをもって、何ができるとか、どういうことをしているとか、あるいは自分がどういう存在であるかが、その人の値打ちであると、殊に今申し上げたように、人の役に立っているかどうかが、自分の値打ちを決めるように思うのです。会社に勤めていても、その会社のために自分は役立っている。あるいは家庭にあっては、その家族のために役立っている、あるいは地域社会にあって、少しでも自分が役立っている。そう思える間、生きがいがあると思われます。

 

だから退職した方々がいろいろなことを考える。私の知っている方が退職して「一日一善」、一日に一つ善いことをしたい。そのように何か自分がしていることが生きがいになるでしょう。ところがだんだん何もできなくなる時がきます。できなくなると、自分の存在、値打ちがない、役に立たない、こんなのでは生きていても仕方がない、そのような思い、劣等感のようなものに襲われます。しかし、神様が私たちに求めておられることは、そのように人の目につくような、あるいは世間の人の目を驚かせるような何か事業をしたり、事をしたり、人の役に立つことを私たちに求められているのではありません。確かに、人の役に立つ、あるいは人に喜んでもらうことをしてあげるのは悪くはない、それができる間はなさったらいいと思います。しかしそれができなくなって、人の世話になり、人の厄介者となり、あるいは自分自身がこんな私はつまらない自分だと思うようになったときに、なお私たちが生かされている、生きている値打ちはどこにあるのか。これを知らなければ生きる力をなくします。

 

5節に「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」。「実を結ぶ」ことが私たちに求められている事です。そうすると、今言いましたように、実を結ぶのですから、あれもしてこれもして、こうもしてと、目に見える形のものへ私たちはスーッと心が、思いがつながっていきやすいのですが、そこが問題です。そこが違うのです。「実を結ぶ」というのは、私たちが何かするのではなくて、私たちを通して神様が結ばせてくださる。自分で働くのではありません。自分で右往左往するのではない。そうではなくて、私たちがすることは、ただひたすら、熱心にまことのぶどうの木であるイエス様に連なることを努める。イエス様にしっかりと連なって、つながっておりさえすれば、私たちの内にイエス様のほうからエネルギーといいますか、力が送られてきて、私たちを通して実を実らせてくださる。私たちが何かするのではありません。だから、果物がなる木、枝が実を実らせようと思って一生懸命に体操をしている姿を見たことがない。枝はちゃんと中心にある太い幹にくっついておるのです。雨が降ろうと、風が吹こうと、日照りであろうと、自分が置かれたその幹の場所から離れません。あの枝は日陰でいいな、こちらは西日が当たって、8月は向こう側につきたいと、朝起きてみたら枝が片側に全部寄っていたとか、半年たったら今度は反対側に全部寄っていたとか、そのような枝はありません。枝はいつまでも、まずその置かれた所で、風が吹こうと嵐が来ようと、日照りであろうと寒さの中であろうと、ジッと幹である木につながっている。決して離れない。離れたら大変ですよ。枝が幹から離れてご覧なさい。まぁ少々はいいですね、しばらくはいい。だから、時折、庭師さんが庭木の手入れをして、剪定(せんてい)をします。勢いよく伸びた枝を刈り取って、掃除もちゃんとして帰ってくれるのです。きれいになったと思ったら、時々木の茂みの中に枯れ枝が見える。あら、こんな所に枯れてしまった枝がある。引っ張ってみるとそれは何日か前に剪定して、切った枝がそこに引っ掛かっている。切ったそのときは分からないのです。でも10日2週間たって葉が枯れると、すぐに分かる。といいますのは、幹である命の源から切り離されたら、その枝は枯れるのです。実を結ぶことができません。 

 

それと同じように私たちもイエス様から離れたら枯れる以外にない、いのちを失う。イエス様が私たちの命の根源、源なのです。だから私たちをこの幹につながる者としてくださる。

 

ローマ人への手紙11章17節から21節までを朗読。

 

ここにオリブの木の譬えをパウロは語っています。17節に「野生のオリブであるあなたがそれにつがれ、オリブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば」とありまが、オリブの木のことはよく知りませんが、立派なしっかりした根を張り、オリブの実を豊かに結ぶ木があります。そこへ野生のあまり実を結ぶことの少ない木であろうと思いますけれども、そのような枝を切ってきてそれにつないでやる。そうすると接木された野生のオリブの枝は、本来の元の素晴らしいいいオリブの木の養分を十分に受けて今度は実を実らせるものへと変わっていくというのです。

 

私たちも実はいのちにつながることができなかった、実を結ぶことができなかった私たちを、今イエス・キリストという木につないでくださった。十字架はそのことです。イエス様がご自分の肉体を切り刻んで、血を流してくださった。その切られた所に私たちが接木されている。これがまことのぶどうの木であるイエス様の枝になった姿であります。本来私たちはよい実を結ぶことができなかった、あるいは、もう実のならない枝であったかもしれない。そのままであったら農夫によって刈り取られて、火に焼かれて終わるだけの私たちが、実らない私たちを切り取って、本来実の実る木でいらっしゃるイエス様という木に、それに傷をつけてそこへ私たちを密着させてくださった。ピチッと合わせてくださった。そのように接木をするときは親木もまたその接ぐための枝も両方とも鋭いナイフでスパッと切って、その切り口をピチッと合わせて、ぐるぐると縛っておく。やがて何ヶ月かしますとその組織がお互いに結び合って一つに変わる。それは以前の木とは違って接がれた元木の性質を受け継いでいく。イエス様の救いにあずかるとはそこなのです。皆さんは、それぞれが違った、何やら訳の分からない木であったかもしれない。実の実らない木であった。そのような者たちが、いろいろな問題や悩みや困難の中から切り取られて、お手上げになって、私では駄目だというときに、神様は私たちをそこから切り取って、主イエス・キリスト、十字架のイエス様の傷に結びつけて、そこにしっかりと結(ゆわ)いつけて、イエス様と一体になるようにしてくださった。だから、今私たちはまことのぶどうの木でいらっしゃるイエス様につながる枝なのです。ですから、私たちはイエス様から離れないように、せっかく接木されたのですから……。

 

17節以下にあるように「もしある枝が切り去られて、野生のオリブであるあなたがそれにつがれ、オリブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば、18 あなたはその枝に対して誇ってはならない」。ここで新しい枝を接ぐために本来あった枝を切り取って、別の枝をそこへくっつけてくださる。そうすると、その元木の養分を受けて接がれた枝が豊かな実を結ぶ。切り去られた枝、あれは役に立たなかったから、私のような者が……といって誇る。そのように誇ることはできない。なぜならば、あなたが豊かな実を結ぶようになったのは、本来元木である、根っこである御方の養分をしっかりと受けているからではないかと。私たちもそうなのであって、本来私たち自身では何一つ実を結ぶことができなかった者が、今イエス様の枝として、元木でいらっしゃるイエス様の養分をしっかりと受けるものへと変えられている。このことを私たちは自覚しているでしょうか。

 

初めのヨハネによる福音書15章5節に「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」。イエス様が私たちに絶えずいのちを注いでくださって養分を与えている。だから、私たちは何があっても、嵐のときも日照りのときも寒い冬の日でも、幹でいらっしゃるイエス様にしっかりと連なる、つながっていく。そうすると、気がつかないうちに私たちを通して、やがて時がくると実を結ぶのです。その私たちが結ぶ実はどんな実かと言うと、これはガラテヤ人への手紙にありますように……。

 

ガラテヤ人への手紙5章22節から24節までを朗読。

 

22節に「御霊の実は」と記されています。私たちが結ぶべき実は何かと言うと、「御霊の実」であります。キリストの霊による実、私たちがイエス様にしっかりとくっついておりますと、神様はどんどんとイエス様からの栄養を私たちに与えてくださいます。イエス様に連なってさえおれば、御霊の実を実らせてくださいます。その実は何か目に見えるこの世の事業や、あるいは何か役に立つことをするのとは違いまして、ここにありますように「愛」であり、「喜び」であり、「平和」であり、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制、これは私たち自身のあり方、私たちの性情、性格、そういう一切のものを作り変えて、愛に満ちたもの、喜びにあふれたもの、平和なもの、平和を作り出すもの、寛容な者となり、また慈愛、善意に満ちた者と変えてくださる。まず私たちの内にこのような御霊の実が実ってくる。その結果として世のため人のために何かすることは、それはあり得るに違いない。問題は順番としてまず私たちがイエス様にしっかりと連なって、心と思い、私たちの内側を、この御霊の実に満たされた者になっているかどうか。私たち自身が枝であると同時に、私たち自身が神様の収穫なさる実であるということです。だから、私たちを離れては実はないのです。私たち自身が枝であり、その枝に実る実となるのです。その実は愛であり、喜びであり、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制、私たちの生活の中で自分がどういう性情、性格であるのか、ここが問われることです。

 

毎日の生活でいろいろな人とのかかわり、人と人との関係の中に生きています。その中で、私たちに絶えず愛があるのか、あるいは喜びをもって、そのことに生きているのか。あるいは平和、お互いに和らいで、争いごとのない関係の中に置かれているのかどうか、絶えず自分自身を振り返って、キリストに連なる者、イエス様の実を実らせていく、私がキリストの実となっていく存在でありたいと思います。そのために私たちは生かされている。この地上にあって何かができる、できないではなくて、私たちに求められていることはキリストの霊による実、「御霊の実」を自分自身のうちに豊かに持つ者となる、これが私たちに求められていることであり、私たちの存在すべき理由がここにあるのです。

 

22節にあります「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」、これは他人に求めることではありません。自分自身のことです。自分の中にそのような、ここに記されたような「御霊の実」が実っているかどうか、絶えず自らを点検していきたいと思います。そして本当にキリストに連なっていく、主の力と恵みと御愛に生きる者へと変わっていく。何一つ実ることのなかった、実のなかった私たちを、そこから切り取ってイエス・キリストの元木につないでくださった。今キリストの枝となって実を結ぶ生涯へと導かれている。ですから、見える状態ではなく、私たちの心がいつも御霊の実に満たされているかどうか、そしてそれを実らせる秘けつはイエス様のお言葉に連なっていく以外にない。

 

もう一度初めのヨハネによる福音書15章5節に「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」。だから、私たちは熱心になって、イエス様に連なっていけばいい。連なるというのは、イエス様のお言葉を心に抱いてこれを守っていくことです。常にイエス様の言葉に立ち返って、聖書の御言葉に、私たちが絶えず耳にする御言葉の一つ一つを、しっかりと握って、自分の思いを捨て、自分の考えを捨てて、イエス様のみ思いに沿う者となっていくこと。私たちは枝としてイエス様からの力と恵みを受け、そこに実が実ってくる。やがて収穫の時、収穫の時はいつかと言いますと、主が私たちを収穫なさる時は世の終わりの時です。すべてのものが終わる終末の時に、私たちは神様の前に立たされます。私たちの歩んだすべてのことに報いてくださる時がくる。神様は私たちの心と思いを知ってくださる御方です。どうぞ、絶えず主の御言葉に心を委ね、またそれによってキリストに結びついて生きる者でありたいと思います。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。