いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(164)「だれの信仰か」

2014年04月10日 | 聖書からのメッセージ
 マルコによる福音書5章25節から34節までを朗読。

 これは前の所から続いた出来事の途中です。会堂司ヤイロという人の娘さんが病気になった。それで何とか来て祈ってほしいと、助けてほしいと求めてきました。イエス様はその使いの者と一緒に会堂司・ヤイロの家へと向かっていた途中で、一つの事件が起きました。これが今読みました25節以下にある、一人の女の人がイエス様に近づいて来た、というのです。この人は12年間も長血をわずらい、病気で苦しんでいた人です。一つの病気で12年も苦しむと言えば、これはかなり慢性化して治りようがない。もうあきらめなければいけない。私だったらそうなるかもしれません。「仕方がない、こんなんだから、これで生きているかぎり付き合っていこうか」と、そんな話にもなるかもしれませんが、この女の人は何とか治りたい、何とかこの病気を治してくれる者はいないかと、切に願っていた。その結果、26節にあるように、多くの医者にかかったが、はかばかしくない。これは今の時代も変わりがありません。あちらにかかり、こちらにかかり、あの医者この医者と言われる度に出かけます。

時々そのような方にお会いします。まるでカードのごとく診察券を持っている。束にして、「先生、私はこんなに持っていますよ」と誇り顔に言われます。あちらの病院、こちらの医者へ行くのです。イエス様の時代も、今も、二千年以上たっているのですが、人の思いは変わりません。

このとき「多くの医者にかかって、さんざん苦しめられ」とあります。今は保険がありますから、自己負担はわずかで済みますが、イエス様の時代はそんなものはありませんから、全部自己負担です。そうなると、多くの医者にかかればかかるほど出費はかさみます。少々の財産があっても全部使い果たしてしまう。26節に「さんざん苦しめられ、その持ち物をみな費(ついや)してしまった」とあります。あれをせよ、これをせよと、行く度に医者が変わるので、いろいろなことを言われる。それを一生懸命に忠実に守っている。苦しい思いもするでしょう。嫌なことも我慢しなければいけない。苦い薬も飲んだでしょうが、何も効かないというのです。「なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる一方であった」。“泣きっ面に蜂”というのはこういうことです。どんどん悪くなる一方であった。こうなると、誰でもみな、そろそろあきらめの境地に達する。これだけ医者にかかったのだから、ここも駄目と言ったのだから、もうこれは仕方がない。これは望みがない、と思いやすいのですが、この女の人はそうは思わない。何とか癒されないものだろうか、と切に願っていたのです。

そのとき、イエス様が彼女の住んでいる町を通られると聞きました。すでに彼女はイエス様のことをうわさに聞いていたに違いない。病気の人を癒してくださる、悩みの中や苦しみにある人々の苦しみを取り除いてくださる、イエス様の不思議な業を知っていたでしょう。でも、今のように交通機関や情報伝達が発達していませんから、行きたくても行けない、会いたくても会えない。まして、有名人であるイエス様の所へ、紹介もなく出かけて行って、お会いできるなど想像がつかない。恐らくイエス様がいらっしゃったらいいのだが、自分には無理だと、思っていたかもしれません。ところが、たまたまイエス様が彼女の町にやってきた。このとき、この女の人は、このチャンスを逃したら二度とないと、決死の思いといいますか、必死の思いです。それで、27節に「群衆の中にまぎれ込み」と言うように、たくさんの人々がイエス様を見ようとして押しかけてくる。彼女も病弱ながら、一生懸命にその中に紛れ込んで行って、後ろからイエス様のみ衣に触ろうとする。直接、イエス様に話しかけることもできない。できたかもしれませんが、すぐに止められると思ったのでしょうね。だから黙って、そっとイエス様のみ衣にでも触ろうと思ったのです。それは彼女の心の中に、イエス様に触ったら、イエス様に手を置いて祈っていただいたら、癒されるに違いないと思っていたのです。会堂司・ヤイロの使いの者も「おいでになって、手をおいてやってください」と言っています。イエス様に触ってもらったら、きっと癒されるに違いない。イエス様の霊感といいますか、イエス様の能力、霊力で治るに違いない、と考えていました。この女の人もそう思ったのです。イエス様に触ったら、手を置いて祈ってもらえればいちばんいいのだけれども、それはかないそうもない。けれども、イエス様のお体のどこかに触りさえすれば、何か不思議なことが起こるに違いない。彼女はそれを信じたのです。イエス様に触ればいい、イエス様に触れようと思ったのです。それがたとえ上着のすそであろうと、あるいは履物であろうと、どこでもいいから触ればいい。

まるで相撲取が、相撲が終わって引き上げる時、みんな背中をたたいたりします。縁起をもらうというのです。優勝して勝った横綱が格好をつけて歩いてくる。みんながパッパッパと触るでしょう。時には激しくたたく。聞きますと、たたかれるとあれは痛いのだそうです。相撲取はあれだけ皮下脂肪もあるから、痛くないかと思ったら、痛いと言う。なぜ痛いかと言うと、相撲取の場合、手が大きいのだそうです。大きい手で張られるのはそれほど痛みを感じない。ところが、女の人の細い指でパーンとたたかれると、まるで針金のようで痛い、ということをインタビューで聞きました。私も、なるほど、さもありなん、と思ったのです。

イエス様の所へ来て触れば癒されると、女の人は思ったのです。事実そのように近づいてイエス様に触った。その瞬間29節に「すると、血の元がすぐにかわき、女は病気がなおったことを、その身に感じた」。触った瞬間に彼女の体の中に何かを感じたのです。「あ、これは癒されたぞ」という確信が瞬時にわいて、その瞬間に彼女の病気はすっかり癒されてしまった。ところが30節に「イエスはすぐ、自分の内から力が出て行ったことに気づかれて、群衆の中で振り向き、『わたしの着物にさわったのはだれか』と言われた」。イエス様はそのとき、立ち止まってご自身の中から力がスーッと出て行ったことを感じたのです。「誰かわたしに触った者がいる」。ところが、群集が押し合い、イエス様にくっつき合っているのですから、「誰かが触った」、と言っても、みんなが触っている、と思ったのです。だから、弟子たちは、「誰を見つけよとおっしゃるのですか。みんな触っているじゃありませんか」というようなことを言いました。ところが32節に「しかし、イエスはさわった者を見つけようとして、見まわしておられた」。イエス様はそこから動こうとしない。立ち止まって誰が触ったかと見回しておられる。この女の人は本当に怖かったと思います。イエス様に何と言われるか分からない。ひそかに、と思っていたのが、分かってしまった。ところが、イエス様はしつこく動かないから、とうとうたまらなくなって、その女の人は進み出ました。白状したのです。

33節に「その女は自分の身に起ったことを知って、恐れおののきながら進み出て、みまえにひれ伏して、すべてありのままを申し上げた」と。このとき女の人はイエス様の所へ出て、自分のこれまでの全部を洗いざらい、何もかも一切をイエス様の前に申し上げたのです。これは本人にとってはつらいことであったかもしれません。しかし、誰がこの病気を癒してくださったか、ということをはっきりさせる大切なことです。これは私たちでもそうですが、神様に一つの問題について祈っていると、事が思いがけない方向で解決する。そうなると、私どもは「ああ、良かった。もうこれで安心した」と言って、神様の「か」の字を忘れてしまう。誰がその事をしてくださったか、ということを忘れてしまいます。そして後になって考えますと、そろそろ治る時期がきていたとか、あるいはタイミングが良かった、私がやっぱりあそこでこうしておいたから良かったなどと、いろいろなことが入ってきて、神様がそれをしてくださったと言えない。このとき、イエス様はあえてこの女の人にそのことを言わせなさった。女の人としては、恥ずかしかったと思います。自分の病歴や失敗談も全部言うわけですから。でも、とにかく自分の状況がどうであったか、どういう困難の中にいたか、そこからどうやってイエス様を求めたのか、そして触れたときにイエス様の力によって、自分がどう変わったのか、それを細大漏らさず全部イエス様に打ち明けた。ですからここに「すべてありのままを申し上げた」というこの言葉は、大変勇気のいることです。

これは神様の前に大切な事柄だと思います。神様はいろいろなことを恵んでくださる。祈りに答えてくださる。み業を絶えずしてくださるのですが、それが神様の恵みでしたと、「栄光を主に帰する」という言葉がありますが、私たちが神様のものとして、神様のみ業であることをはっきりと証しすること。これは私たちが自分の信仰を確かにする大切な事です。もちろん初めは感謝します。お祈りをしたから、神様はこのように聞いてくださったと、自分でも思いますが、自分の心の中に置いているだけだと、やがてそれは消えていきます。蒸発していく。後になってみると「そんなことあったかね。言われてみれば、あの時一生懸命にお祈りしたことはあったが、いやー、まぁ、お祈りもしたけれど、でもその前にあれをしておいたから良かった」と、ほかのほうへ行ってしまう。だから、12年間も長血をわずらって散々苦しめられた人であり、イエス様によって「癒された」のだが、恐らく何も言わなかったら、「もう治る時期がきていた」、「年も年だし」と、話が他の方へいってしまうに違いない。せっかく、神様の素晴らしい恵みに会っていながら、それを取りこぼしてしまうといいますか、失ってしまうのです。

だから、「お証詞をするように」と申し上げる。婦人会であるとか信徒会であるとか各部会で、神様がこんな事をしてくださった、私の祈りにこうして答えてくださった、と告白していくこと。もちろん、自分で神様の前に感謝の祈りをささげる、それも大切です。しかし、それを告白する、言い表していくことによって、信仰を自分のものとすることができる。私はこうやっていつもお話をさせていただきます。自分の失敗やいろいろな事、家族のことをひっくるめてお話しますが、誰のためでもない。それは私自身の信仰のためです。お話すると、自分が恵まれるのです。「そうだったな、これも神様の業、ここにも神様が顧(かえり)みてくださった、神様が力を表してくださった」と言える。機会あるごとに、自分になされた神様のみ業を語ること。これは自分を誇るとか、卑下するとか、そんなことではありません。これは神様を褒めたたえるのです。だから、私たちはイエス様の前に「すべてありのままを申し上げ」、告白する。これが証しです。こうやって癒されました。私は信じて近づいて癒されましたと。

それに対して、イエス様は何とおっしゃったか。34節に「イエスはその女に言われた、『娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい』」。ここに「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われています。これは、よくイエス様がいろいろな場合に語る言葉です。目の見えなかった人が見えるようになった。あるいは足のなえていた人が、歩くようになった。その度ごとに「あなたの信仰があなたを救った」と。ツロ・フェニキヤの女の人が娘のためにイエス様に癒しを求めたときもそうです。「小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」と言ったその女の人に「あなたの信仰があなたを救ったのです」と。このときもそうです。「イエスはその女に言われた、『娘よ、あなたの信仰があなたを救った』」。イエス様は「娘よ、わたしがお前を癒したのだから、よう覚えとけよ」と言ったのではなく、「あなたの信仰が」とあります。

確かにイエス様は、神様から遣わされた救い主であり、神と等しい御方、神なる方です。だから、イエス様の中に大きな力があることは確かです。神のうちに満ち満ちている一切の栄光の富がキリストのうちに豊かに宿っていると言うように、すべてのものがイエス様の中にある。だから、イエス様を通して神様の力が私たちのうちに注がれてくるのは確かです。

銀行に預金をしていますね。預金を自分のお金だからといって窓口に行って「おい、私のお金を出してくれ」なんて言ったら、「あなたは何様ですか」と言われる。「いや、私のお金をあなたのところに預けている。この銀行に預けているのだ」と言っても、引き出すにはルールがある。印鑑と通帳を持って行き、あるいは暗証番号を入力し、指示されたとおりにすると、お金を引き出すことが出来る。いつでも、どんなことをしても出てくるわけではない。そんなことをしたら盗まれてしまいます。きちんとしたルールがある。

神様からの力、イエス様の中に満ちている力を私たちがいただくには、それなりのルールがあるのです。イエス様が持っているものは、いつでも私がもらえるのは確かにそのとおり。ただ、一つだけ条件がある。それは、イエス様は私たちの祈りに答えてくださると、信じることです。またイエス様はどんなことでもお出来になる、神なる方、救い主でいらっしゃることを信じて、イエス様に求めていくこと、触れることです。黙っていても分かってくれそうなものと思いますが、それでは分かりません。もちろん、神様は、私たちの必要をすべてご存じでいらっしゃる。私たちの心の思いも、必要なことも、欠けたところも、求める事柄も、全部イエス様は知っていらっしゃる。神様は全部知っている。だから、祈らないでも、神様は答えてくださったらよさそうなものをと思いますが、そうではないのです。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」と。求めなさい、というのです。求めた人にそれを与えてくださる。求めなければ得られないのです。私たちに「求めよ」とおっしゃいます。だから、イエス様に私たちが求めていく。そのときに「イエス様は、これはできないだろうから、これはやめとこう。これはちょっと無理かもしれない」と言って、やめてしまったら、求めなければ、それだけのことです。

ところが、28節に「それは、せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていた」とあります。この女の人は求めたのです。それはどのように求めたかというと、イエス様に触りさえすれば、たとえ衣のすそであっても、その端っこであっても、触りさえすれば、私の病気は癒される、と信じたのです。だから、それを求めたのです。イエス様は癒してくださる、と信じて、イエス様に触れたのです。だから、イエス様の体のうちから力が出ていった。言うならば銀行から預金を引き出したのです。私たちが神様の恵みにあずかれないのは、神様に力がないわけでも、それに答えられないわけでもない、実は私たちが神様を信じていない。求めようとしないことが、まず第一です。遠慮なく神様に求めていこうではありませんか。イエス様を求めて、「何としてもこのことを、神様、答えていただきたい。私はこんな苦しみの中にある、こんな悩みの中にあります」と認めて、ありのままを主に申し上げる。イエス様にお出来にならないことはないと信じて、一つ一つ「事ごとに祈りをなし、願をなし、感謝して汝らの求めをに告げよ」と言われる。一つ一つ事あるごとに、これも大丈夫、これも主が答えてくださいますと、信じて、主に近づき、み衣に触れることです。でも、イエス様の衣に触れるってどうするか分からない、イエス様は目に見えないし、天にお帰りになられて、ここにはいらっしゃらないから、と言われます。イエス様に私たちが直接触れること、それは御言葉を信じて、その通りに従う時、イエス様に触れるのです。聖書の言葉をしっかり信じること。これがよみがえってくださったイエス様に出会う秘けつ、触れ合う秘けつです。

ヨハネによる福音書6章60節から65節までを朗読。

これはイエス様が集まった弟子たちに話されたことですが、「人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない」と言われました。これを聞いた弟子たちはびっくりしました。「私の肉を食べ、私の血を飲め」。イエス様をどうやって食べるか、何だかおどろおどろしい生臭い話を聞いて、「これは聞いておれん、こんな話は……」と。今、読みしました60節に、「これはひどい言葉だ」と言っているでしょう。イエス様ともあろう人が、ちょっと訳の分からんことを言う。ちょっとおかしいぞ。それまで「イエス様、イエス様」と慕ってきた弟子たちが、そこでつまずいているのです。「イエス様を食べなければ、イエス様を飲まなければ」とあります。その文字どおり考えますと、これはできません。時には、愛する人を失いたくないので、その人を食べてしまったとか、人肉を食べたという話があったりしますが、それを聞きますと、麗しい話だなとは思いません。気持ちが悪いと思うでしょう。イエス様がそのようにおっしゃったのですから、もし私たちがその場でイエス様からそれを聞いたら、この弟子たちと同じ反応をするでしょう。「イエス様、とんでもない話だ、ひどい話だ」と。ところが、イエス様が言われたのは、そのようなことではない。イエス様ご自身をそのままに食べると言うのは、信じることです。疑いなく100パーセント、イエス様に自分の思いを一つにしていくこと。イエス様と全く一心同体といいますか、離れがたいものとなって結びつくことです。「食べる」とは、私たちの中に入って血となり肉となって、私たちと同化してしまうことです。そうでしょう。私たちは食事時にいろいろなものを食べます。食べても、それは消えていきます。食べてしまって、今お味噌汁がこの辺りかなとか、先に食べたご飯がこのあたりにあるなど、そんなことは分かりません。食べたとき、口の中で噛み砕かれて、形はなくなる。飲み込んでしまって、胃に入ってしまったら、胃液で分解されて、どろどろです。どこに何があるか分かりません。それが消化されて吸収されていって、その栄養素は全部体に入っていくのです。

それと同じように、イエス様に触れる。先ほどの女の人がイエス様のみ衣のすそに触れるとは、イエス様に一つとなる、イエス様の力に取り込まれていく、そのことを言っているわけです。だから、ここでイエス様が弟子たちに「人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない」とおっしゃる。それはイエス様が、私たちの命となり、力となっていただくため、何かを食べるように、イエス様を私たちのうちに取り込んでしまうこと。これが私たちに求められることです。だから、イエス様は「私を食べなければ」とおっしゃるのは、まさにそのような切なる願い、イエス様と一つとなってほしいとの願いです。イエス様と私たちが同化する、一体となってほしい、というのが切なる願いです。それを彼等が分からなかったものですから、つぶやいてつまずきになった。そのときにイエス様は何とおっしゃったか。63節に「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」とおっしゃいました。ここに「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない」。イエス様は、たとえわたしのこの体である肉体を食べたりあるいは具体的にその血を飲んでも、肉は肉なので、イエス様はそのようなことを言っているのではないと言われます。人を生かすものは、そのような具体的に、物理的に目に見える形で食べたご飯だとか、味噌汁と同じように、イエス様の肉体を食べたからといって、それが命ではなくて、「生かすものは霊であって」、神様の霊によって生かされるのです。それはどこからくるか。イエス様を通して、私たちのうちに注がれてくる。イエス様のお言葉、神様のお言葉を私たちが食べるのです。だから聖書には、黙示録にも、またほかの所にもそう記されていますが、「わたしの言葉を食べなさい」と記されています。イエス様の言葉を食べること、これがイエス様に触れることであり、イエス様と一体となることです。だから、私たちは、今イエス様を目に見ることはできませんし、手で触ることももちろんできませんが、私たちが聖書の言葉を通して、今主が私にこのことを語ってくださったと、イエス様の心の思いに一つになる。そのとき私たちのうちに、イエス様の中に満ちている、神様の中にある栄光の富の一切のものが私たちのうちに注がれてくる。そして私たちを生きる者と変えてくださる。私たちの病を癒し、心を新しくし、罪を清め、神様のみ心にかなう歩みができるようにと導いてくださる。御言葉を通して、私たちのうちに注がれる神の力、御霊によって、霊によって、私たちは新しくなっていく。
もう一度初めのマルコによる福音書5章30節に「イエスはすぐ、自分の内から力が出て行ったことに気づかれて、群衆の中で振り向き、『わたしの着物にさわったのはだれか』と言われた」」。イエス様の中にある神の霊が、その女の人のうちに注がれた。だから、私たちもイエス様に触れること、イエス様と同化していくこと、これが命です。私たちの病を癒すことも、どんな悩みも困難も、また罪であろうと何であろうと、私たちの心も魂も全く新しく造り変えてくださる神様の力、それはキリストを通して注がれてきます。信仰を持ってイエス様を求め、イエス様に触れること。言い換えると、聖書のお言葉を信じて、そのお言葉にしっかりと信頼していくこと。私たちがどれほど信じたか、その信仰によって、34節にありますように「あなたの信仰があなたを救った」。聖書のお言葉を丸ままに素直に受け入れ、信じていくとき、私たちの信仰に応じて、神様が私たちに答えてくださる。

イエス様の中に限りない大きな力がありますが、それを私たちが受け止めるための信仰、これが絶えず求められるのです。ただ、黙っていたら、寝ていたら、気がつかないうちにイエス様がしてくださった、ということにはならない。果報は寝て待て、というわけにはいかない。だから、いろいろな問題に会うとき、困難に遭うとき、事柄に会うとき、そこで主を求めて、与えられるお言葉にしっかりと信仰を持って立つときに、「あなたの信仰があなたを救ったのです」と、結果がでます。

心の中にキリストが宿り、主が絶えず私と共にいらっしゃる、その主に触れることができる信仰を持ち続けていきたい。イエス様を私たちが信じて、この問題、あの事柄、この悩みの中から、「主よ、あなたがこのことを成し遂げてくださいます。御言葉を信じます」と申し上げる。他人が信じたって駄目です、自分が信じないことには。「あなたの信仰」なのです。だから、自分自身が信じてイエス様の御言葉に信頼して従っていくときに、神様は具体的に事を起こしてくださる、業を行ってくださる。それはイエス様がここでこの女の人を通して証詞してくださったとおりです。

イエス様の言葉にあるように、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。その信仰というのは何かというと、何でもいいのではなくて、聖書の言葉、キリストの言葉を信じて、そして神様の力を私たちが受けていく、立っていく者となりたいと思います。この女の人、12年も長血をわずらった女の人も、そこで初めて神様の力にあずかったのです。それはイエス様を信じて、イエス様に触れた。イエス様と一つになったのです。今置かれたそれぞれの所で、御言葉を通してイエス様に触れ、イエス様のうちに隠されている無尽蔵の大きな力を私たちも体験していきたい。それを受け止める者となりたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。