いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(163)「神に帰れ」

2014年04月09日 | 聖書からのメッセージ
 ホセア書6章1節から3節までを朗読。

1節に「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ」。
 これは預言者ホセアを通して神様がご自分の思い、御心を明らかにしてくださった1節であります。神様はイスラエルの民を愛してエジプトの地から救い出し、カナンの地へと導き入れてくださいました。ところがイスラエルの民は度々神様を離れます。神様を捨ててほかの神々を神とする生活を繰り返す。その度ごとに彼らの目を覚まさせ、思いを新しくし、悔い改めて主に立ち返るようにと、何度となくさまざまな手立てを用いて、イスラエルの民に勧めますが、彼らは一向に頓着をしない。とうとう神様は、預言者ホセアに、自分はどんな思いでいるか、イスラエルの民をどれほど愛しているか語っていますが、その中で殊に、今お読みました所に、神様の思いが吐露されています。たとえどんなに道を外れていても、とにかく主に帰ってきてほしい。わたしの所に帰ってほしい、それが神様の切なる願いなのです。

それは私たちに対しても変らない神様の思いです。「さあ、わたしたちは主に帰ろう」と。私はもう主に帰っているはずだ、と思います。イスラエルの民も恐らくそう思ったでしょう。自分達は一度として神様を離れたつもりはない。父祖アブラハムから何百年という長い年月、神様を信頼して生きてきた民族である。神様に愛され、神の名をもって呼ばれる民である、という自負、誇りがあります。何を今更「神様に帰れ」なんて言われて、心外な、と思う。私たちもそのように思う。私は洗礼を受けてから何十年となる。礼拝は欠かしたことはないし、祈ることも、聖書を読むことも滞(とどこお)ったことはない。今更「神に帰れ」と言って、私はどこに帰りますか。私には神様以外にはないのですから、と思います。思いますが、それは自己免許です。自分でそう思っている。自分で優等生、立派な信者だと。ところが、それは自分をそのように認めているだけのことであって、神様があなたをご覧になって「立派だ。これはもう表彰ものだ」と言われるでしょうか。果たしてどうでしょうか? 私どもはどこかで、神様の御心とは到底遠いような生き方、生活をしているところがないでしょうか。確かに聖書も読む、お祈りもする、教会にも来る。でもその心は、私たちの内側にある心は見えません。勿論、他人にも見えませんし、自分にも見えているようで、いちばんわかっていない。自分の事は自分がいちばんよく知っていそうですが、これがまた分からないのです。自分でありながら、自分の事は分からない。だから、自分はこれで立派だ、と思ったとしても、それは自分の理解できる範囲であって、神様は、「人は外の形を見る。わたしはその人の心を見る」とおっしゃる。私たちの内側も外側もすべてを知っていらっしゃるのです。ところが私たちは自分で気づかないでいることがたくさんあります。何でも自分が知っているようだけれども、案外知らない。人から言われてみて「そうかな」と思うでしょう。

私も時々そう言われる。自分では「なかなか出来た人間だ」と思う。ところが、一緒に生活をした若い人が、「おじさんのことを優しいとか、親切だなんて言う人は、初心者やねー」と言う。「一緒に生活をしてみてよく分かった。おじさんは、言葉がきつい。人の傷に塩を塗りこむようなことを言う。それが分からん人が教会の人に多い」と言っている。私はそれを聞いて心外で「いや、そんなことはない。私ほど出来た人間はいない」と思っているのです。案外とそんなものです。“傍目(おかめ)八目”という言葉があるように自分のことは分からない。皆さん、そう思ってください。皆さんも世の中にたくさん人はいるけれども、私ほど出来た人間はいないと思っているでしょう。隣の人を見て「あの人よりいいや」と。ところが案外そうではないのです。人が見ると、自分の知らないところがある。だから謙虚にならなければいけないと思います。人様から「あなた、こういうところがあるよ」と言われると、カチンときて、「何さ!あんた、私のことを知らないくせに」と。知らないのは本人で、相手のほうがよく分かっている。

神様もそうなのです。私たちは神様に忠実で、どこをたたいても神様の「か」の字以外は出てこない、と思っているが、神様の目からご覧になったら、出来ていない、成っていない。そのような私たちです。だから、神様は絶えず私たちに自分の所へ帰ってきて、神様を知ってほしいと願っている。ここにホセアを通して語っている。しかも、6章1節から3節まで、今お読みしました所は、よく申し上げますように、神様がこのように思っている、その思いをストレートに語っているのです。人が言っているのではない。「さあ、わたしたちは主に帰ろう」と、人が言っているのではなくて、神様ご自身、私たちがそのように言うに違いないと思っている。その前の5章15節から続けて読むと、「わたしは彼らがその罪を認めて、わが顔をたずね求めるまで、わたしの所に帰っていよう。彼らは悩みによって、わたしを尋ね求めて言う『さあ、わたしたちは主に帰ろう』」と。神様は、今までイスラエルの民に何度となく警告を与えた。何とかして、わたしの所に帰ってほしい。神を神として、文字どおりわたしに信頼する者となってほしい。私の民となってほしい、と願っているのです。ところがイスラエルの民はそのような神様の御思いを受け容れない。勝手な事をしているのです。それで神様はとうとう愛想を尽かしたという。いくら神様でもいい加減うんざりした。人だったらもっと早くに嫌になるでしょうが、それでも捨てたわけではない。取り敢えず、わたしはもうイスラエルの民を自分のしたいように、行きたいようにさせようと、好きにしなさいと。そのうち問題にあたるに違いない、困難に出会うに違いない。その時になって、15節の最後のところに、「彼らは悩みによって、わたしを尋ね求めて言う」。そのとき悩みに遭うだろう。苦しみに遭うだろう。その時に「ああ、悪かった」と悔い改めて、「さあ、わたしたちは主に帰ろう」。もう一度私たちの造り主であり、救い主でいらっしゃる神様の所へ、帰りたい、と願ってくれるに違いないと。これは実に神様の御愛に満ちた御思いです。

親でもそうでしょう。私は親になったことはありませんが、皆さんはお子さんを持って育てられた。その間にいろいろな問題や事柄、さまざまなことがあります。親が見ていると、「あんなことをしていたら駄目だ、早くこうしたほうが良い」、「ここはこうだよ」と、口を酸っぱくしてしかります。あるいはいろいろと忠告をします。しかし、子供は案外と「そんなこと、うるさい。何を親父が言うか」と思う。私もそう思いましたから、その点ではよく分かる。親の心は分かりませんが、そのような時、親は歯がゆいのです。早く親の言うことを聞いて、身を処してくれたら、痛い目に遭わない、苦しい目に遭うはずがないのだがと思う。親は少なくとも子供よりは長年生きているから、人生を知っています。「そんなことをしたら、あとでこうなる」と、目に見えている。でも、子供は初めての人生、自分にとっては初めての生活ですから、いろいろ冒険をしてみたい。ところが、いろいろと心配をしますが、しかしいくら言っても聞かない場合はどうするか。もう黙っておこう、本人が気づくまで。そのうち痛い思いをするだろう。“転ばぬ先の杖”と思って、親は何とかして痛い思いをしないうちに、正しい道、きちっと整った道を行ってほしいと思いますが、子供たちはそのように思わない。そして、やってみる。ぶつかる。苦しみに遭う、悩みに遭う。その時に「ああ、しまった。自分が間違っていた」、そう言ってお父さんの所へ帰ってくる、親の所へ帰ってくるのを、親は願っているのです。神様の私たちに対する御思いはこのとおりです。

ルカによる福音書15章11節から19節までを朗読。

これはイエス様がお話になられた放とう息子の記事であります。二人の息子がいて、弟はお父さんからもらうべき遺産を、生前分与してもらい、サッサと家を飛び出した。遠い町へ出かけて行きました。日ごろ持ちなれない大金を持って、彼はうれしくなって放とうに身を持ちくずした。遊びほうけたわけです。そのうちお金は使い果たす。それはそうです。働かなければ消えます。やがてその地方にあいにく飢饉(ききん)が起こって、食べるものもなくなった。お金もない、誠に惨めな境遇に陥(おちい)った。彼はとうとう豚を飼う人になったとあります。しかも豚の食べる餌ですらも欲しいぐらいひもじい。空腹の中にいたのです。そのとき彼はどうしたか? そこで自分の惨めな境遇、置かれたつらい状況を振り返って、つらつら考えてみると、事の始まりはどこにあったのか? なるほど、自分はお父さんのところから勝手に飛び出してきた。始まりはそこにある。だから、もしあのままお父さんの所にいたらこんな惨めな思いをしなくてよかった。今でもお父さんの所には雇い人も多くいて、食べるに事欠かない。ましてや、自分はそこの息子であったはずなのだ。それがこんなに落ちぶれて豚を飼うような惨めな境遇、彼はそこで初めて痛い思いをして、苦しみに遭って、目が覚めたのです。その一言が17節に「そこで彼は本心に立ちかえって」と、目が覚めるのです。それではそこでどのようにするか。ここが肝心な所です。彼は「もういいや、これはわが身から出たさび、もう仕方がない。“毒を食らわば皿まで”で、これでもう落ちる所まで落ちてやろう」と言ったのではない。そこで、彼は、「父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている」と、自分の置かれた現実を冷静に受け止め、悔い改めて帰ろうと決断します。18節に「立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました」。ここで彼は大きな恵みにあずかるのです。彼は自分がどういう罪を犯してきたか、自分がどんな間違いをしていたか、自分のどこに出発点があったか、事の始まりが何であったか、しっかり認めて、彼は痛切に悔い改めた。そして父の所へ帰ろう。これはイエス様を通して語られた神様の御思いです。ホセアを通して語ってくださったことと全く同じです。「さあ、わたしたちは主に帰ろう」と。この時の放とう息子は「立って、父のところへ帰ろう」。そして父にこう言おう。「わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。19 もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください」と。そう言って彼は帰っていく。

20節に「そこで立って、父のところへ出かけた」。これは素晴らしいですね。なかなかできにくい事です。自分がまいた種だし、自分が原因でこうなっているわけですから、親から怒鳴られて「お前は息子でも何でもない。知らんぞ!」と言われたらおしまいです。でも、何を言われても甘んじて受けざるを得ない。私たちはそうは思ってもちゅうちょします。親がちょっとでもいい顔をしてくれたら、合図でも送ってくれたら、帰れるが、きっかけがない。そうやって自分の罪の中にいつまでも居座り続ける。だから、神様は、どうして早く帰ってこないのだ、と待っているのです。

このときの放とう息子は20節にありますように「そこで立って、父のところへ出かけた」。これは短い一言ですが、彼の心の中で大きな闘いを乗り越えた勝利です。自分との闘いもあります。格好をつけて出てきたのですから、今更どの面下げて親の許(もと)に帰れるか、と思う。そのような自分の面目もあります。何もかもかなぐり捨てる。悔い改めると言うことは、そういうことです。神様の前に姿勢を新しくする。彼はそう言って、お父さんの所へ帰りました。お父さんはどうしたでしょうか。20節に「まだ遠く離れていたのに」、まだ遠く離れていて、それが弟であるかどうか分からない、定かでない、そのとき既に「父は彼をみとめ」とあります。お父さんは「あ、息子だ」と。彼が出て行ってからひと時として忘れたことはないのです。常にこの弟のことをお父さんは心にかけていた。それで哀れに思って走り出して行って、「その首をだいて接吻した」。息子はまさかそんな取り扱いを自分が受けるとは思わない。殴られるか、け飛ばされるか、あるいは罵詈(ばり)雑言、ののしられて当たり前だと思っている。ところが、抱き寄せて汚れた洋服を着替えさせ、はきものを履かせ、手に指輪をはめて、わが子供として、息子として迎えるのです。お父さんの愛を知りました。そればかりか大喜びをして、大宴会をする。神様が願っていること、神様の真意、神様の御思いはそこにあるのです。私たちは案外神様を知っていながら、知らないのです。

初めのホセア書6章1節に「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ」。神様は私たちにしばしば悩みを与え、困難を与え、苦しいことの中に置かれます。あるいは悲しい事態や事柄を置かれます。そのような時、「わたしを尋ね求めてくれるだろう」という、神様の切なる御思いを知っておきたいと思います。今私はこの苦しみに遭った。この悩みに遭った。このような困難な問題の中に今置かれた。そこで私たちは何をするか? 皆さん、自分がそのような悩みに置かれたとき、いちばん先にすることは、早くこれを解決したい。早くこの問題を何とか処理してうまく事が進むようにしてほしい。そちらの方に心が行ってしまう。それは神様の願いとは大違いです。問題が起こった。ああ、大変、どうしよう。あの人に聞いてみよう、この人に……。あちらに電話をし、こっちに……。この原因はあの人がいけない、この人がいけない、そのように身も心も右往左往する。神様はそのようなことを願っているのではない。私たちがいちばんしなければならないことは、「さあ、わたしたちは主に帰ろう」と、問題が起こったらそのことを通して、自分がどういう生き方をしてきたか。自分がどういう態度で神様と付き合ってきたか。自分が神様の前にどういう心で立っているのか。そのような神様に対する思いを探って、神様の前にきちんと心を整える。これがまず何よりも大切です。

病気になってもそうです。病気になった、どこの医者に行こうか、あそこがよかろうか、ここがよかろうか、そのようなことに心が行く。しかし、今私にこの病気を与えられたのは神様、さあ、私はここでどのように神様に従うべきなんだろうか。神様は、ここで何を私に教えようとしてくださるのだろうか。神様との関係を整えることに全力を尽くさなければ、いくらいい医者がいても、それだけでは病気がなおりません。また、どっち道、私たちは死ぬのですから、ただ時間が早いか遅いかだけの話です。伊規須先生に言わせれば、人生80年、泡粒のパッと消えるこの瞬間だ、と言うのです。宇宙が創られてから、終わるときまでの何十億年か知りませんが、それに比べるなら人の一生なんて、プツプツプツと泡粒が瞬間消えているようなものだと。60歳で死ぬのか、80歳で死ぬのか、100歳で死ぬのか、それだけの違いだったら、私たちに大切なものは、「さあ、わたしたちは主に帰ろう」ということだけです。

いろいろな問題に遭うとき、まず第一にすべきことは何か。それは神様の所へ立ち返って、神を神として、その問題や事柄の中で、神様の前に自分の心を整えていくことです。私はいつもそう思いますが、問題が起こると、不安になったり恐れが生じたりして、何とかしなければ、手遅れになるのではないか、早く何とかと、焦る心がわいてきます。そして必ず思うのは「こういう風になってほしい。そうしたら私は安心なのだ」、「こうなってくれたら安心だ」と思う。そして、もしそうでなかったらどうしよう。もし思うようにいかなかったら、どうなるだろうか、と思うとき、実は既に神様から離れている。結果が思ったようになろうと、そうならなくても、これは神様の業であり、私は神様に造られた被造物にすぎない。神様がこのことを始められ、「事を行うエホバ事をなしてこれを成就(とぐる)エホバ」(エレミヤ33:2文語訳)と言われる神様がしていらっしゃるのだと。「神に帰る」というのは、そこです。しかも、神様は先ほどのルカ15章の「放とう息子」の記事で語られているように、主に帰ることを待ち望んでいらっしゃる。私たちはあまりにも結果を求めすぎる。結果は神様にある。私たちの心に神様を信頼して揺るぐことのない安心が生まれるならそれが全てです。まだ問題は山積みで、これから先どうなるか、右に倒れるか、左に倒れるのか、どちらに転ぶのか分からないけれども、神様を信頼したら大丈夫。どうなっても、私は感謝です、と心に平安が与えられる。それこそが神様に帰り着いた私たちの心なのです。神様はそれを願っていらっしゃる。だから6章1節に「さあ、わたしたちは主に帰ろう」。

 その後に「主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ」とあります。この問題やこの悩み、この苦しみは神様から出たことであって、神様がよしと思うことを、時にかなって行ってくださるから、私は安心です、と言いきれるところに立つとき、私たちは神様を信頼したと言える。そうなるまで、徹底して神様に自分を探っていただく。もし、心にまだ不安を覚えるようだったら、いったいその不安はどこからきているのか。思い煩う心がいつまでも落ち着かないのは、どこに原因があるかを御霊によって、御言葉を通して探られていく。そして、神様の前に、申し訳なかった、私はあなたに造られた単なる被造物にすぎない。神様、あなたがこんな者を哀れんで、ひとり子の尊い命をもって買い取ってくださいました。生きるも死ぬもすべて主のもの。パウロがそう言ったように「生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである」(ローマ14:8)。「神様、あなたのものですから、どうぞ焼くなり煮るなり、どぶに捨てるなり、どうしようと、神様、よろしくお願いします」と、全面的に神様の前に降伏したとき、神様は大安心を与えてくださる。そして、目の前に与えられた一つ一つのこと、神様が「せよ」とおっしゃることをさせていただきましょうと、謙そんになって歩んでいきますならば、そこに約束されているように、「主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるから」です。更に2節に「主は、ふつかの後、わたしたちを生かし、三日目にわたしたちを立たせられる。わたしたちはみ前で生きる」。神様は、私たちを二日にして生かし、三日にして立たせて、神様の栄光を現すもの、神の証人としてくださる。だから、何が大切といって、主に立ち返ることが最高にして最善の道です。

イザヤ書30章15節から18節までを朗読。

ここも、先ほどのホセアを通して語られた御心と全く同じです。神様は15節にありますように「立ち返って、落ち着いて」「穏やかにして信頼し」、神様により頼んでいれば必ず救われる、と神様は言われるが、誰もそれを聞かない。自分勝手にああしようか、こうしようか、あっちに走ろう、こっちに走ろう。速い馬、もっと速い馬、いろんな手立て、方法、人間的な力を尽くして事を行おうとする。ところがその行き着いた結果は何かというと、孤立無援、全くお手上げ状態になる、というのです。でも、神様はそのような私たちを眺めて「ほら、見たことか、言わんこっちゃない。もう勝手にせい」と言うのではない。お手上げになるのを待っていらっしゃる。あの放とう息子が「もうどうにもなりません」と言った時に、「本心に立ちかえった」ように、主に立ち返ってくれることを願っているのです。でも、これで5回目だけれど大丈夫かしらと躊躇する。5回目でも何回目でも、七度を七十倍にするまでに、とイエス様は言われる。それほどに神様の御愛は深い。だから、もし何度でも失敗することがあったら、感謝してへりくだり、主に立ち返る。18節に「それゆえ、主は待っていて」と。なんと神様は私たちがそうなるのを待っていらっしゃる。放とう息子のお父さんが遠く離れていながら、彼を認めて走り出していく。「神様、こんな私を哀れんでください。あなたが神でいらっしゃることをもう一度現し、示し、悟らせてください」と、主を求めて立ち返る。「神様、この問題については私がこんな失敗をしたことが原因でした」と悔い改めて、神様に従う生活へ切り替えてしまう。そうしていくとき、18節にあるように「あなたがたに恵みを施される。それゆえ、主は立ちあがって、あなたがたをあわれまれる。主は公平の神でいらせられる。すべて主を待ち望む者はさいわいである」。主が働いてくださって、恵んでくださる。

いろいろな悩みに遭う人を見ると、今このときこそ徹底して悔い改めて、神様に従う道を歩まれたら、その生涯は主の祝福にあずかる、恵み豊かな生涯になるに違いない、と思います。問題にあるときは一生懸命に励んでいらっしゃるのですが、状況が良くなってくると、世のことに忙しくなる。少しずつ主から離れていきます。その姿を見ていると、神様は嘆いていらっしゃるだろうと思います。しかし、本人たちは、これで何とか事が無事に終わった、うまくいった。後は勝手にさせていただきますと、神様を離れていく。それでも神様は「待っていて」、また次に問題を起こされるに違いない。「でも、私はそんなに神様にそむいているはずがないのに、どうして次々に問題があるのでしょうか」と言われます。しかし、そんなことはない。確かに、明らかに自覚して、神様をないがしろにしたはずはない、と思うが、心のどこかに神様を第一にしていない思いがあるに違いない。神が神であること、全能者でありすべてのものの主でいらっしゃる方の手に、すっぽりと自分を置くことができるまで、私たちは主に結びついていくことを努めていくのです。そうすると、問題が良いとか悪いとか、こうなったら、ああなったらとか、こうなってほしい、ああなってほしい、そんなことは消えていく。そして、「どちらでもいいです。神様、あなたが私のすべてです」と。詩篇の記者が歌ったように、「わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない」(詩篇 73:25)と、「どうなろうとこうなろうと、私は構いません」と、そこまで神様にピタッと信頼しきってしまうと、安心です。目の前の問題や事柄は神様ががぜん驚くべきことをしてくださいます。18節にあるように「それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵みを施される」。神様を、主を求めていくとき、神様が答えてくださる。たとえどんなであっても、神様と共にある喜びと祝福と恵みの中で魂が喜ぶ。これは私たちの掛替えのない大きな賜物です。

ホセア書6章1節に「さあ、わたしたちは主に帰ろう」。どんなときにでも、主に立ち返ること、神様の前に立ち返って、自分の心の思いを探っていただき、神様に一切を明け渡して主の御愛に満たされて、イエス様と結びついて、生きるのも主のため、死ぬのも主のため、「生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである」と、徹底して主に結びついた者になっていこうではありませんか。このホセアが神様から教えられましたように、私たちも一つ一つのことを通して「さあ、わたしたちは主に帰ろう」と、主に帰る道を選び取っていきたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。