いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(159)「讃美といのり」

2014年04月05日 | 聖書からのメッセージ
 使徒行伝16章25節から34節までを朗読。

 25節に「真夜中ごろ、パウロとシラスとは、神に祈り、さんびを歌いつづけたが、囚人たちは耳をすまして聞きいっていた」とあります。

 今、お読みいたしました記事は、パウロとシラスがピリピという町でイエス様の福音を伝えていたときのことです。その時に、一つの事件がありました。そのことが少し語られていますが、16節以下に彼らが一人の女の人に、「女奴隷」と記されていますが、付きまとわれて迷惑をしたという話があります。この女奴隷は占いをする霊に取り付かれていたというのです。日本でも、星占いであるとか姓名判断であるとか、いろいろな占い事をしますが、それも一つの霊の働きでもあります。霊といいましてもいろいろあるわけで、正しい霊もあれば間違った霊もありますから、聖書にどのような霊でも信じてはいけない、と記されています。だから、占いを信じるということは、間違った霊の働きを信じるものですから、どうぞ皆さん気をつけていただきたいと思います。

 私の知人で、姓名判断に凝っている人がいます。大変そのことを気にして自分のお孫さんに最高の、これはもう間違いのない、幸せになる以外に道がないというような名前を選んだのです。名字(みょうじ)が稲の字が付いている名前の人です。それで生まれたお孫さんは「実り」という文字が入った名前、「稔人」としました。よく聞いてみますと、稲が名字になるから、稲が実るような人になって欲しい。食いっぱぐれがないようにと、なるほどと思うような、また、何だ、そんなものかと思うような説明です。それが占いですよ。そのような占いの得意な人、上手な人がいますが、ある意味ではそういうタラントがあると言ったらいいかもしれません。しかし、必ずしもそれを信じて幸せになるとは思いません。そのようにして名前をつけられた子供さんは、中学一年生のときに交通事故で召されました。どんなに字画が良くても、名前が立派でも幸せになるとは限らない。といって、そのようにして名を付けられた方は、どうぞ誤解なさらないように。それはそれで別に悪いことではありませんから。いずれにしても、そのような女奴隷が占いをして商売をしていたのです。主人はその人によって生活を支えている。

その女奴隷が、パウロとシラスが行くところに付いてくるのです。そして「イエス・キリストの何とか」と、いろいろなことを言う。とうとう、うるさくてパウロが18節に「パウロは困りはてて、その霊にむかい『イエス・キリストの名によって命じる。その女から出て行け』」とあります。占いの霊を神様に取り除いていただく。そう言われたら、一瞬にして正気に返ってしまった。占いができなくなってしまったのです。その女の人にとっては幸いなことだったと思います。何か訳の分からないものに取り付かれて、自分の本意ならず、自分の願いならず、そのようなことをしていたに違いない。だから、それから解放されて本人はうれしかったでしょう。ところが、気に食わないのは主人です。自分の生活の糧を奪われたのですから。言うならば商売の妨害をされた。すぐに訴えまして、捕らえられました。パウロとシラスは、とんでもないことをした。人の生活道具を奪ってしまった。突然、彼らは捕らえられて獄に入れられました。

その所をちょっと読んでおきたいと思います。16章22節から24節までを朗読。

彼らは、その主人から憎しみを向けられたというばかりでなく、周囲の人たちも一緒になって、よそ者がとんでもないことをしてくれた、というわけで、彼らを捕らえて警察に突き出しました。それで警察は裁判も何もせず、むちで打つ。むち打ちの刑にした。今でもイスラムの世界ではそのようなむち打ちの刑があります。シンガポールでしたか、アメリカ人で旅行していた人が、その国の何かちょっとした犯罪を犯したために捕らえられて、公衆の面前でお尻を出して、むち打ちの刑を執行されました。アメリカ政府は大変憂慮しまして、ぜひやめるようにと圧力を掛けたのですが、執行されたケースがありました。そのほかにもいくらでもあるのです。怖いですね。むちで打たれる。一回二回ではない。そこにありますように「ふたりに何度も」と。「何度も」と言いますから、繰り返し、繰り返したたかれるのです。お尻かどうか分かりませんが、真っ赤にはれ上がって、寝ることも座ることもできなかっただろうと思います。そのうえ、牢屋に入れられてしまう。この災難たるや大変なことでした。しかも、しっかり番をするように命じられていました。獄吏は24節に「厳命を受けた」という、厳しい命令ですから、重大犯人のような扱いです。獄のいちばん奥の部屋に彼らを閉じ込めたのです。その当時の牢屋は今のように快適なところではなかったでしょう。パウロとシラスは明かりもないような牢で、到底そこからは出られない、面会もできるかどうか分からない、完全に隔離された所へ放り込まれてしまったのです。裁判もありません。弁護士が付くわけでもない。彼らは一方的に非難されて牢屋に入れられた。このような境遇に私たちが置かれたら、どうするでしょうか。今、私たちはむち打ちの刑を受けたり、牢屋に無法に、裁判もなく入れられるようなことはありません。法治国家ですから、憲法に保障されていますから、不法な逮捕などはできません。確かにパウロとシラスが受けたような事態はありませんが、私たちの生活の中で自分が思わない、計画しない、考えもしなかった事態や事柄に、突然のごとくに投げ込まれる、置かれることは多々あります。身に覚えがない言い掛りを付けられたり、誤解を受けたりすることはあるでしょう。また、経済的な問題がある日突然降ってわいて、自分の生活が成り立たない事態に落ちるかも知れない。それは自分の身に直接関係することではないかもしれない。事が家族であったり、あるいは近しい親戚の人であったり、ひょっとしたら保証人かぶれで倒れるかもしれません。ある日突然そのようなことが無きにしもあらず、でしょう。

パウロとシラスは初めから自分たちがやがて牢屋に捕らえられるなんて予想もしない。ピリピの町へ来て、神を敬うルデヤという素晴らしい人に出会う。信仰の人に出会って励まされて、その方の家に泊まっていた。ちょっとたまたま、偶然、そのような事態に当たった。皆さんが、病院に行って検査をしてみたら「余命、あと3ヶ月」と言われてご覧なさい。パウロとシラスの事態は、必ずしも遠い昔の話ではなくて、今私たちの生活の中にも絶えず起こってくる事柄です。そのときにパウロとシラスが何をしたか。25節の言葉はいつも励ましを与えてくれます。「真夜中ごろ」という、夜の深まったそのとき、これは良くないですよ。ことに心配事があって夜中を過ぎて2時3時ごろがいちばん悪い。そのくらいに大抵目が覚める、悩み事があるとき、四六時中そればかり考える。日中はまだ気がまぎれますが、だんだん夜になって11時、眠れないけれど寝ようと、布団をかぶって寝るでしょう。大体2時間か3時間ぐらいは少々悩みがあっても眠るのです。しかし、眠りが浅くて夢ばかり見ていますが、2時か3時ぐらいに目が覚める。そうすると、思い煩いがスーッと心にわいてきます。「どうなるだろうか?」。それから一気に思いは深まります。殊に寝静まって深閑として周囲が暗い。そうなると、いいことは考えない。次から次へと悪いことばかり、だんだんと頭の芯がさえてきて、いよいよ頭の中は目まぐるしく回転が始まり、やがて時計の音が4時5時6時、空が白み始めると何だかちょっと安心してきて、あまり心配することはないか、と思い始めるのが大体7時くらいです。私は経験済みです。明るくなって、人の声が聞こえ、道路に通勤の人たちの気配を感じる。今日も一日が始まったな。いいや、もう心配しないで、今日も一日頑張ろう、となる。ところが、その問題が解決しないままだと、また夜になると同じことが起こる。

そのようなときに、何が私たちの慰めとなり、力になるか。どんなものをもって来ても、役に立たない。安定剤1錠2錠飲んだってすぐ目が覚めます。ところが、このときパウロとシラスは全くわれわれと同じなのですが、何と「神に祈り、さんびを歌いつづけた」のです。これはすごい。彼らは自分たちがこれからどうなるか、成り行きが分かりません。お先真っ暗です。命を取られることがあってもこの時代には有り得ることです。裁判もなくして絞首刑とか、処刑されることもあったでしょうから、彼らは眠ろうと思っても眠れない。しかし、彼らは「神に祈り、さんびを歌いつづけた」。これができると、私たちは力を得るのです。いろいろな悩みや困難、このパウロとシラスが受けたような思いもしない、願いもしない、考えもしないような問題や事柄を与えられたときに、まず神に祈ることです。神様に祈る。これが何よりも私たちの力です。また賛美をする。ところが祈って讃美をすることは、自分でしようと思ってもなかなかできない。特に、そのような悩み事に遭ったとき、その心に余裕がない、ゆとりがない。だから絶えず思い煩いばかりが心を支配して、神様を忘れる。では、なぜパウロとシラスはそんなことができたのか。どうして彼らはここまで落ち着いて、それどころか、喜んでおれたのか、賛美することができたのか。それはパウロもシラスも神様の御霊、聖霊に満たされていたからです。聖霊に満たされる、と言うのは、何か特別なことではありません。私たちが、絶えず普段から、イエス・キリストのことを心に置いていくことなのです。

だからテモテへの第二の手紙2章8節9節を朗読。

8節に「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である」。これはパウロが語ったことであります。パウロはイエス・キリストのことをいつも心に置いていくと言いますか、思っている。それは御言葉でもあります。聖書の御言葉を絶えず私たちが心に繰り返し、繰り返し思うこと、それがまた主イエス・キリストに心を向けていく秘けつであります。そうしていますときに、私たちの心に神様の御霊、神様の霊、聖霊がとどまってくださるのであります。自分では分かりません。今御霊がとどまってくださったのか、あるいは御霊がお留守になったのか、来てくださったのか、いなくなったのか、これは自分では分かりません。しかしどこに御霊が働いてくださるか分からなくてもいいのです。一つだけ、それは私たちの心の中にいつもイエス様に対する思いが、イエス様の御思い、聖書の御言葉を絶えず繰り返し、繰り返し思い浮かべ、またそれに心を委ね、その御言葉が語ってくださる、伝えてくださる一つ一つの思いをくみ取っていく。そのような普段の生活をいつも、ここにありますように「いつも思って」いく。そうしますと気がつかないうちに神の御霊が働いてくださって、私たちの思い煩いを遠ざけてくださる。私たちの心の中にある、中心にドッカと座っている闇のような塊をズーッと外へと追い出してくださるのは、御霊の働きによる。だから自分で、もうこんなことは考えまい、思うまい、もっと楽しい事を考えよう。楽しかった昔の事を思い出して慰めようとしても、そのようなことをいくらしてみても私たちの心から思い煩い、不安や恐れは消えません。そうではなくて、それはそれで放っておいて、イエス様に心を向けるのです。これが8節にパウロがテモテに勧めた御言葉です。「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である」。イエス・キリストのことを思うと言うのは、イエス様の言葉、聖書の御言葉を絶えず心に置いておくことです。礼拝で聞いた言葉、あるいは各集会で、木曜会、祈祷会、あるいは伝道集会といろいろな所で聞く御言葉ももちろんですし、皆さんが常日頃、毎日読む聖書の言葉で、心にとどまっている言葉を絶えず思い浮かべること。これがイエス・キリストを思うことです。ですから、お勧めしますが、小さなノートを用意して、自分が聖書を読んだときに教えられた言葉を一行でも二行でも、メモをしておいて、そして一日、時々、それを眺めては、「ああ、そうやな」、「あ、なるほどな」と、御言葉と対話をする。これが私たちの主イエス・キリストをいつも思う秘けつです。

8節の言葉、「イエス・キリストを、いつも思っていなさい」について、「先生、イエス・キリストを、いつも思うとは、どうするのでしょうか」と、よく聞かれます。「イエス様の写真の一つでもあるといいですけれどもね」と。ある方は何か有名な人の名画を、西洋の名画を前に置いてこれを眺めている。そんなものを眺めたって仕方がない。そうではないのです。聖書の言葉ですよ。そこにキリストがいらっしゃる。主がそこにいてくださる。忘れっぽくて覚えられない、と言う方が多いですから、ちょっとノートに書くのです。もちろん、いつでも持ち歩ければいいですよ。そして、時間があるとパッと開いて、「ああ、そうだな」。御言葉を読むとき、御言葉は何かを語ろうとしている。今の言葉、「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」と、つらつらっと読めばそれでおしまい。ところが「死人のうちからよみがえった」という一言に心を向けてご覧なさい。「イエス様は死から、死人からよみがえった。そんなことあるかいな、いや、それはすごいことだ。死人からよみがえったということは、なるほど、主は今も生きていらっしゃるのだ」と。一つの言葉から尻取りゲームではありませんが、連鎖的に言葉の深みを味わうことができるでしょう。ただ「死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」と暗唱したらおしまいというのではない。一つ一つの言葉が自分にとってどのような意味があるのか当てはめる。「死人のうちからよみがえった」と言われているが、私にとってそれはどういう関係があるだろうか、と。そういうところに、御言葉を通して思いを向けていきますと、何度聞いた御言葉でも、事新しく、そこからくみ取るものがたくさんある。だから、惜しいと思いますのは、せっかくお読みになっている聖書、聞いている聖書の言葉を聞き流して、せっかくたくさん栄養が詰まっているのに、捨てているような感じがする。聖書の言葉の一つ一つを自分の身に引きあて、それをしっかりと味わって、いつも思っていくことが「死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていく」ことです。

その後9節に「この福音のために、わたしは悪者のように苦しめられ、ついに鎖につながれるに至った」。テモテにパウロがこの手紙を書いた時、パウロはどこにいたかと言うと、先ほどのピリピ人への手紙と同じように、牢屋につながれていたのです。この書簡は研究者によると、彼の書簡のいちばん最後のものだとも言われています。彼が最後に死んだのはローマでしたから、恐らくローマの地下牢にでも捕らえられていたに違いない。やがて彼はそこで殉教しますが、そのような絶望的な中にあって、彼は何によって望みを得ていたのか。先ほどの「神に祈り、さんびを」する力はどこから出てきたか。それはイエス・キリストをいつも思っていたからです。「これがわたしの福音である」と彼は語っているでしょう。私たちにとって、「よきおとずれ」、福音、素晴らしいお知らせがある。それは「イエス・キリストをいつも思っていなさい」。そうすればたとえ牢屋の中に置かれても、絶望的な中にあっても、そこは賛美する場所であり、神様を祈り求めることができる素晴らしい時なのです。9節に「この福音のために、わたしは悪者のように苦しめられ、ついに鎖につながれるに至った」。このとき、事実鎖につながれた状態、牢屋の奥深く閉じ込められたピリピの時と同じ状況の中にあって、「イエス・キリストを、いつも思っていなさい」と。これは彼自身の経験だと思います。牢屋に入れられた時に、どこか逃げ道はないだろうか、誰か私を助ける人はいないだろうか。あの人が来てくれないだろうか、これから先はどうなるだろうか、もしここで死んだら埋葬は誰がしてくれるだろうか、なんて、そんなことばかり考えていたら、「神に祈り、さんびを」することができません。彼はそのようなことは一切お構いなしに、主イエス・キリストをいつも思っている。これはパウロの体験から来た言葉です。彼がこうやっていつもイエス・キリストを思っていたから、さまざまな悩みや困難や苦しみ、どんな中にあっても倒れない力を絶えず持ち続けた。その力はどこからくるか。御霊が私たちのうちにあって、思い煩いを心の外に押し出して、祈る力を、賛美する力を与えてくださる。

コリント人への第二の手紙4章7節から10節までを朗読。

7節に「この宝を土の器の中に持っている」と語っています。もろい、弱い、はかない心でしかない私たちのうちに、「宝」、すなわち「神の御霊」が、聖霊(キリスト)がとどまってくださる。それは何のためかと言いますと、7節の後半に「その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである」。神様が、神様であることを表すために私たちに力を注いでくださる。そうなのです。御霊が、聖霊が宿ってくださるのは、私たちに力を与えて、私たちが誇るため、褒めたたえられるためではなくて、こんな欠けだらけのもろい土の器のようなものが、その後にありますように、「四方から患難を受けても窮しない」、行き詰らない、倒されない、しぶとい力を表すためである。そして、その力が私たちのものではなくて、神様からのものであることを証しするために、御霊は私たちのうちに来てくださる。来なければやまない方です。なぜならば、神様は私たちのためにそうしようというのではない。私たちのためにどんな艱難にも強い人間にしてやろうというのではなくて、そうすることによって、人間の弱いことを知っている神様が、そこに神の力を注いで、神様が今も生きていらっしゃること、神様が力強い業をもって驚くべきことを今も果たしてくださる方であることを証しするためです。だから、私たちのためではなく、神様がご自分のためになさるのですから、力を惜しむはずがない。神様はご自分の名前が、ご自分の名誉がかかっていますから、私たちに何としても力を注いで神様の驚くべき業をさせたくて仕方がない。だから、神様は「求めなさい、そうすれば、与えられるであろう」(ヨハネ16:24)と言われる。いつも主イエス・キリストを心に思うとき、神様の力が私たちに宿ってくださる。そして今読みました8節以下にあるように、「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。9 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない」。何とタフなと言いますか、しぶとい生き方。これは彼の力ではない。彼のうちに宿ってくださったキリストの力、それによって立つことができる。

使徒行伝16章25節に戻ります。「真夜中ごろ、パウロとシラスとは、神に祈り、さんびを歌いつづけたが、囚人たちは耳をすまして聞きいっていた」。私たちはどんな問題の中に置かれようと、絶望という事態の中にあっても、祈ることができる、賛美することができる。それをさせてくださるのは神様の力なのです。だから、無事息災なとき、元気であるとき、「今は恵みの時、見よ、今は救の日である」(2コリント6:2)と言われているこの時こそ、私たちはイエス・キリストをいつも思って、御言葉を絶えず心に置き、その御言葉の思いをくみ取って、絶えずイエス様と共にある安心を普段から体験しておかなければ、いざとなってはできません。いや、その時になったら何とかなるだろうと思いますが、ならないのです。

よくお話しますように、私は子供のときそのように思ったのです。父が「イエス様を信じていれは、天国に行ける」と。よし、それでは天国に行きたいから、信じたくはあるけれども、今信じたらあれも駄目、これも駄目、遊びも駄目、何も駄目、なんか不自由な感じがして、今のところしばらくは遊ぼう。いよいよとなったとき、死にかけて「ご臨終です」と言われる直前に、「ああ、神様、信じます」と言って、天国に入れてもらったら、これが最高だ、と思ったのです。父にそう言いました。「いよいよ死ぬときになったら信じるから、それまではしばらく自由にしたい」と。「馬鹿な!そのときになって信じられるはずがない!」。今、考えますと、本当に愚かなことを言ったものだと思います。そのときになって信じられるはずがない。今信じられないのにどうして信じられるでしょうか。そうでしょう。考えたら、先生が言うほど眠られないほどの悩みはない、あると言えばあるけれども、それは吹けば飛ぶようなもの、まぁ、今は幸せだ、と思っている今こそ、「イエス・キリストを、いつも思っていなさい」。熱心になって御言葉を味わって、イエス様の霊に、キリストの霊、神の霊、聖霊に満たされたいと思います。普段からやっておけば、「ご臨終ですよ」と言われた時に、「感謝します。ハレルヤ」と天国に帰られるのです。その準備がないとうろたえて、後ろ髪引かれる思い、棺に足を半分入れながら、まだ生きたい、まだ生きたいと言って悔やむ。そのようにならないために、私たちは「イエス・キリストをいつも思って」備えましょう。そうしますと、私も事実経験するけれども、パウロとシラスのように出口のない、ほんとうに「ああ、どうしようか」と思うとき、夜中に目が覚めるとき、御言葉がわいてくるのです。そうすると、同じ眠れなくても、だんだん心がうれしくなってくる。逆にうれしすぎて眠れなくなりますが、賛美するのです。うれしくて布団をかぶって霊感賦を歌ったり、讃美歌を歌ったりしていると、「ああ、感謝だな、何て素晴らしいことを神様はしてくださったのだろう」と、主の御愛と恵みがあふれてくる。そして朝になり、だんだん空が白んできて、「ああ、もう朝か」と。心配で眠れないで朝を迎えるのと、うれしくて賛美して祈って、繰り返し祈り、祈って主の御霊によって、神様の御愛と恵みが心にあふれて朝を迎えるのと、大違いですから、同じ眠れなくても、どうか、「神に祈り、さんびをうたい続ける」夜でありたいと思います。詩篇の63篇に「わたしが床の上であなたを思いだし、夜のふけるままにあなたを深く思うとき、わたしの魂は髄とあぶらとをもってもてなされるように飽き足り、わたしの口は喜びのくちびるをもってあなたをほめたたえる」とダビデもうたっています。主の御言葉によって、私たちが生きる者となる。それは御霊が働いてくださるからです。だまされたと思って、安定剤は2錠を1錠に変えてでも、御言葉をしっかりと心に置いてご覧なさい。そうすると喜びにあふれてきます。覚えきれなかったら書いているものを手元に置いておいて、真っ暗闇で見えなかったら、電気をちょっとつけてでも読んでください。そうすると、心が穏やかになります。

ところが、彼らが歌って賛美しているときに、大地震が起こったのです。このピリピの町はトルコ、ギリシャ周辺ですから、比較的地震の多いところです。大きな地震が起こって、扉が全部開いて鎖が解けてしまった。いつでも逃げ出せるようになった。ところが、彼らは誰も逃げる人がいなかったのです。看守と言いますか、獄吏が、これは大変、囚人が逃げた、と思って飛び込んできて、実に日本的ですが、責任を取って割腹自殺しようとしたのです。27節の終わりに「つるぎを抜いて自殺しかけた」。腹を切ったか、首を切ったか分かりませんけれども、いずれにしても「死んでおわびを」と思った。それはそうですよね。先ほど読みましたように「厳命を受けて」いるのですから、獄吏にとっては命懸けです。だからここで死のうと思ったときに、パウロとシラスが暗闇の中で「自害してはいけない。われわれは皆ひとり残らず、ここにいる」と声をかけた。それを聞いて大慌てで明かりを取って、戻って来てみましたら、みんな逃げることもしないで、とどまっていたのです。それを見てこの看守が「わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」。パウロとシラスの前にひれ伏しました。そして「主イエスを信じなさい」と勧められて、すぐに彼らはイエス様を信じて、バプテスマを受け、とうとう救いにあずかる。彼一人でなく家族もみなイエス様を信じる者となったことが記されています。

パウロとシラスは何のために牢屋に入ったか? この看守の家族がイエス様の救いにあずかるためです。パウロとシラスは初めからそういう目的を知っていたら、今から牢屋に入るけれども、そのうち地震が起こって看守が来るだろう。そのときはできるなら逃げたいけれども、逃げないでおこう。そしたら、看守が悔い改めてすぐに救いにあずかる。こういう目的のために自分が牢屋に入るなら、喜んでしばらく我慢しようと、そのようなことになるでしょうが、そんなの何も知らないのです。ただ神様がそこへ導かれた。そのとき彼らがすることは、置かれた状況、事柄の中で主イエス・キリストを信じて、祈り、賛美し、歌っていたのです。そうしたら、囚人はそれを聞いて、その仲間たちも心穏やかになり、扉が開いても誰一人逃げる者がいなかった。パウロとシラスが「逃げたらおれが困るからみんな逃げるな」と言ったのではない。誰も逃げる人はいなかった。そこへ看守が来て悔い改めたのです。これは、実は神様のストーリーなのです。神様がそのシナリオを書いて彼らを用いている。パウロとシラスが不当な扱いを受けて、そこで歯ぎしりし、怒り心頭に来て、カッカして嘆いて世をのろい、人をのろい、ぐちゃぐちゃ言っていたら、このようなことは起こらなかったかもしれない。

どのような中に置かれても、神様だけを見ていた。「死人のうちからよみがえったイエス・キリストを」絶えず思っていた。そうしたときに、神様のほうが働いて、看守の家族を救いにあずからせてくださった。家族の救いは難しい、とよく言いますが、まさに私たちがすべきことは、救うことではない。自分が救われることです。闇の中に、絶望的な中に置かれたときに、ただ神様を仰いで、主に信頼して、神様に期待して、祈り、賛美し、喜び、感謝しているときに、神様は驚くことをしてくださるのです。自分が主人を救ってやろうとか、家内を救ってやろうとか、孫や子供を救ってやろうと、そのような大それたことを考えるからできない。私達は何もできないのですから、ただ自分が救われること、そして、与えられた命を輝いて生きていれば十分です。

ペテロの第一の手紙に、不当な扱いを受けて、そして耐え忍んでいるならば、これは神様の嘉(よみ)せられるところ、神様が「よし」とおっしゃるところだから、つぶやかず疑わないでいなさいとあります。イエス様は、激しい言葉を出さず、「ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた」と語られています。主イエス・キリストを仰ぎつつ、どんな中にあっても、祈り、賛美するキリストの霊をいただいていこうではありませんか。何も分からないけれども、神様のほうが働いて、皆さんの生活の隅から隅まで、周囲から驚くべきことを始めてくださる。

周囲を見ないで、見えるものによらないで見えないお方、よみがえってくださったイエス・キリストに目を留めて、その方だけを絶えず仰いでいこうではありませんか。

ステパノが殉教いたしました。使徒行伝の7章に記されていますが、彼が人々の怒りを受けて石を投げつけられたとき、彼は天を仰いでいた。怒り狂って自分に向かってくる人を見ていたならば、恐ろしくて気絶していたかもしれない。ところがステパノはその人たちを見ていない。何を見ていたか。天を仰いで、イエス・キリストが見える。主を見上げていたのです。そのとき、顔は輝いていたとあります。激しい憎しみの形相をもって、石で「やっつけてやれ」と、ステパノを目掛けてやってくる人たち、その人たちを見ていたのではない。彼は天を仰いでいた。

どうぞ、私たちもステパノのごとく、パウロのように、どんな境遇の中に置かれても、「死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っている」。主を見上げて、こんな者のために今日も十字架に命を捨てて、父よ、彼らを赦し給え、と執り成してくださる主が、よみがえって、今、私と共にいてくださる。その主に目を留めて、祈り、賛美し、感謝し、主の力にあふれて、残された地上の生涯を生きる者でありたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。