いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(170)「実を結ぶ生き方」

2014年04月16日 | 聖書からのメッセージ

 ヨハネによる福音書12章20節から28節までを朗読。

 

 24節に「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」。

 このときイエス様の許(もと)に面会に来た人たちがいました。20節に「数人のギリシヤ人」とあるから異邦人ですが、恐らく、彼らはユダヤ人であってギリシヤに帰化した人たちであったと思います。エルサレムの神殿に礼拝するために来ていた人たちですから、ユダヤ教であることには違いありません。彼らはピリポと知り合いであったか、面識があったのかもしれません。まず、イエス様の弟子ピリポにお願いして「先生にお会いしたい」という、とりなしを求めました。ところが、ピリポも自分一人では決めかねたのでしょう、仲間のアンデレの所に行って「こんな人がいるけれども、どうするかね」という話になりました。アンデレとピリポはイエス様の所へ出かけてこの事を伝えました。

 

しかし、イエス様の答えは、ピリポやアンデレがお願いしたこととはほとんど関係がない禅問答のようなもので、ピリポとアンデレが「先生にお会いしたい人が来ていますよ」と言っているのですが、イエス様は「人の子が栄光を受ける時がきた」と言われる。これは大切なことです。イエス様がご自分の使命のために生きている生き方と、ピリポ、アンデレたちがこの地上で生活を楽しんでいる、エンジョイしている生き方と大きなずれがある。イエス様はご自分の終わりの時が近づいて、着々とそれに向かって歩んでいる。そこへピリポとアンデレが日常的なそういう友達の紹介とか、あるいは有名人に会いたいと、そんな気持ちで来るのと、気持ちの上での落差、違いがここに表れていると思います。イエス様の生きている空間、世界、それとピリポやアンデレたちやそのほかの人たち、イエス様のそばにはいますが、イエス様の中に入りきれていない姿ではないでしょうか。ですから、ここでイエス様は「人の子が栄光を受ける時がきた。24 よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」と言われる。またここでイエス様はご自分の事だけを語っています。相手がどうであるとか、今、自分に面会に来た彼らが何を求めているかとか、そのような会話が成り立つような状況ではありません。そして、イエス様は「一粒の麦」の例えを語っている。麦が地に落ちて死んでしまうと、それは豊かに実を結ぶようになる、と言われます。彼等にとっては訳が分からなかったでしょう。「一粒の麦」こそが、実はイエス様ご自身でした。そのことを語ろうとしているのですが、なぞめいた言い方ですから、ストレートには分かりません。

 

しかし同時にこれは、私たちが本当に命にあずかって実を結ぶ生涯の生き方は、ここにしかないということでもあります。ここで「地に落ちて死ななければ」と言われます。麦にしろ何にしろどんな種でも、それを器に入れて置いておけば、いつまでもそのままです。以前、中国の遺跡で、2千年前かそれ以上前の「はす」の種が器の中に残ったまま発掘されました。調べてみると年数的には二千年以上はたっている。土の中にうずもれてはいたのですが、器に保護されてある一定の環境が整っていたのだろうと思います。腐敗せずに乾燥もしないままにズーッとあり続けている。二千年もたっているから、その種は意味がないかというと、そうではなくて、土に埋めて水をやり、暖めていると、そこから芽が出て実が実ったというニュースがありました。そのように、器に入れてそのままにしておいたならばいつまでも増えない、変わることができない。

 

それと同じように、私たちの「自分」という殻の中に閉じこもっているかぎり、これは変わりようがない。だから、ここでイエス様ご自身が一粒の麦なのだ、と言われます。なぜなら、イエス様は神の子であった方、神と等しい方です。神の位に居た方が、そのことに固執せず、神であることにしがみつかず、あえて人のかたちをとり、人の世に降ってくださった。まさに、そのことが自分を捨てるということ、自分の殻、自分の生き方、自分の考えを破り捨てて、世に降りてきた。まず、これが大きな「死んだ麦」のかたちですが、同時に、イエス様は更に進んで罪人となり、あがないのいけにえとして自分をささげる。これはもっと大きな出来事であったと思います。イエス様が人となってこの世に来てくださった。イエス様のこの世の生涯の目的は、十字架に架けられることでした。ですから繰り返し、いろいろな所で弟子たちにその事を語っています。やがて自分はエルサレムにあって、律法学者あるいはパリサイ人たち、そのような人々から捕らえられ、裁きを受け、死んで三日目によみがえる、と語っています。イエス様はよくその中にあって平然としておられたな、と思います。自分の死を知って、その時が間近に迫っていながら、なお与えられた地上の、イエス様の救い主としての務めを全うしていかなければならない。そのようなイエス様が文字どおり死んでしまう時が来るのです。それがあのゴルゴダの上の十字架に自分をささげることでした。しかし、そこに至るまでにも、イエス様は決して楽々とその道を歩んだのではありません。「ヘブル人への手紙」にあるように、罪を犯さなかったけれども、イエス様は私たちと同じ弱さを知り給う方です。死を目前にして「わたしはへっちゃらだ」と言わなかった。ゲツセマネの園での祈りの中に、イエス様はこの杯を何とか取り除けてもらえないだろうかと繰り返し祈っておられる。自分に備えられたこの道が、どんなに苦しみであり、嫌なことであるかをよくご存じでした。決してピクニックか遠足に行くように喜んで「これはうれしい話だ」とはならない。イエス様は、確かに神の子であり、神なる力ある方ですから、どのようなことでもお出来になります。しかし、今、救い主として、この地上に遣わされている旅路は、あくまでも人としての生涯です。ですから、イエス様はその十字架を目前にして大変に悩みました。そして祈りました。その戦い、葛藤(かつとう)は神様が求めていること、神様のみ思いを知りつつも、なおご自分はそれを避けたい、できるだけ回避したいと思うのです。

 

これは私たちの信仰生活の姿でもあります。私どもも神様のみ思いを知ります。また神様が私に求めている事も知っています。しかし、自分の心の中のどこかにそれをしたくない自分がいる。それを拒もうとするものがある。あるいは、どうしても自分の面目とか、名誉とか、そういうものを捨てなければできない事があります。ちょっとした人の言葉でも、人からの助言とか、あるいはいさめと言いますか、忠告すらもなかなか素直に聞けません。家族の人、親でも子供でも、夫婦であってもそうですが、ちょっと一言「あなた、こうでしょう」と言われると、カーッと頭にきます。そして、そこでは「そうか。分かった、お前の言うとおりだな」と一応は言います。しかし、心からそう思ってない。「だって、そんなことを言われてもできやせんじゃない」、「言う本人ができているのかしら」と攻撃する矛先(ほこさき)が変わってしまう。どうしても自分というものが引っかかる。だから、イエス様は24節に「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである」と言われる。だからといって、自分は嫌だからしない。あるいは自分はこれがしたいからこれをする。自分の心の赴(おもむ)くまま、自分の願い通り、自分の思う通りの事をしているのでしたら、それはいつまでも一粒のままなのだ。じゃどうするか。その自分を捨てる。その後に「しかし、もし死んだなら」と。「死ぬ」といっても、種が土の中に埋められる。そのまま文字通り死んでしまったら、芽も出ません。それは一つの比喩表現です。土の中に埋められて、種が分解される。ある程度の湿度と温度とそういうものによって、覆っていた殻が破れて、その中の成分が分解して、やがてそこから芽が生え、伸びてくる。そうなると初めの種の姿、形はどこにも見られません。

 

皆さんもご存じのように、「もやし」は大豆から出てきた新芽です。根っこもついています。ところどころに黒い皮のようなものがついている。あれは種の残骸(ざんがい)です。それしか残っていない。種は無くなってしまったのですが、別の物に変わったのです。そして、成長してそこにありますように「豊かに実を結ぶようになる」。どんな植物でもそうですが、種が地に落ちて、そして種としての資質、その形、その固有の性質が失われる。そのようにイエス様が十字架に自分をささげ、そのままに死んで「豊かに実を結ぶようになる」。死の中から、イエス様はよみがえって、新しい芽を出し、その芽生えたイエス様を信じる私たちすべての者の中に、多くの命が宿るようになる。イエス様が十字架に死んで、よみがえってくださったことによって、2千年以上にわたって、どれほど多くの人々が新しい命を受けてきたか分からない。これは計り知れない大きな、神様のなさる不思議な業でありました。

 

そのように私たちも一粒の麦になることができる。25節に「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう」。そこにもイエス様の「一粒の麦」の例えを、もう一つ言い換えて解説した記事が25節です。「自分の命を愛する」とは、自分が、自分がと、自分の思いや考え、計画、自分が知っている経験や何かにしっかりととどまっていること、そうするかぎりそれを失う。それは先細りと言うか、それで終わりです。滅んでいってしまう。ところが「この世で自分の命を憎む者」、「命を憎む」という厳しい強い言葉で語られていますが、むしろ自分から喜んで「その命を捨てる」、自分を捨ててしまう。そうするとき「それを保って永遠の命に至る」。むしろもっと多くの実を結ぶ者となる。これは私たちの信仰生活の黄金律、決定的な生き方です。

 

礼拝でも教えられたように、アブラハムの生き方はまさにそこにあるのだと思います。信仰生活とは、一つの賭(か)けのようなもの、ギャンブルです。神様に賭ける。アブラハムが自分の生まれ育ってきた生活、ハランという町に住んで、家族がいて、兄弟がいて、そのような生活があったのです。そのままそこに生活していても別に問題ではなかった。しかし、彼がそのまま生活をしていたら、後のイスラエルは無かったでしょう。神様は「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」(創世記12:1)と言われました。神様は確かに「祝福をする」と約束されたが、行ってどうなる。「あなたを多くの民の基とする。あなたは空の星のごとく浜辺の砂のごとく多くの国民の父となる」と言われました。そのようなことを言われても、今、目の前の事がもっと大切です。これからの生活、明日はどうなるのかが問題であって、自分が生きているのかどうか分からない遠い先の話をいくら約束されたって、皆さん、それで信じられますか?あなたの子々孫々にわたってこうするから、今この事をしなさいと。これをしたって私の目の黒い間に何もできないじゃないか、結果が見られない。よくそのように言われる方がいます。だから、そこで何を信じるかですね。信じるとは、それに懸けることでしょう。命を懸けていくこと。キリスト教の信仰は、ある意味では命懸け、人生を懸けなければ味わえない世界でもあります。

 

日本人の宗教観には、深入りするというか、博多弁で「のぼせ」という言葉があり、夢中になる、熱中することですが、それはよくないと考えます。聖書では神様にのぼせなければ駄目なのです。それに自分を懸けることです。クリスチャンの女性が結婚しました。相手の男性はノンクリスチャンだったのですが、長男なのです。ですから「家」を守らなければならない。先祖を祭らなければいけない。ところがお嫁さんは子供のときからクリスチャンですから、そういうことはできない。それでいいだろうか、という話になった。それで私は「こういう事だから了解してもらえないか」と、その相手の両親に話をしたのです。そしたらその両親はなかなか物分りがいい。「ああ、結構です。信仰は自由ですから、信仰を持たれたらそれほどいいことはありませんから、結構でございます」と言われたのです。どこまでその方は分かっているのかなと思いました。日本人は、年に1回か2回、お寺なり、神社にちょっと行ってそれでおしまい。初詣に行ったら次の年までその間はブランクです。私は「実は、クリスチャンは毎週礼拝に行くことになりますが、いいでしょうか」と。すると向こうの人はびくっとして、「え!毎週ですか?」と言われた。「いや、毎週どころかウイークデーも行きますけれども……」と言うと、ちょっと渋い顔をされたのですが、話の流れでオーケーになっていましたから、相手は引くに引けなかったのです。そうして、結婚式を教会でしまして、ちょっと離れた所で披露宴をする。そうしたら早速披露宴に行く途中で、花嫁さんと花婿さんだけがちょっと寄り道をする。ご主人の家に行って先祖の仏壇に、お嫁さんがあいさつをしてくれ、と言われる。彼女は「そんなのは聞いていない」と言うのです。約束違反だと言うのですけれども、向こうとしてはそれをしてほしい、嫁なんだからと。だから私に「どうしようか」と言われるから「いいじゃないの、形だけ行って頭を下げてきなさい」と言ったのです。その後、その二人がどうなったか。実はこれがまた不思議なことです。その二人が福岡に訪ねて来たのです。久しぶりに会いまして、それから後のことを聞きました。私は気になっていましたから、「その後、家のほうはどうなの?」と、彼のほうの両親は死んで、もういないと言うのです。「じゃ、ますますあなたが大変じゃない。先祖を祭っているの? 」と。「それがまた不思議なことに、妹が結婚したのだけれども、ついこの間離婚して戻ってきた」。「じゃ、仏壇も何もかも妹さんにやったの?」と言ったら「ええ、全部やりました」と。ついでに家も付けてやったと言うのです。「それは良かったね。あなた方は全く二人っきり? 」「ええ、一人息子がいたのですけれども、今は京都の大学に行って居なくなって。今はまた新婚に戻ってやっと時間ができましたから、一度先生の所へ報告に来ようと思って……」「それは良かったね」と。今は、もちろんご主人も熱心になって教会に求道中だという。

 

だから、先のことは分からない。何があっても、神様は不思議な事をなさるな、と思いました。私たちの信仰生活は、まさにそこにあるのです。その姉妹が自分の信仰はこういうものだから、これに懸けたのです。相手から嫌われるかもしれない。もちろん恋愛をしたわけですから、相手は好きでたまらない。彼女がいいということは何でもいいのですが、相手の両親はそうはいかない。ところが、姉妹が神様の前にきちっと自分の生き方を定めたとき、もう二十数年たちますが、神様は不思議なように姉妹の祈りと願いを全うしてくださる。先祖を守ってくれと言っていたその人が先祖になってしまったのですから、誰も文句の言いようがないわけです。神様の前に自分を置いていく。彼女がいい加減で、私は好きな人といっしょになるのだから、相手に合わせて教会には年に1回、言われるときだけにしておこう、となってしまっていたら、そうはいかなかったかもしれませんね。いちばん最初の結婚の決まるときにそのような話し合いをした。

 

そのときにしみじみと、キリスト教の信仰は、年に1回2回の話じゃない。これは自分の生涯を懸けていく、日々の生活をそこに懸けていく生き方なのだと改めて思いました。それまで自分自身もそれが当たり前のように思ってきた。生まれたときから教会で生活し、讃美歌のなかで育ちましたから、集会に出るのは、日曜日、礼拝に出るのは当たり前であり、そんなのは何の苦痛もない当たり前だと思っていた事柄が、実は日本の社会ではむしろ少数派、いや極限られた人たちであって、多くの人々はそのように考えていない。自分中心に、自分の考えで生きている。そこから、私たちはアブラハムのごとく、国を出、親族に別れ、父の家を離れて、神様が示す地へ出て行く。アブラハムがそれまで生きてきた生きざま、あるいは自分の社会、自分の家庭、自分の安住の地を切り捨てて、今度は神様を信じる民として、新しい生き方に自分を切り替えた。切り替えるときに何が保障となったかというと、ないのです。こうしたならばあなたに必ずこうしますという、公正証書なんかないのです。アブラハムに神様が約束した事はお言葉以外に、書かれた証文は何もないのです。お言葉だけです。その言葉が実際に実行されるのかどうか、その取り交わした約束が果たしてその通りに行われるのかどうかは、これはもう信じること以外にない。言うならばそれに懸ける。そうなるかどうか分からないけれども、神様がそのように言われるから、それを信じていく。これが自分に死ぬことでもあります。自分に死ななければ信じられませんから。そうなるけれども本当にそうなのかどうか、結果を見てからとか、石橋はたたいて渡ろうとか、慎重になって一生懸命に自分の考え、自分の計画、自分の納得するように、自分が理解できるように、自分がちゃんと分かったらしようと思っているかぎり、そのように自分を持っているかぎり、それは一粒のままです。ところがアブラハムは自分の国であり親族であり父の家を、それらをばっさり切り捨てて、神様だけに懸けたのです。どうぞ私どももたえずそこに立ち返っていきたいと思います。

 

ローマ人への手紙4章16節から18節までを朗読。

 

17節の後半に「彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである」。ここでアブラハムはどこに懸けたかと言うと、神様に懸けたのです。神様がいらっしゃる、そして神様は必ず応えてくださる。死人をも生かすことができる。無から有を呼び出す、何にもないところからどんなことでもおできになる方、この神様に懸けていく。だから「ヘブル人への手紙」に「信仰がなくては神に喜ばれることができない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである」(11:6)と語られています。神様がいらっしゃること、そしてその神様は報いてくださる。有を呼び出し、死人を生かすことができる、力ある御方でいらっしゃることを信じていく。アブラハムがそこに自分の生涯を置いたのです。

 

私どももいろいろな事の中で常に自分を捨てて、自分の思い・考えから、神様を信じる信仰に懸ける。これが死ぬということです。神様を信じるとは、本当に自分に死ななければ信じられないのです。見えないし、手で触るわけにはいかない。耳で聞くこともできない、目で見ることもできない。ただあるのは何か。聖書のお言葉だけです。その聖書のお言葉を信じて、神様がいらっしゃること、神様は求める者に必ず応えてくださるという信仰に立って生きる。これが私たちに今求められている生き方です。見える状態や事柄、あるいは聞くおとずれ、確かに目の前にいろいろなことがありますが、神様に自分を懸けていくことです。

 

だからその後19節に「すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった」。アブラハムは徹底して神様を信じ続けた。ここに自分を捨てていく生き方がある。神様に信頼するとき、神様のほうが彼をして多くの実を豊かに結ばせてくださる。その後20節以下に「彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、21 神はその約束されたことを、また成就することができると確信した」。彼はどんなことの中にも、信仰によって生きる生涯、神様を信じてその方に懸けていく。これが私たちの死んで生きる道筋です。自分を信じて、自分の考えを信じて、自分の計画の正しさを信じていくかぎり、神様を信じることができません。私たちに与えられる問題や事柄、その一つ一つ、どれ一つとして主によらないものはない。神様によらないものはありません。その度ごとに、私たちは神様に懸けていこうではありませんか。自分を捨てて、そして神様に自分をささげていく。

 

イエス様もそうだったのですね。ゲツセマネの園で祈った祈りは、まさに神様にご自分をささげる、あるいは懸けていく祈りです。「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ26:38)と完全に神様の手の中にご自分をささげていく、そのとき自分は死んでいる。死んだ者となって神様の手の中に自分を置いていく。

 

もう一度初めのヨハネによる福音書12章25節に「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう」。自分が自分がと、自分に固執しているかぎり、そこは死です。そこから先はありません。しかし、神様を信じて、神様の導かれるところ、神様のみ思いに自分を合わせていく。御言葉に自分を懸けていく。神様に懸ける。そうするとき、私たちが死んで、御言葉の命が私たちを通して今度は実を結びます。私たちの命は消えていっても、御言葉を通して注がれる神様の命が、私たちを生きる者としてくださる。これは確かなことです。

 

今イエス様が「しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」と言われるように、実を結ぶ者となっていきたい。それは自分で努力するのではない。私たちが神様に信頼することに努めていくこと、神様の言葉に自分を懸けて、時間を、生涯を、自分の日々の生活の一切を神様の手に握っていただき、思いのままに引き回していただくこと。そのために自分を捨ててかかっていく。神様に懸けていこうではありませんか。そうするとき神様は私たちに素晴らしい結果を、実を豊かに実らせてくださるのです。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。