いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(172)「心の思いを主に委ねる」

2014年04月18日 | 聖書からのメッセージ

 ピリピ人への手紙2章12節から18節までを朗読。

 

 13,14節「13 あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。14 すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい」。

 

 イエス様の救いにあずかって信仰に生きる生涯は、極めて個人的な事といいますか、一人一人の事です。ある集団に属しているから救われた、信仰があるとは言えない。これがキリスト教の信仰の極めて特徴的な事ではないかと思います。ご存じのように、日本の社会は仏教の影響力のある社会です。お盆になると、先祖供養とか、先祖祭をします。大抵の家には仏壇があって、我が家の信仰はこれだと言う宗旨、真宗であるとか浄土真宗であるとか、禅宗であるとか、そのようなものを持っています。だからといって、その家族の一人一人が熱心に信仰に生きているかと言うと、これはまた別問題です。法事であるとか、お盆であるとか、そのような宗教的な行事として、それを守ることはしますが、個人のその生活、その人の心のあり方、また人生に対する生き方を問う、そのような信仰のあり方ではありません。漠然と、先祖代々、どこまでが先祖になるのか分かりませんが、我が家は何々寺の檀家であると。これが日本の多くの人々の考えている信仰のあり方だと思います。

 

 ところが、キリスト教は、必ずしもそうは言えません。両親ともクリスチャンで、我が家はクリスチャンホームだから、うちの信仰はキリスト教ですと、一応形としては言いますが、それは本当の意味の、聖書が私たちに求めている信仰のあり方ではない。家族がイエス様を信じて、そのような信仰を持っているから、代々我が家は何代目のクリスチャンホームだから、私もそうなのだとは言えない。各個人がイエス様を救い主と信じて、神の子になっていると、自分が確信を持っているかどうかです。

 

イエス様がピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、弟子たちにお尋ねになりました。「人々は人の子をだれと言っているか」と。イエス様のことについていろいろなうわさを聞いた弟子たちは、そのことを伝えます。エリヤであるとか、あるいはバプテスマのヨハネの再来であるとか、預言者のひとりだと、いろいろなことを言います。そのとき、イエス様は「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」と問われたのです。「あなたはわたしを誰と言うか」。世間がどのように言おうと、多くの人々がどのように言おうと、「あなたはわたしを誰と言うか」と。一人一人がイエス様をどのような方と信じて、イエス様に対して自分がどのように向き合って生きているか、このことがクリスチャンの本筋、中心です。ですから、弟子たちはびっくりしたのです。そのように問われて、何と答えたらいいか。取り敢えず生活の一切を捨ててイエス様の弟子になって、四六時中イエス様と生活を共にしてそばにいるのですから、今更「誰?」と言ったって、「イエス様はイエス様じゃないか」と、思ったかもしれません。しかし、自分ではっきり「イエス様は私の主です」と信じることが大切です。

 

クリスチャンホームに生まれ育った私もそうだったのですが、讃美歌を歌ったり、聖書のお言葉を聞いたり、お祈りをしたりと、生活はクリスチャンと変わりません。しかし、その生活の中に生きている私はイエス様を信じていたか?と言うと、その当時はどうも怪しい。信じていたような信じていないような、何か借り物の洋服を着ているようで、自分のものになっていない。イエス様を信じる信仰は、そのような借り物では役に立たない。この教会も二代目、三代目のクリスチャンホームの皆さんが増えておられますが、そのような意味で「あなたは何を信じ、何に生きているか?」ということを、自分で選択し、決断しなければ、何の役にも立たない。信仰とは、アクセサリーや、あるいは教養講座の趣味ではありません。切れば血の滴(したた)る現実の生活の中で、いろいろな事柄や問題の中にあって、信仰に立って生きることが幸いな生涯であります。それによって慰めが与えられ、望みが与えられ、力が与えられる。いろいろな面で自分にはない新しい力によって生きることになる。だから信仰に立って生きることは幸いですが、現実の問題は大変厳しく、私たちに迫ってくる。皆さんも体験済みのように、夜も眠られないぐらいの悩みや苦しみの中に置かれます。世間の人が「あんな苦しい中にいて……」と思われる中で、なお「私はこの信仰に立って生きている」と言えるとするならば、これは大成功と言いますか、大変幸いなことです。ところが何十年教会に来ていても、いよいよ事が起こったときに、問題にあたったとき、その信仰がどこに行ったやら、訳が分からなくなると、これほど悲劇はない。気の毒なことです。だから、他人事(ひとごと)ではないのです。私にとってイエス様を信じる信仰は何なのだろうか?そしてそれは本当に役に立つのだろうか? 私たちの実際の生活に役立たないのだったら、早くやめたほうがいいのかもしれません。あるいは役に立たないと思うのだったら、役に立つようにどうすればいいのか。そのことを真剣に考えないと、ただ惰性で「日曜日になった。暑いけれども先週も行ったし、今週も行かなければならない。これは決まっているからそうしないと何かもの寂しいから行こうか」と、教会に来るだけ。それも悪くはないと思いますが、もったいない。せっかく来るのでしたら、やはりその結果、効果のある、役に立つ信仰を身につけたい。そうではないでしょうか。そのために、一人一人が求められている事がある。

 

イエス様はよみがえられた後、弟子たちにご自身を現してくださいました。ガリラヤ湖畔で、朝早く弟子たちが魚を取っていた所に来られて、弟子たちに「子たちよ、何か獲物はあるか」と声をかけられた。弟子たちは「ありません」と。するとイエス様は「船の右の方に網をおろして見なさい」と言われた。言われたとおり網をおろしてみると、大変たくさんの魚が取れた。ふと改めて見直すと、それはイエス様だったという記事があります。その後、弟子たちが岸に戻って来ると、炭火がおこしてあって、イエス様が食事をお与えになられた。食事が済んで、ペテロに「あなたはこの人たちが愛する以上にわたしを愛するか」と三度問われます。そのときペテロは「わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」と答える。最後にイエス様が「あなたはわたしに従ってきなさい」とおっしゃったのです。ペテロはそばにヨハネがいた。「この人はどうなのですか」と言った。するとイエス様が「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか」。冷たい言い方かもしれませんが、そんなことはお前には関係がないと言ったのです。

 

私どもも、ともするとすぐに人を見る、周囲を見る。「あの人はどうなのだろう」「この人はどうなのだろう」。イエス様が求めているのは他人ではない。「あなた」なのです。私たち一人一人がイエス様に対して「あなたこそ、生ける神の子キリストです」、あなたは私の救い主、私の主ですと、はっきり告白する信仰。口先で言うだけではなく、「イエス様が主です」と告白する以上、生活のすべての中で、食卓の主であり、財布の中の主であり、自分の生活、仕事の主であり、また私の人生の主でいらっしゃることにつながらなければ意味がない。私の人生は私が主人、イエス様は時々助けてくれる助け主、時折来てもらったらいい。普段はあまり顔を出されるとうるさい、できるだけ遠ざかっておきたい。困ったことがあったら、「イエス様!」と、110番、あるいは119番ではありませんが、「イエス様!」と呼んで、都合のいいところだけしてもらうというのなら、それは「主」とは言えない。「主」とは、主人、中心。私の中心はイエス様。ペテロが信仰告白した「あなたこそ、生ける神の子キリストです」とは、その意味なのです。救い主であり、わたしを救ってくださる方だと。だから日常生活にいろいろな問題が起こってくるとき、自分では到底手が出ない、あるいはできない。そういう事がたくさんあります。知恵もない、力もないし、ましてやどんどん年も取ってくるし、収入は年金しかないから、こんなことでいったい私は何ができるだろうかと思っている。それで失望する、がっかりする。ところが「イエス様は救い主」と告白した以上、私を救ってくださるのは年金でもなければ、どこどこのお医者さんでもない。あの人でもない、この人でもない。イエス様は私を救ってくださる御方だと信じているか。どうですか?皆さん、健康問題があって、私はどうしようか、そう悩むときに、何を救い主と信じているか。私たちの大切なことは「主」、すべてのものの救い主でいらっしゃるイエス様が、私のために備えてくださる道がある。そしてイエス様は私をどのように導いてくださるか、一つ一つイエス様と密着して生きる信仰、これがクリスチャンの生き方です。だから家族とも違うのです。神様の導かれるところに確信を持って生きることです。

 

ローマ人への手紙14章6節から8節までを朗読。

 

6節に「日を重んじる者は、主のために重んじる」とあります。これはパウロの時代でありますが、ユダヤの人々の中にもこの日は良い日、この日は不吉な日、悪い日、そのようなものがあったようです。だから何か事をするときに良い日を選ぶ、吉日を選ぶという。ところがそのような世の倣(なら)い事、習慣に縛られて生きていた多くのユダヤ人がイエス様の救いにあずかって、そのようなことにとらわれる必要がない。いつでも毎日が最善の日、良き日だと信じる人もいた。中には、どうしてもそれから抜けられないけれども、イエス様に従いたいと願っているクリスチャンもいる。それに対してお互い同士けんかになるのです。「お前、あんなものを相変わらず守っているのか!そんなのはクリスチャンじゃない」とか、そのようなことを言う。また言われたほうは「お前は先祖伝来の仕来りも守らないでふらちなやつだ」と、仲たがいが起こってくる。「ガラテヤ人への手紙」にも、そのようなことが書いてあります。そのときにパウロが何と言ったかと言いますと、日を重んじようとする人もいれば、日を重んじないで済ます人もいるだろうし、そんなことはどうでもいいのだ。大切なのは、たとえ日を重んじる人でも「主のために」と、神様に従ってこのことを守っていこう。「神様が私に今『このことをこうせよ』と求めているから従います」と、その信仰に立って生きていかなければいけない。守らない人、どの日でも同じだと言う人にとっては「どの日でも同じだ」という言い方ではなくて、主が私にそのことを守る必要がないように導いてくださっている。「主のために」と、神様がそのように願っているからと、一人一人に求められるところに従う。そのように言っているのです。

 

だから、その次の所に「また食べる者も主のために食べる。神に感謝して食べるからである。食べない者も主のために食べない。そして、神に感謝する」。この食べる、食べないというのは、旧約聖書に汚れた動物、清いもの、食べてよいものという細かいルールが決められている。何百年という長い年月、そのような習慣の中に生きていた人たちは、それを大変恐れたのです。恐怖心を持って「こんな物を食べたらばちが当たる、天罰に遭う」と、その恐怖の中に生きていた。だからそれを守る人もいれば、クリスチャンになったら「そんなものから自由なのだ。イエス様によって解放されたからそんなものは気にする必要はない」と言う人もいる。そこでまた、争いになる。それに対してパウロが「食べる者も主のために食べる。神に感謝して食べるからである」と、「食べない者も主のために食べない。そして、神に感謝する」。食べるにしても食べないにしてもどちらでもいい、大切なのはあなたのしていることが、それがキリストのため、主のため、はっきりとその救い、その信仰を持って立っている。7節に「すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない」。すべて生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものとなりきっている。イエス様が私を救ってくださって、私は主のものとなる。どうぞこのことをもう一度心にとどめておいていただきたい。私たちは自分のために生きているのではなくて、私たちのために死んでよみがえってくださったイエス様のために生かされている。だから、私たちは日々のすべてのことを主のためにするのでしょう。食事をするときも感謝して頂きます。主のために食べるのですから、自分が食べたいから食べる、食べたくないから食べないのではない。お祈りして神様が備えてくださったものを感謝して頂く。そうすると好き嫌いはなくなります。好き嫌いを言っていたら、神様に従えませんから。だから、私たちは感謝して、神様のために生きる者となるときに、私たちの生活のいろいろなものが自己本位ではできなくなる。自分の好き嫌いや損得利害、こちらが楽だから、こちらが何とかだからとか、自分本位の生き方はできなくなります。そうではなくてどんなことも主のために、私は今日、主のために。仕事に出るのでもそうでしょう。会社に勤めようと、その他何か仕事をするにしても、それは会社のために働いているわけでも、自分のためにそこで働いて生活を成り立たせているのでもない。生活のためではなくて、主のために。そこまで私たちは自分を徹底して主のものとするのです。

 

だからその少し前のところですけれども5節の終わりの所に「各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである」とあります。「確信」、言い換えますと信仰なのです。今私がしていることは、これは私のためではなく、主のためにこれをさせていただいていると、このことを確信する。家庭にあって主婦の方は家族の世話をしている。これは主のためにしているのであって、主人やあるいは子供たちのためにしているのではない。そういう日々の生活の中に「あなたこそ、生ける神の子キリスト」、あなたは私の主です、救い主ですと、しっかり信じて生きることがクリスチャンの生き方です。それができないのでしたら、信仰に立っているとは言えません。自分の生きる動機、生きる目的をどこに置いているか、日々考えていただきたいと思います。

 

「ピリピ人への手紙」2章13節に「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」。病気などしますと、どんな治療法がいいだろうか、あれが良かろうか、これがよかろうかと迷います。そのほかのことでも、どれが良かろうかと悩むことが多くあります。しかし、大切なのはあなたが今求められること、神様から何を求められているか、神様との関係で判断することです。あの人が言ってくれたから、この人が言ってくれたから、これが良さそうだから、こういう例があるから、これにしようというのでしたら、後になって悔やむ。「ああ、しなかったらよかった」。「し過ぎた」とか「し足らなかった」とか、グジュグジュ言うではありませんか。大抵、自分では気がつかないのですが、周囲の人はみな聞いていますから、悔やんでいると分かります。大抵そうですよ。だから、悔やまない人生を生きるにはどうするか。それは一つ一つ事に当たって、はっきりとこれは主から出たことである、神様が私にこのことをさせているのだと、確信を持つことです。

 

度々お話をしますけれども、家内の両親が今……、いわゆる老人介護問題の真っ只中、最盛期なのです。父も、本当に皆さんのお祈りを頂いて、取り敢えず、幸いに素晴らしい住まいが与えられました。その先のことは分かりません。また、本人がどう言うのか分かりませんが、とにかく決まりました。先だっても家内が父のところに行っていろいろとこれからのことを説明する。年を取っていますから、父も理解ができない。だから何を言われているか分からない。それでまた親子げんかをする。父が怒って「お前は何でも先走って早くやりすぎる。老人のペースに合わせてくれんとおれは分からん!」と言って怒鳴られる。「これからはおれの言うことだけ、それだけをしとけ!」と言われた。すると家内は一生懸命に父のために心を配ってやっているものですから、ついカッカときて「私はあんたの奥さんではないのだから、妻じゃないのだから!」と言って、売り言葉に買い言葉になり、帰りの車に乗ってつぶやくわけです。その気持ちは分からなくはない。ところが、あまりにも娘だから親のために、何とか最後の老後、この後どのくらい生きるか分からない、本人は5年と言っていますが、それは分かりませんけれども、その間少しでも何とか「楽しい、良かった、幸いな人生だった」という思い出を残してもらいたいと、娘は思う。だから一生懸命になる。しかし、その気持を相手が受けてくれないためにガタッとなる。その気持ちは分かるのですが、もう一つ違う気がする。何かが違う。それは誰のためにしているのか。そこで、私はひとしきりつぶやきを聞いた後、「あなたは誰のためにしているの?」「父があんな状態だから仕方がない。私が引き受けざるを得ない」「そうではないでしょう。主が『せよ』とおっしゃっている。主が『負え』といわれる重荷を負うことであって、つぶやくことはいらない」。

 

13節にありますね。「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ」、神様は私たちに絶えず促(うなが)してくださることがある。私たちの心に思いを与えてくださる。一日中、いろいろなことを感じます。あれをしようかな、あれを食べようか、あそこへ行こうかな、いや、あれはやめとこうかな、暑いからこうしようと、心の中で激流のごとく、次から次にいろいろな思いが常に行ったり来たり流れていきます。その中のわずかなものだけをパッ、パッとつまんでは、それを実行しています。自分の一日の生活を考えてご覧なさい。自分のしたことと、心にわいてきた思いを比べるならば、浮んで消えた思いのほうが多いのです。皆さん、そうでしょう。今朝起きて「今日は礼拝に出る。礼拝に行く前にあそこへ寄ろうかしら、寄るまいかしら。そのあと、あそこへ行こうかしら、ここに行こうかしら。礼拝は何時に済むから……」などと考える。思いが次々と流れているのです。ところが、夜、寝るとき振り返ってみると、いろいろな事をしたいと思ったけれども、どんどん消えていって、できた事はわずか5本の指に入るか入らないかでしょう。何がそれを選ばせているのか。いろいろな思いが無数に流れていく中で、ピッ、ピッ、ピッと、選ばれてきた思いだけが実現され、残っているのです。

 

ここに「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ」とありますが、実は私たちのうちに神様が願いを起こさせてくださる。家内が言うように、それは親のため、という動機付けがあったかもしれない。しかし、神様が今私にこの思いを与えてくださったのだと受け止めることが信仰なのです。あれをしたいな、これをしたいなと思うでしょう。あの人にこうもしてあげたい、あそこへ行ってあれを買ってこようか。今日は安売りだし、夏物のセールが始まったから行こう。どこへ行こうか、井筒屋に行こうか、伊勢丹にしようかと迷う。そのときに、伊勢丹にしておこう、こちらのほうが安いからと、それで決まったように思いますが、そうではなくて、今こういう思いを与えてくださった神様がここへ導いてくださったと、自分の思いを神様にささげる。そして、これは主から出たことだと確信して、信じますと、本当に信じて「主よ、あなたが導いてくださいましたから」と出かける。といって出かけて行って「これは安い。50%になっている、40%になっている。これは安い」と、ポッと飛びつくのではなくて、そこでも祈るのですよ。「これを買おうかしら」と思いが起こったときに、安いから買うのではなくて、これは主が私に与えようとしてくださることなのだろうかと、もう一度そこで主の思いであるかどうかを探ること、この作業をしなければ、後で悔やみますよ。買って帰って、翌日はたんすのゴミですよ。無駄な買い物をしたな、衝動買いだったと悔やむ。そうではなくて、これは神様から出たことだと信じることが大切です。確信がもてないと、誰かが保証をしてくれないかと思う。「ねぇ、私のこんな考え、これは神様から出たことかしら、あなたならどうする?」と人に聞こうとする。これこそまさにイエス様が「あなたは、わたしに従ってきなさい」といわれる理由です。ほかの人とは関係がない。人に相談してもそれは分からない。あなただけが神様の前に決断しなければならない。このことを心にとどめておいていただきたい。「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ」、今、神様が私にこの思いを与えてくださった。これはきっと神様からの事に違いない。主よ、あなたがそのように願っているならば従いますと、心を常に神様に定めていくこと。そうしますと、それができる、できないとか、私に力があるとか、ないとか、そういう事も感じますね。してあげたいのだけれども、財布を見たらできない、あるいは自分の健康を考えてみたら、そこまではできないし、いろいろなことで不可能だと思う。でも、これは主が「せよ」と言われるのだと思ったときには、自分に資力がなく、知恵もなく、何もなくても、神様はどんなことでもお出来になる。「実現に至らせるのは神であって」とあります。それを具体的に実行させてくださるのは神様であって、あなたではないのです。神様の力が働いてくださる、力が私たちに注がれてくる。だから、自分ができないことはない。初めから、こんなことは私にはできないからと考えてしまうのは間違い。神様がさせてくださるならば、どんなことでもできる。そして今この問題、この事柄が与えられている。ここでどうすべきなのか、真剣に祈って主を求める。主のみ心と確信したならば、それに従って行く。どうぞ、人から言われるのではなくて、自分自身が神様の前に決断するのです。

 

そうすると、神様はそのことを具体化させてくださる、実現に至らせてくださる。神様は失敗と思えるようなことであっても、時を経て、やがてその失敗を益としてくださる。神様はこのことをしてくださったと感謝できるようになる。神様が実現に至らせてくださるプロセスは、その時間は1年がかり、2年がかり、10年がかり、もっとスパンが長い時間の流れの中で実現されていきますから、失望することはない。それどころか、私たちはしたことを感謝することができる。だから、14節に「すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい」。神様に従ってやっていくとき、確信を持ってするとき、たとえそれが失敗しても、つぶやかない。うまくいっても誇りとならない。あるいは自慢して、天狗になることもない。すべてを感謝することが出来、喜ぶことが出来る。このような人生が信仰に立って生きることなのです。

 

ところが、善き願いを与えられても、ついいろいろなことを考え、周囲のことや自分のこと、損得利害、いろいろなことを考えてやめるのです。あるいは別の道を選ぶ。別の道を選んで「してやったり、良かった」と思うけれども、後になって大抵つぶやきます。あるいは失望します。どうぞ、私たちはどんなことがあっても、時に「そんなものしてやるか!」とか、「あいつには一円だってやるものか」と、いろいろな感情が神様からの思いをふさごう、妨げようとしてきますが、その中で真剣に「主よ、あなたに従いたいのです。主よ、あなたが私に求めていることは何でしょうか」と、どうぞ祈ってください。そうしますと、今まで怒りやねたみやさまざまな思いが渦巻いていた心から、それらがスーッと消えていって、「そうだ、これは主が私に与えられた事。ここで私がすべきことはこのことだ」と、はっきりと確信が与えられる。そうなると、人が何と言おうと、そんなことは気にならない。いや、むしろ主に従う喜びが私たちのうちにわいてくるのです。また神様がそのことを喜んでくださるという確信が与えられる。

 

だから、私たちはどんなことも自由であり、またどんなことも、何をしても構わない。しかし、私たちがただ一つ大切にすべきことがある。それは、これは主から出たことかどうか、このことを絶えず自分に問いかけて、ここにあるように「実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」と信じる。神様が「よし」とおっしゃって、今この思いが与えられている。主から促されている事がある。そのところで、「はい」と従っていく者となりたいと思います。それを逃しますと、後で悔やみますから、どうぞ、悔いのないこの地上の生涯を歩みたいと思います。その秘けつはただ一つ、どんなことにも主の導きを確信し、主のために生きる道を選び取っていくことであります。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。