いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(160)「十字架を誇れ」

2014年04月06日 | 聖書からのメッセージ
 ガラテヤ人への手紙6章11節から18節までを朗読。

 14節に「しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである」。
 私たちが信じる信仰、イエス様の救いの原点はどこにあるでしょうか。イエス様、神の御子が人となってこの世に来てくださった。この方が私たちの救い主でいらっしゃることを信じる。これは大切な事です。さらに、キリスト教の信仰、私たちの信仰の根本は十字架以外にない。またそこを離れると、すべてが消えてしまいます。

教会に来ると、十字架の印が掲げられています。この教会でも玄関の屋根の上に十字架が掲げられています。この講壇の正面にも十字架のマークといいますか、印があります。しかし十字架とはそもそも飾って楽しい話ではないでしょう。本来、これは刑罰の道具として、処刑の道具です。そんなものを麗々(れいれい)しく飾ったり、時には首にペンダントとしてかけたり、そんなにまでなぜするのか?と思います。しかし、十字架がなければ、私たちは無といいますか、何の意味もない。神様がいらっしゃることを信じても、十字架がなければそれはむなしい。イエス様が私のために来てくださって、救い主となったと言っても、十字架がなければ意味がない。私たちの信仰は十字架を抜きにしては有り得ないのです。

 だから、パウロは14節に「しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない」と語っています。「誇とするもの」とは、分かりやすく申しますと、私たちの生きがい、あるいは自分という者の値打ち、自分をどういう者として受け止めていくか、これが「誇り」であります。ある人は家柄を誇ります。自分の先祖はこうであったとか、あるいは親はどうであった、おじいさんは……とか、自分はあの人よりもこの人よりもこういう点で家柄がいいと、誇る人もいます。その人にとって、そういう家柄に生まれた自分は値打ちがある。自分は生きる意味がある者だ、と思っているわけです。あるいは、ある人にとって、そんな家柄などより、これこれの大学を出たという学歴を誇ります。東大出だとか、海外のハーバード大、オックスフォード大だとか、そういう有名大学を出たということを誇りとする。なぜなら、それによって自分の値打ち、自分の存在価値を見出す。これが「誇りとするもの」なのです。また、ある人にとってはお金を誇ります。これだけの蓄えが、これほどの財産がある。心ひそかにそればかり思う。財布があるからと、これを自分の生きがいにしている人もいます。 
人は自分が生きている値打ちがある、価値があると思いたい。これを自尊心といいます。自分を尊いものと思う心。これがなければ人は生きられません。全く自尊心がなくなって、自分が無意味だ、無価値だ、生きていても仕方がない、何の値打ちもない、それどころか迷惑千万この上ないと、100パーセントそう思ったら生きられません。けれども、人間はどこかで、私はあの人よりもこれができる。この人よりもこのことに優れている、という優越感があります。自尊心は優越感でもありますが、そのようなものが常に働いている。だから、生きておられるのです。このようなところが私にはあるから、自分には値打ちがある。あの人からもこの人からも、みんなから好かれているから、私は何もできなくても、それなりに値打ちがあると思って、それによって立っている。これが私の支えだというもの、それが誇りであり、自尊心であり、また優越感でもあるのです。ところが、それは逆にひっくり返ると劣等感にもなります。私はこれこれの大学を出て、こんな資格を持って、誰にもできないような技術や知識があると思っている。しかし、同じ分野で自分よりも優れた人がいると、あいつより負けたなと劣等感に落ちる。だから、そのような優越感と劣等感のはざ間で上がったり、下がったりしながら生きているのが現実であります。

それは間違った生き方です。聖書には、人の生きる値打ち、人が人として生きていく不変的な価値、それはそのような家柄によらない、持っている財産やお金の問題でもない。あるいは職業、学歴の問題でもない。そのようなものにかかわらず、すべての人に人として生きる大切な値打ちがある。そのことを聖書は語っているのです。だから、普段自覚しないままに、世の中の人と同じように、私はこれができると思っているとすれば、それは聖書から離れているのです。持ち物の誇り、有形無形のさまざまなものを自分のより所とし、誇っているとすれば、それは神様をないがしろにしていることになります。創世記に人が造られたときのことが語られていますが、人を神にかたどって尊いものとして造ってくださったとあります。これが聖書を通して神様が語り掛けていることです。あなたは大切なものだよと言っているのです。どんな被造物であっても、たとえチンパンジーや、オランウータンであろうとゴリラであろうと何であろうと、類人猿と言われる人間らしいとか、人間によく似ていると言われるどんな動物にも勝って、人は何が尊いかと言うと、人は神の尊いかたちにかたどって造られた存在であることです。言い換えますと、神様の愛する対象として、神様の愛に生かされる存在として造られたものということです。このことを抜きにしては、正しい自尊心、自分が大切だと信じることができません。自分自身を愛することもできません。自分には能力もない、これもない、あれもない、ないないづくし、私は生きていて何で意味があるのだろうかと疑うならば、それは神様から離れている結果です。あれができるから、これがあるから、こういう誇りとするものがあるから、私は生きている値打ちがある、生きていて当然だ、生きる権利がある、というのではない。私たちはすべて神様によって造られて、どんな人も神様の尊いかたちに造られた存在なのだ、これを信じて生きること以外に、私たちの値打ちは有り得ないのです。ところが、残念ながらそのような思いは人の心から消えて、先ほど申し上げたような、この世のさまざまな目に見える事情、境遇、事柄を誇りとし、それを自分の値打ちと考えているのが現実でしょう。これは大きな間違いです。神様に対する罪なのです。そして、私たちは神様から離れて、自分勝手な生き方をして行き詰まっていました。でも、神様はそのような私たちを見捨てていらっしゃらない。神様は私たちを愛するゆえに、絶えず呼び掛けて、私たちを求めていてくださる。イザヤ書43章に「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの」(4節)、どんな国であろうと、民族であろうと、そんなものを捨ててでも、あなたを顧(かえり)みるのだ、とおっしゃる神様。それほどに私たちを大切なものだよ、と言われる神様を抜きにして、私たちは有り得ないのです。ですから、その神様の愛に生きる者となること、その道筋が十字架なのです。

14節に「しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない」。イエス様の十字架以外に私のより所、私の値打ちとするものがあってはいけない、というのです。ガラテヤ人への手紙を書いたパウロはよほど無能、無力で、十字架しか誇ることがなかったかと言うと、そうではなかったのです。

ピリピ人への手紙3章2節から7節までを朗読。

ここでパウロが肉の頼みならわたしにも無いことはない。いや、それどころかたくさんあると言っています。私たちは、そんなにたくさんは無いけれども、小さなものを一生懸命に握って、これがあるから、としがみついていますが、パウロはそうではないと言うのです。有り余るほどあるのです。4節に「もとより、肉の頼みなら、わたしにも無くはない。もし、だれかほかの人が肉を頼みとしていると言うなら、わたしはそれをもっと頼みとしている」。しかも「わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、6 熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である」。実にパーフェクトです。品行方正、学力優秀、何とかかんとかと、彼は100パーセント人のうらやむような境遇であり、そういう資質を持った人なのです。彼の言う誇りとするものは、今の私たちにとっては何のことかいなと思うでしょう。「八日目に割礼を受けた者」なんて、そんなものは有っても無くても、私たちには何ともない。ところがパウロの時代、このイスラエルの人々にとって「八日目に割礼を受ける」ことは、誠に誇りとするべき事柄です。それは長いイスラエルの伝統の中に自分が生きているということの証しでもあります。そのほかに「イスラエルの民族に属する者」、イスラエル民族といいますのは、アブラハムを父祖として神の選びの、特選の民ですから、こんな誇らしいことはない。世の中にたくさんの民族がありますけれども、わが民族ほど素晴らしいものはいない。そしてこの民族に属している自分は有益な者だ、という自信がある。そればかりでなくて「ベニヤミン族の出身」、ベニヤミンといいますのは、ヤコブのいちばん愛する末っ子です。言うならば、ヤコブの12人の子供のうちで、ヨセフも愛されましたが、やはり何と言っても、ベニヤミン、いちばん末っ子のベニヤミンは格別ほかの人よりも愛された。ベニヤミン族はそのような誇りを持っているのです。考えてみたら、つまらないこととは思いますが、人の誇りとはそんなものです。自分ひとりが粋(いき)がっているだけです。しかし、その当時パウロにしてみればこれは素晴らしい誇りとするもの、肉の頼みであり、自分の自尊心のより所であった。また「熱心の点では教会の迫害者」、宗教心の篤い人であることは確かです。そればかりでなく「律法の義については落ち度のない者」、イエス様の所に来た一人の青年に、「律法を守りなさい」とおっしゃったら、「それらはみな守ってきました」と言われ、イエス様は、感心して慈しんで彼をご覧になったという。パウロはそれに負けず劣らず「律法の義については落ち度のない者」、一つとして自分は律法に違反したことがない。自分は正しい人間、あいつも、こいつも、あんなものは駄目だ、正しいのはおれ一人だ、というぐらい、彼はそれを誇りとしていた。

その彼が、7節に「しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった」。それまで、誇りとするものが十本の指以上ありました。それをより所として生きていて、自分を義人としていた。ところが、ダマスコへ行く途中でよみがえってくださったイエス様に出会った時、初めて自分の誇りとしていたものが、一切消えていく。「シンデレラ物語」で、夜中の12時になったら今まで素晴らしかった馬車や、馬や、僕たちが、いっぺんにねずみになったりかぼちゃになったり変ってしまう。まさにそういう経験です。パウロにとって、今までベニヤミン族の出身、イスラエルの中のイスラエル、ヘブル人の中のヘブル人、誇りとしていたものが、言うならば、かぼちゃの馬車、ねずみの馬だった。イエス様に出会った、真(まこと)の光を見たときに、それまでの一切のものが、価値のない、ガラクタなものであることに気がついた。だからその後8節に「わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている」。今まで誇りとしていて、それが自分にとっては大変な得である、自分にとって利益だ、と思っていたものが、これは「損と思う」という。むしろそれを持っていることはマイナスなのだ。ただになくなって良かったではなくて、いやそんなものを持っていた自分はむしろマイナスの自分であったと認めたのです。更にその先に「キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている」。塵芥(ちりあくた)、それこそ見たくもないもの、「ふん土のように」自分の誇りとしていたものを全部捨て去っても惜しくない。時に、私達は捨てたけれども、惜しいなと、また拾いに行く人もいますが、パウロはそんなもの一切を「ふん土のように」捨てて惜しくない。

なぜそのように思えたのか。それは、8節にありますように「わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値」のゆえです。イエス様がどんなことをしてくださったか。イエス様はどのような方か。パウロはそれまでヨセフという大工の子供であったイエス様しか知らなかった。その人が、とんでもない「わたしは神の子だ」なんて言う。その上、よみがえったと言い、彼は神の子であった、御子であったと信じるクリスチャンは、どうしても許せない。自分の正義感からすると許せないと思っていたのです。ところが、そのよみがえってくださった主に出会った瞬間、神の御霊によってキリストの何たるかを知ったのです。神の子でいらっしゃった方が、あえて神の位を捨てて人となってくださった。ピリピ人への手紙の初めの所にそう記されています。

ピリピ人への手紙2章6節から8節までを朗読。

これはイエス様のご生涯、イエス様がどのような方でいらっしゃるかを語った一節ですが、これは同時にパウロの信仰の告白です。キリストを知る絶大な知識、その知識とは何であったかと言うと、この6節以下に「キリストは、神のかたちであられた」、神と等しい御方、神ご自身と言ってもいい。そのような神の位に居給うた方が、その神の位を捨てて、それを「固守すべき事とは思わず」と、わたしは神だから、そんな事、わたしは嫌だ、とは言わないで、あえて人の世に下ってくださった。これは破天荒なことではないか。こんな事って有り得るだろうか、神が人となるなど、パウロはその事自体に大変な驚きを感じた。

しかも、人となったばかりでなく7節に「おのれをむなしうして」、言い換えますと、自分を捨て去って、自分に死んでしまった。そして何をしたか?「僕のかたちをとり」、僕(しもべ)と成りきってくださった。「人間の姿になられた。その有様は人と異ならず」と、弱き肉体を持ち、罪多き中に苦しんでいる私たちのそばに来てくださった。そこに宿ってくださった方、こんな事ってあるだろうか。それまでイエス様をただ単に、あのヨセフという大工の息子が、何を偉そうなことを言いやがって、とですね。「わたしは神の子だ」なんて、そんなのは許せん、と思っていたが、実はそうではない。このキリストこそが神の位に、神ご自身でいらっしゃった方が、なんと、人となってくださった。これは彼のそれまで誇りとしていたもの一切を打ち砕く大変大きな力です。それは今私たちにもそのように迫ってきます。
これは信仰の原点でもあります。イエス・キリストは神の子であり、神なる方が人となってこの世に来てくださった。しかもこの世に来るご目的は何であったか? その先8節に「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」。この世に来て、王様となるとか、あるいは貴族となって生まれたわけではない。人の上に立つ者となったわけでもない。僕となって、人に仕える者として、世の捨てられた人々、病の中に、苦しみの中に、悲しみの中に、罪のうめきの中にいる人々の許(もと)へ来てくださった。そして僕となってくださったのです。しかもその最後は何であったか。「死に至るまで、しかも十字架の死」、イエス様は「十字架の死」を受けるためにこの地上に来てくださった。このことがパウロにとってどんなにショッキングな事であったか。それまで、先ほどお読みいたしましたように「律法の義については落ち度のない者」、おれのどこが悪い、どこにも悪い所がないじゃないか。私は正しい人間、どこにも落ち度がない、と言い切ってきた彼。そして、私にはあれがある、これがある、こういう誇りとするものが、自分には家柄があり、民族があり、熱心な宗教心があり、学問学歴もあった。そのように自分を誇りとしていたが、そうではない。彼は神様に対して罪を犯している。自分の値打ちはそのようなものによるのではない。人は神様から造られた、神にかたどられた尊いものとして造られた自分は、神様を捨てて自分を誇りとしていた。「おのが腹をとなし」(3:19文語訳)と、彼はピリピ人への手紙で語っています。そんな自分のために十字架に死んでくださった。これがわたしたちの信仰のすべてです。この十字架がなければ、イエス様をいくら信じても意味がない。イエス様が十字架におかかりにならなかったら、十字架を避けて通られたら、いくら神の子が人となっても、私たちとは縁がありません。宇宙を造られた神様がいらっしゃっても、私たちに十字架がなければ、その神様と縁なき者たちです。ところが、イエス様はゴルゴダの丘で、両手両足を釘付けられ、胸をやりで突かれ、茨の冠を被せられて、「父よ彼らを赦し給え」と、父なる神様の裁きを受けてくださった。「わが、わが、なんぞ我を見棄て給うや」と、父なる神様から永遠の滅び、黄泉(よみ)にまで落とされました。しかし、父なる神様はその死の中から、イエス様をよみがえらせてくださいました。イエス様は、死んでよみがえったというばかりでなく、そのよみがえりの中には十字架の完成があります。これを抜きにして、私たちはなにが誇りとするものであるでしょうか。パウロはそう言うのです。また私たちもそうではないでしょうか。

ですから、もう一度初めのガラテヤ人への手紙6章14節に「しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない」。パウロはそれまで、あれがあるから、これがあるから、あの人よりもこの人よりも、誰よりも私は生きる値打ちがある、価値のある人間だ、と誇りとしていた。それら一切のものが潰(つい)え去ってしまう。そして今度は、こんな私のために死んでよみがえってくださった、あのイエス様の十字架、そこにイエス様は私のために死んでくださった。それは私が死んだのだ。そして今生きているのは、主が私のうちにあって生かしてくださっている。私は赦され、生きる者とされている。自分が生きているのではないのだ。私は十字架によって死んだ者、その十字架の死を生きがいとして、パウロは新しいいのちに、イエス様のいのちに生きる者と変わったのです。

ガラテヤ人への手紙2章19から21節までを朗読。

19節に「わたしはキリストと共に十字架につけられた」。彼は、イエス様が自分のために死んでくださった十字架を知ったとき、一切のものが消え去っていった。「ふん土のごとく」損と思い、何の値打ちも価値もないもの。それまでの自分の生きがいが、誇りとしていたものが、そこで消えたのです。そして今度はキリストによって生きる者、20節に「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」。罪と咎とに死んでいたはずの私を、イエス様はご自分の死をもって、私をあがない、よみがえり給うた主が今度は私を赦して生きるものとして下さった。今、生きているのは、自分のためではない。キリストが私を生かしてくださっている。その原点が、始まりが十字架であり、それ以外にない。だから、彼は、いつもキリストの死をこの身に負っていると語っています。十字架が絶えず、絶えず片時も彼から離れない。それが誇りなのです。私たちはそれを誇りにしているでしょうか。まだこの世の、パウロが言うように、「ヘブル人の中のヘブル人」とか、あるいは「律法の義については落ち度のない者である」、私は正しい人間だ、私のすることに間違いはない、と思って自分を誇りとして、自分の何かをより所としているとするならば、キリストのいのちとは縁のない者です。私たちは自分の生きているより所はどこにあるか。私のために死んでくださったイエス様が、今日も私を赦し、生きる者として生かしてくださっている。その主の御愛と力と恵みを絶えず覚えていく。そのために十字架を誇り、十字架に死んだ者となる。それが私たちの原点であり、始まりです。

20節に「しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」。今なお肉にあって生きているのは、キリストが私のうちにあって生きてくださって、私が生きているのではない、とは言ってみたけれども、しかし、現実はまだ自分が肉にあって生きている。しかし、それは、御子を信じて、イエス様が私の中に宿って生きてくださっていると信じて生きているのだ、とパウロは言っているのです。今、私たちもそうではないでしょうか。どうぞ、キリストのいのちに、そのいのちの始まりである十字架を誇りとして生きようではありませんか。お金が有るとか何とか、そんなことはどうでもいい。今まで誇りとしていたものではなく、私のいちばん大切なのは十字架であり、十字架によって今日も生きる者とされていること。だからこそ、自分は神様から愛され尊い存在であることを自覚していきたいと思います。

21節に「わたしは、神の恵みを無にはしない。もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる」。今までのように、自分が誇りとするもの、これがあるから、私は生きる価値がある、これがあるから私は生きていていいのだ、私のより所はこれだと、誇りとするものがあるならば、その時あなたはキリストの死を無駄なものとしている、ということなのです。十字架を誇りとして、絶えず自分がキリストと共に死んだ者と成りきって、そこに絶えず自分を置いていきたいと思います。イエス様によって生かされ、イエス様の十字架によって赦され、イエス様の十字架によって新しいいのちにあずかっている自分であることを誇りとして、それを喜び、それをいのちとして生きる者でありたいと思います。事情、境遇、生活の事柄がどうだこうだと、そんなことに心を向けていると、キリストの死が無駄になってしまいます。私たちは、主の十字架に死んだ者として、一切を主にささげて、身も心もささげて、よみがえってくださった主によって生かされていること、その十字架を誇りとして、十字架によってあがなわれた者であることを感謝して生きていこうではありませんか。

もう一度初めのガラテヤ人への手紙6章14節「しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない」。主の十字架を誇りとして、生きているのは私ではない、主が十字架に死んで、十字架を通して私に新しい生きるいのちを与えてくださっている。生かされている自分であることをいつも感謝していきたいと思います。そうしますと、不平不満は何も無い。つぶやいたり、失望したり、劣等感に負けるのは、十字架が無いからです。十字架以外のものに心を懸け、それを求めようとする思いがあるから、さまざまな不平不満、つぶやき、苛立ちが起こり、サタンが私たちを捕らえるのです。そのとき、主の十字架を仰いで、主の命によってあがなわれた者であることを感謝して、全く無になって、ただキリストのみ、主のみいませりと、主だけですと、言い切る生涯でありたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。