ヨハネによる福音書15章9節から11節までを朗読。
9節「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい」。
これはイエス様がご自分の使命、そしてそれに遣わされた父なる神様との関係、これが「愛による関係」であることを告白している記事であります。9節に「父がわたしを愛されたように」と語っています。父なる神様が御子イエス様を愛してくださった。イエス様が自らそのように告白しています。わたしの父はわたしを愛してくださった。といって、ではイエス様が父なる神様からどのように愛されたか?考えてみますと、どこにその愛があるかな、と思うような主の生涯です。イエス様のご生涯は決して楽な、楽しいことばかりではありません。むしろ御子でいらっしゃった御方、神の位に居給うた御方が人となるとは、これはとんでもない話だと思うのです。私たちから考えるならば、愛されていたら、もっと大切にされるはずではないだろうか、もっと可愛がってもらうというか、そのようなことを期待しますね。ところが、イエス様は父なる神様からどれほど可愛がられ、優しくされただろうかと思うと、到底そうとは思えない現実です。厳しい人の世に、御子がご自分の位を捨て、身分を捨てて人となる。言うならば親が子供を捨てるようなものです。父なる神様がイエス様に「お前は救い主として、わたしの使命のために世に下って人となれ」と言われるのですから。“可愛い子には旅をさせよ”なんて世間では言いますが、苦労をさせるのがその子のためになる、という意味では、愛する子供を千じんの谷にでも突き落とすのも愛情といえば愛情でしょう。では、イエス様は果たしてそうだったのかどうか、私たちが知るかぎりでは父なる神様から可愛がられて大変恵まれた生涯であったとは、どこにも見ることはできません。むしろ、この地上にいらっしゃる間、イエス様は苦しみと悩みと悲しみの人で、病を知っていたと、イザヤ書53章に語られています。誠に悲惨な、お気の毒なご生涯でした。
生まれた所もベツレヘムの馬小屋であり、生涯が終わったのはあの十字架です。これまたとんでもないご生涯でした。私達は普段大変恵まれた生活を営んでいる。ところが、そのような私たちですらも、ちょっと悩みに遭い、問題に遭い、苦しいことに遭ったら、すぐに悲鳴を上げます。神様は愛してくださらない、どこに愛があるか、神が愛であるならそれを見せてくれとか、勝手なことを言いますが、そんなことを言うならば、イエス様がいちばん言える境遇だと思います。
だから、「父がわたしを愛されたように」と、イエス様はおっしゃっていますが、私たちから言うならば、「父がわたしを憎まれたように」と言うでしょう。わが子を憎むような仕打ちと言ったらいいと思う。それでもなお、イエス様は「父がわたしを愛された」と言い切っているのです。なぜそのようなことが言えるだろうか。これは私たちが神様のご愛を知る秘けつです。イエス様は「わたしは父から大変愛された」と告白しています。この「愛された」というその愛は、イエス様の現実の生活の中で、具体的には形として見えません。あの事もこの事も考えてみると、愛とは程遠い、むしろ憎しみであり、また神様からのろいを受けた人のごとくに……。
イザヤ書53章3、4節を朗読。
3節には「彼は侮られて人に捨てられ」と、そのように神様の位まで捨てて人となってくださった。しもべとなり、人のかたちをとってくださったイエス様。しかもそのご目的はわたしたちの罪のあがないのためであり、ご自分を犠牲にするためでしょう。そうでありながら、人間はどうしたかというと、「人に捨てられ」と、誰もイエス様を大切に尊んだ人はいなかった。人から「侮られ」たのです。そして彼は「悲しみの人で、病を知っていた」とあります。イエス様は悲しみに満ち、また多くの人々の病を身に負うてくださいました。そして「また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった」。どこに神様から愛された証詞、証拠があるかと言うと、私たちが考える意味での愛はありません。「愛」と言うと、何か優しく暖かな、あるいは明るいイメージが付きまといます、ばら色のような。ところがイエス様は、父なる神様の愛にあふれた生涯であったと告白していますが、イエス様の歩まれた生涯は、まさに今読みましたように、「人に捨てられ」「侮られ」「病を知っていて」「悲しみの人」でいらっしゃった。そのように言うと、「おお、私のことではないか」と思われるでしょう。私ほど人に侮られ、また顧(かえり)みられない、また私は体が弱くて次から次へと病気、病院、診察券は余るほどあるような生活。私は病の人、病を知っている。家族の悲しみや自分の身の上のいろいろな悲しい事が次々とある。イエス様は私のようだな、と思います。しかし、私は愛にあふれ、愛されたと思えない。それどころか、神様は私だけをいじめて、苦労をさせている。周囲を見ると幸せそうな顔をしている。まぁ、それは外側だけですが、そのように見える。それでひがむ。これは私たちの現実ですね。
その後4節に「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと」。そして、イエス様のご生涯を振り返りますと、神様ののろいを受けた結果、神様からたたかれ、のろわれて、「打たれた」「苦しめられた」。そのように見える。ところが実はそうでなかったのです。
5節に「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」。実は、そのイエス様のお苦しみ、この世にあって人に捨てられ、悲しみの人で、病を知り、そして神に打たれ苦しめられ、のろわれたご生涯。まさに、そこにイエス様は神から愛された自分だと言い得るのです。ここに私たちが神様のご愛につながっていくところがある。ともすると愛とは、優しく、何でも聞いてもらえて、自分の好きなようにさせてくれる、わがままが言えるのが「愛」だと考えます。人の愛は、そのような人間的な愛で、肉につけるものです。だから、男女の愛や親子の愛、何の愛にしろ、これは神様のご愛とは全く異質のもの、性質の違うもの。言葉は同じで、「愛」という言葉を使いますが、その内容は全く違います。有島武郎(たけお)という明治・大正の文学者がいましたが、彼の作品に『惜しみなく愛は奪う』というタイトルの小説があります。「惜しみなく愛は奪う」、人の愛は、相手からもらう愛なのです。奪うのです。そうでしょう。若い男女が愛し愛されると、相手から、いろいろなものを奪うのです。お互い奪い合うというのが人の愛です。いや、そんなことはない、私は主人のために尽くしてきたと言われますが、でも、どこかで打算がありますから、完全に純粋な愛などありません。どこかで報いを求め、これに対する応答、いわゆる答えてもらいたい。痴話げんかになるのは、私はこんなにあなたのために尽くしたのに、あなたは何もしてくれないではないかと、じゃ、離婚しましょうという話になるので、してくれないことが問題なのです。人の愛はそういうところですよ。どんなに親子の愛は美しい愛だとか、世間では言いますが、これはただ単なる動物的な感情、情です。だから、その愛は相手に対して必ずしもよい結果を生むとは限りません。いや、それどころか、自分の欲望を満足させる、自分の情を満たす、感情を満たす行動にしか出られませんから、結局愛する対象、相手を駄目にしてしまう。だから、人の愛は子供を甘やかすようになるでしょう。英語では「甘やかすこと」を「spoil(スポイル)」するというのです。「スポイル」というのは、グジャグジャに駄目にする、という意味が本来ある。あまりにも扱いまわして、元も子も無くしてしまう。
ところが、神様が愛してくださったのは、どのような愛なのか?言葉での説明はなかなか難しい。でも神様は私たちに一つの具体的な証詞をしてくださいました。それがイエス様ご自身だったのです。イエス様は私たちにその愛を、神様のご愛を示すために、ご自分が十字架の道を歩んでくださった。と同時にイエス様ご自身がどれほど父なる神に愛されたかということを、そのご生涯を通して証詞なさったのです。その証詞たるや、先ほど申し上げましたように、実に私たちの期待、予期している事柄とは到底似ても似つかない現実です。「侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた」。そして「彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだ」、言い換えますと、神様からのろわれた生涯を生きたのだと思いました。
もう一度初めのヨハネによる福音書15章9節に「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである」。ここで「父がわたしを愛されたように」、どのように父なる神様はイエス様を愛してくださったか?それは目に見える形での愛ではもちろんありません。結局、イエス様が父なる神様から愛された生涯とは、イエス様がこの地上に遣わされて、十字架にそのご生涯を終わられる、このわずかな期間のことを通して、イエス様に対する神様のみ思いを測ろうとしますが、実はそうではなかった。その後、死んだイエス様を父なる神様がよみがえらせてくださいました。ピリピ人への手紙にありますように「神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった」(2:9)。言うならば、御子イエス様は神様からの使命を完全に尽くして、天にお帰りになられた。しかも、天にあって、神様はイエス様を愛するがゆえに「すべての名にまさる名を彼に賜わり」、一切の権威を御子イエス様にお与えくださった。父なる神様はイエス様を捨てたのではない。
イエス様がこの地上に遣わされたとき、確かに、神様はイエス様を神の位から人の世に下しました。だからといって、神様はイエス様を捨てたのではありません。イエス様がこの地上に在りし三十三年半近くのご生涯を、絶えずイエス様は父なる神様との交わりの中にいました。そうでしょう。イエス様は絶えず弟子たちから離れて、朝早くあるいは独り静かに父なる神様との交わりを持っていました。あの十字架の上で初めて「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが、わが、なんぞ我を見棄て給ひしなり」。父なる神様、あなたはどうしてわたしをお見捨てになったのですか。そのとき、初めて父なる神様と御子イエス様との関係が断たれるのです。そのとき、初めて罪人として神様にのろわれた者としての断罪をイエス様がお受けになったのです。その時まではズーッと、ひと時も絶やすことなく父なる神様との交わりの中に絶えずおかれていました。その交わりを通して、父なる神様がイエス様を愛してくださっていることを絶えず知り続けた。
私は教えられることですが、9節に「父がわたしを愛されたように」というお言葉の中に、イエス様が父なる神様と隔てない交わり、父なる神様と密接に結びついた関係、これが愛の関係であって、愛されるとはそういうことなのです。愛とは、二つのものが一つになっていくことです。御子イエス様が父なる神様から愛された、その愛された証詞は具体的な行為や状況、あるいは置かれた環境、あるいはそのような条件によって測ることはできません。しかし、ただ一つ言えることは、父なる神様とイエス様とが一つになっていた。密接な隔てのない交わりの中にあること、これが愛の証拠です。
これは私たちの生活の中でもその一端を味わうことができると思います。愛する者と共におりたい、交わりを持つことが幸いです。人と人の愛は限りがある、あるいはそれは本当の意味の愛ではないと、先ほど申しましたが、これはちょっと乱暴な言い方かもしれません。ないわけではない。ちょっと似たようなところがあります。というのは、愛する者と共におりたい、交わりを持ちたいと思うことです。これは愛の特徴です。それが証拠に、愛していない人とは口も利きたくない。愛する者同士だとしゃべらなければおれない。間近に触れ合っておきたいのが愛し合った者の姿でしょう。
イエス様が「わたしは父なる神様から愛されている」とおっしゃっているその愛は、父なる神様と絶えず途切れのない交わりの中にあったことなのです。だから、9節に「父がわたしを愛されたように」、イエス様が、自分は父なる神様から愛されているのだと感じ取ることができた、あるいは確信することができた。それは絶えず「父よ」、「父よ」と、父なる神様に結びついて、深い交わりを絶えず持ち続けていく。だからその後に「わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい」。そして「わたしもあなたがたを愛したのである」。イエス様が私たちを愛してくださった。確かにイエス様は具体的に、十字架に命を捨てて私たちに愛を証詞してくださいました。それは過去の、昔そのようなことを一度してくださったから、というばかりでなくて、それはそれから後の、あの十字架から後の、イエス様と私たちとの愛の交わりの始まりです。だから十字架は神様のご愛を私たちに証詞したものでありますが、それと同時に、それから後の私たちと神様との関係は愛の契約、愛の交わりの中に生きる者と変えられたのです。私たちの罪のためにイエス様が死んでくださった。そのとおりであります。「まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」とローマ人への手紙5章にあります。またヨハネの第一の手紙4章には「わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」とも記されています。だから私たちのためにイエス様が十字架に死んでくださった。そこに愛が証詞されたことは確かで、その証詞された愛はそれで消えた、それっきりでおしまいではなくて、その後、私たちを救い出して、今私たちは父なる神様と、御子イエス・キリストとの深い交わり、愛の関係の中に置いてくださっている。
といって、現実の生活を振り返ると、神様が愛なのだろうかと思えるような事態や事柄があります。しかし、イエス様もそうであったように、私たちも今同じように、そのような生きる悩み、老いる苦しみ、様々な悩み、苦しみ、悲しみ、憤りの中に置かれますが、だからといって神様の愛がないのではない。それどころか、そのような問題や事柄の中を通して、私たちは神様の愛に生きることができます。それは今申し上げましたように、絶えず交わりの中にあることです。だから、私たちがいつもイエス様を信じて、信頼し、朝に夕に絶えず、絶えず「父よ」「父よ」と、イエス様がこの地上に在りしとき、父なる神様と絶え間のない交わりの中にあったように、私たちもまた御子イエス様、よみがえってくださった主と、また「アバ父よ」と呼ぶ御子の霊となって、父なる神様との深い交わり、愛の中に引き込んでくださっているのです。だから9節に「わたしの愛のうちにいなさい」と。
そして、更に続いて10節に「もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである」。イエス様は「父が私を愛されたように」と、父なる神様が私を愛してくださったと言っていますが、それは「わたしがわたしの父のいましめを守ったので」、父なる神様がわたしを愛してくださったことを知ることができ、その中にとどまっておることができた、と語っています。これは私たちの恵みであります。私たちが神様の愛の内にとどまろうとするならば、何をするか?それは交わりを持つこと。父なる神様、御子イエス・キリストとの交わり、その交わりは具体的に何かと言いますと、それは御言葉、キリストのお言葉を絶えず心に置いていくことです。主が私たちに与えてくださる御言葉の一つ一つを信頼して、主との交わりを絶えず持ち続けていくとき、まさにそこが愛の場所であり、神様のご愛にとどまっていく場所でもあります。だから、ここでイエス様が「わたしの愛のうちにいなさい」と言われました。イエス様の愛の内におることはどうすることでしょうか?それは、イエス様が私たちにこの場所に来なさいとか、目に見える形としてではなくて、私たちに御言葉をもって近づいてくださる。御言葉を通して、よみがえったイエス様と私たちが絶えず交わることができるようにしてくださった。ここに愛があるのです。そこにイエス様の愛にとどまる場所があるのです。だから、毎日朝から晩までこの世の様々なことに携わりますけれども、たとえ体はそうであっても、絶えず心がイエス様のほうに向いている。そして主の御言葉を絶えず心に信じ、抱き、それを絶えず味わって、「主よ」「主よ」と、どんなことの中にも主を求めて、主と交わる。これこそが主の愛の中にとどまっていくことです。これがなければ私たちは愛を知ることができません。
だんだんと祈ることも乏しくなり、また御言葉を聞くことも乏しくなり、心がイエス様から離れていってしまうとき、もはやそこには愛を感じることができないし、愛の中にとどまることができません。私たちがいつも主のご愛の中にとどまっていく道はただ交わりを求めることです。主との交わり、その交わりは御言葉をつなぎとしてと言いますか、媒介として、そこをイエス様と私たちとの場としていくことなのです。だから、絶えず御言葉に立ち返って、現実にいろいろな問題や事柄がありますが、その中で不安になるとき、恐れを抱くとき、何か訳が分からなくて、戸惑い、おじ惑うとき、そこで御言葉に立ち返っては、生き働き給うイエス様に触れる。そうしますと、主がどんなに愛してくださっているか、主のご愛のぬくもりと言いますか、イエス様に触れた時の力が私たちの心に与えられます。イエス様と交わっていく時、そこに愛があり、イエス様に触れることができるのです。
12年間長血(ながち)を患った女性の記事があります。イエス様が彼女の住んでいる町に偶然やって来た。イエス様を求めて多くの人、群集が集まった。彼女は何とかして癒されたいと思ってイエス様に近づくのです。長年苦しんでいたこの病を、イエス様なら癒していただけると思って、群集に紛れて近づき、イエス様のみ衣のすそに触れたのです。すると一瞬にして病気が癒されました。彼女は「ああ、よかった」と喜んだのです。ところが、イエス様が立ち止まって「誰かわたしに触ったものがいる」とおっしゃる。弟子たちは「こんなに大勢いるのだから、誰かが触ったでしょう」と。その時、イエス様は「力がわたしから出て行ったのを感じたのだ」(ルカ8:46)と言われました。
私はそのところを読んで「これだな」と思うのです。イエス様に触れなければ駄目ですよ。といっても、その時、たくさんの人々がイエス様に触れたのです。押し合いへし合いしていますから。ところが彼女だけにイエス様の力が出ていったのはなぜか?それはこの女性が何としても癒されたい、イエス様には私の病を癒す力があると信じたのです。だから後で、イエス様は「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われた。信仰を持って、イエス様が私に力を与えてくださることを信じてイエス様に触れたのです。するとイエス様の中にあった力が、その方の中に一瞬にして注がれた。自分には力がない、私たちには力はない、知恵はない、何もない。私たちはただイエス様に結びついて、主に触れていく。「わたしの愛のうちにいなさい」と、イエス様と交わりを持つこと、言い換えますと、愛によってイエス様に密着する。そうすると、長血を患った女性のようにちょっと触れただけではない。いつもイエス様に触れていくことができる。そして、いつもイエス様からの力をいただくことができる。ただ習慣的にイエス様に触れるのではなくて、また、行き掛り上触れたというのではなくて、絶えず「今日も主よ。あなたの力によって、あなたのご愛に満たしてください」、「主よ、あなたとの交わりの中に今日も生きることができるように」と、主を求めて、主のご愛にとどまっていこうと、信仰をもってイエス様に近づいていく。そのときイエス様は私たちに力を与えて、病をいやすどころではない。私たちの性情性格を変え、すべてのものを造り変えて、どんな困難な中、苦しみの中、悲しみの中に置かれようともへこたれない、行き止まらない、倒されない。パウロのようにしぶとい生き方へ、造り変えてくださる。これがキリストの愛に生きることです。愛は力です。
だから、もう一度ヨハネによる福音書15節10節に「もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである」。私たちはイエス様と交わろうとしたって、どこにイエス様がいらっしゃるか分からない、姿かたちはない。木の彫刻なり、これがイエス様だと言われるものがあれば分かりやすいと思いますが、そうではありません。そのようなものは何もありません。しかし、ここでイエス様は、「わたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである」と言われる。「愛のうちにおる」、言い換えると、私との交わりにおることになるのだと。イエス様に触れることができるのですよと。「いましめ」とは、イエス様のお言葉、聖書の御言葉です。私どもがそれをしっかりと味わって、心に置いて、その御言葉に自分を沿わせていく。御言葉に自分を賭けていく時、そこが主に触れる場所、そこが主のご愛にとどまって、主と交わる場所でもあります。私たちはどんなことの中でも、いつもイエス・キリストと交わる。そのために、絶えず御言葉を心に置いていくこと。記憶、暗記しなさい、ということではありません。御霊が私たちに思い起こさせてくださる御言葉を素直に信じ、受け入れることです。これが神様の、主のご愛にとどまる秘けつ。またイエス様からの力を受ける道です。
その後の11節に「わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである」。「わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため」、イエス様の喜びが私たちのものとなる。愛し合っていると相手が喜べば、喜びが伝わってくるでしょう。本当に愛し合っているとね。そうでないと相手が喜んでいると、ねたましくなるだけですから。イエス様が喜んでいるその喜びが、私たちに満たされる。そして私たちの内に喜びが満ちあふれてくる。喜んで生きることができる。私たちの心に絶えず喜びがあふれてくる。そのとき、実は私たちがイエス様のご愛の中にいることの証詞です。状況、事柄、問題がどうこうではなくて、私たちの心に変わらない喜びがあふれてくるなら、そこに主のご愛にとどまっている証詞がある。逆に、喜べない、不満たらたら、つぶやきつぶやきと、そのようなときはイエス様のご愛から、私たちが離れてしまっている。喜びがないのは、その証拠です。だから喜びがあるかないか、私たちの心のリトマス試験紙ですから、神様の前に祈って、私の心には喜びがあるだろうか探ってください。静かに振り返ってご覧なさい。喜べないことばかり、「あれが……」「こいつが……」と、独りになるとよくそのようなことを考える。「あれが心配」「これが困った」「これはどうなるだろうか」「あそこがこうだから、私はこうなって、その次はこうなって、……」そのように考えただけでシュンとなって不安が来、恐れが来て、なんかどんよりとした心になり「ああ……」とため息がでる。そのようなときは、だいぶ重症ですから、もう一度「どこから落ちたかを思い起し、悔い改めて」(黙示録2:5)と、初めの愛に立ち返って、主との交わりによって、喜びある者へと変えられる。神様が私たちをこの地上に置いてくださったのは何のためか。私たちを喜び、楽しみ、感謝、賛美する者にしたいと思っているのです。そうなるための秘けつはただ一つ、「わたしの愛のうちにいなさい」。イエス様の愛に絶えずとどまっていくこと、イエス様との交わりを欠かしてはいのちを失います、愛を失います。私たちの状況、生活の環境、問題や事柄、そんなことはどうでもいいのです。まず、私たちが主との交わりの中で愛にとどまって、主の喜びを喜びとし、私たちに喜びが満ちあふれことです。「満ちあふれる」とあるでしょう。風呂の残り湯のようなものではない。「あふれる」のです。黙っていてもニコニコと喜びが湧き溢れる。お互い顔を見合わせてニコニコッとするが、独りになったらブスッとする。そうではないのです。あふれるのですから、人が見ようと見まいと、喜びに輝く者となりたい。
そのために「わたしの愛のうちにいなさい」。「わたしの愛のうちにいなさい」と、主が今日も招いてくださる。その主のご愛に絶えずとどまる道を歩んでいきたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
ヨハネの黙示録2章1節から7節までを朗読。
4節に「しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった」とあります。
世間でも“のどもと過ぎれば熱さを忘れる”と言います。なるほど、今年も猛暑いわれた8月も過ぎて、ちょっとこの数日朝夕涼しくなったり日中の気温が30℃を切りますと、涼しくなって、秋が来たと感じます。夏の暑かった時のことが陽炎のごとくサーッと消えていくのです。これはいとも簡単に忘れるものだ、と思います。ある意味で、忘れられるから平気で過ごしているといえば言えるのです。いつまでもその時の苦しさやつらさを、目の当りのごとくに感じながらだったら、1年、2年そんなに長くはやっておれません。過ぎてしまったらコロッと忘れて、手のひらを返すといいますか、そのように忘れられるからいいようなものと言えば、そのとおりで、これは幸いなことであろうと思います。
しかし、それは事と問題によりけりで、何でもそれでいいというわけにはいかない。結婚されたとき、お互いに熱烈な愛を持って結婚生活を始められた。その初めの愛が年月を経るごとにぼろぼろになって、今はどこにあるのか分からなくなったら、誠にむなしいですね。それと同じことで、大切な忘れてはならない、これはどうしても記憶しておかなければならないものがある。
世の中は時代も変わり人も変わり、さまざまなものが移り変わっていきます。殊に、最近の若い人たちの生態、生活ぶりを眺めていると、「へぇー、こんなことがあるのか」と思うように、世の中は変わります。こちらはだんだん年を取って、「今ごろの若いもんが!」と目くじらを立て、「あれがいかん」「これがいかん」と言ってみるけれども、若い人に言わせるならば「そんなの時代が違う。昭和の何十年なんて、そんな昔の話は聞きたくない」と敬遠されます。つい昔話になっていきますから、お孫さんから言われます。「おばあちゃん古い!」と。それでおしまいになります。変わっていくべきものも確かにあると思います。昔よりも今のほうがそれは確かに良くなった。いろいろな意味で自由が与えられて、男性も女性もそういう意味では楽しめる時代ではあります。しかし、だからといって、何でも良いのかというと、やはりそれはいけないことももちろんあります。だから時代が変わろうと人が変わろうと、変えてはならないもの、変わってはいけないものあるはずですが、どうしても多くの人々のコンセンサス、同意とか、一致した意見にならないのが、今の日本の社会です。すべての価値観がずたずたに切り裂かれてしまい、この一つだけ守ろうではないかというものがない。そのためについ先ごろ辞めてしまった首相は“美しい国„とか訳の分からないことで、「変えないもの」を探そうとしたのですが、失敗しました。
私たちの生活の中でも変えてはならないものがある。それはすべての人間の生き方そのものです。「神様がいらっしゃる」ということは、どんなに時代が変わろうと、人が変わろうと、これは変わることのない真理であります。そして私たち人間が存在するかぎり、そのすべてのものを造り生かしてくださった神様がいらっしゃる。これは人がどんなに否定しようと、あるいは今の時代がどうであろうと、時代を造っていのは神様です。もっと根源的な、いちばん根本の神様を私たちは拒むことも、退けることもできません。それをないがしろにすることもできません。更に神様がもう一つ大切なことを私たちに与えてくださった。それは、私たちすべての人は、神様の愛によって造られたものであることです。神様が私たちを造られたのは、ただに私たちが自由奔放に好き勝手に生きるためではなくて、神様の愛する対象として、神様に愛されるべきものとして、お造りになられた。だから、私たちは本来神様を愛し、愛される関係です。本来そのような生き方が人間の変わることのない生き方です。でも、私たちは神様のご愛を信じられない。そこに人の大きな不幸といいますか、罪がある。私たちは心を冷ややかにし、かたくなにして、神様のご愛を信じられない。もっと言えば、神を信じられなくなった。イエス様が繰り返し、繰り返し「神を信じなさい」と言われる。神を信じるとは、分かりやすく言うと、神様が私たち一人一人を愛していることを信じなさい。神を信じなさいとは、神の愛を信じなさいということです。だから「ヨハネの第一の手紙」にあるように、「神は愛である」(4:8)といわれています。神様は愛そのものです。ところが、私たちは神様の愛を知らないままに生きてきました。ですから、私たちは人を愛することができない。愛を知らない人間として生きてきた。
ある一人の姉妹の証詞を手にしたものですから、読みました時に、彼女が教会に導かれて、神様がいらっしゃることに目が開かれて、神様を愛していこうと、神様に従っていこうと思ったとき、どうしても愛が分からない。愛せない自分であるということに気づいた。神様を愛せない、人を愛せない。あるのは自分だけ、自己愛しかない。そのようなジレンマ、悩みの中に落ち込んで「もう、これは私は救われない」と思ったのです。それである本を読みましたら、一人のクリスチャンの歌手が書いた一つの言葉に出会った。それは「愛を知らない者は、愛することができないのです」とあった。それでその姉妹は「『愛を知らない者は愛せない』。ああ、私は愛を知らないし、愛のない人間だからもうこれは絶望だ。愛せないのだ」と思ったそうです。それで完全にノックアウトされて落ち込みました。そのときに、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さった」(1ヨハネ 4:10)との言葉に出会った。彼女は自分の中にある愛をもって神様を愛そうと思って、ふと自分の懐を見てみたところ、そこには愛の一欠けらもない。神様を愛そう、人を愛そうとしても、愛せない自分だということに気づいた。そして絶望したのです。ところがそのときに、この聖書のお言葉を通して、私たちが神様を愛したのではない。聖書ではっきりと、私たちには愛がないのだと、神様はおっしゃっている。その愛のない人間を神様のほうが愛して、私たちに愛を注いでくださる。その方は、自分が愛そうとしたけれども愛せない自分であることに気づいて、今度は、そうだった、私は何にも愛のない、冷ややかな、冷酷な、かたくなな自己中心な自分であったと悟ったときに、そのような私を先刻ご承知の上で、生まれる先から、天地の始まる前から愛してくださった方がいらっしゃる。それが神様だと知った。私が愛された者であることに気づいた。それで初めて自分の心の中に愛がわいてきました。といいますのは、その方の生い立ちは大変闘いのあるものでした。家庭崩壊をきたして生活が困窮し借金だらけの中で、借金取りに追われるような生活をしてきて、何とか自分だけでもこの泥沼からはい上がろうと思って頑張った。そして振り返ってみると、自分は愛された思いがない。愛がない。そして聖書によると「神を愛しなさい」、私は愛せない自分だ。そして初めてそのような私を、神様が愛してくださったのだ。そのときその方は、完全に主のご愛に溶かされてしまう。人が愛してくれたのではない。人どころではない、神様が、しかもひとり子という尊いご自分の命を代価として、こんな愛のない私のために「お前を愛したよ」とおっしゃる。それからその方はガラッと生活が変わり、表情が変わり、彼女の生き様が変わったのです。今もその方は神様のご愛に励まされています。
私たちも実はそうだったのではないでしょうか。イエス様の救いにあずかった最初のときを思い出していただきたい。そのとき、私どもは身勝手な自己中心で、わがままで、人を愛することもできない。自分を愛することすら知らない。あるのは欲と自我と自己本位のご都合主義の者でした。そのためにいろいろな問題に遭い、人の問題、家庭の問題、自分自身の問題、性情性格の問題、その中から神様は憐(あわ)れんでくださって、私たちを時を定めてイエス様の救いへと引き入れてくださいました。私たちはイエス・キリストが、神の位にい給うた方が、人となってこの世に来てくださいました。私たちの罪のあがないの供え物として、ご自身を十字架にささげてくださいました。その神様の愛の証詞を聞いたとき、どれほど感動したことでしょう。感動し、喜び、そのご愛に応えて何とかしてその神様に従っていこう、神様のお言葉に絶えず寄り頼んで、主の御言葉に従ってと、一生懸命に励んだ。ところがだんだんと生活が整ってきて、いろいろな問題が消えて、そこそこに、それなりに落ち着いてきた。ところが、気がついてみたら、初めの主の愛からはるかに遠ざかってしまった。そのことすらも気がつかなくなっています。
今読みました1節に「エペソにある教会の御使に、こう書きおくりなさい」とあります。エペソは、パウロが伝道した地中海沿岸の一つの都市です。そこに教会が建てられたのです。その教会も初めはイエス様の救いにあずかって、感謝感激雨あられ、何があってもイエス様の愛に感謝して、その愛に潤されて歩いていた。ところが、次第に整って、良くなってきた。教会と言われていますが、組織としての教会に対してというよりも、私たち一人一人に対する語り掛けだと思って読んでいただきたい。「エペソの教会」は、取りも直さず私たち一人一人、そして、そのエペソの教会は2節に「わたしは、あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている。また、あなたが、悪い者たちをゆるしておくことができず、使徒と自称してはいるが、その実、使徒でない者たちをためしてみて、にせ者であると見抜いたことも、知っている」。実に、エペソの教会はイエス様の救いにあずかって、自分の生活を整えて清く正しく歩み始めた。そのように清く正しく歩み始めると、初めは感謝している。こんな私のような者が神様のご愛に満たされて、人を愛することができるようになる。あるいは自分の生活の誤ったところ、神様の前によくないと思われる事柄を取除いて、悔い改めて神様の前に正しく歩もうとする。しばらくすると、今度はそうでない人に対して目が行く。「あの人はあんなことをしているがいいんだろうか」、「この人はこんなことをしているけれども、あれはいけないのではないだろうか」と、裁く思い、あるいは自分を義とする。私の生き方は正しい、私はこんなに熱心に神様に従っている。ふと横を見るとあの人はチョコチョコしか礼拝に来ない。駄目やね!と、口では言わないが心で思う。そして自分は正しいと。2節にありますように「悪い者たちをゆるしておくことができず」と、誰が悪い? 私の目から見て悪いやつでしょう。自分の目から見て「あいつは駄目」、「こいつは駄目」。気がつかないうちに、そのようなところへ落ちていく。
ガラテヤ人への手紙3章1節から3節までを朗読。
これはガラテヤの人々にパウロが非常に激しい言葉で叱責をする、しかったのです。「物わかりのわるいガラテヤ人よ」と、ある聖書を読みますと「馬鹿もん」「馬鹿たれ」と、そのような意味だと書いていますが、ガラテヤの人々に「なんてあなた方は馬鹿なんだ!」と言ったのです。「十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに」と、十字架の主を目の当たりに見て、あなた方はその主のご愛に溶かされたではないか。あのように感激し、自分なんかどうでもいい、私というものがそのご愛に包まれて、神様の大きな限りないご愛に包まれて、自分が消え去ってしまっていたではないか。それなのに今のあなたたちはなんだ!と。といいますのは、当時のガラテヤの人々はせっかくイエス様の救いにあずかって喜び感謝して、主のご愛に応えて、何としてでも主に従っていこうと思っておった。ところが、その生活が整ってきて「いや、もっとこうすべきだ」「あのようにあるべきだ」。ユダヤ教の時代にあったように、あれもした、これもした、こういう習慣を守るべきである。こんな事をしている連中はよくない」。先ほどのエペソの教会と同じ「悪い者たちをゆるしておくことができず」です。
それで、2節に「わたしは、ただこの一つの事を、あなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか」。あなた方がイエス様のご愛に触れて救われたのは、御言葉を信じたからではなかったか。御霊があなた方の心に宿ってくださったからではないか。あなた方が自分の行いや、自分の何かを誇り、自分は立派な人間だと誇っているのだったら、それは律法、言うならば自分の力で救われたと主張しているにすぎないではないか。ガラテヤの教会も、言うならば「初めの愛から離れてしまった」のです。そして愛ではない、ほかのものによって、彼らは生きていこうとし始めた。これは私たちに対する警告でもあります。
ガラテヤ人への手紙5章4節から6節までを朗読。
4節に「律法によって義とされようとする」とありますが、それは自分たちの決めたルールや仕来り、あるいは習慣、あるいはこの世のよいと思われること、道徳律など、そのようなものによって、これが正しいから神様の前に喜ばれるに違いない。こういう生き方が正しくて、あれは良くないのだと、規則を決める。あるルールを決めること、これを「律法による義」というのです。私たちが救われたのは何によって救われたか。よい行いをしたから、あるいは神様が求められる基準にふさわしい歩みを毎日しているから、心の隅から隅までどこをとっても神様から喜ばれるような自分だから救われたのでしょうか?そうではない。私たちは、はしにも棒にも掛からない、どうにもならない自分であることを重々承知でした。そのために悩み苦しみ何としてもこのような自分が変わりたい、新しい命が与えられたい。そして出会ったのが目の前に描き出された主の十字架だったではありませんか。イエス様の十字架が私のために立てられた。その十字架のいさおしによって、あがないによって、神様は私たちの罪を赦し、赦したばかりでなく愛してくださって、今生きる者としてくださった。パウロが言うように、「私はキリストと共に死んだ者が、今主のご愛によって、主によって生きる者としていただいた」。だから、イエス様の救いにあずかった私たちの生きる動機は何かといいますと、キリストの、神様のご愛に励まされ、うながされ、そして愛に導かれて生きる生涯です。
礼拝を守るのも、これは決して規則や義務ではありません。度々申し上げるように、洗礼を受けて教会員になったとき、教会員として果たすべき義務はなんでしょうか。聖書を読むこと、お祈りをすること、各集会に励んで、殊に礼拝は欠かさないように、日曜日は安息日だからそれを聖(きよ)いものとして、これを守りなさいと。それらが義務だと思うから、用事で礼拝を休むと、なんだか心を刺され、「私は罪を犯してしまった」と言って嘆きます。しかし、それは大きな間違いです。なぜか?私たちがこうして礼拝に出てくる動機は何か。それはイエス様がこんな者を愛して、命まで捨ててくださった。その愛する主を前にして、心から主を褒めたたえ、感謝し、イエス様からキリストの霊を受けるために礼拝に集う。それはご愛に押し出されて守るべき事柄であって、決してクリスチャンだから、教会員になった以上これは守るべき義務、そのようなことではない。6節にパウロは「尊いのは、愛によって働く信仰だけである」と語っている。心の動機にキリストのご愛に応えようとする思いがないのでしたら、いくら365日一年間欠かさず毎日聖書を読み続けようと、あるいは五十何回かの礼拝を欠かさず守ったからといって、そこにキリストの愛がなければむなしい。また私どもがこうして礼拝に感謝献金を、感謝のささげものをさせていただきますが、献金だってそうですよ。会員だから教会も世にある以上、お金も掛かるだろうから、私もなにがしか貢献してやりましょうと、教会員の義務だからするものではない。今日も主のご愛によって生かされて、神様が必要なものを天の窓を開いて注いで、与えてくださる。主のご愛に感謝して、喜んで、これは主からいただいたものです、という喜びをもって、力いっぱい神様に感謝のささげものをするのであって、義務や何かではありません。もしそこに主のご愛に感じる心がなかったら、私たちのなすことがどんな犠牲献身であっても、これはむなしいことです。
コリント人への第一の手紙13章1節から3節までを朗読。
これはよくご存じの愛について語られたところです。1節から3節に繰り返して「もし愛がなければ」といわれます。私たちには、最初に申し上げたように、初めから愛がないのです。あるのは自分の欲得ですよ。しかし、そのように愛のない私たち、愛のない者にまず神様のほうから愛を注いでくださった。イエス様のご愛、神様のご愛を私たちが受けて、その愛に根差し、愛を基とし、愛に励まされて出てくる業でないかぎり、愛のない業です。だからここに「たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ」、本当にそうですね。主のご愛に応える、感じる、感動する。主のご愛が私の心の中にあふれて、喜んで、主のために、主のご愛に応えて、このことをさせていただき、こうやって生きるようにしてくださる。だから、私たちが今日生きていること事態が。神様のご愛に対する応答、答です。朝起きて、「ああ、今日も主が愛してくださる。主よ、あなたのご愛に励まされて、愛に満たされて、主よ、あなたに従っていきます」と、喜んで主のご愛に応えて生きるところに、人生を生きる喜びがあり、そこにこそ意味がある。なぜならば「愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである」、「愛がなければ、わたしは無に等しい」と。しかも3節には「もし愛がなければ、いっさいは無益である」。まず私たちが救いにあずかった初めの愛にいつも立ち返っていく。これを失ったら、私どものいのちがない。私たちの存在は無益になる。そのことを絶えず繰り返し、悔い改めて主のご愛に立ち返っていきたい。
私は神様のご愛を知ってはいたのですが、それが自分のものとなっていなかった時代がある。名古屋にいますころ、教会に励んで、イエス様が私のような者のために命を捨ててくださった。十字架の主のご愛を感謝はしていました。でも、していることは、どこかで自分本位なのです。自分が中心。それで導かれた教会にあって、ここは主がせよとおっしゃることだからと、一生懸命にいろいろな主の御用をさせていただきました。時間も何とかスケジュールが自分でうまく調整できましたから、いろいろなことをさせていただきました。でもそのときは、キリストの愛に根差してというよりは、義務感といいますか、神様がこんなに恵んでくださったのだから、その少しぐらいは犠牲になってやろうかと、教会のために働くのは悪くはなかろう。世のため人のため役に立つのだからいいんじゃないか。ところがそうやっているときは、うまくいけば良いけれども、うまくいっても疲れるのです。だんだんと不満が出てきます。どうして私はこんな事を……。とうとう私は行き詰りまして、教会におったらこっちがつぶれるぞ、と思ったのです。それで何とか逃げ出そうと、といって教会をやめてしまうわけにはいかないし、何がいいかなと考え、「ああ、そうだ、留学をしてやろう」と、外国に逃げようと。それで2年間ほど、これをいい機会に教会の司会や教会学校の御用、あるいは信徒会であるとか役員会であるとか、いろいろな御用を全部切りまして「はい、さようなら」とアメリカへ行ったのです。ところが、またアメリカで教会に引っ張り込まれた。その教会の副牧師にあたる方がよくしてくれます。それにほだされるわけです。親切にしてくれる彼が困っているようだから助けてやろうと思って、こちらも手を出し口出し足を出しと、いろいろなことをやっておりました。すると何のためにアメリカへ来たのか。逃げてきたはずなのにまたそこで捕らえられて、ほとほと閉口しました。今考えて見ますと、それもまた神様の大きなご計画だったなと思いますが、そのときはちょっとがっかりした。
それで2年間の期間が過ぎて、帰ってきました。名古屋に戻りましたが、2年前にあれこれと整理をしましたから、今更ほかの方々がしているのに、私がしゃしゃり出ることはいらないと思って、そっとできるだけ頭を低くして目立たないように、目立たないように、牧師先生から声を掛けられないように、できるだけ早くスッと逃げていた時代があります。そうしたときに神様は私の心に一つの思いを与え、うながしてくださった。「お前はそんなことをしていていいのか」と心を刺された。「いいのか?」と言われても、自分が願ってきたとおり、いろいろなものが実現したのだから、これでしてやったりと思っているのに、「いいのか?」と問われる。神様に「神様、何がですか?」と、「いや、おまえはそのままでいいのか? 」、いいと思うけれども、何がいけないのだろう。そのとき、私の心に神様の愛を注いでくださいました。今まで自分は主のために、神様のためにと言いながら、どれほど私は主のご愛を受け止めてきただろうか。主のご愛に感謝しただろうか。主のご愛というのは、ただ単に事情境遇がよくなったではなく、冷ややかな者を愛して、かたくなな者を忍耐をもって、今に至るまで私のわがままに付き合ってくださった神様。私はその神様に何をもって応えた?それから私の心は落ち着かなくなった。神様のご愛が迫ってくる。感謝で喜びがあふれてくる。今でもそのときのことを思うと、涙が出ますよ。でも、それが不思議なのです。考えたから、あるいは黙想してそうなったのではない。神様の御霊が心に臨んでくださった。そうなると、あれをしたい、これをしたいという、自分の思いはない。恐れもない。ただうれしい、感謝。「本当に今日まで、ここまで神様は忍耐してくださった。私は神様の事を知っていると言いながら、自分の事ばかり主張してきた。私の何がよくて神様はこんなに憐(あわ)れんでくださったのか」。そこで「主よ、生涯をあなたにささげます」。本来ささげたものなのですよ、皆さんも。でもどこかで自分で握って、自分で生きようとしている、そのような自分の姿を見たとき初めて「我窮(かぎり)なき愛をもて汝を愛せり」(エレミヤ31:3文語訳)「それはその獨子(ひとりご)を賜ふほどに世を愛し給へり」(ヨハネ福3:16文語訳)こんな私を愛してくださった。その主のご愛に生きる者となりたい。主のご愛に少しでも応えることができるように、「神様、もう何にもいりません。ただあなたに従う生涯、『あなたはわたしに従ってきなさい』とおっしゃる」。そのときから私の生涯を変えてくださった。
そして福岡に遣わされてまいりました。それから20数年、その主のご愛に励まされて今に至っていますが、そうであっても、私も時々主のご愛をコロッと忘れる。そうするとつぶやくのです、疲れが出る。「何で?」「どうしてこんなことまでしなければいけない」と、不満がでる。皆さんにもしそのような思いがあったなら、それは神様のご愛から離れているときです。
もう一度初めに戻りまして、ヨハネの黙示録2章4節に「しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった」。まだ「今は恵みの時、見よ、今は救の日」(2コリント 6:2)です。悔い改めて、「そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起して」、自分を振り返りますと、どこか高ぶるのです、高慢になる。サタンが上手におだててくる。そうすると、自分が天狗になる。神様を引き下ろすのです。そのような切っ掛け、事態がどこかに必ずあります。自分の歩みを振り返りますと、そのことが分かる。そのとき、悔い改めてと。もう一度神様の前に立ち返って「主よ、ごめんなさい」と、十字架の主を仰ぐ。主の限りないご愛の許しの中に自分を置いていきたいと思います。立ち返って、そして初めの業を行いなさい、5節にそのように勧められています。どうぞ、私たちは日々家族のために、あるいはかれのために、これのためにと、その働きをしますが、その中で絶えず主のご愛に応えていく自分であること、主がこんなものを愛してくださったからこそ、このことをさせていただけるのだと、大いなる喜びと感謝をもって生きたいと思います。
家内が両親の介護ために一生懸命やっているのはいいのです、時折、つぶやく。そうすると、こちらまで引きずられて「おう、そうだ、そうだ」と、落ち込むのです。「なんでこんなことまでしなければならない」と。そのとき「あそこがよくなかったな。主よ、ごめんなさい」と悔い改めるのです。そうすると、もう一度愛をもって接することができる。お世話するにしてもそうですよ。「こいつのためにやってやるんだからな」なんて、「後になって返してもらうからな」と、そんな思いでやっている限り、むなしい。そうではない。キリストの愛、イエス様がこんな私のために命を捨てて愛してくださった、その主がこの重荷を負えといわれる。ここへ行けと言われる。このことをお前がしてくれと、求められる。主を見なければ、私どものすべての業がむなしい。「愛がなければ」を、こには「愛」を「キリスト」と置き換えていただいて、主がそこにいなければむなしい人生です。
どうぞ、どんな小さなことも大きなことも、一つ一つ主のご愛にうながされ、励まされ、それに応えていく業でありたい。私たちの人生がキリストのものとなり、主のご愛に生かされていきたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。