絹糸のしらべ

一絃の琴、きもの、文学etc…日本人のDNAが目を覚ます・・・

苦あれば(こそ)楽あり(けれ)

2013年12月05日 09時05分28秒 | Weblog
「苦あれば楽あり」または「苦あらば楽あり」?

どんな意味に使っているのかって、たぶん
「苦しいこともあれば、楽しいこともあるんだ」とか
「苦労もあれば、それが報われる良いこともある」とか
そんな感じでしょうか?

二胡の駒を替えてみて
「今まで実に苦心して絞り出してきた高音部はなんだったんだ?」とか
「細心の注意を払って弾いていた、あの音たちはなんだった?」とか思うようになり
もし最初からこんなふうに楽に音が出ていたらば、
あれこれ試行錯誤やら練習がんばっただろうか?とか思います。
(まあ矛盾してるんですが)

いまこの彪駒に驚くのは、いろいろ練習方法を試行錯誤したり音源を聞いたりして
どうしたら「丈夫な音」が出るのか、自分のなかに問いがあったからではとも思います。
もし、最初からこの駒をつけてこの音が出ていたなら自分の試行錯誤はなかったのでは?

まあそんなことを考えていたんです。


世の中のもろもろのことも、同じような構図ではないのでしょうか・・・
今では、子どもがもう結婚するような年齢になり
若かりし頃のことを思い起こしたりすることがたびたびあります。
自分と親の関係や、自分の親が自分に対してどうだったかとか
それは良かったのか良くなかったのか
これからどうするべきなのか。。。

いろいろな家庭があり、千差万別でしょうけど
こと経済面について言えば、子どもが自分で一からやっていかねばならない場合と
代々経済力があり親のバックアップの上にやっていける場合とでは
天国と地獄の差!?があると思います。
でも、それは「地獄」を知っている人にしか見えない構図であり
もともと何かしら恩恵を被っている者にとっては
特別なことには思えないでしょう。
その実感もないことと思います。
つまり普通という認識しかないのでは、と思います。

人にとって「苦か楽か」ということは実に相対的で
ある人にとっては夢のようなことが他の人にとっては普通であったりして
絶対的なことはないのかもしれません。
たぶん、「苦」を得た人のほうが「楽」を感じることが多いのではないかと
想像するくらいです。
「苦」のないところに「楽」を実感することは難しいかとも思います。

よって「苦しいこともあれば楽しいこともある」ではなくて
「苦があるからこそ、楽を得られる、苦があるからこそ楽を実感できる」
そんなふうに思うのでした。




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