今日は 無芸の祖父の33年目の命日
という事で昨日は お寺さんに来てもらい家族(我が家の4人)と無芸の末弟そして叔母だけで
法事
一昨日が叔父(親父の兄)の80年目の命日(南方で戦死)でもあったのであわせて法要をしてもらった
無芸の祖父は明治30年生まれ 明治~大正~昭和~平成の時代を建築業一筋に生き抜いた
無芸が今この仕事(建築大工)をしているのも祖父の影響が大だった
(まぁ おふくろの方の祖父も元々指物大工~建築業だったけど)
先日 おふくろの米寿記念に昔の事いろいろ調べてみたら
祖父の昔のことが初めていろいろと分かった
代々続く農家の二男として生まれたけど
大工の道へ 20代前半に祖母(16才)と巡り合い 駆け落ち同然で二人で九州の炭鉱のある町へ
そこには 当時無芸のおふくろの祖父母(祖母の両親)家族が住んでいたので
それを頼って行ったのであろうとおもわれる
無芸の曽祖父(おふくろの祖父)は明治5年生まれで
四国 愛媛県の方で染物屋の御用聞き(営業マン?)してたことが
最近判った 四国中国九州地方をいろいろと廻ってたようだ
↑駆け落ち?した後の写真かな?無芸の祖父母(おふくろの養父母・・・・養母は叔母にあたる)
(養父は無芸の親父の叔父にあたる)
やがて 子供に恵まれなかった祖父母は無芸のおふくろを実質的に養女として育てたみたい(4歳頃から)
(おふくろは結婚するまで祖父母の戸籍に入っているとばかり思ってたらしいけど そうではなかったらしい)
(戦前~戦時中 お袋の父親は戦地に召集され幼子を3人抱えたおふくろの祖母は大変だったようだ)
終戦後 祖父母とおふくろを連れて3人で故郷に戻り 祖父は地元で建築業に
(夜逃げ同然で故郷を後にして たので 帰った時は親父の父親である兄にずいぶん世話になったらしい)
やがて町の大工さんや左官屋さんをまとめる棟梁に
本家から親父を養子に取りおふくろと結婚
(本当はおふくろを本家の6男である親父のところに嫁に欲しいと言われてたけど
お袋が嫁に出ると祖父母だけになってしまうので 親父が婿養子となったようだ)
というわけで 無芸達3人の孫を可愛がってくれた祖父
↑たぶん無芸が2歳頃の祖父
90歳頃まで 現役で建築業やってた
無芸が保育園児だった頃は 保育園の送迎は祖父がやってたみたい
直ぐに家に帰らず 祖父が請け負った工事現場で遊んでたらしい
(実際は職人さんの邪魔してたと思うけど ずいぶん職人さん達から可愛がってもらったらしい))
こんな感じのオートバイの前に立ち乗りして祖父と行き帰りしてたのを覚えている
(当時は警察に捕まらなかったのか?)
無芸が高校で建築を学ぶことになった時は 喜んでいたそうだ
図面を描く 機械も買ってくれた
↓こんな機械
故郷に帰った無芸とは一緒に現場に出ることはほとんど無かったけど
自宅の作業場の一つは祖父の使ってた小屋でいまだに使っている
無芸の次女が1歳の時に 自宅で家族にみとられて96歳の人生を終えお浄土に還っていった
(臨終のときは親父は単身赴任中だったので おふくろと無芸と家内そしてひ孫の長女次女で見おくった)
県外にいた親父は直ぐに帰れなかったので 葬儀の手配は無芸がしたなぁ
一緒に法要をしてもらった叔父は太平洋戦争がはじまると満州(今の中国)で召集され
(親父の兄3人は当時満州今の中国の鉄道で働いていたそうだ)
あちこちを転戦 結局昭和19年2月24日付で戦死通知がきてたようだ
24才
場所は日本のはるか南の諸島 記録ではほぼ玉砕だったようだ
↑叔父が戦死した場所 南海のサンゴ礁
さぁてと 2日間ぼと雨が降らなかったけど
週初めも又雨 いやぁ よく降るなぁ
頭の回転悪いので所々つまずいてしまいましたが
それでもよくぞこんなに調べたものだと頭が下がります。
しかし、昔の人って、逞しいとか、困難な人生に立ち向かうと言う
精神が強いのだとつくづく思わされてしまいます。
年とったら楽しい事を沢山して健康でいる事ばかり考えている私なんぞ恥ずかしい限りです。
お袋の米寿の記念にいろいろ調べてみました
知らなかったことが多かったです
そうですよね~ 親父とおふくろの両親
祖父母 そのまた曽祖父母の人生いろいろたくさんあって
時分でも整理が難しかったです
又ヒマな時に もっとわかりやすく物語風に作ってみたいと思っています
孫ちゃん達がもう少し大きくなったら(中学生くらいかなぁ)
ちゃんと教えてあげれるくらいにまとめておきたいですね