風雅庵の日々

園芸、屋上、近所の散策を中心に記録します

風雅の意味

風雅とは、自然の中に趣や味わいを感じること・さま。
風雅を目指し、自宅を風雅庵、ダイニングを風雅亭と呼ぶことにしました。

晴明石

2011-07-27 15:39:50 | 湘南鎌倉
八雲神社境内には安倍晴明ゆかりの晴明石があります。
稲荷社への参道の横を間借りしてるように、端っこに追いやられてます。

まず、晴明石について文献をおさらいします。吾妻鏡1180年10月9日の項では、
頼朝が山内にあった家を移築して仮住まいとした記事があります。
暫ク知家事<兼道ガ>山ノ内ノ宅ヲ点ジテ移サレ、之ヲ建立ス。
此ノ屋ハ正暦年中ニ、建立スルノ後、未ダ回禄ノ災ヒニ遇ハズ
晴明ノ朝臣、鎮宅ノ符ヲ押スガ故ナリ
この家は晴明の鎮宅の符が押してあり、200年間火事にあいませんでした。

吾妻鏡には安倍・賀茂氏などの陰陽道家の活躍が載ってます。
鎌倉幕府のため、泰山府君祭をはじめ、属星祭・天曹地府祭・
七瀬の祓・四角四境祭などが頻繁に行われました。
(例えば、松尾剛次、"鎌倉古寺を歩く"、吉川弘文館、2005年)
安倍泰貞など、晴明の子孫は鎌倉、たぶん山ノ内に住んでたと思いますがどうでしょう?


1700年頃に描かれた浦賀道見取絵図には晴明石が描かれてます。
紙の継ぎ目で、分かりにくいですが、十王堂の前に十王堂橋があります。
大船よりに晴明橋があり、橋の上に晴明石が描かれてます(2つに見える)。

川のないところに橋があり、その橋の上に石とは変ですね。
川の流れや道付きが変わったたためとかと想像しますが、分かりません。
このあたりは篝屋があった場所でもあったはず、
境界の石組みや礎石とか結界の印だったのかも知れません。

1841年の新編相模国風土記稿に晴明石の項があります。
晴明石 往還中に二所あり<各大に三尺許>石の傍らに各井あり、
安倍晴明が加持水にして火難を防ぐ奇特ありと伝う。

晴明石は2つあり、それぞれに井戸があったということです。

時代は下って、「としよりのはなし」によると、
戦後になって県道にあった晴明さまの石を、進駐軍が道路をなおすとき、
ブルドーザーにひっかけて掘り起こしちまった。土地の人は
昔からある神さまだから、というので、天王屋敷へ運んだ(青木)。
その後晴明石は昭和44年に、天王屋敷からさらに八雲神社境内へと移された。
というわけで、今は八雲神社にある訳です。

ところで、風土記稿に出てきた2つめの晴明石はどこかというと、

横須賀線の踏切の近く、蕎麦屋「鎌倉五山」の隣の駐車場にあります。
なんだか、石にセメントの跡がついてます。


ウェブで見つけた昔(2002年)の写真。なんと晴明石の上に石碑が立ってます。
重い石を乗せた祟りで、向かいが空き地になったのかもね?
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晴明井戸

2011-07-27 15:37:12 | 湘南鎌倉
晴明石の傍らにあったという晴明井戸について考えます。

新編相模国風土記稿では、晴明石は往還中に2つあり、
それぞれに1つの井戸がありました。

「としよりのはなし」では、
晴明井は、晴明石の四方固めにあったもので、
青木さん、関戸さん、やり屋(青木さんの前)と青木さんの裏
(土蔵のうちになっていた)にあったという。晴明石は斉藤肉屋の前にあった。
おいおい、4つに増えてます。言ったもん勝ち?
青木さんの前と裏って、どう四方固めするのやら、訳が分かりません


現在の斉藤牛豚肉店です。この周辺の井戸が候補になります。

水石亭主さんの推理では、晴明井戸があった屋敷は、
しっかりした水源(自噴井戸)のある場所に建てられ、稲荷が祀られます。

ぴったり条件に当てはまる井戸が第1鹿島産業ビルの駐車場にあります。
この井戸に違いないと思って、祭りの準備をされてる方に聞いてみましたが、

意外にも地元ではこれが晴明井戸との認識はないようで、
何と大船よりのベルタイム珈琲横の路地にあると言います。

お店の方によると、このあたりが安倍晴明の邸宅だと自信ありげ。


この直径5cmほどの空気穴が晴明井戸だと言います。
地元民の信じてるところです、きっとココです。
掘り起こして浚えたら何が出るか楽しみにしておきます。
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出会いの儀

2011-07-24 15:35:29 | 湘南鎌倉
山ノ内の八雲神社の例大祭です。
開催案内によると山ノ内のお神輿は先週から御仮屋です。



山ノ内八雲神社に伝わる品々が展示されてました。
伎楽面や獅子頭は坂の下御霊神社と同類ですね。


こちらは山崎の八雲神社の神輿です。
社殿はなく、神輿そのものがお社です。由緒書きによると、
昔、この神輿は岩瀬の五所明神にありましたが、江戸時代に大水が出て、
山崎に流れ着きました。人々は山崎の氏神様である北野神社の庭に担ぎ上げ、
どうしらたよいか神輿にお伺いをたてたところ「山崎にいたい」
とのご神託があり、それ以来、山崎で祀りすることになりました。


山ノ内の神輿、建長寺、円覚寺の前の道を練り歩きます。


光照寺の道に入ります。


坂の上からは山崎からのお神輿が下ってきます。


2つの神輿が出逢いました。山ノ内の神輿は方向を変えて
2台そろって天王屋敷に向かいます。腰越の天王祭と同様ですね。
ちょっと山ノ内神輿の愛想が悪かった気がしましたが。


天王屋敷(昔の場所とは異なるらしい)に入り、神輿を揺らせて大騒ぎ。
出会いの儀が執り行われます。


山崎のお神輿には腹帯が巻かれるという次第です。


予定表ではまだまだ続くようですが、今回はここまで。
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山ノ内の第六天

2011-07-23 11:30:56 | 湘南鎌倉
山ノ内上町の氏神社。建長寺の四方鎮守とされる神社です。
いつもは閉まっている門が開いてます。


階段の上の社殿では、祭礼が行われていました。


八雲神社の祭礼と協調しているようです。



由来を見ると、「建長寺の四方鎮守には、中央五大尊と八幡(東)・熊野(北)・
子神(西)・第六天(南)があり、第六天は上町に鎮座する。」とあります。



建長寺境内図を見ると、中央五大尊と四方鎮守3つ、
ずっと上方に四方鎮守熊野社と出ています。
まず、方位が合わないです。この絵図は右下が南と書いてあり、
第六天は南西の方角になります。これはどう理解すべきでしょう?
東西南北を守護する四天王を堂内に置く場合、須弥壇の4隅に安置されます。
南方の増長天は、左の前つまり南西に安置されるのですが、
第六天の方位は仏像の置き方に合わせてるのかなぁ?
次に、北の鎮守の距離が遠すぎるし、方位もずれてる。謎です。


ところで、この神社の仏像は盗難にあってます。罰が当たって欲しいものです。


さらにこの神社は、安部清明の石碑があるのが気になります。
裏に回って碑文を読むと、建立は昭和6年4月、
連名当番順に10人の名前が並び、庚申講中とありました。
あまり歴史はなさそうです。四方鎮守という由来から
陰陽博士の石碑を立てちゃったということでしょうかね?
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浜降祭

2011-07-18 08:32:28 | 湘南鎌倉
茅ヶ崎の浜降祭は海の日に開催されます。
夜明けとともに寒川・茅ヶ崎の各神社から、
大小合わせて37基の神輿が海岸に集まります。
今年は、震災に配慮して神輿の海への入水は自粛ぎみ。


5時すぎに着いたのですが、既に神輿が勢揃いしています。
既に日は上っちゃってるし、4時に来ないと暁に間に合わないです。


到着したお神輿が浜に向かいます


一宮八幡大神


厳島神社


堤八坂神社
開会式や神事が終わり、やっと帰り際の浜降りです。


八雲神社、威勢がいいね


八雲神社、住吉神社を先頭に、最高潮です
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