風雅庵の日々

園芸、屋上、近所の散策を中心に記録します

風雅の意味

風雅とは、自然の中に趣や味わいを感じること・さま。
風雅を目指し、自宅を風雅庵、ダイニングを風雅亭と呼ぶことにしました。

龍の口大骨董市

2011-11-20 14:57:02 | 湘南鎌倉
思いがけず、龍口寺の骨董市を覗いてみました


山門の周りのお店


本堂の前にもたくさんお店が出ています


山門の外側、なかなか面白いお店が出てます


ブローチ、まとめて500円


どこの塗ともわかりませんが、お椀を買ってしまいました


お椀の歓迎会ということで、初使いしました。
とっくりも先日求めた生活骨董、


お茶で締めて、茶懐石風
あ、塗のお皿は骨董ですが、織部は瀬戸駅前で買った新作でした
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近つ飛鳥

2011-11-13 12:51:31 | 古代史
645年(大化元)、孝徳天皇は難波宮に遷都しました。
礎石が復元されてるのは後期難波宮です


前期難波宮は、礎石を使わない掘立柱建物で、瓦も使ってませんでした

ところで、難波宮や難波津から見て、奈良の飛鳥を「遠つ飛鳥」、
河内地区の羽曳野や太子町辺りを「近つ飛鳥」と言うそうです。
武内宿禰を祖とする蘇我氏は元々河内の飛鳥を本拠地としていたようで、
「近つ飛鳥」と「遠つ飛鳥」を結ぶ竹内街道も武内宿禰に由来しそうです。


羽曳野市にある「近つ飛鳥博物館」に行きました。
古墳~飛鳥時代をテーマとした博物館です
水素爆発した原発みたいですが、安藤忠雄さんの建築です


このような古墳が多数あり、近つ飛鳥風土記の丘として整備されてます。
このあたり、一須賀古墳群には総数262基の古墳があるそうです。


展望台から見た磯長谷(しながだに)方面の景色です。
聖徳太子や推古天皇などの陵墓があり、王陵の谷と呼ばれます


聖徳太子の墓の模型が展示されてました。
本物は叡福寺にあり、母と皇后と共に合葬されてます。
かなり辺鄙な地域であり、こんな所に葬られてたとは正直驚きました


大仙陵の模型の展示です。

白石館長の講演「百舌鳥・古市古墳群の形成過程が語るもの」によると、
現在、大仙陵は仁徳天皇陵と比定されてますが、
実際には誰の陵(みささぎ)か何とも言えないそうです。

百舌鳥古墳群から大きな古墳を3つ選ぶと、大仙陵は北陵となり、
「延喜諸陵式」の記述から反正天皇陵になります。
埴輪のカケラから作った古墳の編年図から大王墓を選ぶと
大仙陵は4番目になり、倭の五王の4番目の安康天皇陵?になります
まだまだ分かってないことは多いようです
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乙巳の変

2011-11-12 14:23:32 | 古代史
飛鳥寺の西にある蘇我入鹿(いるか)の首塚です
645年、中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)に暗殺されました。

蘇我馬子が死んだ後、蝦夷が大臣となっていました。
推古天皇の死後、蝦夷は田村皇子(舒明天皇)を即位させ、
舒明天皇の死後は、皇后の宝皇女(皇極天皇)を即位させます


皇極天皇の飛鳥板葺宮跡です
向こうの山は、甘樫の丘、蘇我蝦夷、入鹿の邸宅がありました

飛鳥寺と甘樫の丘の間に、槻(つき)の木の広場があり、中大兄皇子が蹴鞠で靴を飛ばし、
中臣鎌足が渡したのがきっかけで、談山神社で暗殺計画を練ったそうです


甘樫の丘から北方の景色、広々してます。
正面に見える畝傍山の右側、耳成山と香具山との間に、後に藤原京ができます。
飛鳥板葺宮があるのは、東方の多武峰(とうのみね)との間にある、
ちょっと狭い土地ですが、飛鳥川が流れる美しい郷です


明日香村、いいところですね

乙巳の変の後、皇極天皇は軽皇子(孝徳天皇)に譲位しました。
孝徳天皇は難波宮に遷都しますが、中大兄皇子らは孝徳天皇を残して飛鳥に戻ります。
孝徳天皇の死後、皇極天皇が斉明天皇として重祚しました。


これは酒船石遺跡の亀形石造物と小判型石造物です。
想像してたより窪地にあり、日当たり悪そうな所でした

中大兄皇子や斉明天皇は、大土木工事が好きだったようで、
狂心(たぶれごころ)の渠(みぞ)を作ったと言われます。
人心は離れたようで、天智天皇の皇子の大友皇子は壬申の乱に負けます


酒船石は酒船石遺跡の裏の小高い丘にありますが、水源はどうしてたのでしょうね?

ちなみに大化の改新は日本書紀が作った虚構というのが定説?です。
中大兄皇子と中臣鎌足は百済に関係深い人のようで、
滅んだ百済を再興しようとしたり、白村江で新羅に無論惨敗したりします。
日本書紀の作成指示は、壬申の乱に勝った天武天皇で反天智ですが、
完成時の政権である持統天皇や藤原不比等は親天智のようで、
天智天皇や藤原鎌足をひいきする歴史に書き換えたらしいです。
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蘇我馬子

2011-11-12 12:04:02 | 古代史
ちょっとついでがあって、奈良の明日香村に行ってきました。
飛鳥の石舞台古墳、蘇我馬子の墓と言われています。
飛鳥時代、親仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋が争ってました。
物部氏の祖は饒速日(ニギハヤヒ)、神武東征に先立ち天磐船で河内に降臨しました。
蘇我氏の祖は武内宿禰、孝元天皇の孫で応神天皇や仁徳天皇に仕えました

馬子は、物部守屋と結んだ穴穂部皇子を炊屋姫(かしきやひめ)を奉じて殺害、
群臣とともに守屋を滅ぼしました。傀儡の身に不満を持った崇峻天皇も殺害し、
炊屋姫を即位させ初の女帝である推古天皇としました。
厩戸皇子(聖徳太子)を摂政に立て、仏教の奨励、冠位12階や17条憲法、
遣隋使の派遣など、蘇我氏は先進的な政権だったようです。


馬子は蘇我氏の氏寺として法興寺(飛鳥寺)を建立しました。
発掘調査によると、一塔三金堂という高句麗式の壮大な伽藍だったそうです。
推古天皇の頃には飛鳥大仏が完成、作者は鞍作鳥(止利仏師)です。
杏仁形の眼、仰月形の唇、などの飛鳥仏の特徴を持ってます


聖徳太子16歳の像、室町時代の作とのこと
蘇我氏との関係なんでしょうか?


阿弥陀如来、藤原時代の作とのこと、どういう関係なんでしょうかね
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秋の収穫物

2011-11-03 12:57:20 | 風雅庵
収穫した安納芋、落花生、紅あずま
紅あずまが丸いのはポット苗だったせいと思われます


生落花生の塩茹で、殻を割ってから茹でましたが、いまいち固い
来年は9月中に早取りしようと思います


ピーナツご飯になりました


スイートポテト


これは普通のおかずですが、松花堂弁当に詰めると美味しそう


安納芋の茶巾です


ところで、換気扇の掃除をしました
灯油で柔らかくして、割り箸でそぎ落としたり、ボロ布で拭き取ります。
お湯に溶かした重曹も効きますが、水洗いが必要ですね。
10月中にやると、年末より寒くないし油が柔らかいので楽でした
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