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稲荷社への参道の横を間借りしてるように、端っこに追いやられてます。
まず、晴明石について文献をおさらいします。吾妻鏡1180年10月9日の項では、
頼朝が山内にあった家を移築して仮住まいとした記事があります。
暫ク知家事<兼道ガ>山ノ内ノ宅ヲ点ジテ移サレ、之ヲ建立ス。 此ノ屋ハ正暦年中ニ、建立スルノ後、未ダ回禄ノ災ヒニ遇ハズ 晴明ノ朝臣、鎮宅ノ符ヲ押スガ故ナリ |
吾妻鏡には安倍・賀茂氏などの陰陽道家の活躍が載ってます。
鎌倉幕府のため、泰山府君祭をはじめ、属星祭・天曹地府祭・
七瀬の祓・四角四境祭などが頻繁に行われました。
(例えば、松尾剛次、"鎌倉古寺を歩く"、吉川弘文館、2005年)
安倍泰貞など、晴明の子孫は鎌倉、たぶん山ノ内に住んでたと思いますがどうでしょう?
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1700年頃に描かれた浦賀道見取絵図には晴明石が描かれてます。
紙の継ぎ目で、分かりにくいですが、十王堂の前に十王堂橋があります。
大船よりに晴明橋があり、橋の上に晴明石が描かれてます(2つに見える)。
川のないところに橋があり、その橋の上に石とは変ですね。
川の流れや道付きが変わったたためとかと想像しますが、分かりません。
このあたりは篝屋があった場所でもあったはず、
境界の石組みや礎石とか結界の印だったのかも知れません。
1841年の新編相模国風土記稿に晴明石の項があります。
晴明石 往還中に二所あり<各大に三尺許>石の傍らに各井あり、 安倍晴明が加持水にして火難を防ぐ奇特ありと伝う。 |
晴明石は2つあり、それぞれに井戸があったということです。
時代は下って、「としよりのはなし」によると、
戦後になって県道にあった晴明さまの石を、進駐軍が道路をなおすとき、 ブルドーザーにひっかけて掘り起こしちまった。土地の人は 昔からある神さまだから、というので、天王屋敷へ運んだ(青木)。 その後晴明石は昭和44年に、天王屋敷からさらに八雲神社境内へと移された。 |
ところで、風土記稿に出てきた2つめの晴明石はどこかというと、
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横須賀線の踏切の近く、蕎麦屋「鎌倉五山」の隣の駐車場にあります。
なんだか、石にセメントの跡がついてます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/2e/4d5e8ab3e09280c57d3279bffe35f8e8.jpg)
ウェブで見つけた昔(2002年)の写真。なんと晴明石の上に石碑が立ってます。
重い石を乗せた祟りで、向かいが空き地になったのかもね?
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